サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
衆院選
jmiyaza.hatenablog.com
近藤誠さんがなくなったらしい。 近藤さんほど医者仲間から嫌われていた医師はあまりいないのではないかと思う。何だか変なことをいっている医者というのはいくらでもいるがが、近藤氏は過去にきわめてすぐれた業績のあるかたであり、おそらく日本の乳がん治療を孤軍奮闘で変えたひとである。 これは乳がんが局所の病気であるか全身の病気であるかという病気に対する認識の違いから生じる問題である。 以下は、日本乳がん学会の乳がんの手術法への説明の一部である。 「乳がんは,初期の段階では乳房内にとどまり,次第に乳房周囲のリンパ節に転移を起こし,さらにリンパの流れや血液の流れに乗って全身に広がっていくとの考えから,かつては乳房やリンパ節にとどまっているがんを取り切る目的で,広範囲の切除が行われていました。ハルステッドの手術(乳房切除+大胸筋,小胸筋,腋窩(えきか)から鎖骨下リンパ節の切除),といった方法がその代表です。
書店で偶然に見つけた本である。著者の名前も知らなかったが、ブロガーでもあるとあったので検索してみたら、氏の「シロクマの葛籠」というブログはいままで何回か目にしたことがあった。 本書を読んで第一に感じたのが、世代の違いということである。 著者は1975年生まれの精神科医であるから、現在45歳前後。一方、わたくしは昭和22年生まれで現在73歳である。30歳近い年齢差というはやはり大きい。わたくしが自分なりに実際に生きて経験してきた昭和後半、戦後の20年代から63年までの日本を、熊代氏はほとんど書物による知識としてしか知らないわけである。 熊代氏が本書で述べている見解は、氏の世代においては少数派なのであろうが(むしろ必要以上にマイナー意識を持ちすぎているのが問題であるように思ったが)、それでもわたくしの世代とはまったく肌合いの異なる人である、一言でいえばとても大人しいし、必要以上にあちこちの見解
ちくま学芸文庫版の「敗戦後論」は2015年の刊行である。1997年に講談社より刊行された原著の出版から20年近くたっている。 本書には2005年刊のちくま文庫版「敗戦後論」に付された内田樹氏による「卑しい街の騎士」という解説と、2015年刊行のちくま学芸文庫版のためにかかれた「1995年という時代と「敗戦後論」」という伊東祐史の解説の二つの解説が付されている。1997年といえば今から22年前だから、わたくしが50歳くらい、 この「敗戦後論」は原著の刊行当時の論壇ではほとんど袋叩きという感じで、その悪評を見ていて、それほどの言われ方をするというのはどんな本なのかなと思って手にとってみたと記憶している。「敗戦後論」「戦後後論」「語り口の問題」の三つの論文をおさめた本であるが、わたくしには「戦後後論」での太宰治やサリンジャー、「語り口の問題」でのアーレントを論じた部分が面白く(要するに、政治の議
新潮新書 2017年8月 このようなタイトルではあるが、実際には「アメリカにおけるリベラル」を論じたもので、ヨーロッパにおけるリベラルについては一切言及されない。そして日本のリベラルについても、ほとんど論じられない。 何よりもわたくしが奇異に感じたのは著者が(わたくしの読み落としでなければ)リベラルについて論じていながらマルクス主義についてまったく論考していないということであった。著者は1983年生まれで、1991年のソ連崩壊時にはまだ8歳くらいであったわけである。 わたくしがこの本に目を通してみようかと思ったのは、もちろん最近の衆議院選挙をめぐるゴタゴタを見てということがある。そこではさかんにリベラルという言葉が用いられている。そしてその「リベラル」と連携しようという側に社民党とか共産党とかがいて、それらの政党を考える場合にマルクス主義を抜きにしては何も語れないことは明らかであると思われ
