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久しぶりの書き込みなのにまた書籍『ゲーム音楽史』関連の番外編です。恐縮ですが、これはちょっと看過できないと思ったので、ひらにご容赦を。 ――先日Do.氏から「『ゲーム音楽史』が商標登録されているらしいよ」と教えてもらいました。 最初は「え、そんなことありえないだろう」と思ったのです。普通に考えれば、こんなのは普通名詞ですから。「ゲーム音楽史に残る○○」なんていう口上は、昔から誰でも言うし、どこででも耳にする言葉じゃないですか? そういう普通名詞は通常「出願しても登録にならない商標」と見做されます。そうでなくても書籍の題号は商標登録できないというのが一般的な解釈です。 そんなわけで、悪い冗談だろうと思いつつ商標を検索してみたわけですが……なんと、本当に「ゲーム音楽史」は商標登録されていました。 (111)登録番号 第5740259号 (151)登録日 平成27年(2015)2月13日 (21
[2004.09.29追記] 前々回はエキシディの歴史とあわせて、世界初の3Dヴィデオゲーム「ナイト・レーサー」の誕生から、1970年代3Dの集大成ともいえる「スター・ファイア」が登場するまでの、3Dゲーム揺籃期について言及しましたが、今回はその後から、セガの体感ゲーム誕生前夜までを追ってみましょう。 アーケードにおける3D表現を大きく前進させたのは、ヴェクタースキャン (ランダムスキャン) ディスプレイという新技術でした。いや、新技術と書くと語弊がありますね。よく知られているように、ヴェクタースキャン・ディスプレイは原理的にはオシロスコープと同じもので、一般的なテレビモニタ (ラスタースキャン) よりもっと原始的な技術です。じっさいアーケードのヴェクタースキャン時代到来と前後して、コンピュータ・グラフィックスの世界では逆に、ヴェクタースキャンからラスタースキャンへの移行が進んでいました。
【臨時更新】 総評としては、名前負けと事実誤認の多さが気になる一冊。 ナムコ黄金時代やファミコン全盛期からゲーム音楽に親しみ続けてきた、昔ながらのゲーム音楽リスナーは、私も含めて数多くいます。そしてこの世代のリスナーの多くには、ゲーム音楽の聴き方について、ある根深いバイアスがかかっています。それは「ゲーム音楽は実在する楽器の音に近づける努力が大事で、いかにリアルな音を出しているかが楽曲の価値に大きく関わっている」とする、音色中心主義(ないしリアリズム信仰)ともいえる態度です。少なくとも90年代半ばまで、それはほとんど自明の前提のように作用していました。こういった認識がバイアスであると自覚しているリスナーは当時とても少なく、今日に至ってもまだ多くはないでしょう。 リスナーの多くは、誰から強制されたわけでもないのに、この考え方を自然なものとして受け入れていました。社会学でいうところの信憑構造が
日本でMSX戦線に参加しなかったシャープが、なぜかブラジルでだけHOTBITなるMSXを流通させていたことを、MSX通のかたならご存知かもしれません。シャープがどういう経緯でこのMSXを出すことになったのか、詳しいところはよく分かっていません。というかそれ以前に、どこで写真を見てもシャープのロゴが入っていないので、そもそも本当にシャープ製なのかどうかさえ怪しまれています。シャープ博物館・Oh!石氏の見解に拠れば、 ブラジルのEpcomという会社の製品ということで、このまま信用するとシャープがブラジルの会社にOEM供給していたということになるのですが…。名前も「HotBit」などとパクリくさく、いくらOEMと言えども日本のメーカーがそこまでのことをするかどうか…。恐らく、HotBit1.2なる製品の写真にあるビデオモニターがシャープ製なので、関係があると勝手に考えたんではないかと思いますがね
背景グラフィクスの処理とキャラクタグラフィクスの処理をハードウェアレベルで切り離し、あとから合成する―――という、いわゆるハードウェア・スプライト技術の確立は、ヴィデオゲーム史上もっとも重大なブレイクスルーのひとつに数えられます。1980年代のゲームが1970年代に比べて飛躍的に表現力を向上させることになったのは、この技術によって何十個ものキャラクタたちを縦横無尽に行き交わせることができるようになったためでした。1990年代にフレームバッファ方式が主導権を握るまで、ヴィデオゲームの進化は、スプライトの描画性能をどこまで伸ばせるかに懸かっていた―――といっても過言ではありません。 日本でスプライト機能が注目されるようになったのは、おもにファミコンの登場以降でした。それゆえファミコン以降のスプライト事情はよく知られているわけですが、逆にそれ以前の時代については、今日に至るまでまったく整理されて
