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ドラクエ3
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「改めて震災現場に立ち返りつつ、あらゆる史料を再検証することで、歴史の真相に迫ってみたい」(8頁)――工藤美代子『関東大震災 「朝鮮人虐殺」の真実』の虐殺正当化論は、この「宣言」とは全く異なるものであり、あらゆる意味で「論」の体をなしていないことは前に指摘したとおりである。まともな論証は試みられてすらおらず、わずかに挙げられた史料にも恣意的な引用や省略が施されている。この本を貫いているのは、「現場に立ち返」り「あらゆる史料を再検証する」真摯さとは真逆の、歴史的事実に対する徹底的な軽視と侮蔑である。 前回にあげた例以外にも、この本には事実探究への軽視とそれを糊塗し粉飾するための小細工があふれている。例えば大韓民国臨時政府と日本国内の朝鮮人「テロリスト」のつながりを「証明」しようと、工藤は以下のように記す。 「彼ら活動家の本拠地は上海である。日韓併合以後、上海のフランス租界へ脱出して作った「大
昨今の排外主義的な民族差別・迫害の教唆煽動の横行に伴い、改めて関東大震災時の朝鮮人虐殺が注目を集めている。だがその「注目」には、虐殺の事実を知り、反省的に歴史と現代を見つめようというものばかりでなく、むしろ「虐殺」を否定しさろうという歴史修正主義者によるものも含まれる。1923年9月に起こされた朝鮮人虐殺については、各地でのねばり強い史料発掘や証言の調査などにより、今ではもはや軍隊や警察による虐殺を否定することは不可能となった。このため歴史修正主義者たちは虐殺したのは自警団だけだという、いわば歴史修正主義の第一段階にあたる主張を放棄しつつある。代わりに現れているのが、軍・警・自警団による朝鮮人殺害は「虐殺」ではなかった、という主張である。 工藤美代子『関東大震災 「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版、2009)はこうした理屈で朝鮮人虐殺否定論を展開した問題作であり、ネット上に無数にある虐殺
ちょうど二年ほど前のことになるが、このブログで金明秀氏(以下、敬称略)の「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」というエッセイを批判したことがある。これに対しては、ツイッターを通じて金からの「反論」があったが、金が論点をずらし続けたため全く議論にならなかった。私としては金との議論そのものにはあまり価値を見出していないので、それはよいのだが、最終的に金がレッテル貼りで「告発を無力化」しようとしたため、これについては「抗議」を掲載した。いずれにしても非常に不毛な体験だった(その後の金のツイッターでの対応をみると、他の「論争」においても似たようなスタイルで応じているようだ)。
いま読むと隔世の感があるが、1999年の論文で渡辺治は「国民主義的ナショナリズム」による対抗運動について、次のようにその問題を指摘していた(強調は引用者。以下同)。 「ここで一つだけ強調しておきたいのは、支配層のこうしたイデオロギーに対し私たちは、かつて丸山真男らが考えたような国民主義的ナショナリズムで対抗することはできないのではないか、という点である。 日の丸・君が代の法制化が浮上したとき、それに反対する論拠の一つとして、日の丸も君が代も、決してあのフランス三色旗やアメリカの星条旗のように革命や民主主義的討論の中から生まれたものではないという点が、少なくない論者によってあげられた。日の丸・君が代制定の経緯については、その通りではある。しかし、私は、この反論は決定的弱点を有していると思う。それは、この議論は、国民主義的ナショナリズムも帝国主義を生んだという問題に答えられないからである。端的