現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) 作者: 北田暁大,栗原裕一郎,後藤和智出版社/メーカー: イースト・プレス発売日: 2017/06/10メディア: 新書この商品を含むブログ (14件) を見る 本屋さんでこの本をパラパラとみていて買ってみる気になったのは、かなりのページが内田樹さんがなんであんな風になってしまったのかということを議論しているようであったからである。 本当に最近の内田さんはよくわからなくて、あれほど面白い言説を吐いていたひとが、今では何だか単なる一人の(われわれの世代の言い方を使えば)進歩的文化人である。わたくしなりに思ったのが、無名時代に蓄積した勉学の蓄えがそろそろ枯渇してしまったのだろうかということと、いつからか現実政治にかかわるようになって、それがどうも大阪あたりの政治らしく、反=橋下徹陣営に参加してからというもの現実政治の言語で語らざるをえ
文藝春秋 1997年 本棚を整理していて奥からでてきた「山本七平ライブラリー」の解説を拾い読みしていてこの巻の福田氏の解説が目についた。 福田氏はいう。欧米から来る日本の社会や文学の研究者には山本七平の著作を読むことを勧める、山本を読まずして、日本を語ることは出来ないといって。 山本の本を読めば日本の社会あるいは共同体について実に多くのことを知ることができる。しかし、だからといってそのことが彼ら研究者のキャリアに有利に働くかといえば、決してそうではない、と。なぜなら、欧米の日本研究者が共通してもっている日本理解の基本は講座派から丸山眞男までの近代主義者によって形成されているから。つまり彼らの研究姿勢は、西欧から発した近代的学問の枠組みのなかに収まっているのであるが、山本の論はそういう近代的学問的枠組みから逸脱しているからなのだ、と。 もっといえば、山本が示したのは、日本を語ることは形式的ア
新潮新書 2016年11月 これは昨年の「新潮45」11月号に書かれた「医学の勝利が国家を滅ぼす」を中心に、そこでの論旨を展開したものである。この「新潮45」11月号の論に関しては、すでに昨年10月21日のブログで感想を書いている。 そこでの里見氏の提言の一つに、治療や健診受診について年齢制限を設けるというものがあるが、現実的にはそれは難しいのはないかというようなことを昨年のブログで書いた。里見氏は現在55歳くらいのはずで、まあ健康であるのだろうと思う。この本で書かれていることはそういう氏が書いたものであって、氏が75歳になり大きな病気に罹患したときにも、同じ見解であり続けるかどうかはよくわからないと思う。 というのは、相当長いおつきあいの患者さんのなかで、中年のころには「先生、無理な延命のような治療は一切しないでください」といっていたが、80歳を過ぎるころになると「先生、80歳の人間の気
築地書館 1982年8月20日初版 養老孟司の本を読んでいると時々三木成夫の名前がでてくる。たとえば、「脳が読む」「考える人2003年春号」など。なんとなく気になっていたところ、偶然、丸善本店で見つけた。. 大変な本であるが、ここからすぐに連想されるのが、夢野久作の「ドクラ・マグラ」であり、D・H・ロレンスの「無意識の幻想」であり、グレゴレイ・ベイトソンの「精神と自然」である。なんだかどこかオカルトであり、ニュー・サイエンスであり、反近代でもあったりするわけで、現在の科学の世界からは完全に無視される運命にありそうな本である。しかし強烈なインパクトをもつ本であることは間違いない。三木も養老もどちらも解剖学者であるが、どうして解剖学者というのは、そろいもそろって変なことを考えるようになるのか? 養老によれば、三木の大学での講義では終わったあと拍手が起きたのだそうである。本書は講演の記録であり、
