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衆院選
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1955年に自由党と民主党の保守合同を実現させ「自民党を創った男」として知られる三木武吉氏は、戦後直後の総選挙時の立会演説会において、当意即妙の切り返しで危機を脱し、有権者たちの爆笑と拍手をかっさらっています。 自民党を創った男の「殺し文句」 三木武吉氏は「自由民主党を創った男」として知られています。 1945年の終戦から約10年の間、保守・革新ともに小さな政党に分かれて離合集散を繰り返していました。 占領下、GHQの指令によって無産政党(日本社会党や日本共産党など)が合法化される一方で、保守政党が乱立する事態が発生したのが原因です。 そのため政局は安定せず、多党・不安定な時代が続きました。 そんななか、日本社会党は1951年に講和条約と日米安全保障条約に対する態度の違いから、「右派社会党」と「左派社会党」に分裂。さらに混迷の度合いを深めていきます。 事態が変わるのは1955年2月の衆議院
昭和18年(1943年)2月5日、時の総理大臣東条英機は、「アメリカ的な方法によらない、日本独自の製鉄法で大量の鉄が手に入る」「これで日本は安泰だ」と衆議院の委員会で述べ、拍手喝采を浴びました。 この独自の製鉄法、フタを開ければ大赤字のとんでもないヨタ話でした。一介の発明家の怪しげな妄言を、国のトップである総理大臣が受け入れてしまう。戦時中というのは、そのような異常な時代でもありました。 砂鉄とアルミを混ぜて火をつければ簡単に鉄ができる? 古くから「貧すれば鈍する」と言います。この言葉は、個人だけではなく、国家にも当てはまるようです。 昭和18年(1943年)2月5日、衆議院戦時行政特例法案外二件委員会において、時の総理大臣東条英機は、次のような演説を行います。 「画期的な製鉄法が確立されそうだ。この方法が普及すれば、今後日本が製鉄に苦労することはない」。 議場の議員たちは拍手喝采でこの言
独自に思想を先鋭化した右翼のテロリストが、当時の社会党委員長の浅沼稲次郎氏を刺殺したのは1960年10月12日のことでした。 言論を暴力で封じ込めるテロは現在も昔も許されることではなく、社会は大きな衝撃を受けました。 さらに驚いたのは、犯行に及んだ少年がわずか17歳だったこと。そして、取り調べで一通り話し終えると、自ら命を絶ったことでした。 父親に届いた「虫の知らせ」 その日の深夜、男性がポータブル・ラジオのスイッチを入れたのはまったくの偶然だった。 いつもならぐっすり寝ているはずのその時間、ふと目を覚ました彼が伸びをするように腕を伸ばした先に、そのラジオがあったのだ。 ラジオは臨時ニュースを報じていた。 「……17歳の少年が……少年鑑別所で2日午後……自殺を図り……死亡しました。……臨時特報をお伝えしました」 途切れ途切れに聞こえたアナウンサーの声。 17歳? うちの息子と同じ年齢だ。ま
明治期に5回の外務大臣、2回の総理大臣を経験した大隈重信ですが、決して順風満帆な政治家人生ではありませんでした。 政変に巻き込まれ失脚する、暗殺犯に命を狙われ大怪我を負い右足を切断する等、不遇の時期も多く過ごしています。 それでも腐ることなく不屈の精神で危機を乗り越え、近代日本に大きな成果を残しました。 ここでは明治22年10月18日に起こった、大隈重信暗殺未遂事件についてお届けします。 政変に巻き込まれ失脚 1874年(明治7年)、板垣退助、後藤象二郎らが議会の開設を求めて「民撰議院設立建白書」を政府に対して提出したことをきっかけに、国内では自由民権運動が盛り上がりを見せました。 1881年(明治14年)3月、ロシアのアレクサンドル2世暗殺事件が起こったことでさらに自由民権運動が盛り上がっているさなかの7月、薩摩出身の北海道開拓長官・黒田清隆が同郷の政商・五代友厚に官有物を格安の値段で払