在特会が2013年2月に掲げて有名になった「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」というプラカードがある。言うまでもなくこのプラカードは朝鮮民族全体の殺害を煽動する最悪のレイシズムの表現であり、反対するのは当然である。だが、これに憤る人びとは一体この文句のどの箇所を問題だと考えているのだろうかについて、ある疑念があった。もしかしたらこの人びとは「良い韓国人」まで「殺せ」と言ったことに対し、激しく憤っているのではないか、「悪い朝鮮人だけ殺せ!」こそが正しいのだと考えているのではないか、という疑念である。 このプラカードは意識的に書かれていたように思う。「良い韓国人/悪い韓国人」を分けて後者への差別を肯定しながら、自らだけは救われようとする哀れな「戦略」を採る人びと――「北朝鮮」が差別されるのは当然だが、自分たちは違う、「北朝鮮」に制裁を加えるのは賛成だが、民族差別はいけないと弁明する人びとを
いまから二年ほど前、このブログで與那覇潤『中国化する日本』について批判したことがある。最後の(5)が(続)で終わっているように、当初はもう少し続けるつもりであったが、結局今日に至った。十分書くべきことは書いたと思っているが、当時書く予定だったものが若干残っており、また、近年の新著のなかにも相変わらず問題が散見されるので、これまでの記事を再掲すると同時に以下に補足をしてひとまず完結としたい。
今年の4月は例年ならば行われる朝鮮民主主義人民共和国に対する経済制裁延長の閣議決定がなされない。もちろん、安倍政権が制裁を止めるからではなく、昨年4月に制裁の期間が1年から2年に延長されたからだ。日本社会でこのことに気付く人はほとんどいないのではないか。そのくらい制裁は自然なものになってしまっている。 後述するように、いま発動されている制裁は事実上の有事立法にもとづくものだ。それが8年にわたって継続している。しかしこの状況をほとんどの人びとは有事法が発動した状態であるとは認識していない。朝鮮学校の無償化排除や補助金停止などの教育に関する弾圧も、これらの有事法の発動によって形づくられた大状況に規定されていることが明らかにもかかわらず、である。これは朝鮮やそれに関わる在日朝鮮人の立場からすれば、極めて非対称的で異様な「戦時」が続いていることを意味する。 2002年以降の「狂乱」 のなかで、「護
民族教育介入の「神奈川モデル」とでも呼ぶべきものが成立しつつある。3月19日、神奈川県の黒岩知事は、朝鮮学校の児童生徒への学費補助を「拉致問題に関する独自教科書を作って授業を行うことが条件で、それまでは執行停止する」と述べた。前日に県議会が可決した新年度予算案が、「拉致問題に関する独自の教科書を作成し授業で使用する」ことを支給条件としたことをうけたものである。 この間、大阪や埼玉と並び、神奈川県は補助金支給をダシにした朝鮮学校の教育内容への干渉の先頭にいた。散々恫喝だけして補助金を停止した大阪に比べれば、神奈川は補助金を出すといっているだけマシではないか、と思う人もいるかもしれない。だが、教育内容への干渉というレベルで考えるならば、数年間にわたって徐々に、しかし確実に内容への干渉を実現させてきた神奈川の黒岩県政は、ある意味ではより悪質であり、むしろ教育干渉の最先端にいるともいえる。 *参考
1.はじめに 「liber studiorum」というブログがある。更新を停止したようだが、以前は福岡伸一『生物と無生物のあいだ』や茂木健一郎の脳科学本などのニセ科学系トンデモ本や佐藤優のおべんちゃらを精力的に批判していた。このブログを読むと、福岡や茂木、佐藤がいかにテキトウかつ悪質な人間たちであるかも去ることながら、こうした人々の跋扈を許す日本社会の体質がよくわかる。自らが当該分野の「プロ」であることを前面に押し出してマスコミや出版関係者を籠絡する業界遊泳「学者」は、自然科学に限ったものではなく、どこの業界でも見られるものだ。 例えば、昨年『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(文藝春秋)を出版した與那覇潤などはその歴史学版といえるだろう。 私は端的にいってこの本はトンデモ本にすらなりきれていない中途半端な製品だと思うが、マスコミ・出版業界は與那覇をたいそう持て囃している。これは
中野重治の「ある側面」という文章に、魯迅の文学についての次のような一節がある。 「政治的発言をした文学者はたくさんいた。正しく政治的発言をした文学者もたくさんいた。しかし魯迅は、彼の人間的発言、彼の文学的発言が、多くの場合ただちに、政治的な言葉を伴わない、しかしもっとも痛烈な政治的発言であった。ここに子供がいる。その子を目がけて狂犬が飛びかかってくる。それを見たある人々が、いかにも政治的であるかのように自分で思い込みながら、小児と狂犬との距離は急速に縮小しつつある、という風にいってつっ立っている。飛び出してきて魯迅が叫ぶ。その犬をうち殺せ、子供をさらいこめ。人が思わず犬にとびかかろうとする。子供の帯をつかまえようとして、思わず手を出す。そこに魯迅の文学の特殊の感銘があった。」(『魯迅案内』岩波書店、1956年、36-37頁) 『毎日新聞』(2013.3.6付、大阪朝刊)「論ステーション:
