サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
TGS2024
d.hatena.ne.jp/Trou
先日インターネットが日常的なものになったことで生じた気分の変化ってなんだろうね、って話になって、それはつまりこないだの90年代と00年代の違いってことになるのかもしれないんですけど、そのときには言わなかったし考えつかなかったのだけれど、まったく知らない人の人生の一端がたくさん見られるようになったことによる変化ってのはあるのかなーと思いました。 たとえばtwitterでもそうだろうし、日々のできごとを綴るブログなどでもそうなのでしょうけれど、よく書かれたそれらは、その人が生きている、ということを読み手にすっと感じさせてくれます。朝起きれば遅刻しそうになったり、電車を乗り間違ったりしているtwittrerがいるし、ブログを読めば、おいしそうなご飯を食べている人や、楽しそうに友だちや同僚と遊んでいる人がいる。インターネット以前、というのは、そういった、見知らぬ人たちの生活の息づかいのようなものを
「「意味をひとつ一つ考えるのではなく、花束を受け取るように受け取って欲しい」 - 花と石ころ」について予想外にブックマークをいただいたので、少し続けて考えてみます。 先の記事で述べたとおり、「“意味”を問うことで、受け取ることができるものが狭くなる領域」というのはあると思うのですが、すると、ブックマークにおけるid:kokokubetaさんの指摘のとおり、「こう考えると、逆になぜ意味を問うてしまうのだろうとも考えられる」という問いが発生します。あるいは、id:udyさんの「国語の授業における文章読解訓練の賜物」という指摘を受けると、「「意味」を問うことの意味」って何なのだろう、ということを考える必要が生じます。 このことについては、私もずっともやもやしたままなんですが、あやふやな言い方をすると、「「意味」しか問えなくなることも問題だけれども、「意味」について考えることができないというのもま
ほぼ日刊イトイ新聞より、谷川俊太郎の言葉。谷川俊太郎さんが、TV番組「題名のない音楽会」でこう言っておられました。「詩の朗読会で、詩の意味はよく聞かれるが、意味をひとつ一つ考えるのではなく、花束を受け取るように受け取って欲しい」ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。 詩にせよ短歌にせよ俳句にせよ、あるいは小説にせよ“意味”を問うことで、受け取ることができるものが狭くなる領域というのが確実に存在する。 短歌を読む際に、“これはどういう状況をあらわしているのだろうか”という問いは、最初にはこない。ふとしたときに“あれはどういうことだったのだろう?”と思うことはあるけれど、しかし、それはその歌を読むときの最優先事項ではない。短歌は、ひとまずは言葉の連鎖でしかなく、その歌の向こうに状況はないと私は考える。なにかを背景にして歌は生まれるのではない。あるいは、読まれるのではない。 花束を受け取る
小説を書くという行為の上における人称選択の重要性というのは、わりと色々あると思っているんですが、たとえば、一人称で書く、という場合に、自分と近い属性の人間を設定するか否か、というところはひとつのキーポイントになるんじゃないかと思っています。属性の近い人間であるほど、作者の自意識が直接的に反映されやすくなり、属性が遠くなるほど、自意識は薄くなる(あるいは別のものに変質する)……のではないか。 属性の振り幅というのはいろいろなものがあって、年齢もあれば、職業もあり、住んでいる国や時代、価値観とかもろもろなのですが、その中に“性別”というのが入るのかもしれません。ただ、性別というのは程度差に過ぎないので、たとえばよく女性に間違われるという長嶋有は“性別によって性格が変わるということを信じていない”ということを言っていたように思います*1。 異なる性を一人称に据えて小説を書くというのは、別に“異性
