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体力トレーニング
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論理というものに慣れていない人は、「論理的」という意味を勘違いして使っているのではないかと思うときがしばしばある。日本の学校教育では論理についての教育をしないので、論理を知らない人のほうが大部分だと思うが、論理というのは、基本的に推論の部分を考察するのであって、結論が正しいかどうかを問うのではない。 結論が間違っていても論理的には正しいということはいくらでもありうるし、結論が正しくても論理的に間違っているということはいくらでもある。結論の正しさは論理の正しさに直結しない。だから、結論に対して賛成できなくても、その結論の導き方が、論理的ではないと決して言えないのである。 論理にとって大事なのは、ある前提を置いたときに、その前提のみから結論が導かれるかという整合性のほうであって、前提に何を置くかというのは、論理の問題ではないのである。それこそ前提に置かれる命題が党派性の強いものであれば、誰も賛
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方はとても分かりにくい。つかみ所のないものという感じがする。この難しい概念を理解するために、本質という面からこの対象に近づいたらどうだろうかと考えてみた。どのような対象が「言語ゲーム」と呼ばれ、どのような対象がそう呼ばれないかという、対象がもっている特質がつかめれば、この分かりにくい概念が理解できるのではないかと思った。 対象が単純なものではなく、複雑で難しい場合は、現象として見られるものとその本質とが違っていることが多い。だから、複雑で難しい対象を正確に把握するためには、その対象に関する本質論を考える必要があるのではないかと思う。本質論がうまく立てられるなら、それは対象の理解を深めることになり、教育や学習という面で大きな成果があげられるのではないかと思う。 このようなことを考えて、さて「言語ゲーム」の本質はなんだろうかと考えていた矢先に、参考
「社会科学の科学性について」というエントリーにコメントをもらった佐佐木晃彦さんの「② <本質=関係>把握としての弁証法」というページを訪ねてみた。三浦つとむさんから学んだというその内容はたいへん興味深かった。 ここで語られている内容そのものもたいへん興味深いのだが、その前段階として「本質」という概念についてもう少し考えたいような気分になった。それは、「本質」を「関係」として捉えるという思考の展開が、必ずしも自明に自然なものには見えなかったからだ。もう少し説明が必要なのではないかと感じた。何故に「関係」という点に「本質」を見るのか。その必然性がどこにあるかというのを考える必要を感じた。この前段階をよく考えた後に本論のほうへ入っていきたいと思う。 「本質」という言葉は「現象」という言葉と対比させて考えられるのではないだろうか。現象というのは、辞書によれば「人間が知覚することのできるすべての物事
大塚久雄さんの『社会科学の方法』(岩波新書)というとても面白い本を見つけた。大塚久雄という名前は、学問の世界ではビッグネームだったようだが、今では一般にはあまり知られていない人なのではないだろうか。僕も初めて手にしてみたのだが、内容の面白さと分かりやすさは、かつて三浦つとむさんの本を初めて読んだときのような感じがした。 三浦さんはアカデミックの世界とはまったく無縁の人だったから、その分かり易さはむしろ当然だと思っていたのだが、アカデミックの世界の巨人とも言える人が、これほど分かりやすい文章を書く人だとは意外だった。まだ最初の部分を読んだだけなのだが、そこだけでも「目から鱗が落ちる」というような経験ができることにあふれている。 大塚さんは、冒頭で「科学的認識である以上、それは因果性の範疇の使用ということと、どうしても関連を持たざるを得ない」と書いている。これは、「因果関係」というものを「仮言
仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんと、社会科の仮説実験授業の研究をしていた長岡清さんの共著の『社会にも法則はあるか』という面白い本を手に入れた。新書程度の軽い本なのだが、ここに含まれている社会科学というものを捉える視点というのは、数学系としては非常に納得のいくすっきりしたものに感じる。 哲学的な科学論としては、ポパーが提唱した「反証可能性」というものが有名なようだが、「反証可能性」というものを視点としたときは、考察している対象が「科学ではない」という判断は出来るものの、それが「科学である」という肯定判断はどうしたらいいかわからなくなる。「反証可能性」があるということが確認できたとしても、それは単に真偽を確かめる方法があるということがいえるだけで、それが真理であるということが確かめられたわけではないからだ。 科学というのは、それが真理であることがいえなければ、「科学である」という肯定判断は出
江川達也氏がゲストとして出たマル激では、江川氏とともに宮台氏が理科系と文科系について言及していた。これを「数学系」「芸術系」と呼んだほうが正確だろうというような発言だったと記憶している。僕もそう感じた。 日本の大学では経済学は文科系のほうに入っているようだ。しかし現代経済学というのはほとんど数学の一分野のようになっている。アメリカなどでも経済学でノーベル賞を取るような学者はほとんどが数学系の出身ではなかったかと思う。映画「ビューティフル・マインド」で描かれたジョン・ナッシュなどは数学の天才として描かれていた経済学者だ。 法学の分野では、ほとんど記号論理学を基礎教養として学ばなければならないようになっているとも語っていた。理論活動をする分野ではますます数学の必要性が高まっている。江川氏などは、客観的な判断を必要とする仕事はすべて数学の能力を測るべきだなどという暴論を吐いていたが、これはある面
瀬戸智子さんの「仮言命題の限界」というエントリーに書かれている「因果関係」というのも気になるものの一つだ。瀬戸さんは因果関係については詳しく語ってはいないが、これは仮言命題と深く関わっていると僕は理解している。 あまりはっきりとは覚えていないのだが、ヒュームは因果関係の存在を否定したと記憶している。これは、それを実体として存在すると考えるのなら、否定されるべきだろうと僕も思う。つまり、因果関係というものを物質の属性として捉えようとすると、そんなものは存在しないと言わないわけにはいかないだろうと思う。関係というのは実体ではない。あくまでも人間の認識の中に存在する、もののとらえ方の方を指す。だから、それが物質の客観的なあり方だと思ったら間違えるだろうと思う。 その意味で瀬戸さんが語る「原因が必然的に結果を引き起こすという関係は存在しない」という言い方は正しい。しかし、ある現象に関して仮言命題が
witigさんに「排便シグナルが読めて対処方法があればおむつは要らないか」というトラックバックを「必要条件と十分条件」というライブドアのエントリーにもらったのだが、これを読んでも、やはり内田さんの文章の文脈を誤読しているのではないかという印象は変わらない。 内田さんが語る「必要性」は、あくまでも「二歳までおむつをとる必要はありません」という言い方に関連して語られているものだと僕は文脈上の理解をしている。つまり、完全な形でおむつが必要でなくなるまではおむつをつけていてもいい、ということを「おむつが必要だ」という意味に理解し、完全になるまでの過渡期においてもおむつが必要でなくなることもあるよという主張として「おむつが必要ない」という内田さんの言い方を理解している。 問題は、子どもが自立と依存の中間点にいるときに、依存しつつ自立するという状態を作るために、排泄のシグナルを読みとろうという発想をし