かつての日本には、書生という半学半就の立場がありました。 裕福な家に住み込み、雑用や家事をこなす代わりに、空いた時間に学校に通う。または特定の住み込みで特定の仕事を手掛けると同時に、空いた時間に学校に通うといったものです。 昭和8年(1934年)に、その名も「書生と苦学出版社」から発行された「書生と苦学 就職の秘訣と案内」(宗川久四郎著)には、政治家のもとで書生になるためのノウハウや、書生として活動するための心構えが説かれています。 苦学生におすすめの職業は「書生」 まずは本書が発行された昭和8年当時、貧しいながらも一旗揚げようと志を立て勉学に励む苦学生の立場はどのようなものだったでしょうか。著書の宗川久四郎は「現代の東京人には、苦学生に対する同情というか、理解というか、それがまったくない」と述べています。 かつては「どうか苦学生ですが、なにか買っていただけないでしょうか、本当に困っている
昭和5年(1930年)に刊行された「人生漫談」(岡本一平著・先進社)では、人間のさまざまな側面を皮肉たっぷりにユーモアあふれる文章やイラストで表現した1冊です。本書では「政治家の職業見立て」と題して、もしこの政治家が別の職業に就くならば、どんな職業が向いているかを一文と似顔絵で表現しています。 有名政治家の個性から適切な職業をピタリと推薦 「政界の名士といえども、世知辛い世の中いつ失業するとも限らぬ」として、当時の有名政治家たちを俎上に載せ、彼らの性格から政治家を辞めたあとはどんな職業に就けばよいかを一コマ漫画風に表現しています。 本人たちからしてみれば、これ以上の余計なおせっかいはなかなかないかとは思いますが、これが現在見直しても面白い。 ここで、掲載されている政治家の中から10人をピックアップしてご紹介します。 ・尾崎行雄:上空気流観測技師 高い理想に眼を馳せ、地上の実情は一切お構いな
明治43年(1910年)に刊行された「花嫁の準備と実務」(東京婦人学会編・二松堂刊)には、財産を持つ富豪の家に嫁ぐ女性のための心得や気をつけるべき点などについて、細かく解説しています。 古くからの土地持ちはもちろん、医師、弁護士、裁判官、陸海将校、官吏などの上流階級が並ぶ中、政治家に嫁ぐ女性への注意事項も用意されています。 この内容から、明治末期の政治家のプライベートの生活が見えてきます。 夢見がちな夫の手綱を握り、お金を管理しよう 本書の15章「政治家に嫁する婦人」は、この文章から始まります。「代議士となる者は悉く(ことごとく)財産を蕩尽(とうじん)す」。 蕩尽するとは、財産を湯水のごとく使い果たすこと。当時の政治家たちは、各種ルールや制度が整った現在とは比べ物にならないほど、お金を使っていました。 そのため、国政を担う政治家の妻となったからといって裕福な暮らしを手に入れたと考えるのでは
法治国家である日本では、社会のあらゆる事柄において法が定められています。ですが、時にはその解釈を巡って争いが起こり、どちらの言い分が正しいのかは裁判所の判断に委ねられます。 裁判所が出した判断は「判例」として社会に示され、以後、同様の紛争が起きたときにはその判例を参考にされていきます。 昭和13年(1938年)に、当時の大審院(最高裁判所の前身)で「選挙期間中に運動員が自宅で摂った食事に関しては、選挙費用を支払ってはならない」という判決が下されました。 当選の恩人への感謝の気持ちが仇に 選挙期間中、運動員が自宅で食べる食事に対して選挙費用を支払っても良いものか。 当時、衆議院議員選挙法第97条では、選挙事務長や選挙委員が、選挙運動の際に必要とした飲食物や、遠方への出張の際の交通費・宿泊費などに関しては、選挙費用として認められると定められていました。 この規定は、選挙事務所のスタッフだけでは