『群像』2009年3月号、津村記久子インタビュー「「ポトスライムの舟」で試みたこと」における石川忠司の言葉。 自分としては文学とか小説、言葉や言論のたぐいは現実の問題にかんしてはまったくの無力、というか、その無力さを前提にしなけりゃ何もできないと思っていて、「文学の政治性」とか寝言言われるともう逆上するわけですが、正直な話、そのあたりはどうですか? 今月の文芸誌はどこもかしこも津村記久子一色で、このインタビューをはじめに読んだのは偶然なのですが、インタビュアーが石川忠司だったので、ああ、これは普通のインタビューにはならない、と思いました。 上記の発言については、言葉が少ないこともあって、この時点ではなんとも言えないですが、文学や、あるいは言論一般の持つ権力性について無自覚な発言ではないはずで、今後、石川忠司の著作を読んでいく上で、何度も思い返して、反芻したいフレーズだと思います。 他にも、
方言系の話題。次のような質問記事がありました。「くべる(焼べる)」という言葉について、お伺いします。私は札幌育ちで、昔はストーブに石炭や薪を加えて燃やすことを、「くべる」と言っていました。いつの頃からか石油ストーブが主流になり、私も20代で首都圏に移り、かれこれ40年近くの間「くべる」という言葉を聞くことがありませんでした。この言葉は辞書にも載っており、私は標準語だと思っていたのですが、「北海道の方言」という説もあります。ほかの地方では、「くべる」を使わないのでしょうか?北海道以外で、薪ストーブなどをお使いの方、よろしくお願いいたします。北海道以外の方、「薪をくべる」と言いますか? : 生活・身近な話題 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) で、おおかたの予想通り方言じゃないよ、知ってるよ、という答えがたくさん返ってきているわけですが、たしかにこの言葉は
はてなブックマークでは次の記事が話題になっていました。 高校生の部ではゴリラの孤独を表現した県立成東高校2年菱木俊輔君(17)の作品が市長賞に輝いた。「ぼくゴリラ ウホホイウッホ ウホホホホ ウッホホウッホ ウホホホホーイ」昨年春、千葉市内の動物園でゴリラを見て、「ゴリラも人と同じように孤独なのではないかと感じた」そうで、その孤独感を表現したかったという。ゴリラのイメージを文字で表すなら「ウ」と「ホ」だったので、そのふたつでまとめるようにした。asahi.com:「ぼくゴリラ」の短歌で市長賞-マイタウン千葉 個人的には、この歌はあまり好きじゃないです。「ぼくゴリラ」という自己言及もよくわからないところがある……けど、それがいい、のかもしれない。 ここで言われていた孤独感、というところで連想したのは穂村弘の次の歌でした。 サバンナの像のうんこよ聞いてくれ だるいせつないこわいさびしい ブック
はてなブックマークで、次のような記事が注目されています。 自分自身、「男のフェミニスト」であるのかと問われれば、僕はフェミニズムの主張を原則として認める一方で、日常的なオフレコの場では、男性優位的なことを平気で言ったり、考えたりしているので、まっとうなフェミニストから見たら、言行不一致のけしからん奴ということになるだろう。 しかし、そんな僕も昔は、かなりラディカルなフェミニストだったと思う。男はフェミニストたりうるか? - 青空研究室 私はフェミニズムについて体系的に学んだことがなく、“フェミニストたる”ことが、どのようなことなのか、明確なイメージを持つことができません(おそらく多様であろうし、多様でなければならないとも思う)。 ただ、上記の記事を読んでいて感じたのは、この文章を書かれている方自身の自意識(ジェンダーを含んだアイデンティティのようなもの)にゆらぎがみられないのではないか?