igelさんが「内田さんのフェミニズム批判の意味を考える 5」というエントリーに書いた「コメント」に、論理的に面白いと思われる内容があった。それは、 「シグナルが読めるのは母親でなくてもかまわないと言うことから、細やかなコミュニケーションが母親にとって「必要」でないという否定は導くことは出来ないだろうとは私も思います。 むしろ、シグナルの読めない母親(であれ誰であれ)が細やかなコミュニケーションにとって「必要」でないという否定が導けると考えます。」 と語られている部分だ。ここでは「必要ない」という判断が語られているのだが、この判断はとても難しい。論理においては「必要である」という必要条件については分かりやすい。仮言命題「AならばB」において、結論となるBは、前提Aにとっての必要条件となる。それは、Bが成り立たないときはAも成り立たないという関係になっているからだ。 ついでに付け加えておくと
内田樹さんは『ためらいの倫理学』の中で「私は宮台真司という人の書いたものを読んで共感したことが一度もない。どうしてなのか知らないけれど、どこかで必ず違和感のあるフレーズに出くわすのである」と書いている。僕は、内田さんにも宮台氏にも共感し、リスペクト(尊敬)する感情を抱いているだけに、その感覚の違いに興味を覚える。 僕は内田さんには「さん」をつけて、宮台氏には「氏」をつけて記述している。これは年齢的なものから来る感覚がある。内田さんは僕より少し年上なので、何となく敬意を込めて「さん」をつけたくなる。宮台氏は僕より3つほど年下と言うこともあり、こちらも敬意を込めて「氏」と呼んでいるような所がある。 同じように年下の仲正さんは、「さん」と言ったり「氏」と言ったり統一はしていない。「さん」をつけるのは親しみを感じたときで、「氏」をつけるのは、その言説に敬意を込めたいときに「氏」を使うような感じがす
先週のマル激だっただろうか、宮台真司氏が、福田康夫氏の総裁選出馬辞退についてこんなことを語っていた。 ・現段階では安倍氏に勝つ確率は低いし、勝ったとしても僅差の勝利になる。 ・負ければ実績に傷が付くことになる。 ・勝ったとしても僅差での勝ちなら、安倍氏に代表されるようなポピュリズム政治が生き残ることになる。 ・安倍氏には小泉さんほどのカリスマ性はないので、総裁になった後の実績は作れず人気は落ちる。 ・安倍氏は、小泉路線で人気を保ってきたので、大幅な路線転換は出来ず、小泉さんの政策を継承していく。 ・小泉さんの政策はそろそろほころびが出てきたところで、格差拡大などの面がこれからいっぺんに吹き出し、その負の面が明らかになってくる。 ・安倍氏は、これらの問題に対処しきれず、早晩失敗を犯すようになる。 このような論理の展開を前提にすれば、今無理をして総裁戦に出るよりも、安倍氏が失敗した後に、人々の
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の最初の命題で 「1 世界は成立している事柄の総体である。」 と書いている。「成立している事柄」とは、現実に成立している事柄のことである。これを「事実」と呼んでいるので、世界は「事実」の総体であるというのが、ウィトゲンシュタインの「世界」と言うことになる。 「世界」という言葉は非常に抽象的な言葉で、人それぞれによってそのイメージが違ってくるのではないかと思う。具体的な「世界」の像には微妙な違いがあるだろうと思う。だから、その具体像から抽象された「世界」という言葉の意味は、人それぞれに微妙な違いがあるものと思われる。 「1.1 世界は事実の総体であり、物の総体ではない。」 と、最初の命題への注意となるような命題を記している。このとき、「世界」は物の総体なのか、事柄の総体なのか、どちらが正しいのかという発想をすると結論の出ない議論にはまりこむのではないかと
学生の頃はさっぱり分からなかったウィトゲンシュタインの哲学が少し分かりかけてきた。これは、はてなダイアリーの方のわどさんのコメントをヒントにして気づいたのだが、年をとるとそれなりに経験を積むことが出来るので、見えるものが増えてきたことによって理解出来ることも増えてきたのではないかと感じた。同じようなことを内田樹さんも語っていたが、年をとると、それだけで分かることも出てくるような気がする。年をとると言うことはいいことだ。 若い頃は、ウィトゲンシュタインが語る「世界」というものが、まったく抽象的なイメージしかなく具体的な自分の周りの「世界」との結びつきがなかったので、たぶんウィトゲンシュタインが語る「世界」と僕が考えていた「世界」とに接点がなく、ウィトゲンシュタインが何を言っているのかさっぱり分からなかったのだと思う。 今ではそれが少し分かるようになったのは、その見ている対象が重なっていると感