当選回数25回、在任期間63年という、政界のアンタッチャブル・レコードを記録している尾崎行雄。94歳まで議員を続け、「憲政の神様」「議会政治の父」とも呼ばれた尾崎は、昭和21年(1946年)にそれまでの政治活動を振り返った「随想録」(紀元社)を刊行しています。 そのなかで、自ら目にした歴代首相について、忌憚のない意見を述べています。 「薩摩は頭のいいものがない」 総理大臣の資格として必要な3要素を、尾崎はこう考えていました。 「総理大臣の資格として必要なことは、第一に統帥の才、第二に調和的の性格、第三に包容力」 しかし、憲政が発達しているイギリスではいずれの総理大臣もこれらの資格を兼ね備えているが、日本ではこれらの資格に欠けていても総理大臣になってしまうから困ったものだと嘆いています。 資質に欠けていても総理大臣になれてしまう理由、それは藩閥政治だと指摘します。 「薩長のものなら以上のよう
1919年(大正8年)に刊行された「六十三大家生活法」(石上録之助著)には、その名の通り、63人の当時の名士が、その生活法や主義・主張をインタビュー形式で語り残しています。 今回ご紹介するのは、総理大臣も務め、早稲田大学の創設者としても知られる大隈重信。「人間は125歳まで生きられる。長寿とは125歳を超えて生きる人を指す」と考えていた大隈の健康法とはどのようなものだったのでしょうか? 過去にとらわれず、自然に身を任せた晩年の大隈 本書「六十三大家生活法」が出版されたのは1919年(大正8年)。このとき、大隈重信は80歳を迎えています。 取材を受けたのも、2度目の登板となった総理大臣の役目を終えて無事、寺内正毅へと引き継ぎ、悠々自適の生活を送っていた頃と考えて良いでしょう。 本書の中で、大隈は「125歳主義」を唱えています。 「人間はそもそも、125歳まで生きる原則を持っている。『長寿』と
1919年(大正8年)に刊行された「六十三大家生活法」(石上録之助著)には、その名の通り、63人の当時の名士が、その生活法や主義・主張をインタビュー形式で語り残しています。 今回ご紹介するのは、明治の元勲として知られる山縣有朋。陸軍の大重鎮として権勢を誇った山縣は、槍や馬の達人として知られたほか、和歌や舞などにも通じる粋人でした。 2.7メートルの槍を毎朝振り回す70代 第3代、第9代の総理大臣を務め、陸軍の重鎮として生涯強い影響力を持った山縣有朋は晩年、どのような生活を送っていたのか。 1919年に発行された「六十三大家生活法」(石上録之助著)で、側近に仕えた誰かと思われる人へのインタビューで、詳らかにされています。 晩年の山縣は規則正しい生活を送っていたようで、公務がなければ夏ならば5時、冬でも6時には起床。夜は22時には床についていたようです。 「お客があっても9時(21時)には帰っ
1919年(大正8年)に刊行された「六十三大家生活法」(石上録之助著)には、その名の通り、63人の当時の名士が、その生活法や主義・主張をインタビュー形式で語り残しています。 今回ご紹介するのは、大正時代に衆議院議員を務めた頼母木桂吉。彼と妻の駒子は、時代に先駆けた生活を送っていました。 頼母木が唱えた「共稼ぎ主義」 大正時代、現代に先駆けて「能力のある女性は社会でその才能を発揮させるべき」と説き、自らも夫婦共働きで、ともに大きな成果を残した政治家がいます。 頼母木桂吉は、明治時代後期に新聞社で辣腕をふるいます。報知社(現在の報知新聞)時代には、日本初の夕刊を企画して読者を激増させ、「報知社に頼母木あり」と、広くその名を知られるようになります。 また、当時新設した「職業案内欄」を見て応募してきた松岡もと子(後の羽仁もと子)の才を見抜いて採用すると、彼女は後に婦人之友社を設立するなど活躍を続け
