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衆院選
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ワイマール共和国と大日本帝国は、独裁が成立するにいたった原因がほぼ逆であったため、それを反省して作られた戦後の西ドイツと日本の制度もほぼ逆になった。 少数意見・極端意見を尊重し過ぎてナチスの台頭を招いた事を反省した西ドイツでは、「戦う民主主義」というものが作られ、現代の統一ドイツに受け継がれている。これは極右であれ極左であれ、全体主義者を刑事罰まで用いて弾圧出来る体制である。 一方、治安維持法で政党の選択肢を狭めすぎて独裁を招いた事を反省した(というかGHQに反省させられた)日本では、極めて価値相対主義的な憲法が作られ、戦前の体制を賛美する事も東側の体制を賛美する事も許されるようになった。 ただし日本にも戦う民主主義に憧れる人は多い。「そんな体制が成立したら、真っ先に貴方が粛清されるのでは?」と傍が思う様な人の中にも、思想というものに対して強権的なドイツを賛美している場合がある。 しかし日
孫引きになるが、「幸福の掲示板」の2013/08/01(木)20:16におけるUMAさんの記事「週刊新潮8月8日号より一部抜粋」(http://antikkuma.1616bbs.com/bbs/antikkuma_tree_r_771.html)によると、池上彰氏の守護霊にインタビューをしたと称する幸福の科学に対し、池上氏は「肖像のパブリシティ権侵害に当たると思います。内容に関しても、気になった点はいくつかあります。例えば、本の中で守護霊さんは〝NHKを55歳で辞めた〟と言っているのですが、私が退社したのは54歳。私の守護霊なら間違えないと思うんですけどね。書店に並んだこの本が、あたかも私が書いたように見えるのにも困っています」と述べたらしい。 これに対し、幸福の科学グループの「リバティ」という雑誌は、「週刊新潮の悪魔が、幸福の科学に「霊言は営業妨害だ!」と叫んだ理由」という記事(htt
幸福の科学が召喚したとする池上彰氏の守護霊が、本人のNHK退社時の年齢「54」を「55」だと間違えていた件につき、「リバティ」が「ちなみに、池上氏の守護霊は鎌倉時代を生きた人物であり、年齢を「数え」で表現したのであれば、まったくずれはない。」と反論したので、親切な私は貴重な時間を割いて数え歳だと逆に「56」になってしまう事を教えてやった(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20130804/1375582471)。 そして私のこの指摘を、UMAさんがTwitterを通じて「ザ・リバティ編集長 綾織次郎」氏に伝えてくれた(https://twitter.com/thelibertyweb/status/363664246652940289)。 すると、彼等の知能でも私の指摘が一応理解出来たらしく、記事の問題部分を修正したようである。現在、前掲引用箇所は「ちなみ
本日は物凄く体調が悪かったのですが、鰻問題に関する情報を少しでも知りたく思い、また得た情報をネットで少しでも公開するべきだと思い、ふらふらになりながら公開シンポジウム「ウナギの持続的利用は可能か うな丼の未来」(http://easec.info/EASEC_WEB/index.html)に行ってきました。体調上の理由から色々と不完全な報告になりましたが、興味のある方は読んで下さい。 GCOEアジア保全生態学からの挨拶 鷲谷いづみ 鷲谷氏の著作は何冊も読んでいた私は、鰻は少々専門外だろうから表面的な挨拶に止まるだろうと思い込んでいました。しかし鷲谷氏は部下の海部健三氏の研究を良く勉強していたため、いきなり情報量の多い挨拶になりました。 養殖鰻は食べるには良いが自然界に放すと直ぐ死んでしまう事や、養殖鰻は遺伝子の多様性が低いので病気とかが心配な事等が語られました。 なおここで言う「養殖鰻」と
「日本が戦争になったら貴方はどうしますか?」みたいな質問を街でしてその回答を集計し、結果を紹介して嘆かわしいだの何だのと騒ぐ連中は、右にも左にも中道にもいる。 私はその結果発表を見る度、稀に例外もあるが、大概は質問文も見解も下らな過ぎて、「馬鹿だろ、こいつら。」と思ってきた。以下、今までそう思うに至った理由の中から、主要なものを紹介する。 第一に、こういったアンケートの多くは、戦況の概略がそもそも述べられていない。 素人が勝手に戦闘に参加すると、却って邪魔である場合も多い。まずは政府・自衛隊が国民に対して何を望んでいるのかを知らなければ、一般人としては何が倫理的行動で何が愛国的行動なのか、ほとんど把握できないのが戦争である。 私がこういう単純な質問をされたならば、自分が公務員なら「命令を待つ。」と答えるし、そうでなければ「情報を集める。」と答える。それこそが正義であると考えるからである。そ