スティーヴン・レビー氏は、労作「ハッカーズ」を仕上げる2年前に、その導入編ともいうべき「バイナリ世界の美しき執念」というコラムを発表していました。そこにはスタンフォード大学の学生が作ったという、「Seppuku」というジョークプログラムが出てきます。ジョークプログラムはミニコンピュータの黎明期からいろいろあったといいますが、初期の具体例が示されているのはちょっと珍しいかもしれません。 「Seppuku」はPDP-10のプログラムで、起動するとこんなメッセージを表示します。 Seppuku is not a program for honorable users. Do not run Seppuku unless you can live with your shame. Type y if you must run it. (訳: Seppukuは高潔なユーザーのためプログラムではありま
前回ご紹介した「クッキーベア」ですが、一時期の史料では、これを指して世界最初のコンピュータワーム/ウィルスとしていることがあったそうです。(一部のハッカー以外には) 長きにわたって「感染」元が謎に包まれていたようですから、そう信じてしまったのも無理はありません。ほんの数分端末を離れただけで知らないプログラムが組み込まれるなどということは、当時の常識ではあり得ないことでした。 本物のコンピュータワームが世界で初めて発生したのは、奇しくも「クッキーベア」登場の翌年のことでした。「クリーパー」と呼ばれるそのワームは、PDP-10で動作するTenexというOSで製作されています。開発者はボルト・ベラネック&ニューマン (BBN) 社に務めていたボブ・トーマス氏。BBNはArpanet (のちのインターネット) の通信装置を一手に担っていた会社で、トーマス氏もそのエンジニアとしてさまざまな研究に従事
アップルIIといえば、IBM-PCに先駆けて実質的なスタンダード・アーキテクチャとなり、南米、東南アジア、東欧からソ連にいたる世界各地で多種多様な互換機が製造されていたことでも知られています。しかしそれら互換機の情報を集大成しようという試みは、これまでありそうでありませんでした。今年3月にオープンしたapple2clones.comは、その全体像を曝け出してくれる貴重なアップルII互換機ポータルといえるでしょう。ライセンス品からデッドコピーまで、現在確認されている約130機種を網羅しています。詳細不明のため写真だけ掲載というマシンも少なくないのですが、それにしてもこれだけ揃うと圧巻です。なんとまあ、やはり互換機の多さで知られるZXスペクトラムよりも種類豊富なのですね。 アップルII互換機の歴史は、合法互換パソコンという商品カテゴリが生まれるまでの歩みそのものであるといえます。最初のアップル
アメリカには「ゲームセンター」という言葉はなく、日本のゲームセンターにあたるものは「アーケード」と呼ばれている―――そういうことを日本のヴィデオゲームファンが意識しはじめたのは、1980年代中頃のことだったと記憶しています。現在はもうかなり定着している認識ではありますが、それでもなお、ゲームに深入りしない人たちは、いまだに「アーケード」が何を意味するのか知らない場合が少なくありません。そりゃまあ知らなくても、普通の人には差し障りのあることではないですからね (このあたりの事情は、実はヨーロッパでも大同小異なのだそうです)。 ところで、この「アーケード」という言葉は、いったい何に由来するのでしょうか。日本のサイトをざっと巡ってみると、「アメリカではアーケード街の店先にゲームを置くことが多かったから、こう呼ぶようになった」という説が、わりと市民権を得ているように見受けられます (元タイトー開発
ありがたいことに一部でご期待いただいているようですが、申し訳ありません、「アタリショック」考の発表までには、あと半年から一年はかかりそうです。というか、これについて実は一年近く綴り続けていて、現在すでに原稿用紙100枚を越える内容になっているのですが、その間にも次々と新しい資料に出くわす始末で、なかなか完成に漕ぎ着けることができずにいます。今回はそのダイジェスト版で、少しお茶を濁させていただきましょう。 身も蓋もない話をしてしまうと、日本語で読むことのできる「アタリショック」情報は、すべて不正確です。「アタリショック」について記した書籍論文は数あれど、まともな分析調査を経ているものは一冊も存在していません。悲しいかな、インターネットではそれらの粗悪な記述を寄せ集めたものが、常識としてまかり通っている始末です。 「アタリショック」について調べるということは、これまで積み重ねられてきた誤認と誤
