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衆院選
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1965(昭和40)年、深津文雄牧師は、社会から見捨てられた女性たちが一生安心して暮らせる婦人保護施設「かにた婦人の村」(かにた村)を設立した。 1984(昭和59)年、一人の寮生が自ら従軍慰安婦体験を牧師に告白する。この告白「石のさけび」を受けて、施設内にある小高い丘に1本のヒノキの柱を建てたのは「戦後40年」のことだった。翌年そこには、「噫従軍慰安婦」と刻まれた石碑が痕隆された。 「韓国挺身隊問題対策協議会」の代表ユン・ジョンオクさんは、1980(昭和55)年より、北海道・沖縄・タイ・ラバウルの朝鮮人慰安婦の足跡を訪ね、1988(昭和63)年8月の来日の際にこの石碑を訪れた。 これが、韓国KBSテレビによるドキュメンタリー番組『太平洋戦争の魂〜従軍慰安婦』の制作を生み、韓国内はもちろん諸外国にも大きな世論を巻き起こしていった。 戦争責任があいまいなまま半世紀以上が過ぎ、現在もなお、従軍
●安房地域における本土決戦体制≪「一億玉砕」「一億総特攻」のスローガン≫● 昭和19年(1944)6月、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン島に上陸し大激戦となり、結局日本軍守備隊は壊滅していった。また、連合艦隊もマリアナ沖海戦で大敗北したことで、太平洋での制空・制海権を失い、絶対国防圏は崩壊していったのである。 大本営は7月に、「本土沿岸築城実施要綱」を示して、本土防衛のために沿岸砲台や陣地の建設を命じた。東京湾要塞に関わる各部隊は、敵の上陸阻止を主なねらいに、抵抗陣地や砲台施設の建設をはじめた。たとえば館山市大賀には「作戦室」「戦闘指揮所」と明示したコンクリート製の額がいまも残っている地下壕がある。この時期に「洲ノ空」の兵士たちによって建設され、その後本土決戦では抵抗拠点「128高地」といわれている。コンクリート製の額には「昭和十九年十二月竣工」と刻まれ、近づく本土決戦を想定して各部隊や
地図を南北逆さに置いてみると、「安房国(あわのくに)」は「へ」の字型になった日本列島の頂点に位置し、まるで龍の頭のようにも見えます。視点を変えて見てみれば、いつも見慣れた風景が、違った意味を帯びてきます。そこから何を発見し、そんな未来を創造することができるのでしょうか。 安房国は、古代日本の地方行政区分だった国名で、鋸山南麓から西方に続く長狭街道を北限とする房総半島南部をさし、房州(ぼうしゅう)と呼ばれることもあります。現在は、千葉県の館山市・南房総市・鴨川市・安房郡鋸南町の3市1町圏内を「安房地域」と称します。 冬でも花が咲き誇る温暖な安房国は、「常春(とこはる)」と呼ばれています。沖合には黒潮と親潮がぶつかる豊かな漁場をもち、恵まれた気候風土です。三方を海に囲まれた半島性ならではの特長を活かして、一次産業の工夫を重ねてきました。 海路においては東日本の玄関口として重要な湊を擁し、多くの
日本列島の頂点で太平洋に開かれた房総半島南部の安房国。いつもと違う視点で見直してみると、新しい発見があります。海洋民が交流し、異なる文化や価値観を認め合い、天変地異や戦乱を乗り越えて、「平和・交流・共生」の精神を培ってきた地域です。私達はこの精神を伝える歴史・文化遺産を後世にのこし、心豊かな地域づくりと交流文化を育んでいきたいと願っています。
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