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iPhone 16
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iphone, Littré, compendium grammatices linguae h | Philosophy Sells...But Who's Buying? お恥ずかしながら、 iphone G4を買いました。 これまでPHSだったんで、 やっとケータイです。 PHSはまだまだ使える技術みたいですけどね、 なんかうまく行ってなくて残念です。 iphone似合わないとか言われてるんですが、 確かにそうかも。 俺のお目当ては 辞書です。 なんと、 iphoneアプリで フランス語辞書のLittré(リトレ) が使えるんです! しかも 無料アプリです! すごい時代だ。 この辞書はエミール・リトレという人が 一九世紀に作った辞書で、 語源の説明と文学作品からの用例の引用がすごいんですね。 語源といえばデリダでしょうか。 デリダがよく使ってました。 俺もデリダが使っているということ
土曜日はジュンク堂新宿店にて、 平倉圭『ゴダール的方法』の出版記念イベントとして 平倉くん、千葉雅也くんと話をしてきました。 お越しくださったみなさんありがとうございました。 俺は 平倉くんが扱った「正しさ」の問題に関心がありましたので、 そこについて質問。 ゴダールの映画は「なし崩し」的に複数の映像が「類似」を通じて結合される。 ではその結合はいかなる意味で「正しい」のか? ——平倉くんはそれを問う。 「正しいjuste」という言葉はゴダール自身の言葉です。 平倉くんは『ゴダールのリア王』の中に現れるプラギー教授の「実例教育」をヒントにこの問いに向き合っていきます。 さて、 議論が進む中でこんな話になっていきました。 世界そのものがもしかしたらゴダール的なのではないか? 「類似」によって「なし崩し」的に「結合」した断片からなる世界。 ということは容易にバラバラになる世界。 結合とバラバラ
久しぶりの更新です。 ついにこの日が来ました。 明日、 2011年1月21日、 俺のはじめての単著、 『スピノザの方法』(みすず書房)が書店にならびます。 思えばとても時間がかかりました。 書き始めたのは2001年ごろです。 いろいろ苦労もありました。 その間になんといいますか、人生の上でもいろいろ苦労がありました。 感慨があります。 しかも、 とてもキレイな本です。 いや、 自分で言うのも何ですが、 静かに、 じっと みつめていたい、 そんな本になっています。 表紙はフェルメールです。フェルメールの『小路』です。 敢えてここには画像は載せないことにしたいと思います。 表紙にはすてきな色の帯が付されています。 みなさん、 なんか 大事で大事で仕方なくて、 読み込んでいるのに線を引きたくない、 そーっとページを開いてしまう、 そんな本に出会ったことはありませんか。 俺は数冊あります。 全部は
またまたずいぶん間が空いてしまったのですが、 この間はずっと 来年1月末に発売される 俺の博論『スピノザの方法』の最終チェックを行っていました。 本の作り方についてあまり詳しくない人のために書くと、 校正刷りというのがでるんですね。 コピー用紙に見開きページが印刷してあるやつです。 それに 赤ペンで手を加えていくんです。 情報化社会といっても 本を作るときにはやっぱり原始的なやり方なんですね。 で、 これが大変なんだ。 やはり さらっと読んでいくのとは全然違うから。 目が疲れる。 しかも俺は細かいミスが多い。 「キェアレス・ミス」 という言葉を 小学校一年生の時から どれだけ聞かされてきたことか…。 二度目に出る校正刷りを 再校と言いますが、 再校の段階になっても、 訂正多数。 こわい。 特に俺の本はスピノザについてのものだから、 ラテン語の引用がけっこうあるんだけど、 そのチェックが大変