たびたび述べているように、ZXスペクトラムというパソコンはクリーンなエミュレーションの実現にかけて最先端に位置する存在です。エミュレータの配布が正式に認可されているだけでなく、過去に市販されていたソフトの大半や関連資料まで公認・無償で入手できるといういたれりつくせりの環境には、旧世代機エミュレーションの理想像が示されているといっても過言ではないでしょう。こうした状況はひとえにユーザーたちの著作権問題意識の高さと積極的なボランティア活動のたまもので、その成果はWorld of Spectrumというサイトに集約され、誰でもアクセスできるものとなっています。 ところが英国のレトロPCジャーナリストであるコリン・ウッドコック氏は『Micro Mart』誌の連載コラムのなかで、次のように述べています。 毎年クリスマスが近づいてくると、eBayディスク問題に絡んだアンビバレンスの発作らしきものに襲わ
2017.04.02 一部事実と異なる情報があったため削除しました。 raww.orgは8月11日付で、ZXスペクトラム上位互換機・スプリンターの製造が終了したようだと伝えています。何日か前から公式サイトが消滅しているので、おそらく確かな情報でしょう。スプリンターは、MSXとTurboRの関係を上回る、大幅な機能強化を施された互換機で、その構成は以下のようなものでした。 ZX Spectrum 128K Sprinter 2000 CPU Z80A (3.5MHz) Z84C15 (21MHz) RAM 128KB 4MB (最大64MB) ROM 16KB 128KB VRAM - 512KB サウンド AY-3-8910 (PSG, 3ch.) AY-3-8910 または DAC (16-bit/4ch.) グラフィックス 256x192 (8色) 320x256 (256色) または
「ポストモダン化するコンピュータゲーム」の続きです。 そもそもゲームにモダニズムなんてあったのか? あったとすればどのような? そのあたりを明確にせずにいきなりポストモダン化なんていう言葉を持ち出したことに対して、抵抗感を感じた人もいらっしゃるようです。これまでゲームデザインの思想史を追うような研究がなかったわけですから、それは当然の反応です。そこで今回は改めて、ゲームにとってのモダニズムとは何かを掘り下げてみましょう。 モダニズムとは端的にいうと「古い伝統は新しい伝統によって塗り替えられるために存在している」とする進歩主義的な態度です。18世紀後半から20世紀前半にかけて、こうしたものの見方はほとんどあらゆる創作領域を呑み込んでいきました。むろんゲームも例外ではない、というのが私の考えです。ボードゲームにおける「モノポリー」、ウォーゲームにおける「タクティクス」、アミューズメント機におけ
恐らくインベーダーを動かせる基板なら、テトリスを実装することも可能だったのではないかと思います。 しかしインベーダーが登場してからテトリスが登場するのに、実に10年かかりました(あくまで日本国内での登場年です)。純粋にゲームデザイナーの思い付きだけで実現できたはずなのにです。 「ゲームデザインのこれから(8) 材料はあるがレシピが無い」ゲームのマボロシ なぜあの時代まで「テトリス」のような落ちものパズルを誰も考えつかなかったのかというのは、歴史屋にとってはちょっと興味深い問題です。「テトリス」が実際に移植されている最古のプラットフォームはアタリVCSで、70年代のハードウェアで動作することはすでに証明されているわけですが、では一体「テトリス」のどのあたりが、それまでのゲームデザイナの思考回路に入っていなかったのでしょうか? プラットフォームに左右されないシンプルなゲームというだけなら、当時