1908年から1912年にかけて衆議院議員を務めた鹿児島県の高原篤行。「新人議員」として4年間の任期を終えた彼が、自身の政治活動を振り返ったインタビューに答えています(「鹿児島県九代議士議会感想録」所収)。 希望に満ちた新人議員に、国会はどのように見えたのでしょうか。 議場はまるで小学校の討論会場? 高原篤行は、1908年(明治41年)に行なわれた第10回衆議院議員総選挙に鹿児島県郡部7区から出馬、見事当選を果たします。 高原が「鹿児島県九代議士感想録」への取材に応じたのは1912年(明治45年)。国会議員として初めて国政に携わった4年間について振り返っています。 この1908年から1912年までの4年間は、主に第2次桂太郎内閣の時代でした(1908年〜1911年)。 当時、勃興していた社会主義運動に対しての風紀引き締めが強く行なわれ、1910年(明治43年)5月25日には、明治天皇の暗殺
大正5年に刊行された「列伝シクジリ代議士」(参政閑人編)には、明治〜大正 時代の政治家の「トホホ」なエピソードが紹介されています。 ここでは、本書の中から、犬養毅、原敬らの意外な逸話をご紹介します。 旅館の主人、憲政の貧乏神に怯える 「憲政の神様」といえば尾崎行雄ですが、「憲政の貧乏神様」とは誰を指すのか。大正時代の人々は、犬養毅をこう称していたようです。 大正5年に発行された「列伝シクジリ代議士」(参政閑人編)によれば、犬養がまともな布団で眠れるようになったのは50歳を過ぎてから。江戸時代末期の1855年生まれの犬養ですから、明治時代もようやく終わろうかという、1905年あたりで、人並みの生活が送れるようになったと伝えています。 そんな犬養がある日、房総半島の北条地区に、家族を伴って旅行に行くことになりました。 前もって、秘書から宿泊する旅館に連絡が入りましたが、「犬養さんは貧乏だ」と聞
明治時代末期から戦前まで衆議院議員を務め、戦後の1947年まで貴族院勅選議員として強い影響力を保持した三土忠造が残した著書に「幽囚徒然草」があります。本書はその書名通り、三土が日々感じたことどもがまとめられていますが、そのなかで、刊行当時(昭和10年)の候補者の状況についても触れられています。 「人たらし」と取るか「品がない」と取るか かつて、田中角栄は「人心掌握の天才」「人たらし」と絶大な人気を集めました。現代でも、残した言葉、エピソードなどは広く伝えられています。 田中はその人心掌握術と合わせて、政治の面でも豪腕をふるい多くの公約を実現させていきました。 明治23年(1890年)から始まった普通選挙に国民も慣れた昭和初期になると、選挙で票を得るためだけの政治家が散見されるようになり、当時の政治評論家たちが苦言を呈しています。 ある代議士の話。 自身の選挙区を秘書数名とともに歩いていると
お見合いや親のいいなりに結婚し、どんなに辛くても耐えに耐え抜いて生活せざるを得なかった……戦前の結婚生活は、そのような印象があります。 しかし、統計を調べてみると、これらの印象とはだいぶ異なる数字が出てきます。 たとえば離婚率は、平成時代よりも明治時代よりも遥かに高い数値となっています。その理由と背景について考えてみましょう。 今も昔も変わらない「女性が結婚相手に望むこと」 かつて、日本人は早婚だった。そんな印象がありますが、実際はどうだったのでしょうか。 12歳や13歳での結婚、ということも珍しくはなかったようですが、それは明治時代初期までのこと。1898年(明治31年)に施行された民法で15歳未満の女子の結婚を禁じられて以降は、そのような早婚は基本的には許されませんでした(※男子は17歳以上、女子は15歳以上)。 やがて時代は進み、戦中の1940年(昭和15年)になると、男性は28歳、
明治初期、政府は数々の制度を立て続けに作り上げていきます。 それらの新しい制度は国民に初めから受け入れられたわけではなく、数多くの混乱を経て次第に浸透していきました。 戸籍法や徴兵令が国民に提示されたときにも、誤解からくる不幸な事件が起こっています。 通称「脂取り一揆」と呼ばれるこの事件について見てみましょう。 戸籍法と徴兵令への「誤解」 日本で初めて戸籍法が発布されたのは1871年(明治4年)。その目的は、戸数や人口を正確に把握し、徴兵や税金を適切に行うことが目的のひとつでした。 続いて、1873年(明治6年)には徴兵令も施行されます。 ここで全国的な徴兵制度を断行することができるようになりましたが、その背景にはこの戸籍法に基づいて、明治5年に壬申戸籍が作られていたことがありました。 戸籍が作られ、全国的に徴兵が行われる。 このような社会的変革を前に、一般市民は混乱します。 一体何が起こ
