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チューリングテストについて、哲学者サールが「中国語の部屋」という例え話で反論した。 密室に閉じこめられたサールに、窓から中国語で書かれた手紙が投げ込まれる。 サールは、英語しか理解できないのだが、 その部屋には、中国語の返信の文章を作り出すための「マニュアル本」が置いてあるので、 サールは、そのマニュアルにしたがって機械的な作業をして、わけのわからない文字を 見よう見まねで書きつづる。 そして、なんとか中国語の手紙を書き終え、その返事を窓から投げ返す。 さて、外にいる中国人には、サールが中国語を理解しているように見える…。 チューリングテストで言えば、合格である。 密室のなかのサールは、中国語を理解していると判断される。 しかし、実際は、サールがまったく中国語を理解していないのは明白だ。 結局、サールがやっていることは、 「『%#$』 という文字があったら、 『@&*』 という文字を書く」
もし、この国の女性が、みんな「耳」を隠していたとしよう。 女の子たちは、「耳」というものを、 本当に愛した男性にしか「見せない」という文化で教育を受けていて 男たちは、そういう世界で、子供の頃から育ったとしたら…… 間違いなく、オレらは「うぉ~~、あの子の耳みてええ!」と思うはずだ。 もし、何かの拍子に、チラッと女の子の「耳」が見えただけで、 「うぉぉぉぉぉおっぉ」 と心臓が破裂せんばかりに興奮することに間違いはない。 きっと、遠くの町まで、 自転車で「耳写真集」を買出しに行くヤツも出てくるだろう。 「今日だけは、事故るわけにはいかないぞ」 とドキドキしながら家路をたどる。 「すごい……なんか、とっても複雑な形だね、キミの耳」 「いや……あんまりみないで……」 エッチなビデオでは、当然、耳にモザイクがかかる。 その耳ビデオを親に見つけられて、凹むとか。 耳を盗撮して、警察に捕まるとか。 ま
●たくさん世界があるのに、 「現に、今、この世界であること」を説明できない 多世界解釈が言うように、 「異なる状況の肉体が、重なって同時に存在している」 のが本当だとしても、 「2つの世界を同時にみている肉体(ボク)」 が存在するわけじゃないのだから、 仮に、多世界が本当にあったとしても、ボクは多世界を見ることはできない。 結局のところ、「多世界」の存在を 観測によって証明することができないのだから、 「多世界解釈なんてただのヨタ話」にすぎない。 しかし、困ったことに、 この「多世界が観測できないこと」を多世界解釈ファンに突きつけても、 「『多世界が観測できないこと』は、多世界解釈となんら矛盾していません! だから、問題ありません!」 というだけで、まったくめげない。それどころか、 「『多世界解釈が正しい』 と仮定したら、 『多世界が観測できない』 という結論が出てきたのだから、 むしろ、
●多世界があることを、観測によって証明できない 多世界解釈の問題は他にもある。 質問)たくさんの世界が、重なり合って同時に存在しているっていうけど、 どうやったら、もうひとつの別世界を認識できるの? もっともな質問だ。 だが、これについて、多世界解釈は、 「多世界を認識することは、どうやっても無理だ」と あっさり答える。 そうすると、 「えぇ〜?じゃあ、多世界があるかどうかを絶対に証明できないってこと?」 というミモフタモナイ話になるが、まったくそのとおりで、 ようするに、多世界解釈は、 「多世界があると言っておきながら、多世界なんか絶対見れないけどね〜」と 言っているのだ。(笑) 「人間が、多世界を認識することは原理的にできない」 これが「多世界解釈の2つ目の問題」であるが、 よくよく考えれば、当たり前の話である。 たとえばの話、シュレディンガーの猫の実験において、 「生きている猫」と「
確率論的世界 「『確率的な現象』など存在しないというのは、もはや古典的な世界観であり、 実際の世界は、まさに確率的な世界なのである」 確率と言えば、「サイコロ」とか「くじ引き」とかを連想する。 たとえば、こんな感じだ。 「ここに、2つの箱があります。 一方の箱には、『右手用の手袋』が、 もう一方の箱には『左手用の手袋』が入っています。 あなたは、どちらの箱に、どちらの手袋が入っているか知りません。 だから、この箱をあけて、調べて見ないことにはわかりません。 でも、少なくとも、あなたが、一方の箱を選んで、あけたときに、 「右手の手袋」が出てくるか「左手の手袋」が出てくるかは、 確率的に50%です」 ここまではいい。全然、難しくない話だ。 でも、この話を聞いたときに、普通、僕らはこう考える。 「『箱を開けたとき、どっちの手袋が出てくるか、確率は50%』 とか言っているけど、 実際には、どっちの