前回少し言及した任天堂の水木潔氏は、「ゲーム」よりも「玩具」の面白さを優先するというポストモダン的立場を鮮明に主張した、日本最初のゲームデザイナのひとりではないかと思います。氏は「ビートマニア」や「ニンテンドッグス」といった野心的な成功作で知られるわりには、ゲームデザインの姿勢について表立って語ることが少ないわけですが、じつは1997年頃のfjには、そのゲーム哲学の片鱗を窺わせる書きこみがいくつか埋もれています。 comparison (Re: 「 RPG 」 って何?) (1997.5) [分岐1]/[分岐2] 「ゲーム」と「玩具」の関わりを巡る西野元一氏との議論。ここで「コスティキャンのゲーム論」を初めて目にした水木氏は、次のように述べています。 なるほど、「game」と「toy」の違いなんて考えた事もありません でしたが、そういう意味だと認識すると、ちょっと世界が明るく 見えてきます
コンピュータゲームは非コンピュータゲームと何か本質的に違うものかもしれない――ということは、たぶんゲームプレイヤの多くが漠然と感じてきたことだと思います。「ゲーム, プレイヤ, ワールド」は古典的ゲームモデルというものを提唱し、そこからの逸脱可能性こそコンピュータゲームならではのものである、ということを示してみせました。もちろんここまで明示的に述べていなくとも、既存のゲームモデルを突き破らんと考えてきた人々は、これまでにも大勢いました。その流れは少なくとも故リチャード・ゴールドスタイン氏の「リトルコンピュータピープル」までは遡ることができるでしょうが、日本のゲームデザイナがこうした変容に積極的に取り組みはじめたのは比較的最近で、めだった動きが顕れるのは1990年代半ばになってからでした。 これまでのところ、日本における脱ゲームモデル志向のゲームデザインはとりわけ「数値化可能な結末」を遠ざけ
デンマークのルドロジストであるジェスパー・ジュール氏が執筆した、ゲームの定義の決定版ともいえる論文 "The Game, the Player, the World: Looking for a Heart of Gameness" (2003) を翻訳しました。ゲームとは何ぞやという問いかけに対して、今のところもっとも有効であろう答えが、ここに示されています。 ゲームの定義というと「クロフォードのゲームデザイン論」や「コスティキャンのゲーム論」の提唱したものが有名ですが、ジュール氏のそれは、昨今注目を集めている『ルールズ・オブ・プレイ』に示された定義を足掛かりに、さらに徹底した探求を試みたものです。氏はこの論文で、理論と実際の狭間を縫いあわせるべく、かつてないほど広範かつ緻密な定義の検証を行っており、その成果は「現存するあらゆるゲームに照応できる定義」という、先人たちのなしえなかった業績
当雑記をご覧のかたなら既にご存知だとは思いますが、『ゲームマシン』紙の編集に半生を費やしてきた赤木真澄氏によるアーケード・ヴィデオゲームの歴史書が、先日出版されました。これまでアーケードゲームの歴史がいかに漠然と語られてきたか、ということを思い知らせてくれる、予想に違わぬ内容の濃さであり、孫引きの積み重ねのような同人誌以下のゲーム史本が跋扈する日本にあって、作り手たちの動静を血肉の通った視点から描き抜いた書が誕生したことを、まずは祝したいところです。 この本のもっとも大きな特徴のひとつは、断絶だらけの70年代〜80年代序盤を一本の糸に縒りまとめ、アーケードの通史を紡ぎ出すことに成功していることでしょう。以前から度々指摘しているように、現在のヴィデオゲーム史研究は1970年代を軽視しすぎているわけですが、この本は「スペースインベーダー」までの時代に1/3強のページを割き、当時の主役であるアタ
―――というご質問を掲示板にていただきました。いわれてみると、ふたつの呼称が並立するようになった歴史的経緯は、まだ筋道立てて説明されたことがないようですね。これは結論からいうと、テレビ/ビデオゲーム機産業の創始者となったふたりの人物、つまりラルフ・ベア氏とノラン・ブッシュネル氏が、それぞれ別々に「テレビゲーム」と呼んだり「ビデオゲーム」と呼んだりしていたからなのです。 「テレビゲーム」という言葉は一般に和製英語と考えられていますが、これは明らかに誤りで、しかもこちらのほうが「ビデオゲーム」よりも歴史のある言葉だったりします。ラルフ・ベア氏がこの言葉をはじめて提唱したのはおよそ1967年頃のことでした。彼は世界最初の家庭用ゲーム機・オデッセイの試作を進めるにあたって、そのアイデアを「ホームTVゲーム」と呼んでいたのです。オデッセイの技術は1968年に『テレビジョンゲームおよび訓練装置』(原題