尾崎行雄は、明治時代から戦後まで衆議院議員を務め、当選回数や議員勤続年数、最高齢議員記録などのアンタッチャブル・レコードを保持しているまさに「憲政の神様」。その彼は、昭和21年にエッセイ集「随想録」を残しています。本書には、さまざまな随筆が収録されており、その中の一編では尾崎が実際に相対した歴代首相について語っています。 尾崎が「もっとも優れていた」と評した人物は誰でしょうか? 尋常じゃない用心深さの持ち主 陸軍の大巨頭で、最後までその地位を保持した山縣有朋は、軍縮論者でもあった尾崎行雄にとって終生のライバルと言っても良い存在でした。 尾崎自身は「ただ敵として遥かに見ていたに過ぎない」と語っていますが、その政治家人生の中で、何度かの邂逅を果たしています。 維新の三傑と呼ばれる西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允のあとを受けて日本政界の立役者となったのは伊藤博文、大隈重信、そして山縣有朋。 この三
明治44年に刊行された「名士奇聞録」(嬌溢生著)には、政治家や経済界の重鎮などの名士たちの、ユニークなエピソードが満載されています。 ここでは、維新後、世界へと旅立っていった政治家が、現地で巻き込まれた(?)言語にまつわるトラブルについてお届けします。 そんな大事なものなら…… 静岡県出身の鈴木藤三郎は、氷砂糖の製法を考案するなど発明家として活躍し、豊田佐吉(トヨタの創業者)とともに「発明王」「特許王」と称されます。後に1904年の第9回衆議院議員総選挙に出馬すると見事当選。国会議員としても活動ています。 鈴木がアメリカ旅行に行ったときのこと。 長距離列車に乗り込み、ガタンゴトンと揺られながら、アメリカ大陸の壮大な景色を楽しんでいました。 旅行気分に浮かれていたのか、大切なかばんを網棚に載せることを忘れ、椅子の上に置きっぱなしにしてしまいます。 そこに、ようやく自分の席を見つけた白人女性が
かつて「小説なんて読んでいると馬鹿になる」とされた時代がありました。やがて「マンガを読むと馬鹿になる」さらには「テレビを見ていると馬鹿になる」「ゲームばかりしていると馬鹿になる」とその内容は変遷し、現在では「YouTubeばかり見ていると馬鹿になる」と言って子どもを叱る親御さんもいるとかいないとか。 新しいものへの拒絶反応は人間に備わった本能と言えるのかもしれません。 明治維新後の文明開化においてもそれは同じ。 新しい文化に対し、猛然と否定論を唱えた僧侶がいました。 ランプが日本を滅ぼす? その論理とは 現代に生きる我々には、電気・電灯のない生活は想像もつきません。 明治維新後、文明開化の世を照らした象徴として社会を明るく照らしたのはガス灯とランプでした。 いわゆる「開化のガス灯」は、1874年(明治7年)に東京の銀座通りに街灯として85基のガス灯が設置されたのを皮切りに、翌1875年(明
日本にはかつて、華族と呼ばれた特権階級が存在しました。公家、旧大名家、財閥当主などに爵位が与えられ、数々の特権が認められました。 悠々自適な貴族生活を送っていたと思われがちな彼らですが、彼らには彼らなりの苦労もあったようです。 即席で作られた日本の貴族制度 明治維新後、政府の高官たちは視察のために数多くの国を訪れます。 その視察において、ヨーロッパに貴族と呼ばれる階級があることを知ります。 ヨーロッパの貴族たちは、代々続く名家。教育水準も高く、高い教養と洗練されたマナーを身に着けており、社会の指導者的な立場につくものも多くいました。 このことを伝え聞いた伊藤博文や政府高官たちは、この制度を日本にも導入できないかと考えます。 明治維新後、日本には元公家や元大名といった、旧幕府の特権階級の処遇が宙に浮いたままで、彼らをヨーロッパにおける貴族のような位置に据えられれば、この問題も解決すると考えて