ブラザーズ・グリム [DVD] 出版社/メーカー: ハピネット発売日: 2007/02/09メディア: DVD購入: 2人 クリック: 32回この商品を含むブログ (80件) を見る 今まで私が見てきた映画では、ドイツ人は征服者・侵略者として登場する場合が多かったのだが、この作品ではナポレオン配下のフランス軍が支配していた地域のドイツが描かれている。被征服者としてのドイツ人という設定それ自体からして映画としては新鮮であり、本来ならば加点要素にしたい所である。 フランス軍の将軍は近代精神の権化としてドイツの暗い森の迷信を打ち破ろうとするが、ついに森の中で戦死する。これは、「童話に代表される前近代の底力が、近代へのレジスタンスに成功した」という印象を持たせたかったと思われるシーンである。 しかし独仏の対立軸は、グリム童話を描くには実はあまり好ましくないのである。 現在の中世文学史の研究では、グ
昨日は立木秀学氏の講演(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20120519/1337435106)を聞いた後、東京大学仏教青年会(http://todaibussei.or.jp/)主催の「呉智英のつぎはぎ仏教マンガ入門」を聴きに行きました。 呉氏は私に最大の影響を与えた人物の一人です(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20081110/1226254139)。しかし実物を見るのはこれが初めてです。 講演の前半の内容は以下の通りです。 小乗と阿含経のみが真の仏教というのが呉氏の立場。 法華経とかは全部怪しげ。でも町の「(悪い意味の)善男善女」は何となく信じている。 ただし阿含宗は阿含経とは無関係。何しろ教祖はかつては観音信仰をやっていた。阿含経は世界的に注目されているのに日本仏教からは長年排斥されてきたので、その空席を利用してう
嘘だらけのヨーロッパ製世界史 作者: 岸田秀出版社/メーカー: 新書館発売日: 2007/02メディア: 単行本 クリック: 232回この商品を含むブログ (30件) を見る評価 知識1 論理1 品性1 文章力2 独創性1 個人的共感1 『黒いアテナ』という書籍とそれをめぐる論争の紹介を中心にして、そこに著者の奇妙な妄想を付け加えていくという書籍である。 妄想の一例を挙げる。93ページには「そもそもアメリカがイラク戦争を始めたのは、支那事変の日本をコピーしようとしたからではないかと、わたしは思っている。すなわち、日米戦争に関して日本に劣等感をもつアメリカは、日本が失敗した支那事変と同じようなことを実行して成功しようとしたのではないか。」とある。何とも壮大な妄想だが、これに類似する話が延々と続くのである。 著者は白人が嫌いらしく、初めから終わりまで白人への誹謗を綴っているのだが、同じ話の使い
かつて「神聖ローマ帝国」という国があった。現実には、神聖でもなく、ローマでもなく、帝国でもない、という時期が長かったのだが、ともかくそう名乗っていた。 この国を「ふむ、そう名乗るからには、きっと神聖でローマで帝国なんだろう。」と思い込んでしまった者の多くには、愚か者に相応しい末路が待っていたと思われる。 しかしまた、いつ神聖ローマ帝国やその影響下の諸侯と衝突するか知れたものではない位置にあった都市や国の長が、「俺は大変賢いから神聖ローマ帝国の実態が「世俗的ドイツ王国」である事を見抜いた。ああいう偉そうな虚偽の国名を称するのは許せんので、爾後皇帝を相手としない!」と宣言し、その宣言内容を励行して自分から外交の選択肢を狭めたとすれば、やはりこれまた現実的な対応とはいえない。 続いて紹介したいのは、『神聖モテモテ王国』という漫画である。神聖モテモテ王国の国王を称する奇妙な宇宙人の男性が主人公なの
教養としてのゲーム史 (ちくま新書) 作者: 多根清史出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2011/08/08メディア: 新書購入: 17人 クリック: 399回この商品を含むブログ (40件) を見る 本書は、1972年の『ポン』から急速に進化していったビデオゲームの歴史を綴っている。ただし、「落ちゲー」と「対戦格闘ゲーム」については進化史の中でガラパゴス的であると著者に判断されたようで、扱わない事が「はじめに」で明言されている。それでも考察の対象となった部門はかなり幅広く、私は数多くの未知の情報・知見を本書を通じて学ぶ事が出来た。 しかしながら既知の部門においては、逆に数多くの不適切な記述を発見してしまった。やはり誤情報の流布は可能な限り食い止めたいので、万人の目の触れる場所でそれらを指摘しておきたいと思い、微力を尽くす事にした。 全体的な欠点としては、情報の出所が過度に不明確な事が
