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philosophyに関するlakehillのブックマーク (27)

  • 『俺の彼女がニーチェだなんて』 プロローグ「運命の始動」 - A Mental Hell’s Angel

    朝だ。まったく因果律というものは忌まわしきものであり昨日も一昨日も太陽が東から昇りそして今日もまたその姿を顕現しどうせ明日もまた太陽は昇るのだろう。哲学者のドゥルーズは「私が何かを認識したといえるのは、私が「私は太陽が昇るのを千回見た」のを確認する時ではなく、「明日も太陽は昇るだろう」と判断するときである」と『カントの批判哲学』において述べている。今日もまた太陽が昇った、という知覚だけでは「認識」とは呼べない。明日もまた太陽が昇る、という確信があって初めて認識なのだ。そして俺は「確信」によって呪われているのだ。明日も太陽が来るなんて耐えられない。動物は純粋悟性概念における因果性なるものを知らないだろう。おそらく動物は明日も太陽が昇るということを「確信」してそれを「呪う」などといったことはないだろう。  さてともあれ俺は世界を呪う者だ。俺は世界が憎い。  俺はグノーシス主義者だ。グノーシス主

  • literature.org

  • 不可測性・不確実性・不可知性 - 書評 - 知性の限界 : 404 Blog Not Found

    2010年04月23日00:00 カテゴリ書評/画評/品評SciTech 不可測性・不確実性・不可知性 - 書評 - 知性の限界 このつぶやきを見てソッコーニュー。 知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性 高橋昌一郎 shinapple: @dankogai 高橋昌一郎著『理性の限界』の続編『知性の限界』が発売されてましたよ!今回も白熱のディベートが繰り広げられてまつ 前著「理性の限界」に勝るとも劣らないスゴ書の「おわりに」に私の書評が引用されているのがちょっぴり誇らしく、そしてそれ以上に激しく気恥ずかしい。 まったくすごい人もいるものだ。スノーの「二つの文化」をこれほど上手に架け橋する人を私は知らない。 書「知性の限界」は、名著「理性の限界」の続編。國學院大學文学部教授(!)という著者の職業を考えれば、むしろ編はこちらかも知れない。 目次 - 知性の限界 不可測性・不確実性・

    不可測性・不確実性・不可知性 - 書評 - 知性の限界 : 404 Blog Not Found
  • ニーチェを読む暇があったら、さっさと英語を読めるようにした方がいい

    ニーチェについて何か言いたい訳ではなくて(ニーチェは哲学者の中では割と好きな方だ。数少ない全集を持っていた著者でもある。全部で二千円だったが)、どこかで耳にしたことがある程度でしかない哲学者のだとか、いわゆる「古典」を読めば何か教養みたいなものが身につく、とでも言いたげな淡い信仰について言う。 無理。そういうことは、ない。 「教養がつく」なんて理由では、そもそも読めない。 が読めないのは、読解力がないからでも、根気がないからでも、アタマが、いやむしろカラダが悪いからでもない。たとえ、これらすべてが当てはまったとしても、もっと大きな理由は別にある。 つまり、そのを読む理由がないのだ。 まあ、ニーチェなら、痛い勘違いをしながら読み進んでしまうことがないではないが、それでも、どうして自分はニーチェなんか読まなくちゃならないのか、が分かってから読んだ方がいい(その時は、取り上げられたって読も

    ニーチェを読む暇があったら、さっさと英語を読めるようにした方がいい
  • 菊地誠と東浩紀とソーカルと

    あ〜る菊池誠(反緊縮)公式 @kikumaco SF大会の懇親会で出た話題について。比喩というのは、それが比喩として機能する相手にしか意味を持たないわけです。たとえば、「フラクタル」を比喩とするなら、その言葉で「雪の結晶みたいな形ね」と思う人と「フラクタル次元はいくつなんだ?」と思う人とでは機能のしかたが違う @hazuma 2010-08-10 12:05:27 あ〜る菊池誠(反緊縮)公式 @kikumaco 比喩はそのものずばりではないことによって、相手の知識次第でまったく違う受け取られ方をされうるし、もちろん、時代が変われば受け取られ方も変わる。この点は比喩を使う側が当然負うべきリスクなわけです @hazuma 2010-08-10 12:11:24 あ〜る菊池誠(反緊縮)公式 @kikumaco 僕の考えでは、科学的な用語を「比喩」として使うのがいけないのではなく、たとえば「フラク