2020年9月16日、第99代の総理大臣に菅義偉氏が就任したことにともなって、夫人の真理子氏にも注目が集まりました。 日本の舵取りを行う首相の伴侶として、時に外交の場面でも各国の要人と接する機会もある「ファーストレディ」。 戦前と現在では、求められる役割に変化が起こっています。 外交から縁戚強化まで首相夫人に求められる「役割」 戦前から戦後直後まで、内閣総理大臣の夫人は多く「首相夫人」と呼ばれていました。 戦後、彼女たちは「ファーストレディ」と呼称が変化していきますが、戦前と戦後とで変わったのは呼び方だけではありませんでした。 「首相夫人」または「ファーストレディ」には、歴史上これまで3つの役割が期待されてきました。 ①外交時や選挙時の政治的な役割 ②首相の縁戚関係強化の役割 ③首相一家の家事を取り仕切る役割 それぞれへの期待は現在でも割合を変えながら続いていますが、時代とともに「もっとも
第2代内閣総理大臣を務めた黒田清隆には粗暴なイメージが付きまとっています。 酒を飲むと暴れる、酔って大砲を誤射して死者を出す、ときには酔いにまかせて暴れていたところを柔道家としても知られる木戸孝允に取り押さえられ、簀巻きにされて自宅に送り返されたなど、いわゆる「酒乱」の姿です。 そんな黒田でしたが、北海道の開拓や条約改正に並々ならぬ意欲を燃やした政治家でもありました。彼の生涯をご紹介します。 豪快・粗暴とされる黒田の意外な趣味 伊藤博文の跡を受けて、第2代内閣総理大臣を務めた黒田清隆。彼の肖像画を見ると、太く濃い眉毛、がっしりとしたアゴ、薩摩人らしい眼光鋭いまなざし、口元に蓄えた硬そうなひげと、いかにも豪傑といったイメージです。 現代に伝わる逸話でも、シラフのときでも豪快奔放、酒を飲めば暴れまわる酒乱、1878年(明治11年)に妻の清(せい)が亡くなると「浮気に対する小言を続けた夫人に怒っ
2020年9月16日に就任した第99代内閣総理大臣菅義偉氏は、海部俊樹氏以来約30年ぶりの「非世襲」の自民党所属の総理大臣として話題を集めました。 では、1955年の自由民主党結党後に首相を務めた人物の中で、「世襲ではない自民党所属の首相経験者」について調べてみました。 後編は、昭和49年から平成までです。 「クリーンな政治」を掲げ自らも実践 三木武夫(首相在任期間:1974年12月9日〜1976年12月24日) 田中角栄に代表される、金と人脈で派閥を維持し、入念な気配りや根回しで自らの政策を進める議員を政治家の典型とするなら、三木武夫はその真逆の精神を貫いた政治家でした。 彼は戦前から戦後まで、通算15回の選挙に当選し続け、半世紀以上にわたって衆議院議員として活動を続けましたが、初めて挑んだ選挙から一貫して彼が掲げたスローガンは「金権政治の打破」「政党政治の浄化」でした。 大卒後、留学を
2020年9月16日に就任した第99代内閣総理大臣菅義偉氏は、海部俊樹氏以来約30年ぶりの「非世襲」の自民党所属の総理大臣として話題を集めました。 では、1955年の自由民主党結党後に首相を務めた人物の中で、「世襲ではない自民党所属の首相経験者」について調べてみました。 前編は、戦後からバブル経済前の昭和49年までです。 野党からも「潔い」と賞された退任劇 石橋湛山(首相在任期間:1956年12月23日〜1957年2月25日) 日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男として生まれた石橋は、大卒後に毎日新聞社に入社、ジャーナリストとして活動を始めます。 大正時代に入ると、大正デモクラシー下のオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱したことで知られ、リベラルな言論人として活躍します。 1936年(昭和11年)からは町会議員としても活動し、ジャーナリストと政治家の二足のわらじで活動