[新潮社 2002年1月30日初版] わたしが、三島由紀夫についてはじめて、なにか変だなというか違和感のようなものを感じたのは、その死の日の夕刊を見て、三島が死の日の朝、「豊饒の海」の最後の部分の原稿を編集者に渡していたという記事を読んだときであった。わたしは、三島は何らかの事件にまきこまれて偶然に無意味に死ぬことを望んでいるのだと思っていたので、その事件の詳細がまだわからなかったその時点では、三島が世間をからかうために遊びで作った「楯の会」の会員が三島の冗談を愚かにも真にうけて、「先生立ちましょう」などというので、それに付き合って死んだのだのだろう、と思ったのである。そして、そういう行動により「豊饒の海」が未完で終わることによって、世には文学よりももっと大きなものがあるという主張、三島の晩年の文学嫌悪の主張をを貫徹することになったのだと思った。それが、「豊饒の海」を完結させて死ぬなんて、
加藤氏の近著「戦後入門」を読み、少し感想を書いてみて、なんとも消化しづらい異物感のようなものが残り、はて感想を続けたものだろうかと思い、氏が「戦後入門」の先行作としている「アメリカの影」と「敗戦後論」を本棚からだしてきた。20冊くらい、加藤氏の本が棚にはあった。記憶があいまいな部分もあるが、おそらくわたくしがはじめて読んだ加藤氏の本が「敗戦後論」で、それはこの加藤氏の本がいろいろなところで叩かれているのを見て、それで興味を持ったからであったのだと思う。それがとても面白かったので、前駆する「アメリカの影」も読んでみたという経緯だったはずで、この本の刊行は1985年であるが、もっている本は1991年の新装初版版である。 「アメリカの影」は加藤氏の最初の本である。「「アメリカ」の影―高度成長下の文学」という本全体の半分を占める論、「崩壊と受苦―あるいはフロンティアの消滅」という短めの論、「戦後再
文春新書 2015年5月 トッドの本で最初に読んだのは「帝国以後」だった。毎日新聞の年末の今年の3冊といった特集で養老孟司さんが紹介していたので知った。「マックス・ウェーバーの犯罪」もそうで、この毎日の読書欄と養老さんには、いろいろな本を教えてもらった。 「帝国以後」は「アメリカは張子の虎だぜ」という本であったとすれば、本書は「ドイツは怖いぜ」という本である。トッドさんはフランス人で、「帝国以後」を読んたときは、ヨーロッパ人のアメリカ嫌い、あるいはアメリカ的なものへの軽蔑というような印象をまず持ったが、本書ではフランス人のドイツ嫌いというのがまず浮かぶ感想である。何かほとんど生理的嫌悪感とでもいったものさえ感じる。本書でいえば、「ドイツが持つ組織力と経済的規律の途轍もない質の高さ」と「途轍もない政治的非合理性のポテンシャル」である。 フランスは「平等や自由の理念、世界を魅了する生活スタイル
福田恆存: 人間・この劇的なるもの 作者: 河出書房新社出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2015/05/22メディア: 単行本(ソフトカバー)この商品を含むブログ (8件) を見る こういう本ももっていると便利かなと思って。 まだちらっとしか見ていないけれど、どちらかといえば演劇人としての福田恆存に比重がかかっているのかもしれない。 少し見た中では片山杜秀氏の「粘り強く孤独に、つとめて理性的に 福田恆存の演劇はいかなる声を欲したのか」というのが面白い。こういう文体を発明したのかと思って読んでいったら、最後に聞き手・小畑嘉丈とあって、書いたのではなく話していたのだった。 「だいたい、私なんか今、ろくに考えないで、勢いで喋ってますけど、つまりそのシュチュエーションの中で言葉というのは躍るんですよ。踊る言葉が人間を作るんです。」といったことを書いているのだと思って最後まで読んでしまった