    菊地誠と東浩紀とソーカルと
  • プラトンは目から何か出てると考えていた/邪眼派のプラトンと犬目派のエピクロス

    --------「俊明、何事にもすべて泣かざりければ、犬目の少将といわれけるぞ」(『十訓抄』) 邪眼と犬目は、ともに禍いをもたらすとされますが、その「機能」は正反対だと考えられます。 イタリアでは、邪眼のために絵画の絵の具がはげ落ちると言われており、そのために美術館では、絵を5秒以上見つめることを禁じています。 おそらくは、邪眼に見つめられた人も、同じ作用を被るというのでしょう。 見ることが何か、相手を傷つけるほどのものを「被視体」に与えること----邪眼の「機能」はここにあります。 それに対して犬目とは、涙を欠いた眼のことです。 その意味では、水に満たされた我々の眼球よりむしろ、その名の通りに内部が「空洞」なカメラ(写真機)により近しいのかもしれません。 その空隙を埋め合わすがごとく、犬目は「被視体」から何かを(例えば見つめられた者の魂を)受け取る、あるいは奪い取ります。 古代ギリシャの

    プラトンは目から何か出てると考えていた/邪眼派のプラトンと犬目派のエピクロス
  • The Will to Power by Friedrich Wilhelm Nietzsche, Walter Kaufmann

    Book I (Full text = 140 kB) Book II (Excerpts = 40 kB) Book III (Full text = 140 kB) Book IV (Excerpts = 42 kB) Back To Main Index The Will to Power Attempt at a revaluation of All Values. (Studies and Fragments.) Notes written 1883-1888 First German Publication 1901 Status : Book I & III Complete (Full Text) Book II & IV In Progress (Excerpts) Book I& III Scanned and Archived at Edmaupin.com Tran

  • 力への意志 - Wikipedia

    力への意志(ちからへのいし、英:Will to Power、独:Wille zur Macht)は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの後期著作に登場する、突出した哲学的概念のひとつである。 力への意志は、ニーチェの考えによれば人間を動かす根源的な動機である: 達成、野心、「生きている間に、できるかぎり最も良い所へ昇りつめよう」とする努力、これらはすべて力への意志の表れである。人の著作では、「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」[1]と表現される思想である。それだけであれば何の変哲もない権力主義の果てしないアッピールであるが、同時に、それを引き受けられない弱き者には自己を抹消する権利を与える。という思想である。このとき、権力主義に対置される民主主義は、後者に収まる。時は19世紀末で、ニーチェの故国ドイツは、隣国のフランスが既に現代フランスに続く共

  • 人文科学はきえていく/そしてヒトはどこへいくのか?

    人類学者:卑屈なもの同士、残されましたね。 文学研究者:わしは卑屈じゃないぞ。それに残されたんじゃなく、残ったんだ 。 人類:まあ、そんなに肩肘張らずに。どうせ僕たち「役立たず」なんですから、気楽に行きましょう。 文学:やれやれ。古代ギリシアの哲学者タレスの話を思い出すわい。「哲学なんて役立たずだ」と言われたタレスは、その年のオリーブの豊作を予想して、オリーブから油をとる搾り機を借り占めて大儲けをしてみせた。 人類:あのお、それってタレスは大いばりかもしれませんが、哲学は何の役にも立ってないんじゃ? 文学:その頃の哲学者の著作のタイトルはすべて『自然について』だったというくらいに、彼らはみな自然の質を探究する自然哲学者じゃった。自然に詳しい→オリーブの豊作の予想→大儲けで、面目躍如じゃ。細かいことは気にするな。 人類:いや、あのですね。イギリスの上流階級の子弟はイートン校からオックスフォ