上野千鶴子による酒井順子と中村うさぎ評価。二人を「女子校文化」の体現者として位置づけるものだけど、中村うさぎについての次の記述は気になった。 中村うさぎはもともとジュニア小説のライター、市場原理が苛烈に支配する「女子の・女子による・女子のための」メディアで生き残ってきた書き手である。 私は中村うさぎのエッセイは買い物についてのうんにゃらしか読んだことがないのだけど、記憶によると、中村うさぎは少年向けライトノベルを書いていたのではなかったか……と思って調べてみると、Wikipediaにも「ゴクドーくん漫遊記」が出てくる。レーベルだけでの判断はできないけど、スニーカー文庫ということは、少なくとも「女子の・女子による・女子のための」メディアでは全然なくて、むしろその逆だった、というべきではないだろうか。 そんなの重箱の隅だよ、という感じもするけれど、この来歴は、むしろこの論考をおもしろくするよう
人は誰しも逆鱗を持っている──のかどうかは知りませんが、おそらく、「それを言われては怒らずにはいられない」一言とか、エリアとかを持っている人はそれなりに多いはずで、ご多分に漏れず、私にもそういう逆鱗があるのでした。……というようなことは、この日記を長いこと読んでくださっている方には自明の理で、ときおり明らかに怒っている記事があるのはそのせいなのだと思います。 ところが、「なぜそれが逆鱗なのか?」を説明するというのはとても難しいことで、これは例があった方がわかりやすいので今日、逆鱗にふれられてしまったエントリを引用すると、こういうのなのでした。 男が女と寝た後にチェックすること。Kさんの場合、ひと言で言えば、それは「女らしさ」なのだという。格闘技オタクなKさんは、男は男らしく、女は女らしくが理想。男なのに女々しかったり、腕っぷしの細いヤツは嫌いだし、女性は本能レベルで家事が好きだったり、「自
春先からブックマークのコメントでも「ですね、わかります」という言い回しが多くみられるようになったのですが、ダイアリーのキーワードによると、次のように解説されています。 「〜ですね、わかります。」という形で使用され、何らかの投げかけに対する回答を示す。また、意図的に「正解たり得そうな誤答」をすることで一種のボケにも使われる他、同意を装った皮肉などにも使われる。ですね、わかりますとは - はてなキーワード 最初にみたときには、おもしろい言い回しだなあ、と思いましたし、自分でも使ってみたい欲に駆られるんですけど、なかなか使いどころの難しい言い回し、だとも思います。最近は、明らかに乱発されすぎだと思いますが、あまり批判みたいなのは目にしない……のかなあ。管見の限り(←いいたい)、匿名ダイアリーに、次のようなものがあったくらいで、大きな批判はないみたいです。ありそうだけどな……*1。 なんだか流行し
「スイーツに関する断片的なかんがえごと(上) 飲み会におけるスイーツフォビア - 花と石ころ」の続きです。 ところで、近所にあるので、よくファミリーマートを利用するんですが、最近、「ひまわりの種チョコ」が復活して嬉しい! というのは関係あるようなないような、なんですけど、同じファミリーマートに、「男のスイーツ」というシリーズがあります。 ファミリーマートは6月1日、コーヒーを使った男性向けスイーツ3品を発売する。製品名は「男のティラミス」(360円)、「男のカフェラテ」(190円)、「男の珈琲ゼリー」(190円)。ボリューム感を高めつつ甘さを控えめにし、男性が満足できる内容に仕上げているという。(中略)「男性は奇をてらったものではなく、わかりやすい内容のデザートを好む傾向にある。新発売のデザートはコーヒーゼリーやティラミスといった定番デザートをベースにしつつ、すべての商品に厳選したコロンビ
たとえば、「結局、人と人とはわかりあえないものなんだよ」という言い方があったりして、それはある種のストックフレーズなのだけど、しかし、これに反論しづらい状況というか、価値観というのはある。ちょっとした術語的なものを使うと、「他者は理解できない」とか、「理解できた時点で他者ではない」とか、「他者を自己の中に取り込む」とか、そういう話になるし、このあたりの言説というのは、まあ、ありふれていると言ってもいいのだろう。 で、このあたりには積極的に反論できないし、「そうだよね」とか思うのだけど、ただ、あまりにも簡単に「そうだよね」と思えてしまう状況というのは、あんまりよくないんじゃないか、と思う。 「他者は理解できない」、あるいは、「理解できないものが他者だ」というのは、完成された時点での物言いで、この、実のところ壮絶な言葉は、現状においては「カジュアル化」みたいな感じで、骨抜きになっているんじゃな