いまゼミで フーコー『狂気の歴史』 をずっと読んでいます。 やっと第一部が終わるところ。 あの本はほんとに難しいですね。 ゼミ生もよくついてきてくれていると思います。 さて、今回ゼミのために読み直しながら、 いろいろ再発見。 あの中に デカルトの話があることは知っていたし、 世間でもよく知られています。 デリダが「コギトと狂気の歴史」って論文で、 フーコーのデカルト理解に横やりを入れことがよく知られている。 論争になって、この論争自体もたくさん論じられてきた。 でも、 フーコーはデカルトと並んで、 実は スピノザの話もしているんですね。 これがおもしろい。 しかも、 スピノザのどの著作かって 『知性改善論』なんですね。 実は、 『主体の解釈学』という講義でも、 フーコーはスピノザの話をしているんですが、 そこでも取り上げられているのは 『知性改善論』です。 『狂気の歴史』の邦訳では 「悟性
今日は大学の推薦入試の面接試験でした。 休日出勤。 経済学部ですので、 どうして経済学なんですか、と 当然聞くわけですけれど、 答えの多くが、 地元が過疎化している、 近所の商店街はシャッター街、 地元は人口が減って活気がない、 地元は失業率が高い 等々、 そういった 自分の出身地の経済的困難を 経済学への関心と結びつける答えが大半でした。 いまとなっては そういう事態は当たり前のように思えるかもしれませんが、 少し前のことを思い起こすと 隔世の感があります。 俺が大学生の頃は バブル破綻後で、 日本は大変な経済的危機に見舞われていましたけれども、 一億総中流階級という言葉はまだ残っていました。 こんな話を印象的なものとして覚えています。 柄谷行人が言っていたことです。 ——自分が学生だった六〇年代は 今とは違い まだ貧困の問題があったから、 そこから経済学に関心をもつ人が多かった…。 俺
ゼミで 萱野稔人さんの『国家とはなにか』 を読んでいます。 フーコーの『監獄の誕生』を読破したので、 応用編的なものとして選択。 もう読み終わるところで、 最後のあたりの 「全体主義的縮減」を扱った章を今週読みました。 この章は萱野さんがかつて『現代思想』に そのままのタイトルで書いた論文がもとになっています。 俺はこの論文をちょうどフランスにいたとき 萱野さんにコピーしてもらって読んだのを覚えています。 あのときはすこし衝撃でしたね。 それまでの俺の常識を覆された気がしました。 元の論文がないのでそこで萱野さんがこれをどういっていたかは はっきりとは覚えていないんですが、 八〇年代以降の日本の思想界における 国家の捉え方を痛切に批判した箇所があります。 (研究室に本を置いてきてしまって、いま手元にないんで以下はうる覚え引用) そこで全面的に援用されているのは ドゥルーズ=ガタリの『千のプ
フーコーと余白のことを書いてから 次を次を、と 思ってたんですが、 こんなに間が空いてしまいました。 先週は学生から 「先生、疲れてますね」 と気遣いを受け、 「うーん、そうかなぁ」 と。 いま書いている論文で とにかく頭がいっぱいになっているというのがあるんですが。 概念と内在平面のことで頭がいっぱいです…。 まぁ、 気を取り直して、 いってみましょう。 久々に。 さて、 前回こんなことを書きました 。 フーコーを読んでいると、 かつては社会に余白があったのに、 それがどんどん塗りつぶされている、 そういうことが概ね書いてあります。 たとえばそれまで見逃されていた犯罪が見逃されぬようになっていく。 それは確かにそうでしょう。 そういうことはいろんな場面に見受けられます。 前回は宮台真司が言っていた、 学校からの余白の消失についても書きました。 踊り場とか屋上とか、 意味を与えられていない
ここのところ 河出文庫がすごい。 河出文庫は、 俺のような フランス現代思想人間のために 存在してくれているのだろうか。 河出文庫に収録されたドゥルーズの著作には 『差異と反復』 『意味の論理学』 『ニーチェと哲学』 『記号と事件』 『批評と臨床』 がある。 更に ちょっと前だけど 『アンチ・オイディプス』が出た。 で、 いま 『千のプラトー』が刊行中(全三巻本で、中巻が先日発売)。 千のプラトー 上 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)/ジル・ドゥルーズ ¥1,260 Amazon.co.jp 千のプラトー 中 ---資本主義と分裂症 (河出文庫)/ジル・ドゥルーズ ¥1,260 Amazon.co.jp 『千のプラトー』は 文庫だと読みやすい。 訳文にはそんなに手は加わっていないようだけど、 前の単行本は とにかく分厚い。 あれで人を殴ると大変なことになる、ぐらいの厚さ。 文庫になって
