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ドラクエ3
asph29.hatenablog.com
自閉症の現象学 第5章です。第5章は、視線触発がないところでの自閉症児の発達と、どうやったって知覚とか空想とかできない「現実」についてです。現実は、第4章でもキーワードになっていました。 ◆ まず、第4章の続きから(第4章と第5章にまたがっているので、話の流れと長さの都合でこっちに移しました) 定型発達のこどもでは、抱っこは重要です。抱っこでは、こどもと母親は見つめ合います。つまり視線触発は働いています。で、母親(養育者ですけど、とりあえず母親で代表します)はこどもの動きや感情などを感じ取りそれとシンクロします。こどもは、抱っこされている件について拒否せず、母親に身を委ねています。こうして、こどもは自分自身の身体を実感する(自己触発)と同時に、視線触発により「見つめられる私」として、自己を発達させます。この、自己触発と視線触発が同時であるところがポイントです。 この一方で、自閉症児の場合、
双極性障害について知っておいてほしいことなど。とくに2型。そうとうつ、というよりは、うつを繰り返す病気です。 まず、身体の病気だと考えたほうがいいと思います。いろいろ事情があって落ち込んでいるのとは明らかに違います。身体が重すぎて動かない、足を引きずり歩くの遅い、頭が働かず決断ができない、食べられないあるいは食べすぎる、特定の味がわからないあるいはまったく味がしない、なかなか、ただの「落ち込み」では起きないことばかりです。気分屋とかではないです。わがままとかでは絶対にないです。 気分の上下とやる気の有無、心身の動く動かないは、すばやく交替するだけでなく、ばらばらに動くことがあります。混合状態といいます。 たとえば、気分は落ち込んでいるけどなにかしようという気はある。これ、精神科医的にはかなり避けたい事態です。自殺する元気が出てくる人がいます。 気分が最悪のときに頭だけ動いたらろくでもないこ
(厳密な意味での)他人のいない世界、他人がすべてNPCであり、自分がなにかしないかぎり自分と関係ない世界で自分と関係ない生活を営んでいるはずの世界に住んでいたという話をしました。その世界が多少なりとも変貌をとげたのが、10歳ごろであるとも。 ツイッターで見かけるかぎり、人によって時期は違うようですね。定型発達のひとたちでもものごころついてから起きることなのかな、違うような気がします。どうでしょう。そういうたずねかたをしたことがないので、確信は持てません。 ともあれ、わたしの話。 ◆ 一番最初に、そして決定的に決裂したのが、父親との関係でした。それまでは非常に良好な関係だったんですよ。同じ行動で同じ反応を返す理想的なNPCでしたし、わたしのわからないことは理屈で説明してくれましたし。つねにわたしの味方でしたし。 しかし、です。これね、父親が、自分と娘(わたし)をまったく同じものとして見ていた
処理速度(PS)について。重要な点は、これが「処理」速度=単純作業の速度に近い数値であるということです。頭の回転の速さを直接測っているわけではないんですよね。 ◆ 処理速度(PS)だけがものすごく高く、他がそうでもない場合、頭の回転が速い、という印象ではないことがあります。単純作業は速いです。検品とか。手の動きもついていくなら、箱折りとかね。 処理速度(PS)が高い人にも、手の動きがついていく人とついていかない人がいます。 手の動きがついていく場合は、板書を写すのが速いので、学校の勉強についていきやすかったりします。 ◆ 手の動きがついていかない場合であっても、この処理速度(PS)は、作動記憶(WM)を補う働きをします。作動記憶(WM)は頭の中の情報仮置場ですよ、といっても、置いておける時間はかぎられているので、処理速度(PS)が速いほうが多くの情報を扱えます。 そうはいっても、処理速度(