波動と粒子の2重性 「光って、波だろうか?粒子だろうか?」 この質問について、量子力学によれば 「光は、波でもあり、粒子でもある」 が正解だそうだ。 マトモな思考能力の持ち主ならば、 「そんなバカな。『波』と『粒子』は明らかに違うだろ! 『波であり粒子である』って、いったい、どんな状態だよ! ありえない!」 と言いたいだろう。 オレだって、そう言いたい。 でも、量子力学は、素で、 「いや、本当に、光は、波で、かつ、粒子なんだよ」 と述べる。 いったい、それがどういうことなのか、 はっきりいって、よくわからない。 もちろん、僕たちは、 「あるひとつのモノが、波であり、粒子である」 という現象を経験したことがないのだから、 「わからない」のは無理もない。 それは、量子力学を専門にやっている科学者だって同じことで、 実は、彼らだって「わかっていない」のである。 何年もそれだけを考えて、それで飯を
つまり、あらゆる問題は、それを問題だと思わない人からすれば、 決してラチのあかない机上の空論にすぎない。 もしくは、なぜ、それが問題なのかすらわからない。 ところで、東洋の哲学(仏教を含む)などは、 この点を踏まえていて、面白い。 西洋の哲学は、そういうラチのあかない問題について、 徹底的に議論を重ねて、仮説を立てて、検証を繰り返すのに対して、 東洋の哲学は「そもそも、なぜそれを問題だと思うのか?」 という『精神構造』『思考体系』の方を主題とする。 つまり、東洋哲学における問題の解決の仕方は、 問題そのものを解くのではなく、 「それを問題視する精神構造を徹底的に理解して、 それを問題だと思わないようにする」 というものである。 それはある意味では、完璧な解決方法だ。 西洋的な解決方法では、原理的に、問題を解決することができない。 「なるほど。この問題の原因は、『A』が理由だったんだね。 お
そもそも、矛盾というものは、「公理」によって存在しているにすぎない。 たとえば、矛盾というのは、こんな感じだ。 1)「AはBである」 2)「AはBではない」 3)「AはBである。AはBではない。は同時に成り立たない。」 ↓ 結論)矛盾じゃん! 上記の場合、1)2)3)が公理だ。 公理とは、「証明できないけど、とにかく正しいんだよ!」 という暗黙の了解(思い込み)である。 でもだ。 「なんで、それじゃあだめなの? 『AはBである』『AはBでない』が同時に成り立っても、別にいいじゃん。 成り立っちゃいけないって、アンタがそういう公理を勝手に持ち出して、 勝手に作ったことでしょ?なんで、そんなのに従わないといけないの?」 と問い詰められたとしたら、結局のところ、 「うるさい、そうに決まってんだよ!」と言うしかない。 「だって公理なんだも〜ん」ということだ。 実際、量子力学によれば、光は「粒子」と
チューリングテスト 人工知能とは、「知能のある機械」のことである。 だが、『知能』とは一体なんだろうか? 1950年、数学者チューリングは、 「その機械(コンピュータ)に知能があるか?」 を判断するための試験方法を考案した。 まず、2台のディスプレイを用意する。 テストする人は、その2台のディスプレイに向かって、質問をなげかける。 「元気ですか?」とか「今日は、暑いよねぇ〜?」とか。 1台のディスプレイは、人工知能コンピュータにつながっており、 それが受け答えをする。 「はい、元気ですよ」とか「やっと夏らしくなってきましたよね」とか。 もう1台のディスプレイは、本物の人間につながっており、 その人がキーボードで、文字を打ち込んで、質問の答えを返す。 「元気ハナマルだにゃ」とか「あぅ〜、暑いのにゃ〜」とか。 もちろん、テストする人は、どっちのディスプレイが、人間につながっているのか、 わから