「Arisanのノート」というブログに「なされるべきであった事」という文章が載っている。 Arisanは独島問題に関連して次のように書く。 「「グレーゾーン」にしておくというような方策が、真に知恵として意味を持ちうるのは、いまただちに国家対国家という近代的枠組み(「領土問題」)で事柄を突き詰めず、いったん平和的な状態を作ることによって、植民地支配や侵略という歴史のなかの暴力にきちんと向き合えるようにしようというメッセージとして発せられ、また受けとられた場合だけだ。 それは、かつて日本がこの地域に行使したそのような暴力が、国家という枠組みを越えた、いわば普遍的な悪だからである。ゆえに、この悪と真摯に向き合うことは、日本のみならず、また全ての国家自身の、過去と現在の独善や暴力性をも自覚・反省させることにつながるのである。 逆に、この日本が行った巨大な暴力が反省されず、それが現在の国家体制におい
1.はじめに 私が以前書いた記事「続・金明秀「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」批判」(以下、続編記事とする)に対し、金明秀氏(以下敬称略)がツイッター上で次のようにつぶやいた。 「あ、続編が投稿されてたのか…。前回は言い足りないところをうまく補足してくれているとも思ったが、今回のは単なる言いがかりだな。「正面から反論」しろというなら、あなたこそ名前を名乗って正面から来なさいよ。はぁ、うざっ。」 https://twitter.com/#!/han_org/status/193904397560987649 この後に金が連投したツイッター上のつぶやきは、筆者を不当に非難するものであり見過ごすことはできない。緊急であるが、以下に問題点を指摘し、抗議する。(なお、関連するつぶやきは文末に掲載したため、引用に際してアドレスは記載しない。) *参考:「金明秀「リス
朝鮮高校生の「無償化」からの排除は明らかに外交的理由によるものである。つまり、「無償化」を認めると、現在政府が「制裁」を科している朝鮮民主主義人民共和国を利することになる、と民主党政権は判断し、就学支援金の適用の判断を外交の論理――というよりも、「制裁」の論理に従属させたのである。誰の眼にも明らかであったこうした排除の動機について、当初民主党政権は否定し詭弁を弄していたが、天安艦沈没事件後、この詭弁すら放棄して居直るに至った。 さて、これに対する批判として「教育と外交(政治)は別」という言葉をしばしば耳にする。この言葉は一面では正しい。確かに、就学支援金制度創設の趣旨を鑑みれば、外交上の理由で朝高生のみを支給から排除するのは許されない違法な行為だ。ただ、「教育と外交は別」のスローガンは、一種の曖昧さと弱さを残しているのではないかと思う。 「教育と外交は別」には以下の三つの用法がある。 (1
“SYNODOS JOURNAL”に金明秀「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」が掲載された。 http://webronza.asahi.com/synodos/2012051100001.html このQ&Aは、このブログで幾度か批判した、金のいうところの「リスク社会」における「新たな運動戦略」の実践篇とでもいうべき内容となっている。すでに朝鮮学校が再三述べてきた主張を取り入れている部分を除けば、金のオリジナルの部分の論理は前にも指摘したように『朝日新聞』のラインの無償化適用論であるといえる。さまざまな問題点があるが、ここではさしあたり重要な問題点に絞って指摘したい。 *参考 朝鮮学校「無償化」排除問題 http://kscykscy.exblog.jp/i6 抗議 http://kscykscy.exblog.jp/18212443/ 第一に、このQ&Aは朝鮮学校の教育「内容」に踏み込