ASDが治る治らないの議論になることがときどきあるように思います。治るというのが、ASDの特性が消滅するという意味なのか、ASD由来の問題が解決するという意味なのか、いまひとつ不明なことも多いです。「治るって何」とか考えてしまったりします。 ◆ 「ASDは治る」というのは、「うつ病は治る」とは違います。似ている点もあります。 ◆ 「うつ病は治る」というのは、主に治療を始めていない人へのメッセージです。治療を始めていない人に、治療をすればよくなるから治療しようね、と呼びかける。実際、うつ病の治療で快方に向かううつ病の人は多いですから、この呼びかけは正当です。うつ病を放置して悪化しても困るので、この呼びかけは必要でもあります。 しかしこの「うつ病は治る」で傷つく人もいます。うつ病の治療が難航している人たちです。治るはずのうつ病が治っていないというのはどういうことだろう、と悩んでしまうわけです。
ASDの人には、悪意とかいじわるとかの意図が持てない人がいる と書いて、ものすごく怒られたことがあるんです。ツイッターをやめた理由のひとつはこれでした。なので少し怖いのですけれど、考えが進んだので書いてみます。 ◆ 相手がわるい目にあうことについて、喜びを感じるというのは、相手に対する興味関心があるということです。興味関心がなければ、どっちでもいい。どっちかというと、平和で幸せでいてほしい。自分のせいで困らせたりはしたくない。 誰かが困るというのは、周りの感情を完全に度外視すれば、わるい状況です。そしてその「周りとしての感情」を持つことが苦手な人からみても、たんにわるい状況です。そんなわるい状況、わざわざ作りたくはありません。 ◆ 悪意とかいじわるとかの意図を前提として怒ったり指導したりするのは、 悪意とかいじわるとかの意図がなければ、その行動は避けることができる という前提があるのだろう
共感にはいろいろあります。想像力とも、かぶるところがありますね。 ASDの人についても、「共感が苦手」とざっくりまとめられることがあります。しかし、ASDの人の中には、文学やアニメで想像力を鍛えた結果なのか、他人の抱える事情からその他人の感情を正しく推測できる人もときどきいます。毎回じゃなくても、です。 ◆ 苦手なのは「反射的」共感、相手の感情や表情を瞬時に共有して相応の対応をとること、なのではないでしょうか。少なくともわたしは苦手です。 そしてこれ、違和感をもたれやすいです。(目の前の相手が泣いているのに)「なんとも思っていない」などなど。表情が動かないのは自覚しています。反射的に動くのがポイントなので、表情を作っても間に合いません。 その一方で、(目の前の相手が泣いているのに)冷静に淡々とやるべきことをする、という点が評価されることもあります。泣くに至った事情は理解した、それはつらいと
HGウェルズに「盲人国」という小説があります。その国の人は、全員目が見えません。そこに、目が見える人が迷い込みます。目が見える側が有利かというと、ぜんぜんそんなことはない。何をするにしても助けが必要です。 ◆ ものすごく高性能でかっこいい義足が普及して、自分の足で歩いている人が「障害者」扱いになる未来とか、空想したりします。 ◆ コミュニケーション能力が重視される世の中であるといいます。それで苦労しているASDの人も多いです。 しかしよく考えると、その「コミュニケーション能力」は、「定型発達の人の間のコミュニケーション能力」ではないでしょうか。もしも「人類全てに対するコミュニケーション能力」であれば、ASDの人が苦労するはずはありません。 ということは、この「コミュニケーション能力」は、絶対のものではない。人類普遍の価値は持たないわけです。 ◆ もしもASDが多数派の社会であれば、ASD的