新潮社 2014年9月 著者の長谷川氏は小澤書店という出版社を経営していたかたである。この出版社は吉田氏の著作も多く刊行しており、わたくしも「定本 落日抄」「ラフォルグ抄」「葡萄酒の色」「時をたたせるために」「詩と近代」「春その他」の6冊をもっている(「ポエティカ」という二冊本の豪華な選集もでていたが、あまりに高くて手が出なかった)。わたくしのイメージでは趣味的な豪華本を出す出版社という感じで、その店主であるから長谷川氏は自分よりも随分と年上のひとと思っていたのだが、実際は1947年生まれということなので、同年配のかたである。大学在学当時にすでに出版社を興したということだから、志のあるひとは違うと感じる。だが、その出版社も2000年に倒産したらしい。 本書は吉田健一の評伝であるが、出版に携わったひとがが書いたものという点がユニークで、同じく吉田氏の本を多く刊行しながら倒産した垂水書房とその
中央公論社 1996年 「21世紀の資本」などという本を買ってきたためか、何となく20世紀を論じた本が気になって、橋本治さんの「二十世紀」とか何冊か本棚から取り出してぱらぱらと見てみた。この本は1996年の刊行で、買った当時一部は読んだ記憶があるが、全部はみていなかったと思う。対談本であり読みやすく、結局、2時間ほどで通読してしまった。備忘のため少しメモしてみる。 ある本を読んで、その感想をネタにして語り合うという形式の本である。 [ ]内はわたくしの感想メモ。 「カメラとアメリカ」(ゴールドバーグ『美しき「ライフ」の伝説』) アメリカには「だれもが皆、何者かである」という暗黙の御託宣があって、アメリカ人はみんな、自分はひとかどのものであるはずだと思っている」とハッカーというひとがいっている。(山崎) [日本の若者も段々そうなってきているのではないだろうか? 「世界でただ一つの花」] 2
21世紀の資本 作者: トマ・ピケティ,山形浩生,守岡桜,森本正史出版社/メーカー: みすず書房発売日: 2014/12/06メディア: 単行本この商品を含むブログ (127件) を見る 今日、東京駅の丸善にいったら本書が山積みにされていた。いろいろなところで評判になっている本らしい。 いづれ買うことなるのだろうなと思い買ってしまった。 まだ「はじめに」を読んだだけだが、とてもわかりやすく書かれた本のようである。理解されるように書きたいという姿勢がはっきりでていて気持ちがいい。 経済学に属する本のようであるが、クルーグマンのいうギリシャ文字式のあちらの世界に飛んでる数式が一切ないばかりか、数式といっても簡単なかけ算と割り算程度しかでてこないようであるのがうれしい。 極めて謙虚な姿勢で、自分の主張はあくまでも仮説であり、決してここで書かれた予想がその通りになるといっているわけではないことが強
わたくしは従軍慰安婦の問題については、それについて何かいえるほど勉強しているわけではないので、最近の朝日新聞の訂正の記事自体については特に何かいえるほどの見解はもっていない。ただ、朝日新聞というかマスコミ一般についていえることなのかもしれないが、他人を責めるときは強いが、責められると弱いのだなというような一般的な感想を持つのみである。 したがって以下に書くことは、朝日新聞の今回の慰安婦問題の記事訂正をきっかけにして、「朝日新聞的な何か」といういうものについて少し考えてみる試みである。 「朝日新聞的な何か」ということについては以下のようなものがあるかもしれない。 1)良心的でありたい 2)虐げられている側、弱者に味方するものでありたい 3)権力に抗する側にいたい 4)正しい側にいたい 5)人を指導したい 6)偉そうにしたい 7)他人を批判したい 敗戦を機にある意味では朝日新聞は180度変わっ
講談社学術文庫 2014年5月 この本は1999年に刊行され、2011年に「岩波人文書セレクション」として復刊されたものが、今回、講談社学術文庫に収められものらしい。ナグ・ハマディ文書・マンダ教・マニ教などの経典から抜粋した文章を収め、それに大貫氏が注釈をつけたものである。以前に筒井賢治氏の「グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉」を読んで面白かったので読んでみることにした。この筒井氏の本は2004年に刊行されている。今、その文献案内をみるとこの本も紹介されている。しかし、筒井氏が外国語からの翻訳でない日本語で書かれたグノーシスの入門書は自分のものがはじめてと思うと書いていたので、あえてこの大貫氏の本を読もうとは思わなかった。大貫氏は筒井氏の師匠筋にあたるひとのようである。(と、ここまで書いてきて、ブログの過去記事を見返してみたら筒井氏の本の感想は2004年の記事にあった。 id:jmi