3.創氏改名は「同化」ではなく「江戸時代化」だった? それでは與那覇が植民地問題について論じた「帰ってきた朝鮮出兵:植民地問題をまじめに考える」についてみよう。この節は創氏改名についての記述から始まる。 「朝鮮史研究の最新の成果によれば、これ〔創氏改名:引用者注〕は近年まで誤って教えられてきたような、朝鮮人や台湾人を日本民族に吸収し同一化させるための同化政策ではありません〔原文ゴチック体、以下同〕――たしかに現地の住民を日本人風の姓名表記に変えさせたのですが、しかしその一方で「本当の日本人にはあまり見ない氏」をつけさせる例が目立つなど、改名後も「もとは朝鮮人(台湾人)であった」ことがわかるような命名を行ったケースが多いためです。 それでは、いったいなぜ改名させたのかというと、総督府側の力点はむしろ「創氏」の方にありました。朝鮮や台湾の親族体系は近世中国と同じ父系血縁のネットワーク方式ですか
4.植民地支配の「絶対に外せない歴史的事態の本質」? 先に見た創氏改名の記述は全体の中ではそれでもまだマシな方である。創氏改名の話に続いて植民地支配の「本質」の話に入るのだが、ここからは與那覇の理屈を理解すること自体が困難になってくる。 まず、與那覇の議論の前提を確認しておこう。この節の冒頭で、與那覇は近代日本の植民地支配をとらえるポイントとして次のように記す。 「決定的に重要なポイントは、それらを「江戸時代」を東アジアに輸出する試みとして理解することです(本野英一「歴史の変奏としての東アジアの現在」。むろん、その多くは押し売りでしたが)」(p.190-191) 本野英一論文の出典表示はこの一文のみにかかっており、「江戸時代〔化〕」というワードは與那覇の造語なので、いかなる意味の出典なのか興味が湧き調べてみた。すると、そこには次のように記されていた。 「巨視的比較文明論の最近の定説を踏まえ
「nos」@unspiritualized(以下、nos)という人物が私の金明秀論考への批判に関連して、金光翔氏による「続・金明秀の弁明について(1)」という記事を批判した。私としては、金光翔氏によるnosへの批判に付け加えるものはなく、また、金明秀の弁明への批判も的確なものであると考える。nosの、私が金明秀の記事を誤読している、という指摘も著しく説得力を欠くものであるため、付け加えて反論することはない。 ただ、私は、このnosという人物の一見「良心的」でありながら、決して問題を自らのことと受け止めようとしない姿勢、そして平然と朝鮮人の主体性を横領しておきながらそれに気づかない鈍感さには、憤りを禁じえない。おそらくnosにとって、こうした断定は不本意であろう。何より、nos自身が「ほんらい僕らが考えねばならない」と繰り返しているのであるから。しかしその「僕らが考えねばならない」が問題なの
自民党憲法草案は確かに憲法改悪案である。だが「甲賀志」@hiroujinのいう「「公益及び公の秩序に反する」と判断されれば簡単に剥奪される。一体これはどこの北朝鮮の憲法なのだ? この憲法を制定させたら最後、日本国民一億人は全員、自民党の奴隷と化すのは確実だ」という感想には、底抜けのおめでたさと悪質さを感じる。 「甲賀志」@hiroujinはこの憲法草案が通れば、「日本国民一億人は全員、自民党の奴隷と化す」と煽る。つまり、この憲法草案施行後と現憲法体制下の現状との間には著しい断絶があると見ているようだ。だが本当にそうだろうか。 事態はむしろ逆である。実際に自民党憲法草案を読めばわかるが、草案に記されていることの大部分は、いずれもすでに日本で実現している。 立法府は国旗・国歌法や元号法を成立させ、行政は現場でこれを強制し、司法はこれを追認している。自衛隊は現憲法体制下に一貫して存在し続け、個別
先日、自民党が憲法改正草案を発表したが、これに対するネット上の「護憲派」による批判のレトリックがあまりに醜い。例えば、「甲賀志」@hiroujinによる『「国民の基本的人権は国家が自由に剥奪できます」という自民党改憲案のトンデモ内容まとめ』である。 ここで@hiroujinは、冒頭から「自民党の改憲草案が北朝鮮じみていて、失笑すらわいてこなかった」「基本的人権や財産権にしても「公益及び公の秩序に反する」と判断されれば簡単に剥奪される。一体これはどこの北朝鮮の憲法なのだ? この憲法を制定させたら最後、日本国民一億人は全員、自民党の奴隷と化すのは確実だ。」などと、繰り返し自民党の憲法草案が「北朝鮮じみてい」る、「北朝鮮の憲法」のようだ、というレトリックを用いて自民党の憲法草案を批判する。 また、このまとめへのコメントも「こんな憲法案を出す様な自民党員なる方々は、少なくとも建前上は自由で民主的な
