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平安京に関するshig-iのブックマーク (29)

  • 「源氏物語」「枕草子」舞台の建物跡 京都の発掘調査で初確認|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞

    平安宮内裏にあった後宮建物の登華殿(写真手前)と弘徽殿(奥)の遺構。平安文学の舞台だったことで知られる(京都市上京区)=市埋蔵文化財研究所提供 平安宮内裏にあった後宮建物の登華殿(写真手前)と弘徽殿(奥)の遺構。平安文学の舞台だったことで知られる(京都市上京区)=市埋蔵文化財研究所提供 平安文学を代表する「源氏物語」「枕草子」の舞台になった内裏の後宮建物跡が、京都市埋蔵文化財研究所が上京区で行った発掘調査で見つかっていたことが8日、京都新聞社の取材で分かった。建物跡や溝跡は中宮らが暮らした登華殿(とうかでん)と弘徽殿(こきでん)に関わるとみられ、平安時代の内裏殿舎遺構が見つかるのは初めて。 登華殿は平安中期、一条天皇の中宮定子が暮らした。関白の父・藤原道隆らとの語らいが、枕草子にはつづられている。また、弘徽殿は源氏物語において光源氏が朧月夜に出会う場になっている。両殿とも内裏北西部にあった

    「源氏物語」「枕草子」舞台の建物跡 京都の発掘調査で初確認|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞
  • NHKニュース

    

    NHKニュース
  • 平安京オーバーレイマップ

    このページは、京都市平安京創生館(京都アスニー1階)で公開されている「平安京跡イメージマップ」を、現在の地図上に配置したものです。このマップは、同館に常設展示されている平安京復元模型が現在の京都とどのように重なっているかを示したものです。 凡例にある※ご注意を確認の上、ご覧ください。利用にあたっては個人の責任でご使用下さい。 表示したプロット情報は、平安京および京都の歴史文化を学ぶために、大学および公共機関で作成され、すでにWEB公開されているものを扱っています。 地図画面の右上にあるスライダーを左右に移動させると、平安京マップの透明度を任意に変更できます。

  • 平安京跡から塀と道路側溝跡出土 宅地用の区画「戸主」

    京都市中京区の平安京跡から、碁盤の目状になっていた都の中でも最も小さい土地区画「四行八門制」をうかがわせる、平安時代の塀の柱と道路の側溝跡などが良好な形で出土した。一般役人らの宅地用の区画単位である「戸主(へぬし)」と呼ばれるもので、当時の京内での土地利用を考えるうえでの資料になりそうだ。 民間会社「イビソク」がマンション建設に伴い、右京四条二坊一町の一角にあたる105平方メートルを調査した。この結果、京の南北道・西靱負(ゆげい)小路(現在の天神通)の東側から道路側溝と塀とみられる柱列の跡が出土した。 出土した側溝は3。9世紀後半から10世紀後半にかけて、2時期にわかれて機能していたらしい。生活や天候など、そのときの排水量で付け替えていたとみられ、溝幅も0・8メートル、0・9メートル以上、1・2メートルとさまざま。 塀跡は道路側溝の東に沿って出土した。こちらも9世紀後半から10世紀後半に

    平安京跡から塀と道路側溝跡出土 宅地用の区画「戸主」
  • 平安京囲う「羅城」なかった? 京都、造営当初の痕跡出土|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞

    平安京と京外の境目を示す整地層が見つかった発掘調査。女性の前方側の地層は礫が多いのに対し、背中側の整地層は黄緑色がかった色を帯びている(京都市下京区) 平安京と京外の境目とみられる都造営当初の整地層の痕跡が、京都市下京区寺町通四条下ルで27日までに見つかった。整地層は、都を取り囲む羅城(らじょう)(周壁)を築くための規格に沿う幅だった。ただ、壁そのものの跡は確認できず、羅城で囲われた後世の絵図などと違い、実際は羅城が築かれなかった可能性を示している。 寺院やホテルの新改築に伴い、民間調査会社の古代文化調査会(神戸市)が約550平方メートルを調べている。 調査では、平安京東端の南北通り「東京極大路(後の寺町通)」の東の側溝跡(幅約2メートル)が見つかり、側溝のさらに東側で幅約6メートルの整地層が出土した。整地した際に特徴的なうぐいす色を帯び、京外に当たる隣接地とは違い礫(れき)がほぼ含まれて

    平安京囲う「羅城」なかった? 京都、造営当初の痕跡出土|文化・ライフ|地域のニュース|京都新聞
    shig-i
    shig-i 2018/12/29
    “羅城を築造可能な整地をわざわざ行っていた”
  • 平安前期の坊城小路を発掘 京都で調査、江戸前期の坊城通跡も : 京都新聞