なかなか思うように更新できない日々が続いております。 もう一週間以上前になってしまいましたが、 10月3日の千葉雅也君とのトークショーの模様を簡単に報告。 まず、 会場になった 3331Art Chiyoda という場所ですけど、 廃校になった中学校をアートスペースに改造したもの ということでした。 これがすごいいい場所で、 無理なく改造してあるところがよかったです。 みなさん お時間があれば是非。 いろんなイベントや展示を同時に行っています。 さて、 二人の対談ですが、 タイトルが「可塑的な無人島」 ということでした。 どれほど知られているかは分からないのですが、 ドゥルーズには無人島を論じたテクストがあります。 なんで無人島が哲学の対象となるのか、 不思議に思われるかもしれませんが、 俺の言葉でいえば、 ドゥルーズの思想の核を担う形象(figure) 千葉君の言葉でいえば、 ドゥルーズ
先週末から 毎晩のように仕事が入ってて、 やっとゆっくりできています。 1日金曜日は 小平市生活者ネットワークの事務所で フランスの出産・育児について いろいろお話させていただきました。 4日月曜日にも こんどは高崎経済大学で 公開講座というかたちで 同じくフランスの出産・育児について 講義してきました。 もちろん実体験も多く話しましたけれど、 やはりいろいろ調べないとしゃべれないわけで、 いくつか雑誌論文なんかも読みましたが、 この件について 気軽に読めて役に立つ本としては 次がお勧め。 なぜフランスでは子どもが増えるのか -フランス女性のライフスタイル (講談社現代新書)/中島 さおり ¥777 Amazon.co.jp 著者の中島さんは、 フランスで子育てされている方です。 中島さんご自身が感じたことがはっきりと書いてあると同時に、 情報もしっかりしているので、 いいですよ。お勧めで
だいぶ間が空いてしまいました。 新学期なので、いろいろ準備が忙しく。 うちの学校は二年の後期からゼミが始まるので、 新しいゼミ生との初のゼミもあり。 多分 新しいゼミ生より 俺の方が緊張。 ゼミというのは雰囲気が大切ですからね。 俺は昨年からゼミを持ち始めたので、 まだ二期目なんです。 どういう風に雰囲気作りをしていけばよいのか。 これは緊張する。 あとそれだけじゃなくて、 一番大切なのは、 実際に何を勉強するかですね。 悩みました。 俺としては ゼミでは最初に分厚い哲学書をしっかり読んで、 ゼミ生に自信をつけてもらいたいというのがあるのですが、 何をやればいいか。 昨年に引き続き フーコーにしようと思ってはいたんですが、 どうするか。 昨年は半年で『監獄の誕生』を読みました。 で今年は、 『狂気の歴史』にしようとは思っていたんですが、 これでいいかどうか すごく悩みました。 で、 結局そ
東京に戻ってきました。 北海道も結構暑かった。 日本は亜熱帯になっているのではという話を雑誌で読みましたが(夏の高校野球はこの炎天下ではもはや無理ではないか等々)、 ほんと、そんな感じですね。 今日は台風で雨なんで、 熱さはありませんが、 今度は低気圧のせいか、 すごく調子が悪いです。 天候と体調の関係については大変興味深い本があります。 気象で読む身体 (講談社現代新書)/加賀美 雅弘 ¥612 Amazon.co.jp この本によると、 ドイツには、今日の気象ではこういう症状が発生しやすくなる等々の情報が発表されているそうです。 ただ、そのまま公開してしまうとその情報を耳にすることで体調が悪くなるひとが出てきてしまうので医療機関にのみ情報提供されているらしい。 モンテスキューは気候と人間性の関係を論じています。 ルイ・アルチュセールはモンテスキューについての本を書いていますが、 政治と