2021年、知能検査についての知識と経験は増えた気がします。 知能検査から、「苦労する組み合わせ」が見えることもあります。同じ「IQ100」でも、全体的に100なのと、得意不得意がはっきりしている場合とでは、後者のほうが苦労が多いという印象です。 苦労する組み合わせ筆頭は、「VC(言語理解)が高く、PS(処理速度)もそれなりに高く、それ以外が低め」であるように感じています。 これね。初対面の人に、能力が高いと思われやすいんですよ。初対面の人の場合、知的能力は「話した印象」から推測することが多いです。語彙が多くわかりやすい話ができて、話のスピードも速い場合、当然、「この人は頭がいい」と思われます。そして、他が低い場合、いろいろと「期待はずれ」の現象が起きます。同じ結果であっても、期待が高い場合と低い場合とでは、評価が異なるのが普通です。期待が高い場合のほうが、評価は低くなりやすい。これはしん
理由と根拠を明確に、手順を具体的に教えてもらえば「できる」ことが増えるASDの人は、わたしを含めてそれなりの数いると思います。 サンドイッチ作っといて では混乱するとしても、 たまごサンドを2個作っといて、レシピはここにあるよ であれば、上手にできたりするわけです。 この例では問題にならないことで、複雑な事柄になると問題になるのは、「定型発達の人の側が、理由と根拠を明確に、手順を具体的に言語化することに慣れていない」です。適当かつあいまいな指示で動いているのは、「そうとしか言語化できない」ことが一因なのだと推測しているのです。 だって、あいまいな指示がとんでくるのは、「定型発達同士ならそれでなんとかなる」からで、なんとかなることを努力する人は少ないですし、努力すれば上達し努力しなければ上達しないのは自明です。空気? でやりとりできるのであれば、言語化が苦手でも仕方がないと思うのです。 ◆
いま、「発達障害の精神病理3」という論文集を読んでいます。このなかに、ときどき、「わたしもそうです…… って、定型発達の人は違うんですか」ってことが出てきます。世界の見えかたについて、なんか腑に落ちたことがあったので、メモを兼ねて。仮説ですから、絶対正しいとかそういうものではないのですけれど、実感として。 さて、ASDの人、というかわたしにとっての世界の見えかたから先に扱います。こっちのことばかり論文には書いてあって、定型発達の人のことはあまり論文に書いてないものですから、最初は何を言っているのかよくわかりませんでした。って、定型発達の人が読者として想定されているはずですから、定型発達の人のことは自明として省略されているわけですね。難しい。 さて。わたし(ASD)にとっての世界の見えかたはこんな感じです。まいわーるど的な空間があって、その中に自分を含めた人間とか、ものとかがある。それを見て
ASDを根本的に治す(消す)ことは、いまのわたしには不可能です。とはいえ、今後可能になるかもしれませんし、わたし以外の人がやっていることかもしれません。そうはいっても、いまの時点でできることもあるわけです。 ◆ 世の中に起きている(ASDの人にとっては)謎の現象を言語化する、ということは、有効であるように思います。ASDの人の思考回路を説明するのではなく、多数派の人の思考回路や世の中の成り立ちを説明する。絶対正しいという保証はなくても、です。 ◆ 一つ例を挙げます。 「なぜそうなるのかたずねたら怒られた」というエピソードはよく聞きます。いちばんよくあるのが、「なぜ怒っているのかたずねたらよけいに怒られた」です。納得がいかない。わたし自身にも覚えはあります。 「自分が、なぜ怒っているのかたずねられたらどう思う?」 「相手がわからないならわかるまで説明します。わからないなら聞いてくれたほうがあ
わたしの勤める病院も、最近は、初めて受診する人には予約が必要になりました。たいていは看護師かソーシャルワーカーが電話を取ります。だいたいの受診理由をたずねてから、受診の日時と(必要な場合は)担当医師を決めます。 先日、外来の看護師さんがつぶやいていました。「ASDを治したいって電話がけっこうあるんですけど、どうしたらいいんですかね……」 あずさが診るかどうかはさておき、そもそも治るんだろうか、というわけです。いい質問です。 ◆ トラブルが減る、という意味では、治る、は可能だと思います。 たとえば自分のパターンと能力を分析して、フローチャートで乗り切るとか、テンプレを研究するとか。病院じゃなくて自助グループでもいいかもしれませんよね。本を読むのももちろんおすすめです。 家事などで困っている場合は、生活について助けを得るのも一案です。代表はヘルパーですね。障害福祉サービスの範疇です。医師の診断
