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ヨーロッパ・フェスティヴァル文化から岡田利規/チェルフィッチュが受けた歓待を理論化/歴史化する―「横断=貫網の詩学」と「委任されたパフォーマンス」* 過去十年以上にわたって、時に応じて書き綴ってきたように1、劇作家・演出家の岡田利規が主宰するチェルフィッチュが2007年の五月、ヨーロッパのフェスティヴァル文化サーキットのひとつにおいてセンセーショナルな話題を提供したことにつき、わたしはどう考えてよいのか、知的な障壁とでも呼ぶべきものに、ぶつかっていた。それはベルギーのクンステン・フェスティバル・デザール(以下、クンステンと表記)における出来事だったが、そこで上演された岡田利規作・演出による『三月の5日間』(2004)が熱狂的に迎えられ、それ以降チェルフィッチュには、大陸ヨーロッパのフェスティヴァル・サーキットを中心として、50以上の上演のオファーがあったというのである2。当時の日本において
日常会話や伝統芸能の伝承場面、介護などで、人と人とが空間や時間をどうとらえ、どのように相互に思考するかを、発語とジェスチャーの微細な構造から探り、研究する細馬宏通(人間行動学者)。過去のチェルフィッチュ作品の映像を通して、「身体」と「発話」を微に入り細に入り分析した、新しいチェルフィッチュ論。 これから何ヶ月かの間、チェルフィッチュのことについて、時間をかけて考えていこうと思う。 チェルフィッチュのことが気になりだしたのは、確か2005年7月、雑誌ユリイカで岡田利規の「演劇/演技の、ズレている/ズレてない、について」を読んだときだった。その時点でわたしはチェルフィッチュの劇を一度も観たことがなかったけれど、そこに書かれているしぐさの話は、わたしが日頃研究している日常生活のなかの身体動作に通じていると感じた。 岡田はこう書いている。「言葉としぐさの関係は、つまりこうです。線が引かれ得るとする
チェルフィッチュ/岡田利規が「演劇」に向かい考える態度の現在進行形であり、未来への意志表明でもある〈映像演劇〉宣言の掲載をもって、20周年特設webサイトを締めくくります。今後ともチェルフィッチュと岡田利規の活動にご期待ください。 > View English 〈映像演劇〉宣言 岡田利規 演劇という言葉をひとつの表現形式を指し示すものであることに留めておくのをやめてしまったとしたら、おもしろいんじゃないだろうか。 演劇を、表現形式としての「演劇」をつくる際に用いられる考え方の形式のことを指す言葉にしてしまう。 考え方の形式としての演劇を用いてつくられたものはそれが「演劇」であろうとなかろうと、演劇だ、ということにしてしまう。 演劇とは何か。演劇とは、ある場において行われる上演が生じさせる、現象としてのフィクションのことだ。 ではフィクションとは何か。フィクションとは、オルタナティヴな現実の
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