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merubook.hatenablog.jp
身近なところから哲学は始まるとよく言われるが、昨今の情報論、データベース論が実は日常生活に深く関わる重要な問題であったのだなと実感する出来事が最近あった。 というのも、今、私が住んでいる市は4月から指定ゴミ袋制(有料制)に変わるのだが、住民登録している世帯のみ指定袋の一定枚数の無料交換券が得られる。だが、住民登録していない人はもらえませんとのこと。だから、買って下さいという。まあ、たしかに住民登録していなければ、住民サービスが受けられないのは当然のことなのだろうが、なんだか釈然としないものが残る。 それは結局、住民登録というデータの登録がここでは問題なのだ。要するに、データを他人に(あるいは国家に)預けなければ、人は人として認めてもらえないのである。極端に言えば、私たちの生きている世界はこういう仕組みになっているのだ。サルトル風に言えば、データは実存に先立つということになるだろうか。もちろ
自分で書いた文章を自分で回答できないような問題を作って・・・ということを書いて、入試問題がいかに愚劣であるかという結論に導く人が時々いるけれど、これは大層な考え違いである。 書いたときの私と読んでいる私が「別人」であるのだから、何が書いてあるのかよくわからなくなって当然なのである。 というか、何年も前に書いた文章を読み返して、一語一句の意味がすらすらわかるようでは、その何年間のあいだに夫子ご自身に何の人間的変化もなかったことになるではないか。 むしろそのことを恥じるべきであろう。 これは、内田樹氏のブログからの引用であるが、氏はたびたびこれと同じことを書いている。つまり、「書いているときの私」と「読んでいる私」は「別人」であるという説だ。一見すると「なるほど」と思う。だが、私はなんとなく腑に落ちない。というのも、ここには、言説とパフォーマンスのあいだにずれがあるからである。 内田氏は「何年
内田樹氏が、ブログで先の村上春樹による安原顯批判に触れている*1。安原顯の村上春樹(あるいは文学)に対する愛憎について書かれてあり、興味深い内容であった。この文章のなかで、私が引っかかったのは、次の箇所である。 死を覚悟した批評家が最後にした仕事が一人の作家の文学性そのものの否定であったという点に私は壮絶さに近いものを感じる。 どうして村上春樹はある種の批評家たちからこれほど深い憎しみを向けられるのか? この日記にも何度も記したトピックだが、私にはいまだにその理由がわからない けれどもこの憎しみが「日本の文学」のある種の生理現象であるということまではわかる。 ここに日本文学の深層に至る深い斜坑が走っていることが私には直感できる。 けれども、日本の批評家たちは「村上春樹に対する集合的憎悪」という特異点から日本文学の深層に切り入る仕事に取り組む意欲はなさそうである。 私は以前にも書いたが、村上
職がない。大学院で博士号を取ったなら、研究職を目指せばよいのだが、それもうまくいかない。いつポストの空きができるのか分からないし、たとえ募集があったとしても、少ないポストに多数の応募者がいるわけだから、簡単にポストが得られるわけではない。その間、どうしたらよいのか。また、このような不安定な生活に耐えられず、路線を変更して一般の職を目指そうとしても、高年齢で職歴が無いために難しい。結局、このまま将来が見えぬまま、フリーターとかニートになるしかないのだろうか。 毎日、このような不安を抱きつつ生きている。なので、昨日の稲葉氏と立岩氏のトークセッションはいろいろと考えさせられることが多かった。労働、所有、不平等、分配・再分配...etc これらの問題は、明日生きるか死ぬかの瀬戸際にいる私にとって切実な問題なのだ。 たしかに、大学院に進学したのは自分の意志である。そして、少子化の影響で特に文学系の研