ちくま新書2014年3月 前に「宇宙が始まる前には何があったのか?」の感想で、どうもこの本には理解できないところがあるといったことを書いたところ、この「哲学入門」を読んでみたらというご指摘をいただいた。 それで読んでみたのだが、正直、読むのが非常に苦痛だった。よほど途中で放り投げてしまおうかと思ったのだが、自分がなぜこの本に違和感を感じるのかということを考えてみるのは、自分にとっては意味があることのように思え、全部を読まずにそうするのはいけないと考え、無理して読んでいった。後半、デネットがでてくるあたりで、ようやくとりつく島がでてきたように思えてきたが、それはわたくしがデネットを少し読んでいたためで、それまでは著者が一体どういう方向にいこうとしているのかがさっぱり見えなかった。 印象としては、2〜3年前に読んだ青山拓央氏の「分析哲学講義」の読後感に近い。この本にもまったくなじめなかった。分
日本経済新聞出版社 2014年4月 わたくしが産業医をしていることから読んだもので、そのため長時間労働の健康にあたえる影響という部分を中心に読んだ。したがって、必ずしも全体の論点に目配りしているわけではない。 産業医のかなり大きな仕事に「長時間残業面談」というのがあり、残業時間の多いものに面談してその健康状態に問題がないかをチェックするのが仕事になっている。これは本来、脳心臓疾患が長時間労働で惹起されるのを予防するという観点からはじまったものだが、そういうことが面談でわかるかといえば大いに疑問で、実際の面談の主な役割はメンタル疾患の早期発見という方向になる。面談に来たものが機嫌がいいか、面談時に笑顔がみられるかといったことをみていくわけであるが、時には、かなりやけになっているのはないかと思われるものがあったり、まれにはすぐに仕事を休ませなければいけないと思われるものがいたりする。なんだかニ
ベスト新書 2014年5月 この本は普通に書店で購入したのだが、アマゾンで見るとまだ発売予定となっているし、自著をいつも紹介する小谷野氏のブログでもまだアナウンスされていない。本の発行日も5月20日となっている(購入したのは4月末)。村上春樹「女がいない男たち」が出版されたばかりであるので、どこかから、そういう本の宣伝はもう少し待てという圧力でもかかったりしているのだろうか? ところで「女のいない男たち」の書店でのあつかいもようやく普通にもどったようで、あまり特別あつかいされていない。「1Q84」や「多崎つくる・・」の時が異常だった。ようやく出版社も正気に戻ってきたのだろうか? 「1Q84 book3」から後の春樹さんは絶不調で、さすがの春樹信者も「多崎つくる・・」で少し懲りたのかもしれない。「1Q84 book3」を読んだとき、これはほとんど校正しないまま本にしてしまったのではないかと思
何とはなしに堀井憲一郎さんの「若者殺しの時代」を読み返していたら、その最初に「一杯のかけそば」のことが書いてあって、それで最近のいろいろな事件のことが頭に浮かんだ。 「一杯のかけそば」の事件?は1989年つまり平成元年のできごとだから、いまから25年くらい前のことで、30歳以下くらいのかたは知らない話だろうと思う。 「一杯のかけそば」という童話?が有名になったのだが、そのきっかけは「週刊文春」での全文一挙掲載であった。その惹句には「編集部員も思わず泣いた感動の童話『一杯のかけそば』一挙掲載」とあった。その後、テレビのワイドショーが狂ったように取りあげた(たぶん、狂っていたんだとおもう・・堀井氏)。フジテレビでは午後のワイドショーで月から金まで連続で『一杯のかけそば』特集が組まれ、5人のひとが日替わりでそれを朗読した。(どうかしてる・・堀井氏) 「あなたはもう『一杯のかけそば』を読みましたか