先週のマル激では天皇制について論じていた。ここで僕の関心を引いたのは、議論されていたのが、天皇制という抽象的な制度という対象ではなく、具体的な天皇個人の問題として語られていたことだった。それは現在の明仁天皇を巡る問題だったり、昭和天皇である裕仁天皇を語るものだったりしていた。 天皇制という制度を巡っては、理論的には、それがすべての差別の根源であるという主張があったり、戦争における失敗が天皇制軍国主義というものに帰して考えられているところがある。僕もかつては、これらの主張を素朴に信じていた。しかし、マル激の議論を聞いていると、問題はそれほど単純ではないのではないかと感じるところがある。 天皇という存在は、無条件の絶対的な聖性を持っていると考えられている。聖なる存在として、無条件の頂点に位置するというその属性から、反対の極にある、もっとも穢れた存在というものを必然的に生み出すという考え方が、理
ちょっと前に戸塚ヨットスクール事件で服役していた戸塚宏氏が刑期を終えて出てきたというニュースがあった。そして、その後にアイ・メンタルスクール(NPO法人)事件というものが起きて、これも何か戸塚ヨットスクール事件に似たような印象を人々に持たせたようだ。 両方の事件に共通しているのは、引きこもりや家庭内暴力といった問題を抱えた青年を教育するという目的を持っていたことだ。これらの問題には、残念ながら有効な解決手段がなく、当事者として困り果てていた親にとっては、戸塚氏などが救世主のように見えていたというのも共通している。 これらの教育が、一定の効果を持つ場合もあっただけに、その評価というものが難しい面を持っている。戸塚氏の持論である「体罰も教育だ」というものは、東京都知事の石原慎太郎氏でさえも支持しているというのを聞いたことがある。アイ・メンタルスクール(NPO法人)で、同じような事件が起こってし
藤原さんの民主主義批判について考えてみようと思う。僕も、民主主義のすべてが素晴らしいとは思わない。板倉聖宣さんが語るように、民主主義は最後の奴隷制だと思う。「最後の」というのは、これを最後にして欲しいという願望と共に、民主主義は、そこで奴隷になっている人たちに、自分たちは奴隷だと思わせないようなメカニズムがあるだけに、奴隷制としては最高の形態ではないかという判断から出ているものだと思う。 民主主義に対する批判の部分では、藤原さんにほぼ賛成するとしても、その批判の結果として「だから民主主義はだめだ」という、民主主義の全体に対する評価は疑問を感じる。民主主義にも欠陥はあるという判断なら賛成だ。その具体的な欠陥を修正していくような方向で努力していこうという指針にもなる。 しかし、その欠陥はもはや埋めようもないもので、民主主義を捨てて他のものを採用すべきだとなったら、これは、その他のものが民主主義
論理トレーニングをしていて、論理的な文章の読み方というものを訓練していると、これがいわゆる国語的な文法的理解とは大きく違っているのを感じる。それは一言で言うと、「文脈」と言うことなのではないかと感じる。論理的理解というのは、文脈の中に一つの文章を置くことによって、その文章の理解(解釈)が狭まってくるのである。勝手な恣意的解釈を許さないのが論理的理解だ。 一方文法的理解というのは、その文章を単独で取り上げても、一応は意味づけが出来るという理解の仕方だ。しかし、その意味は、どのような前提(文脈)でその文章を読むかと言うことが、読み手の自由に任されているので、その意味(解釈)は一つに決まらず、いくらでも違う解釈が引き出せるというものでもある。 「僕はウナギ」 という文章を理解しようとすると、これは論理的にはまったくおかしなものになる場合がある。「は」という助詞は、「AはB」という表現において、