    人文科学はきえていく/そしてヒトはどこへいくのか?
  • 分析哲学を理解するには意外と訓練がいる - まとまり日記

    科学や不平等について書かれた某の訳文についての議論を見た(訳を批判するのが主題ではないので、訳書にはリンクしません)。そこでの指摘を見る限り、訳の問題には、予備校でやるような英文読解の問題もあったが、哲学のカルチャーや術語の重みがうまく理解されていないからくるものもあったようだ。 これは、哲学の専門家でない人が哲学のを訳すときによく出てくる問題で(上のを訳した方は心理学者のようだ)、いくつかの例が思い浮かぶ。 マイヤーので、essentialism(質主義)が「実在論」と訳されたことがあった(マイヤーは個々の種に関しては質主義に反対するが、種カテゴリーについては実在論者なので、このように訳すとマイヤーの主張を完全に取り違えてしまうおそれがある)し、 またマイヤーの別の訳書では、scientific realism(科学的実在論)が「科学的現実主義」と訳されたこともある(当該の

    分析哲学を理解するには意外と訓練がいる - まとまり日記
  • エロゲとかラノベばっかりの人の方がマシかも - reponの忘備録

    文学とか哲学しか読んでいない人に比べて。 エロゲやラノベも、文学や哲学も、それそのものとして楽しみ消費することは、健全な行為だと思います。 でも、時々人は 「世界の成り立ちを知りたい」 とか 「物事の根を知りたい」 とか 「人間とは何かを知りたい」 とか思います。 そういう根的(ラディカル)な問いには、最終的な答えはありません。 エロゲにもラノベにも、文学にも哲学にも、そういうラディカルな問いの断片がちりばめられています。 それのジャンル間、作品間に大差はありません。 ラディカルな問いの解を知りたければ、各人が、それぞれ他人の経験である「作品」から断片を読み取り、総合するしかありません。 たくさんの「作品」から断片を収集して総合すればそれだけ、自分の求めるラディカルな問いを解きやすいかもしれません。 たくさんでなくても、断片を血肉化して、自分の経験と照らし合わせ洞察すれば、ラディカルな

    エロゲとかラノベばっかりの人の方がマシかも - reponの忘備録
    lakehill
    lakehill 2009/05/18
    文学書や哲学書を読んで、「世界のなんたるかが判ったか」とか「人間のなんたるかが判った」とかいう奴は、単なるアホ。/ 小説や哲学を読んで、そこから教訓を得ようという考え方が嫌い。しょせんは娯楽
  • 分析哲学 - Wikipedia

    分析哲学(ぶんせきてつがく、英: analytic philosophy)は、ゴットロープ・フレーゲとバートランド・ラッセルによる論理学(記号論理学)研究及び言語哲学研究の成果に起源を持ち、ラッセルの教えを受けたルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言語哲学研究、及びウィトゲンシュタインの思想に対する誤解を含めて彼から多大な影響を受けた論理実証主義の受容とそれに対する批判、日常言語学派の発展と影響の拡大などの歴史を経て形成された現代哲学の総称である。なお広辞苑によれば、分析哲学の主唱者はジョージ・エドワード・ムーアである。 これは、現代の記号論理学や論理的言語分析、加えて、自然科学の方法及び成果の尊重を通じて形成された。20世紀には英語圏で主流となった哲学である。たとえばアメリカ合衆国の圧倒的多数の大学で、哲学科で教育され研究されるのは「分析哲学」である。これは、イギリスやカナダ、オーストラ

    分析哲学 - Wikipedia
  • マジ サルトル?サルトルが許されるのは日本の大学の中だけだよねー - umeten's blog

    という酷いタイトルを補うまともな内容の文章が書ければいいのだが、いま絶対に無理。 合法性が正当性を虐殺するとき 『情況』2006年1・2月号, 情況出版(p.81〜93) 永野潤 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/gohosei.html 一読し、およその理解もしたつもりだが、サルトルが有効だったヨーロッパでは、その「サルトル」を許容するベースとしての契約社会観があったからこそだろうと思い、その割にヨーロッパにおいてサルトルに学術的評価はないというお決まりの文句を思い出しもした。 翻って日はというと、そもそも「サルトル」を許容するベースとなるはずの社会が根底から存在しないにも関わらず、大学なり文学なりの世界では、時に時代遅れの代名詞ともなりながらも高い評価を保っているようだ。 なんの冗談だこの状況は。 選挙=投票行為が、