Kafka, post-fordism and Super-One | Philosophy Sells...But Who's Buying? ドゥルーズとガタリが『カフカ』って本を出していることは知られてはいるのですが、 カフカ―マイナー文学のために (叢書・ウニベルシタス)/ジル・ドゥルーズ ¥2,835 Amazon.co.jp これはあまり言及されない本です。 マイナー文学とか、文学機械とか、アレンジメントとか、集団的言表行為とか ドゥルーズ=ガタリの概念として有名なものの多くがここで初めて語られたんですが、 あまり読まれていません。 これもよく忘れられているのですが、 『カフカ』の出版は1975年。 『アンチ・オイディプス』(1972)の後、 『千のプラトー』(1980)の前なんですね。 ガタリは本当にカフカが好きで、何を考えるにしても、 「カフカだったらどう考えただろうか?」
真木悠介とドゥルーズ、性と生殖の差異 | Philosophy Sells...But Who's Buying? 真木悠介の『自我の起源——愛とエゴイズムの動物社会学』を(いまごろになって)読んだ。 いま書いている本の文体の参考にと、編集者の方に送っていただいたものだが(すみません、やっといま読んでいます…) 実におもしろかった。 大学生の時に読んでおくべき本でしょうが 俺はそんなに読書家じゃないので、おゆるしを。 自我の起原―愛とエゴイズムの動物社会学 (岩波現代文庫)/真木 悠介 ¥1,050 Amazon.co.jp 真木悠介の言っていることを使うと、 ドゥルーズが言っている七面倒くさい議論が、 ものすごく簡単に説明できる気がする。 たとえば個体についての議論。 クローバーというのは、地上には一本一本生えているように見えるけれども 地下茎でつながっていますね。 (因みに、最近趣味に
今週、やっと前期の授業終わりました。 正直疲れました。 すみません、ブログどころではありませんでした。 この猛暑で授業です。 実はこんなに7月の後まで授業を行うようになったのは今年からです。 最近は 文科省が 授業を毎期15回やれと 圧力をかけているそうです。 15回とはいったい何なのか。 14回と15回とで教育効果にどんな違いがあるのか。 15回確保するためにこんな時期まで授業です。 更には 15回をなんとか確保するために 祝日にも授業をやるという狂気の沙汰。 これには俺もキレました。 「祝日は保育園は休みだ」「大学は保育所を用意してくれるのか」 しかし、大学というより 文科省がおかしいのです。 大学は結局あそこの言うことを聞かざるを得ない。 そして15回厳守とすると無意味にスケジュールがきつくなる。 祝日に授業。八月に試験。 こういうことが想像できないのか? それより他に徹底させること
日曜日の夜に新宿のジュンク堂で白井聡君と、彼の著書『「物質」の蜂起を目指して——レーニン〈力〉の思想』(作品社)の刊行記念トークショーをやってきました。 定員オーバー、立ち見が出るほどの大盛況でした。 お越しくださったみなさん、ありがとうございました。 話は本当に多岐に及んだのですが、 このときに考えたことを今度紙媒体に書く機会が得られたので、 ここではそのときに話したことからひとつだけ。 白井君は、レーニンが「暴露」という手段を重視していたことに注目しています。 「暴露」というのは社会の底辺にいるひとたちが蒙っている様々な不正を 社会に対して明らかにしていくということです。 こういうことを言うと、 レーニンは何か社会的正義のようなものを振りかざし、 勝手に真理を押しつけてくる運動家のように思えてくるかもしれません。 しかし、白井君はそこで次のように言います。 「レーニンいわく、労働者階級
俺が最初に出した本はデリダの『マルクスと息子たち』という本の翻訳でした。 マルクスと息子たち/ジャック・デリダ ¥2,520 Amazon.co.jp もうずいぶん前のことです。 あれは翻訳だけじゃなくて、かなり長い解説文を書いたので、ほんのちょっとですが〝俺の本〟という気持ちがあります。 これは本当にラッキーなことなのですが、 あの本を出したときにはデリダが生きていました。 そしてパリにあるユダヤ博物館というところで、デリダの講演というか対談があったときに、それをもっていって手渡すことができたのでした。 講演の最後に質疑応答があって、その時に俺は果敢にも手を挙げて質問しました。 確か質問は 「あなたの宗教に対する態度は曖昧ではないか」 で始まりました。 ここで会場爆笑。 で、 「信仰foiと宗教religionをあなたは区別しているが、それは本当に区別できるのか?」 と確か聞いたように思