『文學界』2006年3月号に、仲俣暁生が四方田犬彦『「かわいい」論』の書評を書いている。仲俣は厳しい調子で、『「かわいい」論』を批判していた。曰く、「議論の筋道には大いに欠落がある」「(引用者注「かわいい」に対して)「共鳴」がいちどでもあったのかどうかさえ、疑わしく感じられる」「結局、本書では「かわいい」の概念規定をめぐっての手際のいい論点整理しか披露されない」等々。こうした仲俣の批判のなかには同意できるものもあるが、全体を通じてこの書評には疑問を感じざるを得ない。つまり、本当に仲俣はこの『「かわいい」論』を読んだのだろうかと。 この『文學界』3月号には、四方田も評論を書いているので、もしかしたら、仲俣の書評を四方田が読むかもしれない。その際には、四方田自身による反論が聞きたいものである。しかし、四方田ぐらいになると、仲俣のような評論家は相手にしない可能性が強い。 だからというわけではない
「我々の使用している日本語は本質的にロジカルでないし、また対話も存在しない。あるのは空気を醸成するためのモノローグの集合だけだ*1」ということが分からない。「日本語」が「ロジカル」でない? 「日本語」に「対話」がない? 「日本語」が話したり書いたりするのだろうか。人が「日本語」を使って話したり書いたりすることはあるが、「日本語」それ自身が話しているところを見たことがない。また「日本語」が「日本語」の文章を書いている場面を見たことがない。興味があるので、「日本語」が「対話」をしている場面を見てみたい。 そんなことはともかく、たとえば司馬遼太郎の書く文章が「ロジカル」ではない、ということは理解できる。しかし、そのことと「日本語」が「ロジカル」でない主張がどのように結ぶつくのかが分からないのである。司馬遼太郎の書く文章が「ロジカル」でないのは、司馬遼太郎という書き手の問題であって、「日本語」それ
◆四方田犬彦『「かわいい」論』ちくま新書、2006年1月 タイトルから、四方田犬彦も流行の「萌え」論に手を染めたかと思ったが、本書は「萌え」論よりももう少し射程が広い。「萌え」についても、たとえば第8章で取り上げられているが、本書において「萌え」は「かわいい」文化のひとつと言えるだろうか。 「かわいい」というキーワードは、かつて大塚英志が使っていたなと思いつつ読んでいたら、最後の最後で大塚英志の名前を挙げずに批判がなされていた。「犠牲者の女性たちが一昔前の少女漫画のタッチで描かれていたというので、それを手がかりとして現代社会におけるサブカルチャーの重要性を喧伝するという論客が、いささか強引な論陣を張っていた」「それは純粋に世代の「刷り込み」問題であり、それ以上でも以下でもない」「こうした細部だけを強調することは、あのドストエフスキーの『悪霊』を思わせる陰惨な事件の本質をみえなくさせてしまう
どうも橋本治が感じている「孤独」と仲俣が理解している「橋本治の孤独」は、全然別のもののように思えてならない。 私は、橋本治の熱心な読者ではないのでよく分からないが、おそらく橋本治の「孤独」とは永井均的な「私」に近いのではないかと思う。(勘違いや誤解であったら申し訳ない。橋本治の著作を読んでいない私は、今はこの点にこれ以上触れられない。) 一方で、仲俣の「孤独」はこれは「自己中心的」と言いかえられるようなもので、これは取るに足らないものだ。つまり自己中だから他者に自分の考えが伝わらないわけで、だから自分は(も?)孤高の評論家だと思っているのかもしれないが、それは仲俣の大きな勘違いだと思う。 仲俣の立場は、茂木健一郎が文学は自分が感じたことを率直に語ればいいのではないかと言っていることに近い。茂木の言うことは間違いではなく、たとえばカルチャースクールのようなところで、文学の愛好者に向かってその
◆宮台真司・北田暁大『限界の思考』双風舎、2005年10月 非常にボリュームがあって読み応えのある本だった。内容も、社会学やカルチュラル・スタディーズ、70年代・80年代論、左翼・右翼など、多岐にわたる。それでも、中心となるキーワードは「アイロニー」であろう。アイロニーは、最近の宮台氏にとっては欠かせない重要な概念だし、前の仲正昌樹氏との対談本でも論じられていたことだ。 宮台氏がアイロニーを語るとき重要視するのは、それが「オブセッシブ」であるかどうかということだ。宮台氏が批判するのは「ベタ=オブセッシブ=依存」であり、特に虚構に依存してしまうことに注意を与える。オブセッシブつまり強迫的なアイロニーは、「韜晦」とされ、「どうせオイラは…」という開き直りのために、自分自身がズレることに関心がなく、対象をズラすことだけに執着する。一方、ノンオブセッシブなアイロニーは、「諧謔」と言われ、対象をズラ