自由党結成後、演説会会場で暴漢に襲われた板垣退助。この事件そのものより、この事件から生まれたとされる名言のほうが有名かもしれません。 「板垣死すとも自由は死せず」。この非の打ち所がない名言、実は板垣本人は言っていないとの説がありますが、残された当時の資料はどのように伝えているのでしょうか。 事件直後に残されている名言の痕跡 自由民権運動の高まりを受けて「10年後に国会(議会)を開設する」と明治天皇が宣言した「国会開設の詔」が出されたのが1881年(明治14年)10月12日。 この詔を受けて、板垣退助は同年に自由党を結成し、全国各地で積極的に遊説を行います。 1882年(明治15年)4月6日、板垣は金華山の麓、岐阜県の神道中教院で開かれた自由大懇親会に出席しました。 その会で板垣は「自由党組織の大意」と題した演説を2時間にわたって行い、聴衆に深い感銘を与えると、会の終了後の打ち上げに参加して
大正時代、府議会・市議会を巻き込んだ大規模な疑獄事件が起こりました。この事件の取り調べは過酷を極め、多くの冤罪被害者を出しています。 その事件で容疑者となり取り調べを受けた市会議員・江羅直三郎が発した言葉が、後年意外な意味に転化していきます。 なぜ警察署の留置所を「豚箱」と呼ぶのか。 きっかけとなった「京都豚箱事件」についてお届けします。 狭い箱に被告人を閉じ込め自白を強要 現在、「豚箱」という言葉は警察署の留置場を指す俗称となっています。 広辞苑などの辞書においても同様の内容です。 留置場が豚箱と呼ばれるきっかけになった事件があります。大正7〜9年に起こった京都を舞台にした汚職事件です。 事件の被告人のひとり、当時、京都府会議員を務めていた江羅直三郎が、法廷で「呼び出しを受けて調べを待つ間、三尺程(約90センチ)の狭苦しい『豚箱』に入れられて、私一人、思案にくれておりました」と語ったこと
昭和7年1月、栃木県塩谷郡阿久津村(現在の高根沢町)で、地主と小作人との間で大騒動が勃発、死者4名、重傷者9名を出す大事件へと発展してしまいます。 襲ったのは小作人側。亡くなったり怪我をしたのは地主側でしたが、その背景には警察をも抱き込んだ地主側からの不当な弾圧がありました。 小さな村を二分した騒動となった「阿久津騒擾事件」についてお届けします。 社会主義の台頭に危機感を覚える「生産党」 大正14年、20歳以上のすべての男子に選挙権を与える普通選挙法が成立すると、社会民主主義を掲げる無産政党が集合離散を繰り返します。 数年を掛けて結成、分裂、合流を繰り返した後、昭和7年7月24日に社会民衆党と全国労農大衆党が合併し社会大衆党が誕生、やっとのことで無産政党はひとつになります。 その半年前の昭和7年1月、栃木県塩谷郡阿久津村(現在の高根沢町)で起こった阿久津騒擾事件は、この全国労農大衆党(以下
日本の抱えるエネルギー問題の1つに、自給率がとても低いことが挙げられます。自給できていない、ということは主に海外からの輸入に依存しているということです。 これにより、輸入先の情勢によっては石油などの資源供給が絶たれてしまう恐れがあり、国民生活に直接悪影響を及ぼす可能性があります。 そこで今回は、以下について紹介します。 エネルギー問題とは 海外から資源供給する理由と問題点 原子力発電とエネルギー自給率低下の関係 日本の取り組み「3E+S」 世界のエネルギー問題と対策 本記事がお役に立てば幸いです。 1、エネルギー問題とは 日本のエネルギー問題の課題はいくつかありますが、そのうち最も解決が難しいのは、1次エネルギーをほとんど自国でまかなえないことと言われています。 その他、化石燃料の枯渇リスクや環境問題も重くのしかかっていると言われています。 (1)そもそもエネルギーとは エネルギー問題の対
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