友人のルイ君がmixiで俺のブログを紹介してくれてました。 曰く まぁ、いいこと言ってるかもしれんけど、 いまみんなの関心はサッカーなんだよ! と。 空気読め! と。 確かにそうですね…。 まぁ、しかしですね、ニーチェという哲学者が『反時代的考察』という本を書いているんですけど、 あれは、かっこよく訳すから「反時代的」なんてなっているだけで、 「時代遅れ」って意味ですので、 『空気読めてない考察』 って感じですよ。 で、 俺のブログは哲学ブログだからそれでいいかな、と。 自分ではいつもけっこう空気読んでいるつもりなんですが…。 マイケル・サンデルという哲学者の授業がNHKで放送されているそうです。 で、やっと最近になって知りました。 いまごろになって話題にしてるなよって感じです…。 でも、みたいなぁと思い、Youtubeで探す。 見つかったんだけど、全然見れない。 人気あるからみんなあれで
まえに内田樹の『ためらいの倫理学』について書いた。 その中の戦争責任についての文章「自虐史観と戦後責任論」が気になっている。 この文章は実に打ち出し方の難しい話をしている。 その難しさを内田氏は独特の雰囲気で乗り越えている。 打ち出し方が難しい話とは具体的には何か。 彼が高橋哲哉氏『戦後責任論』を読んで感じた違和感についてのものである。 歴史上の諸事実の「真相の究明」と、「アジア民衆との信頼の回復」とを、高橋氏はリンクさせているが、しかし、それは違うのではないかと内田氏は言うのである。 こういうことだ。 話はフロイトから始まる。 フロイトはヒステリー患者について幼児期の虐待経験がその原因であるという学説を発表した後に、患者たちのそうした告白の信憑性を疑うようになった。 彼らの外傷は事実ではなく幻想ではないか、と。 ところがフロイトは「なんだ事実じゃないのか」と放り出さない。 そうした幻想を
内田樹氏の『ためらいの倫理学』を読んで、かつて戦争責任についていろいろ自分で考えていたことを思い出した。 内田氏の高橋哲哉批判には読むべき点が多い。 氏は『戦後責任論』という本を扱っている。 俺はこの本は読んだことがない。 だが、高橋哲哉の『靖国問題』は読んだ事があり、授業でも取り上げたし、高く評価している。 それはこの本が、近代国家と戦争の関係を考える上で重要な兵士のリクルートシステムを構造的に描き出しているからである。 この本は売れたが、この点は完全に見落とされている。 この本はむしろ、〈近代国家〉論として読まれるべきなのだ。 そして、それを読めば、ここに言う〈近代国家〉の構造が、いままさに変容を迫られてきていることも分かる。 今後靖国のようなシステムが機能することは大変難しいだろう。 それにともなって、新しいシステムが登場しつつある。 こんなことを考えながら、授業のためのメモだったか
岩波書店で刊行中の『フロイト全集』の月報のために短文をしたためたのですが、それが校了したとの連絡をいただきました。今月25日に発売の第19巻に挟まれています。 http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-092661-S 月報の文というと決して長いものではありませんが、これはずいぶんと時間をかけて書きました。 最初に書いたのは二年以上前であった気がする。 担当の編集者の方に細かくご指導いただきながら、何度も書き直して今の形になりました。 問題として取り上げているのは、素人がおもしろがってフロイトを読むというのは倫理的に許されるのかという問題です。 精神分析が精神疾患に苦しんでいる患者を救うために作り上げられた理論だとすると、それを素人がおもしろ半分に読むのは倫理的に問題があるのではないかということです。 実のところ、この疑問
「哲学の映像」と「映像の哲学」を定期配信する新しいプラットフォーム〈國分功一郎の哲学研究室〉がオープンしました。 哲学は映像で何ができるかを実験していくプラットフォームですが、同時に、私がこれまでに書いてきた様々なテキストもアーカイブされており、このブログの記事もそちらにまとめられています。ぜひご覧ください。
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