野矢茂樹さんの『無限論の教室』(講談社現代新書)では、実無限と可能無限が中心的な話題となっている。野矢さんの分身のようなタジマ先生は、実無限に懐疑的で、無限の概念としては可能無限だけを認めるべきだと主張している。 実無限というのは、無限の対象の全体性を把握して、無限が実際に存在しているとする立場だ。可能無限というのは、無限を把握出来るのは、限りがないということを確認する操作が存在していることだけで、無限全体というのは認識出来ないとする立場だ。 実無限を認めないという立場は、それなりに納得出来るものだ。無限という言葉で呼んではいても、その細部にわたってそれが分かっていないとき、それを果たして「無限」という言葉で呼んでいいものかどうかに疑問を持つというのは正当な疑問のように思える。よく分かっていないものに対して「無限」という判断をするのは、単に名前を付けているだけのような気もする。 「実無限」
内田さんの「2006年02月23日 不快という貨幣」がいろいろなところで評判になっているという。批判もかなりあるようだ。内田さんは、一般に流通している観念に対してアンチテーゼとなるような主張をするので、その反対性から反発されることが多い。つまり、結果としての主張を見て、結果が自分の思いと違うというところから来る反感からの反発だ。 しかし、それがどれほど自分の思いに反していようとも、論理的に真っ当な結論であれば、それは受け入れざるを得ないというのが、論理にこだわってきた人間の思いでもある。内田さんに対する反発が、誤読という誤解に基づくものなのか、論理的に反対されても仕方がないものなのか、どちらであるかを考えてみたいと思う。 野矢茂樹さんから学んだ論理トレーニングの応用としても、ちょうどいい対象ではないかとも思うので、いろいろと論議を呼んでいるこのエントリーを、論理的に正しく理解するということ
sivadさんからもらったコメントの中に、「内田さんは分析の中にある方向性への誘導を忍ばせている」という指摘があった。僕は、この指摘自体は、それだけで何か善悪の判断とでもいう価値判断を考えることは出来ないと思っている。 ある分析を行うというのは、僕の場合などは、論理的に正しいという方向性をもった分析をしたいと思っている。だから、僕の分析の中に論理的に正しいという「方向性への誘導を忍ばせている」と読んでくれる人がいたら、むしろ僕はありがたいとさえ思うだろう。 もし、この「方向性への誘導を忍ばせている」ということが批判されるとしたら、それが現体制を維持し、自分たちだけの利益を守ろうとして、かえって社会がよい方へ向かうのを阻害する方向に人々を誘導している、というような面がある時だろう。「誘導している」というだけでは、それがどのような誘導かは分からないので、それに対して価値判断は出来ない。 「20
僕は「論理」というものの定義を、世界の持っている法則性を捉えたものと考えている。世界というのは、自分が存在している環境の一切を含む対象だ。この環境は具体的な物質的存在もあるし、主観の中の存在も自己と区別出来るものは環境という世界として捉える。 この世界の法則性のうち、言語が持っている法則性を捉えたものに形式論理と呼ばれるものがある。形式論理は、表現の形式の法則性を捉えたものであるから、存在を対象にしてはいない。それは言語による表現と関わるものだ。だから、形式論理では存在の内容に関しては何も語ることが出来ない。それを捨象して、表現に現れてくる形式のみを考察の対象とするからだ。 「このコップは青い。」 という命題を考えた場合、これをその言語が指す内容を捨象して形式だけを取り出せば、「AはBである」というものになる。これは、形式論理的に言えば、真であるか偽であるかを、この命題だけからは判断するこ
僕はインターネットを本格的に始めてからかれこれ7,8年たつだろうと思う。インターネット上の議論らしきものも何度か経験したが、本当に議論だと感じたものはほとんど無い。たいていが議論もどきのものに過ぎなかった。インターネットではまともな議論などは出来ないといまは感じている。 最初に経験したのは掲示板上での議論だったが、これはほとんど議論にはならなかった。掲示板という状況が議論の妨げになっているだろうと思った。たいていは短いコメントで言葉を投げ合うだけで、議論の前提となる合意というものがほとんど形成されない。相手の言葉を勝手に自分の解釈で受け取って、相手が語ってもいないことを相手の言葉の中に作り上げて、架空の論点に批判を投げつけているだけのようにしか見えなかった。 ブログが登場したときには、そのトラックバック機能に議論の可能性を期待したが、これもまともな議論になるような方向へは働かなかった。ブロ