内田樹の日記に、今度出る『街場のアメリカ論』について書かれてあった。しかし、このエントリーの内容は、狡猾というかなんていうか、本人が言うとおり腹が立つのだけど、腹を立てることが内田樹の手の内にあるというので、二重に腹が立ち不愉快な思いをする。 あらかじめ批判を封じ込めてしまう、あらゆる言説を相対化(「絶対」などないのだから)してしまう戦術など、ポストモダニストの遣り口そのものだ。こういう梯子外しに苛立ち、立ち位置争いのメタゲームへの批判があると思うが、内田樹の今回のブログを読んで、いかに梯子外しが保身のための狡猾な戦術であるかがよく分かった。メタゲームが批判されるのも、もっともだと思う。 率直に言えば、内田樹の言説は悪質だと思う。悪質と書くと人格攻撃しているみたいで誤解を生んでしまうが、人格攻撃は私の意図するところではない。言説の悪質さ狡猾さが問題なのだ。そして、言説が悪質であることが、人
渡邉大輔「死児とメディア化――赤坂真理論」…△or× 大山鳴動して鼠一匹といった感じがする評論。現代思想に詳しそう。特にメディア論を参照して、赤坂真理を読み解くということをしているのだが、本当に現代思想なんかを持ち出さないと赤坂真理の小説は読み解けないのか、という疑問を感じる。別段、たいした作品でもないのに、大げさな分析装置をつかって分析して、さも高い価値があるように論じているのではないか。渡邉氏自身、この自分が書いた評論の内容を本気で信じているのだろうか。ネタとして書いているのではないかと勘ぐってしまう。 伊藤氏貴「淫靡な戦略――阿部和重の<核>なき闘い――阿部和重論」…△ 阿部和重は「<方法>的な作家」(p.27)であることを確認して、阿部が闘っているものは何かを論じる。阿部の敵は、「<個性>であり<私>であり<物語>」(p.28)だ。そこから、阿部作品といえる特徴<模倣>という主題、
しつこいと自分でも思うのだが、この前の仲俣のエントリー記事(8月11日)が、やや気になったので、それについて書いておきたい*1。 エントリーでは、8月10日の朝日新聞(夕刊)の記事(「戦後60年の透視図 第3部・物語空間」)のなかで「極西」が言及されていたと書いている。その文章について仲俣は、こう感想を記している。 この記事を書いてくれた記者(大上朝美)はたぶん、ぼくと近いか、少し若い世代の方だろうけど、これまでぼくの書いてきたことを丹念かつ的確に読んでくれている。「貧しい自己像」「しょぼさ」という、ぼくや阿部和重氏の言葉からの引用もじつに的確だ。 仲俣は、なんだか知らないけど、すぐに世代論にもっていく癖(ほかに「〜〜チルドレン」という言い方もどうかと思う)があって、これも仲俣のダメなところなのだが、今回はスルーしておこう。 私が気になるのは、この短い文章のなかで「適確」という語が2回使わ
最初の読者として初稿を読み直して見た著者をとらえたものは、意図されたわけではない一貫性が維持されていることへの驚きである。その一貫性は、樋口一葉から阿部和重にいたるまでの作家たちの言葉が、それぞれ異なる水準ではあるが、著者の心をしたたかにとらえたものばかりだという事実から来ている。「心をとらえる」とは、方法で処理しきれない事態に直面した者の戸惑いが書く主体を深く揺るがせていたことを意味する。(p.249) これは、先日読んだ蓮實重彦『魅せられて』(ISBN:4309017185)のあとがきの一節である。私は自分でも恥ずかしいと思うぐらい蓮實贔屓なので、蓮實批評をやや理想化してしまいがちだが、それを差し引いても、この文章は文学や映画を語る際に重要なことだと思う。 別にこれは文学というのは「論理」を超えている、だから「論理的」に語れないということを述べているのではない。私が引かれるのは、ある作
「いま準備中の星野論、古川・舞城論はそれぞれ別の雑誌に載る別の原稿だが、自分では『続・極西文学論』としてまとめられるくらいの分量に、最終的にはなるように書きたいと思っている。」ということなので、きちんとした評論になったときに再度検討できるようににメモしておく。 「極西」のあやしさ いきなりこんなことが書かれてある。 この本を最初に読んだのも、やはり15年くらい前だったろうか。いまの視点から『百年の孤独』を読みなおすと、この作品がまぎれもなく1960年代末における「極西小説」だったことがわかる。この作品が発表されたのは1967年、ガルシア=マルケスが39歳のときである(ちなみに川端康成が「極東小説」の典型である『雪国』でノーベル文学賞を受賞するのが翌68年。ガルシア=マルケス自身がノーベル賞を取ったのは82年になってから)。 毎度のことながら、「極西小説」の意味が分からない。『極西文学論』を