たまたま、『トップランナー』でPerfumeをみた。 Perfumeを知ったのは、五年くらい前だったと思う。──と、こう書くと、「それは俺は前から知ってたぜ、今さら騒いでるのかよ、ってことかい?」ということになるのだけど、そうではなくて、Perfumeという名前は、広島に住んでいる人で、テレビを持っている人ならば、そのころから知っている名前だったのだ*1。 去年あたりに、ネットでPerfumeという名前をみたときは、すぐには、それが「あのPerfume」であるとは思い至らなかった。あまつさえ、「外国のユニットかなにか?」とか思っていた。それが、あるタイミングで、「あのPerfume」であることに思い至った時の、微妙な感情。 それは、「マイナーなものがメジャー化するときのさびしさ」では断じてない。そもそも、私はあまり音楽を聞かないし、アイドルユニット的なものにも興味が薄い。ならば、その感情と
あとで何か書こう、と思ってブックマークしていたら、いつの間にかたくさんブクマされていたのが次の記事。店員に「ありがとう」と言う人が大嫌い。おかしいのでしょうか。。。 さっき別の方が、店員に「ご馳走様」「ありがとう」と言う人を見ると惚れそうになる、と書いていて、あまりにびっくりしたので質問してしまいました。私の周りにも何人かそういう人がいて、料理が運ばれてくるたびに「ありがとう」と言ったり、買い物してお釣りをもらうときに「ありがとう」と言ったりしてました。見ててイラッとします。会釈ならいいんです。私もするし、感じいいです。でもなんで声に出す?知り合いでも何でもないのに、馴れ馴れしくない?と思います。そういう人に限って、何かあったときにねちねちクレームつけたりする。私自身、コンビニでバイトしてたときに、「ありがとう」と言われたことあります(関西の発音の人が多かったような。。。)正直、内心で「友
次の記事を中心として、いくつかの話題が展開しています。<性同一性障害>「就職内定取り消しは違法」と損賠提訴 性同一性障害(GID)による就職内定取り消しは違法として、男性として暮らす女性(33)が、広告デザイン会社「アドテクニカ」(静岡市駿河区)を相手に、慰謝料など約198万円の支払いを求めた損害賠償訴訟を静岡地裁に起こしていたことが分かった。 訴えなどによると、女性はGIDを告げずに下村岳雄社長らと面談。昨年9月10日、「21日から勤務が決まった」と連絡があり、東京から市内に引っ越して、同20日に入社承諾書や性別が女性と記載されている年金手帳などを会社に提出した。 同日中に、会社から性別の問い合わせがあり、女性がGIDについて説明すると、翌日に会社から電話があり、「身元保証書を代筆したり、性別詐称をする人は信頼できない」などとして、内定取り消しと引っ越し代などとして10万円の支払いを告げ
d.hatena.ne.jp
■[ニュースのあれこれ]武道の必修化 中学校における武道必修化の記事を、いくつか比べてみた。一番最初に目にした記事はこれ。 学習指導要領の改定作業を進めている中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の専門部会は4日、中学校の保健体育で選択必修になっている武道(柔道、剣道、相撲など)を1、2年生の男女を対象に原則、必修化することを大筋で了承した。昨年12月改正の教育基本法に盛り込まれた教育目標「伝統と文化の尊重」の実現を目指す。 この教育目標は「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養う」といういわゆる「愛国心」表記として、賛否を呼んでいた。 専門部会は、武道の必修化は教育目標と一致するとともに、子供の成長過程を考えると、中2までは、男女ともに複数の競技を体験させるのが望ましいと判断した。 現行の学習指導要領では、中1が武道かダンスのいずれかを選択。2、3年生は
ミュージック・ブレス・ユー!!作者: 津村記久子出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング発売日: 2008/07/01メディア: 単行本 まさか同時期に二冊も本が出てるとは思わなくて、そういえば読みのがしてる短編とかあるんやろか、と思って調べたら、短編どころか単行本があった。やっぱりさー、こう、気になってる人の新刊とか出たら教えてくれるサービスが必要だと思うんだ。それともすでにありますか。 この本は、高校生が主人公になっていて、これまでの津村記久子のイメージから考えるとへえ、というか、そうなんや、という感じがして、不思議でした。文体のベースも、これまでのものとは違うと思えて、作者名を隠して読まされたらわからないかもしれない。でも、それはもちろん悪いことであるはずはないです。 この小説の視点は、だいたい“アザミ”という高校生の背後をふわふわ浮かんでいるんですけど、このアザミという人物が
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『d.hatena.ne.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く