軽度の知的障害、あるいは境界域(知的障害とまではいわないけどIQが低め)のひとは正直言って人生の苦労が多いと思います。 1つ目は福祉です。たとえば年金だって、重度の知的障害なら高い確率で通ります。そのいっぽうで、境界域の場合は、他に病名がつかない限り通りません。そのほかの福祉的なサービスもおおむねそんな感じです。 2つ目は療育です。重度の知的障害は、幼いころに確実に発覚します。これはどういうことかというと、知的障害のこどものための療育が受けられるということです。たいていは、個別対応が比較的行き届いていて、知的障害のために苦手なことにも配慮してもらえて、得意なことは伸ばすように関わってもらえます。これが、軽度〜境界域では難しい。 3つ目は受け入れです。2とも関わります。重度の知的障害の場合は、幼いころに指摘され、本人も周囲も否応なしに現実に直面するため、比較的早いうちから障害の存在を認識する
入院時の外出は、わたしの勤めている病院では16時までです。16時までに、病棟に戻ってこなければなりません。 ASD傾向のある人が、これに納得できないとしましょう。ASD傾向のある人は、病棟スタッフの間で、「しつこい」「何度も窓口に来る」「しかも納得しない」という定評がありました。つまり評判がよろしくない。 看護師さんは困ると主治医を呼びます。看護師さんの説明では納得しないから、主治医が説明して納得させるべきだ、というわけです。 ◆ 16時までに戻ってくるというのは病棟のルールだけど、でも納得できないのよね? ー なんで16時?俺は17時まで用事があるのに。夕食は18時じゃん。 看護師さんって日勤と夜勤があるじゃない?日勤は人数が多くて、夜勤は少ないよね。 ー それはわかる。 この交代が16時半で、16時からは引き継ぎタイム。 ー そうだったのか。 この時間はさすがに、わたしにも院長先生にも
ツイッターでも現実世界でも、ときどき話題になる障害年金。 これね、まず、2種類あります。 障害「基礎」年金と、障害「厚生」年金です。 前者は国民年金加入者用、後者は厚生年金(+国民年金)加入者用です。 障害基礎年金(国民年金のみの人)→1級と2級 障害厚生年金(国民年金+厚生年金の人)→1級と2級と3級 「勤め人」の場合、国民年金+厚生年金 そうでなければ国民年金のみ と考えていいと思います。 ちなみに、「勤め人」の家族の場合は、国民年金のみです。 ◆ 国民年金は常時あるけど、厚生年金は仕事についたりやめたりするたびに、あったりなかったりします。ここで効いてくるのが、 「初診日時点での年金支払状況」です。ここで、どっちをもらうか決まります。払ってないともらえません。100.0%払えとまでは言わないけど、です。基準は省略。 逆にいうと、初診日がわからないのは非常にまずい。精神科の場合、診断が
アスペはものと人との区別がついていないとか、他人を他人と思っていない(傍若無人ってことですね)とか、いろいろさんざんな言われ方をすることがあります。たしかにわたしはドアにぶつかったらドアに謝ったりしますけれども、そこまで言われる筋合いはない気がするわけです。 で、ここでいう「他人」というのは一体何なんだと何冊か専門書を読んだ結果、他人がいるとかいないとかいうのは、他人の思考や感情はどうやったってわからないのだ、という事実をしみじみ納得しているかどうか、ということとイコールであるらしい、ということがわかりました。これ、ひっくり返すことができるらしいんですね。なにをどうやったってわからないのが他人なのだそうです。 他人のことはどうやったってわからない、としみじみあきらめる過程とは、というのが次の問題になります。どうもこれ、自分と他人を区別するという問題のようなのです。いくらわたしがアスペだから
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