    マジ サルトル?サルトルが許されるのは日本の大学の中だけだよねー - umeten's blog
    lakehill
    lakehill 2009/01/08
    米国じゃ全くはやらなかったよなあ
  • http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1437265980/E975889914/

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    うめぇヨーグルトソースでもいかがですか。個人差にもよりますが。もしよろしければ。 お久しぶりです。 最近うんめぇ〜と思ってるヨーグルトソースがあるので、書いていこうと思います。 ヨーグルトとハーブ類をもりもり使うので、そういうのがべられない方にはうんめぇソースではないです。ごめんなさい…。もしよろしければお茶だけも…旦~ 【用意する…

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  • フランスからの手紙―ある哲学研究者の東浩紀批判 - toremokoの日記

    フランスに留学中のサルトル研究者に東の劣化がひどいよと話してみたところ、メールが届いたので転載する。東批判は一通りなされた感があり、また、先日の常野さんの活躍によって東の小物振りが明らかになって、東の言説自体を取り上げることも少なくなってきていると思うけれど、サルトル研究者からみた東及び「ポストモダン」というのはこれで面白いと思う。 最初に断っておきたいが、知っての通り日語文献が揃えにくい状況にあるので、どっかのから引用する場合は、邦訳が存在する場合でも原書から俺が直接訳している。そのため、細心の注意は払うが、特にデリダのついては誤訳の可能性を否定しきれない。いずれにせよ、翻訳の責任は完全に俺に帰する。 東の発言について参照したブログの類は、お前から教えてもらったものがほとんど。 以下の通り。 http://d.hatena.ne.jp/toled/20081128 http://wa

    フランスからの手紙―ある哲学研究者の東浩紀批判 - toremokoの日記
  • ポストモダン、ポストモダン… - どんな懐かしさをおぼえるとしても

    よせばいいのに、ポストモダン系の人が南京大虐殺とかの歴史修正主義マターに知的相対主義で突撃して、案の定反発くらったのに定型的に逆ギレして、プチサイエンスウォーズみたいになっているという話。 (ひとつの典型として、ここhttp://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20081203/1228313553) 僕は自分でポストモダニストのつもりだけど、こういう話を見ると情けなくなる。そもそも歴史修正主義は知的相対主義の悪しき応用なのだから、そこに相対主義を持ち出して何かの解毒剤になるわけがないじゃないか。空気を読めよ。 もちろん、気持はわからないではないけれども、わざわざ中毒の現場で刺身をってみせるようなもので、どんなに弁解しても揶揄的な意図が含まれていることは否定のしようがない。デリダにせよ、フーコーにせよ、彼らはそういう態度は取らなかったし、つねに明確な戦略性を持っていたと

    ポストモダン、ポストモダン… - どんな懐かしさをおぼえるとしても
  • 須磨日記(7) 古代ギリシャ哲学(39) ヒポクラテス(1) - 消された伝統の復権

    Hic Rhodos, hic salta! (ここがロードス島だ、ここで跳べ!) マルクス『資論』の貨幣論で出てくる言葉である。 元々は、イソップ寓話に収められた「ほら吹き男」の話に出てくる言葉である。 古代競技のある選手が、遠征先から帰ってきて自慢話をし、「おれはロドス島では、五輪選手も及ばないような大跳躍をした。皆がロドス島へ行くことがあれば、その大跳躍を見た観客が快く証言してくれるだろう」と言ったところ、それを聞いていたうちの一人が、「そんな証言は要らない。君が大跳躍をしたと言うなら、ここがロドスだ、ここで跳べ」 と言ったという話である。 ロードス島(Rhodes)はエーゲ海に実在するギリシャ領の島であるが、イソップの寓話を語る際には「ロドス」と記すことが多い(http://www6.plala.or.jp/symbell/book/story.htm ;http://detai

    須磨日記(7) 古代ギリシャ哲学(39) ヒポクラテス(1) - 消された伝統の復権
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    lakehill
    lakehill 2008/12/06
    よい子の社会主義のパロディか / ↑パロディではなくホンモノと
  • ポストモダニズム系リベラリズムとは何か - 瓶治郎の現代詩

    瓶治郎の現代詩