先日、本多勝一さんの『日本語の作文技術』(講談社)の新装版を見つけて購入した。僕は、これが最初に出版されたときから愛読している。これによって自分の作文技術が確かに向上したと感じている。それは、文学的な意味での文章力が上がったというのではない。論理的な思考を表現するという意味での文章力が上がったと感じることが出来た。 僕は、数学を専門的に勉強し始めたとき、その論理を理解することに非常に苦労をした。それは今振り返ると、日本語で論理的に考えることの難しさに苦労したと言えるのではないかと思う。僕の数学における転回点は、記号論理学を勉強したときだった。それまで日本語で考えていた数学を、ほとんど記号論理に翻訳し直してみたら、嘘のように理解が進んでいった。日本語と記号論理の違いがどこにあるかというのが、その時の僕の最大の関心事になったものだ。 意味に多様性があるということは、意味を取り違えると言うことも
小泉首相の靖国参拝問題というのは、哲学者の高橋哲哉さんが『靖国問題』という著書で論じたように、さまざまな面が絡み合った複雑な問題である。この複雑な点を丁寧に一つずつ考えていったら、今の時点では一つの結論になどならない、と言う論理展開を見せるのが普通だと思う。しかし、立場上とはいえ、自民党の国会議員などが「内政問題であって、外国にとやかく言われるものではない」と主張するのは、その複雑さを考えていないと言うことを自ら暴露するようなもので、あまり頭のいい対応だとは思えない。 さすがに小泉さんがそのようなことをテレビなどで言わないのは政治的配慮だと思うが、他の議員に言わせるというのは一つの役割分担なのだろう。だが、その議員は、自らの役割としては期待されていることを果たしているのだろうが、国益を考えなければならない国会議員としての資質は、その発言によって著しく低くなったというのを自覚して欲しいものだ
ヒトラーの持つ優秀性というものを考えていたところ、小室直樹氏の『日本経済破局の論理』(カッパ・ビジネス、光文社)に興味深い記述があった。ケインズをまったく知らないヒトラーが、ケインズ経済学の理論から導かれる現実の経済政策とまったく同じことを行っていて、しかもそれが大成功していたというのだ。小室氏に寄れば、これはケインズ理論の正しさを証明した実験に当たると言うことだった。 ケインズ理論の核心は「有効需要の法則」にあると小室氏は教えてくれる。有効需要というのは、国民総需要とも言い換えられるらしい。つまり、個人的な需要ではなく、国家という全体規模で考えた需要を指すようだ。これは、数学では確率論的な発想に似ている。確率論では個々の個別的な動きは分からないけれど、それを全体集合としてみたときに、どのような動きが分布しているかは予測出来る。同じように、個人の需要は偶然的な要素が多すぎて予測出来ないけれ
内藤朝雄さんのもう一つの重要な指摘は、マスメディアの報道に関するものだ。それは多くの人の不安をあおり、間違った認識を広めるというものだ。 今回の事件も10年前の事件も滅多に起きない特殊な事件であるにもかかわらず、報道された加害女児については日常生活としてはごく普通の振る舞いをしていたように見える。いったい特殊なのか普通なのかが見えてこない。もし普通の人間がこのような事件を起こしたと考えるなら、どの子どもにもそのような可能性があるという発想になるだろう。 加害女児の持っている特殊性をどのように理解するかというのは、この事件を解釈する上で非常に重要なものになる。しかし、マスコミは視聴者を驚かせるセンセーショナルな話題の方を視聴率が稼げるという理由で採用したがる。それがどのような結果を生むか。 10年前の事件について内藤朝雄さんはNHKの取材について次のように答えたらしい。 「佐世保の小六殺人の
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