私は実は、ブログで駄本を批判した後は気が重い場合が多い。その本の著者に狂信的な愛読者が多数いる場合は特に気が重い。狂信者によるハッキング攻撃や荒らしを心配して気が重くなるのではない。私の文を読んで洗脳が解けた人の一部に対して罪悪感が生じるのである。 「今までA氏を絶対的に信じていたけど、その誤りに気付いたから、今後は是是非非の態度で臨むよ。」というタイプの進歩を遂げた人に対しては罪悪感は生じない。正直に言えば寧ろ恩に着せたい程である。しかし「私を取り巻く絶え間無い不幸が、Bさんの勃興によって僅かなりとも改善されると期待して、なけなしの金を払ってBさんの著書を買い支えてきた。そして今日、その夢は打ち破られ、自分が永遠に救われない事に気付かされてしまった。」という人に、罪悪感を覚えるのである。 インテリの中には「大丈夫。より優れた別のライターへの信仰が直ぐに始まり、穴を埋めるであろう。」と思い
一年前、T_S氏の秦王子嬰の正体に関する一連の考察(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100502/1272727354・http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100503/1272817126・http://d.hatena.ne.jp/T_S/20100506/1273072210)と、nagaichi氏による子嬰の正体に関する諸説の整理(http://d.hatena.ne.jp/nagaichi/20100504/p1)とを、拝読した。 本日はこの問題について最近自分が思いついた事を書く。 T_S氏は、ブックマーク(http://b.hatena.ne.jp/T_S/20100504#bookmark-21287945)で、「始皇帝の弟」と「始皇帝の孫」というかけはなれた説が一つの書に共存している事に疑問を呈し、「「秦王子嬰」として知られる人
昨日は、脳科学と科学技術コミュニケーション(http://science-interpreter.c.u-tokyo.ac.jp/generalpublic/2011/02/5.html)に行きました。一晩経ったせいでかなり忘れているのですが、更に忘れるという事態を避けるため、覚えている事をここに書いておきます。 まずは坂上雅道氏の「脳科学の現在と未来」。脳科学の発達史を手堅く紹介するというのが、主な内容でした。最初の講演者がこういった基礎的な話をして、会場全体に共有される基礎知識の水準を高めておくというのは、非常に良いやり方だと思いました。 では初めから基礎的な知識を持っていた人は退屈していたかというと、さにあらず。坂上氏は要所要所で笑いをしっかりとっていました。 次は坂井克之氏の「脳から心が読めるか?」。脳が何を考えているかについての実験の紹介と、その限界について語ってくれました。 な
東京大学東洋文化研究所に、「“中国”とは何処か?」という講演会(http://www.asnet.dir.u-tokyo.ac.jp/zh-hans/node/7044)を聞きにいきました。 東洋文化研究所という場所と、この講演会の題名から、私は参加するまでは、てっきり講演者は『『春秋』と『左伝』―戦国の史書が語る「史実」、「正統」、国家領域観』(中央公論新社・2003)等の著作でお馴染みの平勢隆郎氏の見解に対して賛成または反対の論を展開しに来るのだろうと、勝手に思い込んでいました。 しかし実際には、現代において中国史を研究する際に、多義的な「中国」という概念をどう扱うべきなのか、という話でした。 一般の中国人の、国際的に見て特異と言わざるを得ない領土概念については、日本では批判の的です。しかし士大夫と民の知力の差の大きさは中国の伝統の一つです。葛教授は、旧来型の中国のナショナルヒストリー
1/400 ビグザム 出版社/メーカー: BANDAI SPIRITS(バンダイ スピリッツ)発売日: 2005/08/28メディア: おもちゃ&ホビー クリック: 128回この商品を含むブログ (10件) を見る ビグ・ザムの戦力については、様々な見解が存在している。 本来の用途である大気圏内の要塞の攻略戦に使用されていれば、冷却し易かっただろうからもっと強かった筈だ、という声は多い。これについては特に目立った異論はない。 しかし実際の運用法であった宇宙要塞の防衛戦における戦力については、作中世界においてすら、リック・ドム十機に劣るというテレビ版のドズルの見解と、二〜三個師団の戦力になるという映画版のギレンの見解とが、対立している。そしてこの二つの見解を典拠に、現実世界でも論争は行われている。 二人の見解は、どちらもソロモン防衛戦の前になされたものである。そして実際の戦いでは、ビグ・ザム
網野善彦著『「日本」とは何か』(講談社・2000)の92ページに、紀淑光という参議が「日本」という国号の由来を『日本書紀』の講師に質問したという話が登場する。講師は最初は『隋書』東夷伝の「日出づる処の天子」を引用するが、この国から見れば太陽は国の中から出ないという再度の質問に対し、唐から見て東だからと答えたそうである。 著者はこの講師の最終見解をほぼ全面的に採用してしまったらしく、「このように、この国号は「日本」という文字に則してみれば、けっして特定の地名でも、王朝の創始者の姓でもなく、東の方向をさす意味であり、しかも中国大陸に視点を置いた国名であることは間違いない。」と書いている。 果たして本当に「間違いない」と言い切れるだろうか? 遣隋使が持参した国書において、「日出づる処の天子」は「日没する処の天子」との対比で登場している。「日没する処の天子」とは隋の煬帝である。よって「日出づる処の