佐村河内氏の「交響曲第一番」について少し書いていて、やはりあれが大きな問題になった原因のひとつが《交響曲》を書いたということにあったのだろうかと思った。ヴァイオリンのためのソナチネとかピアノ・ソナタとかを書いただけであれば、あれほどの騒ぎにはならなかったのではないかと思う。 そんなことを考えながら本棚をみていたら「交響曲の秘密」という本があった。2005年に刊行されたもので、7人ほどの著者のコラムを集めたものの他に作曲家吉松隆氏と指揮者高関健氏へのインタビューをおさめたものである。コラムを書いている方々はおそらくかなりの音楽オタクなのではないかと推察される。 さてこの本によれば「交響曲」というのはベートーヴェンからはじまる。そしてマーラーをへてショスタコーヴィッチにいたる。ベートーヴェン以降の音楽は「純音楽系」と「不純?音楽系」のふたつにわけられる。 いわく「偉大なるベートーヴェンの影を仰
佐村河内氏の「第一交響曲」はCDを持っている。最初に聴いたときの印象は、少し長すぎるな(特に2楽章)というのと、ところどころ妙に音楽が薄いなという感じはあったが、非常に才能のあるアマチュア作曲家の作というのが感想だった。最近、聞き直して、少しパッチワーク的なところが目立つように思ったが、これは今般流布しているいろいろな話に影響されての感想なのかもしれない。 アマチュアの音楽愛好家で作曲の勉強をしているひとは少なからずいるだろうと思う。そういうひとの中で突出して能力が高い人が、中世の教会音楽から後期ロマン派あるいはそれ以降あたりまでのさまざまな音楽作曲技法を身につけて、曲を作るとこういう作になるのかなと思ったわけである。 音楽が好きで、でもいろいろ勉強してもどうしても現代音楽だけは好きになれない、自分に一番ぴったりくるのがロマン派から後期ロマン派あたりの音楽であるというアマチュア作曲家が、こ
通常、近代がわれわれにもたらしたものは、人権・平等・自由の3つに要約されると考えられている。これについて、渡辺氏は「ある意味では」それに賛成すると述べる。ではあるが、それは「かなり疑わしく」「問題をはらんだ」贈り物であるともいう。 1)人権:江戸時代においても、百姓は百姓なりに、町人は町人なりに法の保護のもとにあった。公事(裁判所に出訴すること)や一揆は彼らの権利であった。なにかについて訴えをおこし、一揆をおこしたのである。かれらは現在のわれわれと同じように「自己の権利の主張」をおこなった。 飢饉がおこれば、幕府も藩も一定の対応はとった。飢饉がおきることを阻止できなったのは当時の社会構造では止むをえないことであった。当時においても「人権」はあったのだが、それがわれわれがなじんでいる近代的な人権概念とは一致しないということであり、その当時には人権はなかったと思ってはいけない。 2)自由:中世
渡辺氏がフランス革命のことを再考するようになったきっかけは、氏が「黒船前夜」で大佛次郎賞を受賞したことで、受賞記念講演で大佛氏のことを話すことになり、そのために、大佛氏の「ドレフィス事件」「ブゥランジュ将軍の悲劇」「パリ燃ゆ」などを読み返すことになり、大佛氏が反軍国主義、反国粋主義、世界市民主義の立場でフランス第三共和制を讃美する立場から出発しながら、戦時中は、大東亜戦争の熱烈な支持者、特攻隊の賛美者となり、そのため戦後には最早第三共和制は擁護すべきものとは思えなくなり、第三共和制がパリ・コミューンの男女2万5千の血の海の上にできあがったものであることを詳細に語る「パリ燃ゆ」を書くにいたったというその分裂を述べ、それらの歴史を調べているうちに第三共和制の出発点であるフランス革命について気になってきて、勉強しなおしたことが語られる。そこでだされる設問「フランス革命はほんとうに近代の発端だった