意味不明な文章を見つけてしまった。あとで考えるためにメモしておきたい。 「極西」世代より上のアメリカ文学者や作家にとって、『白鯨』とコンラッドの『闇の奥』、そしてフィツジェラルドがひとつのトライアングルを形成していることは間違いない。 この「「極西」世代より上のアメリカ文学者や作家」とは、具体的にどのへんの人たちなのだろう?。次の段落では、「コッポラ」が触れられているが、とするとこの「「極西」世代より上のアメリカ文学者や作家」とは「コッポラ」あたりの人なのか? 彼らにとってサリンジャーが扱いにくい作家であることも、なにか理由があるはずだ。大雑把に言えば、そこに「近代文学」と「現代文学」の間の裂け目があるのだと思う さらに、先の引用箇所にこのような注がついていた。ここもよく理解できない。「彼らにとってサリンジャーが扱いにくい作家である」というのは、具体的にどのようなことなのか。たとえば、「コ
丸暗記はだめ−いまどきの小学校から - livedoor ニュース 最近のことである。妻が担任の先生と面談をした。妻が先生から聞いた話では、教員は丸暗記を指導してはいけないと指示されているそうである。そう言われて教科書を見ると、憶えるべき項目が見当たらない。 驚いた。丸暗記はダメなのか。たしかに、丸暗記だけの学習はこれまで批判され続けてきたから、こういう事態になったのだろう。一見すると、自分で考えることを身につけさせるということで、非常によいことだと思える。 でも、腑に落ちない。年を取ってから気が付く、人生ってほとんどは丸暗記で90パーセントは大丈夫だということに。今は丸暗記という苦痛で無意味な作業に耐えられなかった自分の弱さに後悔したりしている。丸暗記という作業に耐える精神力を身につけさせることも、教育には必要なのではないか。なにしろ丸暗記が可能な時期なんて、せいぜい10代までだろう。年
◆宮台真司『宮台真司interviews』世界書院、2005年2月 ようやく読み終えた。活字が一杯詰まった本なので、けっこう読むのに苦労した。でも、中身はかなり面白いものだった。読み終えて満足の一冊。 ここ10年の宮台氏の発言をまとめた本なので、これを読み通すと、氏の思想遍歴が分かる。この意味でも重要な本かもしれない。印象としては、はじめはまるで暗記マシーンのように、あらゆる問答を想定し、機械にように答えているようだった。これはけっこう読者にとっては有益かも。なにせ、それこそチャート式のように思想が整理されているので、知識の整理に使える。 それから数年たつと、自分語りが入るようになる。自分語りのほうが、私は興味を持つのだけど。でも、自分語りのほうに興味を持つ読者って、宮台氏は嫌いそう。というか、たしかに迷惑だよなあ。 それはともかく、とりわけ興味がある箇所を一つ抜き出せば、次の箇所になるだ
日本語の中で普段は気にも留めないけれど、よくよく見れば不思議な現象がある。そういった日本語に対する疑問を専門家が答える本。日本語に興味がある人、日本語を勉強している学習者、日本語教育に携わる人などにおすすめ。 本書に出てくるどの問題も面白い。「なるほど」と思ったいくつかを取り出して見る。 たとえば、「旨い旨い」とか「偉い偉い」など繰り返して言うのはどうしてか、という質問。 A:この店のお刺身旨いよね。 B:うん、旨い旨い。 [転んで泣かなかった子供を褒めて]泣かなかったね。偉い偉い。 こういう言い方、たしかに普段よくある。繰り返しだから「強調」ではないかと思ったが、それだけではなさそうなのだ。ここが日本語の奥深いところ。 A:6畳の部屋って結構広いよな。 B:いやいや、{①狭い/②狭い狭い}。 この会話では、たしかに①は不自然に感じる。②の繰り返しはなぜか自然だ。なぜ繰り返しだと自然になる
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