    発掘現場 京都市中京区西ノ京勧学院町・南聖町の発掘調査で、平安時代前期の坊城小路と、江戸前期の徳川家光による二条城再整備に伴い約8メートル東側に移された坊城通の跡が見つかった。旧坊城小路はメインストリート朱雀(すざく)大路の一筋東を南北に通る。調査した民間会社は、平安後期以降の出土品が少ないため、平安京で栄えたとされる左京にありながらも、右京と同様に衰退した後、江戸期に再開発されたことが分かる遺構としている。 場所は、平安京左京三条一坊の四-五町に当たるホテルの建設予定地(約180平方メートル)。民間調査会社の京都平安文化財(伏見区)が8月から調査を進めている。 坊城小路跡では、路面(幅約7メートル、長さ約8メートル)と、東西の両端に側溝(幅、深さともに約80センチ)が出土した。西側溝の西側には、横板やくいでつくる木組みの壁が添い、一帯に広がっていた湿地帯の東辺を隔て、護岸の役割を果たして

    shig-i
    shig-i 2018/09/24
    “出土品は、長岡京の建物から転用されたとみられる奈良時代の瓦や、平安前半期(9~10世紀)の緑釉(りょくゆう)陶器などが坊城小路跡で見つかっている”
  • 平安京の最大級邸宅跡は「斎王」宅? : 地域 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

  • 平安京、新たに大型建物跡 未婚の皇女「斎王」の邸宅?:朝日新聞デジタル

    平安京で最大級の貴族邸宅とみられる平安時代前期(9世紀前半)の大型建物跡がみつかっていた京都市中京区の島津製作所三条工場内で、さらに1棟の大型建物跡が出土した。京都市埋蔵文化財研究所が23日発表した。「齋」と記された墨書土器もみつかり、専門家は、京都三大祭りの一つ、葵祭(あおいまつり)のヒロイン役のモデルとされ、古代には伊勢神宮や賀茂神社に仕えた未婚の皇女「斎王(さいおう)(斎宮(さいくう)、斎院(さいいん))」の住まいだった可能性を指摘する。 研究所によれば、現場は桓武天皇(在位781~806年)が造営した平安京の右京三条三坊五町にあたり、昨夏までの調査で東西21メートル、南北9メートルの大型建物跡を確認。その後の調査で、約12メートル北側から新たに東西14メートル、南北8・5メートルの大型建物跡が出土した。いずれも古い建物から建て替えられたとみられ、南北方向に大型建物2棟が並ぶ平安京で

    平安京、新たに大型建物跡 未婚の皇女「斎王」の邸宅?:朝日新聞デジタル
  • 平安京最大級の貴族邸宅跡、京都 大納言級か、島津製作所内で - 共同通信

    京都市中京区の島津製作所三条工場内で、東西約21メートル、南北約9メートルと平安京跡では最大級の建物跡が見つかり、市埋蔵文化財研究所が3日発表した。9世紀前半(平安時代前期)とみられ、担当者は「名前は分かっていないが、大納言クラスの貴族の大邸宅と考えられ、貴重な発見だ」としている。 当時は「右京三条三坊五町」と呼ばれた区画(約120メートル四方の方形)の一部で、政治の中枢だった平安宮に近い一等地という。工場建設に伴い発掘調査していた。 4棟の建物跡が見つかり、最大級の建物は1辺約90~150センチの四角い柱穴が20カ所以上あり、ひさしもある建物という。

    平安京最大級の貴族邸宅跡、京都 大納言級か、島津製作所内で - 共同通信
    shig-i
    shig-i 2017/08/03
    「右京三条三坊五町」
  • お知らせ : 京都新聞

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  • 一杯呑むごとに皿を捨てていた…「今昔物語」の舞台、藤原為元邸跡から大量の皿が出土

    京都市中京区にある平安時代の貴族、藤原為元邸跡から酒宴に使われた酒器の小皿などが出土し、民間調査会社「国際文化財」(東京)が20日の地元住民向け説明会で公表した。為元は、平安後期に編集された説話集「今昔物語」で泥棒に入られたことが記述されている。出土した皿は数千枚にもおよび、華やかな藤原一族の暮らしぶりがうかがえる資料になりそうだ。 マンション建設に伴う発掘調査で出土した。 今昔物語では、大みそかに近い日に為元邸が盗みに入られたが、目撃者の話として、泥棒は位の高い女性を人質に取り、馬で逃走したことなどが紹介されている。 後に為元邸は火災に遭いながらも、現在の警察庁長官にあたる検非違使(けびいし)別当の藤原顕長(あきなが)、さらには左大臣、藤原実定(さねさだ)の手に移っていることが古文書などから判明している。 数千枚の小皿が出土したことについて、国際文化財の辻広志主任調査員は「皿の形から為元