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012)を読んだ。ここで高橋は繰り返し沖縄と福島をはじめとした原発立地地域は戦後日本の「植民地」である、と述べている。以前、徐京植のドキュメンタリーやコラムに触れた際、原発労働や原発被災を安易に植民地支配のアナロジーで語ることの問題に言及したが、この本で高橋は「植民地としての沖縄・福島」論を相当な紙数を割いて展開している。以前に批判した徐京植のそれと同様、そこでの論理展開は大変に問題があるため以下に指摘したい。 *以下の記事も参照 「フクシマを歩いて 徐京植:私にとっての"3.11"」批判 http://kscykscy.exblog.jp/16234278/ 徐京植を読み直す――「反動的局面」と現在(1) http://kscykscy.exblog.jp/17810683/ この本の趣旨は戦後日本の根幹には戦前より引き継いだ「犠牲の
前回と同様発表から若干時間が経っているが、社会学者の金明秀氏が昨年書いた「リスク社会における新たな運動課題としての《朝鮮学校無償化除外》問題」という文章がある。はじめ在日本朝鮮人人権協会発行の『人権と生活』に掲載され、現在は加筆・修正の上、金明秀氏自らが管理するサイトにアップされている。これは在日朝鮮人の「民族運動」に対する一種の「提言」であるが、その内容は大変危うい。少し日が経ってしまったが、まかり間違えてこの提言が受け入れられることのないよう、ここに批判を記す次第である。 金明秀氏の主張は次のように要約できる。現代日本は「リスク社会」になったのだから、在日朝鮮人も「人権」「平等」などの「近代の市民的規範」を訴えるばかりではだめだ、リスク・コミュニケーションが必要だ。そして、「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない」との主張に対しては、「朝鮮学校は日本
すでに何度か書いたとおり、「無償化」排除問題は朝鮮高校生の就学支援金支給からの排除から一歩進み、補助金を口実とした都道府県知事による教育内容への干渉という事態に至った。こうした大阪、神奈川、東京の各知事らのデマも交えた攻撃的な教育干渉に対し、朝鮮学校側はデマへの不毛な反論という消耗戦に追い込まれている。 朝鮮学校側は石原に学校を見に来るよう訴えているようが、私はむしろ、石原慎太郎に授業を監視されるという体験が東京朝鮮高校の学生らの人格の健やかな形成を阻害し取り返しのつかない精神的な外傷を生むことを恐れる。 それは措くとしても、現在の知事らの朝鮮学校攻撃は、個々の知事による教育干渉に留まらず、朝鮮学校への更なる弾圧強化のための中央政府も巻き込んだ連係プレーへと発展する可能性がある。その推測の根拠について以下に記しておきたい。 現在の右派政治家らの朝鮮学校攻撃言説の核心は、朝鮮総連と朝鮮学校の
2011年11月18日創立の「独島を守り六大未清算課題を解決しようとする韓日協定再協商国民行動」が先月末の韓日議員連盟合同総会に宛てた公開質疑書を翻訳・掲載する。 http://blog.daum.net/schumam 日本のメディアは完全に黙殺したようであり、また「国民行動」のサイトをみても日本語版が掲載されていないようなので、ここに勝手に日本語訳をする次第である。日韓諸協定の再交渉の問題は、当然ながら韓国政府・韓国国民のみの問題ではない。直接問われているのは、日韓諸協定により植民地支配責任をみごと回避した日本政府・日本国民である。 特に、質疑書の「今日の日本が民主主義と平和主義を志向する国なのであれば、自らの政府が犯した1910年併呑条約の強制性と不法性を認定し、宣言しなければならない」という問いを日本人は重く受け止めるべきである。専制と侵略主義の大日本帝国を愛でながら、他方で「民主