事業仕分けで、多くの研究が潰されかかっている。 この波に憤慨している研究者達を見ると、抵抗の仕方が下手な人が多いという感想を持ってしまう。別にそうした傾向を批判する積もりも無いが、勿体ない事だとは思ってしまう。 まずは自分の研究が如何に世の中の役に立つかを、民衆の代表である政治家に丁寧に説明すべきである。相手が聞く耳を持たなくても、その姿勢は全国に報道されるだろうし、次は民衆に対して直接情報を発信するという手もある。 学問の予算に関して民主的統制を強める事が正しいことか否かはまた別に議論されるべきであろうが、今か近未来において現実に予算が欲しいのであれば、ともかく実際に権力を持っている勢力をどう動かすかという事を冷静に考えなければならない。 仮にこの事業仕分けを端緒に日本が急速に衰亡したとして、政治的責任問題として追求されるべきか否かはさておき、少なくとも因果関係としては、研究者達の自分の
しつこいと言われるかもしれないが、韓の正統に関して昨日考えた事を更に書き加えようと思う。 昨日は『史記』における「韓王信」という表記の不自然さやその後の中国史における「韓」号の忌避について語ったが(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090827/1251329434)、それ以前から韓は特別な国であった。 まず前々回(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090826/1251220178)の主題である項籍の旧勢力対策を振り返ってみる。 項籍は、腹心の范増が酷く怖れていた劉邦への牽制を自分の叔父の仇達に一任し、また主君である義帝の暗殺すら呉芮・共敖に任せている。これが単に無用心だった故なのか悪名を他人に押し付けようとする周到な計算の故だったのかは不明だが、ともかく旧勢力に対しては傍目には最重要級に見える人物が相手の場合でも非常
先日の日記(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090826/1251220178)で、転封を渋って新燕王に殺された旧燕王に触れた。この旧燕王は韓広という。彼が大人しく遼東に赴任して、西で失った領土を東方への拡大で埋め合わせようという前向きな思考をしていれば、箕氏朝鮮を継いだのは衛氏朝鮮ではなく韓氏朝鮮だったかもしれない。その場合、史実より早く朝鮮半島に「韓国」が誕生していた事になる。 それにしても、朝鮮半島南部の馬韓・辰韓・弁韓という国々の名称には、少々違和感がある。中国人が漢字を持たない異民族の国名を音写する際に、理由も無く中原の伝統的な国名を使用するとは思えない。「西の超大国」というイメージからローマ帝国を秦に擬えて「大秦国」と呼んだのと同じく、朝鮮半島南部の「韓」も音よりも概念に由来しているのではなかろうか? また紀元前2世紀以後の中国史において、「韓
中華の歴史において、南方を根拠に天下を統一した人物と言えば、熊心(義帝)・朱元璋(洪武帝)・孫文・蒋介石の四人ぐらいしか思い浮かばない。しかも後三者の時代の華南が既に地理的にも生産力の観点からも既に中華世界の辺境ではなくなっていた点を考慮すれば、義帝による統一が如何に空前絶後の偉業であったかが解るであろう。 ただしまた彼は、朱元璋の様な功臣粛清の才覚が無いために項籍の台頭を招き、孫文の様な北方の実力者に地位を譲る現実感覚も無いために項籍に命を狙われ、蒋介石の様な何所までも逃げて抵抗する粘り強さも無かったために、終に四人の中で最も悲惨な最期を遂げたのである。 今回の本題は、義帝時代に項籍の主導で行われた諸王の封建の傾向である。 項籍の封建は身内贔屓の杜撰なものであったとしばしば言われ、また実際に田栄・陳余の実力を見誤っていたのは事実としか言い様が無いが、それでもある種の計算は見て取れる。 ま
昨日から引き続き、ザミャーチンの『われら』関連の話。 『われら』では、「2×2=4」という式が人間から偶然を排除する事で自由を剥奪する管理主義の象徴として使用されていた。 既視感があったので、先程「2×2=4」やそれに似た式が登場する手持ちの文献を揃えてみた。 まずドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公は、人間や倫理を自然科学に還元してしまう事を「2×2=4」に象徴させて反発していた。大体『われら』と同じ意味で使っているとみて良いだろう。 これがオーウェルの『1984年』では一転して、「2+2=4」と言える自由こそ全ての自由の基礎として賞賛されている。 同書の第3部第2章では、古の専制主義者の命令は“Thou shalt not(するな)”であり、全体主義者の命令は“Thou shalt(せよ)”であり、「我々」の命令は“Thou art(である)”であるという歴史観が、オブライエンに
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