    一杯呑むごとに皿を捨てていた…「今昔物語」の舞台、藤原為元邸跡から大量の皿が出土
  • 平安京跡に南海トラフ地震の痕跡 倒壊した築地塀が出土:朝日新聞デジタル

    平安京の皇嘉門(こうかもん)大路跡(京都市下京区)で、大量の瓦片が2列に並んだ状態で見つかった。京都市埋蔵文化財研究所は、9世紀に築かれた築地塀(ついじべい)が南海トラフを震源とする887年の仁和(にんな)地震などで倒壊した跡とみている。地震の痕跡が明確にわかる平安京の遺構は珍しいという。 京都市中央卸売市場の整備に伴う発掘調査で、皇嘉門大路東側から盛り土が幅約3メートル、長さ約24メートルにわたり出土。塀の両側の側溝跡で、平安時代初期の9世紀のものとみられる瓦片の列が見つかった。 側溝に堆積(たいせき)していた土からは、地震の際に起きる液状化現象に似た痕跡が確認された。山崎断層を震源地に868年に起きた播磨国地震(平安京で推定震度4)や仁和地震(同震度5強)など、9世紀後半~10世紀に相次いだ地震で倒壊したとみられるという。がれきをそのまま埋めたため、良好な状態で残されたらしい。 現地説

    平安京跡に南海トラフ地震の痕跡 倒壊した築地塀が出土:朝日新聞デジタル
    shig-i
    shig-i 2016/04/30
    仁和地震
  • 平安京オーバーレイマップ

    このページは、京都市平安京創生館(京都アスニー1階)で公開されている「平安京跡イメージマップ」を、現在の地図上に配置したものです。このマップは、同館に常設展示されている平安京復元模型が現在の京都とどのように重なっているかを示したものです。 凡例にある※ご注意を確認の上、ご覧ください。利用にあたっては個人の責任でご使用下さい。 表示したプロット情報は、平安京および京都の歴史文化を学ぶために、大学および公共機関で作成され、すでにWEB公開されているものを扱っています。 地図画面の右上にあるスライダーを左右に移動させると、平安京マップの透明度を任意に変更できます。

  • 嵯峨天皇離宮、内裏並み規模…平安京跡に柱穴 : ニュース : 関西発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    shig-i
    shig-i 2013/05/26
  • 平安時代の幻の楼閣「白虎楼」の瓦見つかる 京都 - MSN産経ニュース

    shig-i
    shig-i 2012/09/07
    「平安時代の史記「延喜式」」史記?
  • お知らせ : 京都新聞

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    shig-i
    shig-i 2011/12/09
    「中京区西ノ京星池町の発掘現場で「三条院釣殿高坏(つりどのたかつき)」と墨書された土器が見つかり、「百花亭」と称された平安前期の右大臣・藤原良相(ふじわらのよしみ)の邸宅「西三条第」跡と確定できた」
  • 平安京の条坊図をGoogle Mapに重ねて遊んでみなはれ。(スマホ対応・GPS機能付き) | 歴史雑談録

    平安京の条坊図をGoogle Mapに重ねて遊んでみなはれ。(スマホ対応・GPS機能付き) 0 Check Tweet 投稿日 2011年06月04日 分類 : おすすめ, 日史 単語 : マップ, 平安京, 条坊制 みなさんのような歴史マニアともなればですね、例えば、京都での待ち合わせなんかは、以下のような感じの日常会話になることでしょう。 「明日の合コン、大内裏は南、美福門で待ち合わせな。」 「二条城の中やんけ、アホか。店、押小路沿いやろ? 皇嘉門あたりがええて。」 「刑部省らへん? うち、二条四坊やから近いわぁ」 という風に、「京都は平安京におます」という前提で見るのが、歴士・歴女の雅なマナーでございますねぇ。 ということで、平安京遷都当初の条坊制の大路・小路を、Google Mapに重ねてみました。(ネットで探してもこれっていう地図がなかったので自作でございます) 以下

  • お知らせ : 京都新聞

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  • 平安宮外の役所門跡、南北に並ぶ柱穴2基発見 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    京都市下京区中堂寺粟田町で、平安時代前期(9世紀前半)の役所の門とみられる柱穴2基が、同市埋蔵文化財研究所の調査で見つかった。 近くでは、役所を示す「寮(りょう)」の文字が墨書された土器や、祭(さい)祀(し)具が過去に見つかっており、同研究所は「祭祀に関係する役所があったのではないか。ここは平安宮の外にあたり、役所とみられる遺構が出土するのは珍しい。当時の都の行政機構を知るうえで貴重」という。 現場は、平安京の右京六条一坊にあたり、柱穴2基が南北に並んでいた。間隔は3・9メートルと広く、周囲に別の柱穴が見つからないことから、門の跡と判断した。 「省」の下部機関の「寮」を示す墨書土器(直径17・2センチ、高さ2・7センチ)は、門の跡の西約10メートルの川跡で15年前に出土。祭祀で水に流すなどする土馬(どば)や人面土器も見つかった。同研究所は、門の跡の東側や北側に役所があったとみている。 平安

    shig-i
    shig-i 2009/02/14
    「寮」の墨書土器。平安京の右京六条一坊
  • 平安京創生館