衛藤征士郎の訪朝延期をめぐるインタビューを『産経』が報じた。衛藤は「日朝平壌宣言に基づき、拉致、ミサイル、核の諸問題を包括的に解決するということ。もう一点は、会長の私は永住外国人への参政権付与に反対だということ」に言及するのみで、日本の植民地支配責任については、平壌宣言の該当文言にすら言及していない。もはや日本の言論空間から植民地支配責任をめぐる論点そのものが消滅してしまった感がある。 ただ、、『The Voice of Russia(ロシアの声)』が若干気になる記事を掲載した。11月25日付の同紙は、「北朝鮮 植民地支配の賠償 日本に求める」と題し、「労働新聞のなかでは、北朝鮮が繰り返し日本に対して謝罪と賠償を求めているものの、日本政府は過去の日本帝国主義の犯罪を認めることを拒否している、とされている」と報じている。 平壌宣言後の朝鮮政府の日本に対する植民地支配責任追及の方針は、正直なと
朝鮮人の立場から植民地支配責任の問題について論じるブログ。8月14日早朝にNHKで放映された「フクシマを歩いて 徐京植:私にとっての"3.11"」を観た。90年代以来の徐京植の批判的言論から多くを学んできたつもりの者として、とても正視に堪えなかった。以下に思いついたものを摘記しておきたい。 第一にプリーモ・レーヴィの誤用について。徐はなぜ震災発生後に韓国に避難しなかったのかについて、次のように語る。 「私自身も韓国にいる友人から、大丈夫か、とか、あるいは一刻も早く韓国に逃げて来いというような連絡を受けました。だけどそうしなかった。そのことを私は、自分はなぜここを動かないんだろうということを考えたときに、繰り返し思い出したのはヨーロッパのユダヤ人、ナチスによるユダヤ人絶滅政策がひたひたと迫っているにもかかわらず〔中略〕なぜ動かなかったんだということを、わかるようでわからない問題だったんだけ
イタリアのリビア植民地支配をめぐる問題を書く、といっておきながら果せず、それどころか放置している間にNATOの多国籍軍によるリビア空爆が始まった。前述のベンガジ条約はリビア-イタリアの相互不可侵を定めており、今般のイタリアの空爆参加は明白にベンガジ条約に違反するものである。日朝ピョンヤン宣言をめぐって、少なくない人々が「平和」の大義名分のもと植民地支配責任の棚上げに口をつぐんだ。安易な類推は禁物だが、リビア空爆へのイタリアの参加はこのような「平和」がいかにもろいものかを私たちに示唆しているとはいえないだろうか。 朝鮮学校に対する日本政府・地方自治体の干渉は日を追って激しくなっている。相変わらず「無償化」からは排除されたままだ。それどころか地方自治体はこれを機に朝鮮学校への補助金の打ち切りをちらつかせ、教育「内容」への干渉を実行した。昨年大阪の橋下知事が朝鮮学校を恫喝したのに続き、神奈川でも
ちょうど二年前の2008年8月30日、イタリアとリビアの間である条約が締結された。日本語での定訳が無いようなので、さしあたり「イタリア-リビアの友好・協力・提携に関する条約(Treaty on Friendship, Partnership and Cooperation between Italy and Libya)」としておくが、締結された都市の名前から、以下「ベンガジ条約」で統一する。翌年の2009年3月2日に発効した。 ベンガジ条約はイタリアによるリビア植民地支配に対する「謝罪」と経済支援、安全保障、そして北アフリカからイタリアに向けた移民の規制など、いくつかの極めて重要な問題を取扱っている。私はベンガジ条約は今後の日朝国交「正常化」交渉を考える上でも非常に重要な意味を持つのではないかと考えているが、日本では条約締結の事実を伝えるもの以外、論評などは皆無に等しい。韓国併合百年云々
8月25日付『民団新聞』に掲載された「団体役員」李敬成の「民論団論 朝鮮高校無償化問題」という論説が凄まじい。まずは以下の文章を読んでいただきたい。「朝鮮高校に対する無償化適用問題は、自国民の命を犠牲にして核を含む大量殺戮兵器を開発し、豪勢な生活をほしいままにしてきた世襲独裁政権に盲従を強いる同校の教育内容に、改めてメスを入れた。同時に、韓国籍を取得した後も朝総連組織に属して何らかの活動をする、いわゆる《偽装韓国籍者》が多数存在する事実をあぶり出した。 韓国籍を取得した後にも反国家団体である朝総連と連携する者や、韓国籍でありながら北韓及び朝総連の指示を受けて運営される学校に子どもを通わせる父母たちは、韓国の実定法に違反していることになる。これに応分の対処をすべきであったにもかかわらず、韓国政府はこの間、何らの法的処置をとることもなかった。 これを放置していいわけがない。関係当局は最近になっ
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