ここでいわれていることは比較的単純なことであると同時に本書の根となる主張でもある。「今日の近代化された社会は、同時に西洋化された社会でもある」という一見自明とも思える論である。その主張の裏にあるのは、「これから将来、中国やインドが世界の覇者になることがあるかもしれないが、それは西洋とは異質な中国やインドの文明が西欧を凌駕して世界を征するということではなく、西洋化した中国やインドがヘゲモニーをとることになったということなのだから、相変わらず世界を征しているのは西洋文明であり続ける」という見方である。毛沢東時代とは違って、今の中国の指導者はみな背広を着ているではないか、と。 非西欧世界でおこなわれている教育も、そこでの学問は完全に西洋起源のものである。第一そこで教えられていることは西欧世界以外にはそれまで存在しなかった概念なのである。今日の小説の書き方もまた西洋由来。さらには美術や音楽について
津田氏は、本書で「日本の医学界において、医学的根拠とは何かという整理が行われず、医学本来の人間を対象とした研究がほとんど行われていないことを示してきた」という。「水俣病や薬害事件などの日本の保健医療領域の数々の大惨事は、数量化の知識をまったく欠いた大学医学部の教授たちが、「専門家」として非科学的な誤った判断を下したために生じた。誤った政策判断がひとたび行われると、それは「無謬」の官僚によって維持されてきた。」 そうなるのは「科学としての医学を知らない人たちが日本の高等教育の多数を占めているだけの話」で「専門課程に進んでから教えられる医学は実験医学」であるが、そういう「「難しい最先端の研究をやっている」という幻想を振りまくのはやめて、「簡単な理論を学び、患者を観察し、根拠となる2x2表をまとめることから始めるのが、臨床研究推進の早道だ」ということになる。 ここからわかることは津田氏が主として
ある大学医学部の研究室で、教授が医学生に対して「いまどき分子メカニズムの研究でないと医学博士が取れない」と発言したという話からはじまる。津田氏は「分子メカニズムの研究でないと医学論文を書けない」などというのは嘘で、「人間の病気についての査読付医学論文は数多くでている」という。 氏は臨床医から臨床研究の相談を受け、簡単なアドバイスをすると研究がすすみ「なぜ大学医学部や医学研究科は、臨床研究のやりかたをちゃんと教えてくれないのか?」といわれるのだという。臨床研究は決して大規模なものでなくてもいいのだという。しかしいまだに動物実験こそが研究という風潮も強い。 日本の基礎研究の評価は比較的高い(世界での3位から6位)が、臨床研究は12位から25位である。その臨床研究も大学からではなく、国立がんセンターや愛知県がんセンターなどから出されているという。新薬認可のための治検も進まず、製薬会社まかせになっ
岩波新書 2013年11月 最初の方に、先輩医師にこういう本を書こうと思っているといったところ「おまえ殺されるぞ」と忠告されたと書いてある。冗談まじりとはいえ、とはしているが、確かにその心配はある。村八分くらいにはなりかねない。 要するに日本の医療は(狭い意味では医学部の教育は)とんでもなくダメであるということを書いている。なぜダメなのかというと「根拠のない医療」をしているということである。 医者は3つのタイプにわかれるという。「直感派」と「メカニズム派」と「数量化派」。現代の医学の流れは滔々と数量化のほうにむかっているのに、日本では「直感派」と「メカニズム派」が大部分である。それで世界の潮流から完全に遅れをとってしまっている。しかもそうなるのは日本の医学部の構造に深く根ざしているので、変えることは至難の技である、という絶望的な見解になっている。個々の医師の能力が低いというようなことではな
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『jmiyazaの日記(日々平安録2)』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く