一般にキラータイトルと呼ばれるようなゲームソフトは、その対象機種においてどの程度の普及率を示すものなのでしょうか。そういうことが少し気になったので、国内限定でざっと集計してみました。 タイトル 機種 出荷本数 (万本) 普及率 備考 ギャラクシアンCV18 60.0% デッド オア アライブ3 Xbox 22 52.4%2003.12現在。発売1ヶ月で約12万本/推計80%程度を記録 マリオカート64N64224 40.4% 大乱闘スマッシュブラザーズ N64 197 35.6% スーパーマリオブラザーズ FC 681 35.2%発売3ヶ月で175万本/30.1%を記録 スーパーマリオ64 N64 191 34.5% 大乱闘スマッシュブラザーズDX GC 135 34.4% 2005.5現在 ポケットモンスター ルビー&サファイア GBA 516 33.2%発売3ヶ月で500万本/42.7
BBS時代のテキスト喪失を惜しむようなことばかり綴っておきながら、じつのところ私自身は当時のログをほとんど手元に残していなかったりします。とはいえ、かろうじて保存してあるわずかな記録にさえ、多少は興味深いものが見られるので、不特定多数に読まれることを意図して書かれている、公開しても差し支えなさそうなものだけ、以下にピックアップしてご紹介します。 ・「TAKALITHが無くなる?」 (1990) いまはなきテクノスジャパン社が、PC-9801用フリーソフト「TAKALITH」の配布に圧力をかけた事件の発端。アイデアに著作権が及ぶのかということで、当時それなりに議論になりましたが、こういう事件があったこと自体、今ではほとんど忘れられていますね。その後の顛末についてはこちらを参照。 ・BBSでの嫌われ方 (1990?) 当時のネットワーカなら一度は目にしたであろう、たいへん有名な文書。嫌われるネ
1980年代から1990年代にかけての8-bit/16-bit文化は、パソコン通信の草の根BBSと切っても切り離せない関係にあったわけですが、そこに蓄積されていた文書資産は、インターネット時代の到来とともにいずこともなく消え去ってしまいました。おそらく大半は今日に至るまで、ほとんど整理も再公開もされないまま放置されています。私たちはインターネットの普及と引き換えに、膨大な量の史料を喪失してしまったわけです。しかしそのことに危機感を覚えている人は、まだ多くはありません。あるいは歴史的価値を自覚している人たちでさえも、著作権への配慮からオンライン公開やアーカイヴ化には消極的な姿勢をとっている場合がほとんどです。私はこの喪失が原因で、「〜の起源はなんだ」という不毛な議論が起きるさまを随分見てきた気がします。最近だとこのへんとかこのへんなど。 海の向こうでも事情はそれほど違いません。欧米では日本に
「アタリショック」の嘘と誤解の反響が、予想以上に大きくて驚いています。ありがたいことなのですが、任天堂陰謀論みたいに捉えるのだけは勘弁してください。私は任天堂が情報をミスリードしたとは言っていません。少なくとも任天堂が調べ上げた情報がなければ、アタリと市場全体の崩壊を結びつけることはできなかった。そして結びつけても不思議ではない立場に、当時の任天堂はあった。それだけです。それ以上のことは、さらに資料を発掘しないと誰にも分かりません (私の推測を批判したいかたは、まずその発掘からお願いします。水掛け論になるだけなので)。 そもそも「アタリショック」の解釈が、人によって随分異なるようなので、これまで代表的な記事・書籍がこの言葉をどのように使ってきたのか、参考までに少しご紹介しておきましょう。 ●「任天堂アメリカ, ソフト管理と消費者情報の収集で40億ドルの市場築く」『日経エレクトロニクス』19
アミガに縁のある、忘れられたインタビュー記事をもう一本ご紹介しましょう。Internet Archiveに埋もれていた、LHA (LHarc) 圧縮の開発者として知られる吉崎栄泰氏のお話です。1998年頃公開されたもののようですが、2000年にはもう閲読できなくなっていたようなので、かれこれ5年ほど埋もれていたことになるでしょうか。残念ながら「パソコン通信をはじめて」の部分は (日本語では) アーカイブされていないのですが、それでも十分興味深い内容といえるでしょう。 海外ではアミガといえばLHA…というくらいのものなのですが、アミガを知らない人にはピンとこないかもしれません。というより、日本のPC-9801シーンで生まれたLHA圧縮が、どうやって、OSと言語とインターフェイスという三段階の壁を乗り超え、アミガの世界で歓迎されるに至ったのか、満足に説明されたことはこれまでなかったのではないか
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