<あるコンピュータウィルス作成者の言葉> 「たとえ、私がどんなに知性的な人工生命をコンピュータの中で作ったとしても、 誰もそれを「生命」だとは受け容れてはくれないだろう。 だが、私の人工生命たちが、コンピュータネットワークという海に流れ出し、 彼等が、人間という外敵から生き延びるために進化し続けた結果、 人間と対等に戦えるようになったとき・・・・ そして、人間が、―空気中の細菌同様に― ネットワークから人工生命を撲滅することが、もはや不可能だと悟ったとき・・・ 人間は、初めて彼らを「生命」だと認めるだろう。 私の夢は、そのようなコンピュータウィルスを作り上げ、世界にばらまくことである」
人工知能の心 人工知能で、「ココロ」を作り出すことができるだろうか? その問いの答えの前に、はっきりさせておこう。 この世には、そもそも 他人のココロの存在を確かめる術なんかない。 でも、もしかしたら、 「え?こうしてボクと話をしているあの人は、 ココロを持っているでしょ!?」 と思うかもしれない。 いやいや、それでも、その人が、ただの精巧なロボットであり、 何も感じないブリキの機械と同じような…有機物で作られた自動人形… かもしれないという疑いは消えないのである。 ためしに、その人の脳を取り出して、解剖してみたとしても、 そこから「ココロ」の存在を確かめることはできない。 むしろ、 「なんだ、やっぱり精巧にできたロボットじゃん♪」 という確信が深まるばかりだ。 もしかしたら、 「自分にはココロがある。 だったら、同じ人間で、同じ構造を持っている他人にも ココロがあるでしょ!?」 と思うか
もしかしたら、 「え?人間って、クオリアから情報を得て、 物事を判断しているんじゃないの? ていうか、普通に考えて、 クオリアがなかったら、判断なんかできないでしょう。 だから、クオリア(イシキ、ココロ)が、 脳に影響を与えているのは、自明のことなんじゃないの?」 と素朴に考えている人がいるかもしれない。 なるほど、たしかに、 目の前に、信号があったとき、 ○○● という『赤』のクオリアを感じたから、 「ああ、赤だね」という判断をして、 道路を渡るのを止める決断をしたのだ、 という考え方は、ごく自然で、自明のことのように思える。 他にも、 「甘いというクオリアを感じたから、もっと食べようと思った」 「痛いというクオリアを感じたから、もっと欲しいと叫んだ」 などなど、 「クオリアによって、脳が判断を下しているような事例」は いくらでも思いつくだろう。 だが、物理主義の科学者たちは、 そういっ
たとえば、ボクが、赤い色のバラを見て指さす。 みんなが「赤色」と答えたとする。 この時、ボクを含めた全員が、 「赤という質感(クオリア)を感じている」ということになるが、 ボクが感じている「赤色のクオリア」が、 みんなと同じであるかどうかは、確かめようがない。 だって、どんな言葉、シンボル、比喩を使おうと、 ボクが見ている「この色」がどんなものなのかを、 他人に伝えることなど不可能だし、 「他人が見ている色」を取り出して、 「自分が見ているこの色」と比較することもできない。 比較ができないのだから、「同じ色(クオリア)を見ている」 なんて言えるはずがない。 だから、もしかしたら、ボクが、「この色」で見ているバラを、 自分以外のみんなは「この色」で見ているかもしれないのだ。 つまり、みんなは「この色」を見て、 「赤色だ」と呼んでいることになるが、 本当の問題は、仮にそうだったとしても、 そう
ガリレオ・ガリレイ 「重いものでも、軽いものでも、同じ速さで落ちる」 直感的には、「重いものほど、早く落ちる」と思える……。 実際、はるか昔には、そうだと誰もが考えていたし、 現代人のボクらだって、学校で、「実は違う」と教えられなければ、 大人になっても、そう考えていたかもしれない。 1600年頃。 そんな昔に、ガリレオは、 「重いものでも、軽いものでも、同じ速さで落ちる」 と述べている。 一応、ガリレオの逸話としては、 「ピサの斜塔から、物を落として実験し、それでこの事実を知った」 とされているが、これは後世の作家が付け加えた創作である。 だいたい、空気のある地球で、「重いものと軽いものを落とす実験」をやれば、 軽いものは、空気抵抗を受けやすいので、確実に 「重いものの方が先に地面に着いてしまう」 ピサの斜塔の実験なんて、ガリレオの予測を否定する結果にしかならない。 実際には、空気のない
公理とは、「証明不可能な暗黙の了解」である。 すべての理論体系(科学、数学、哲学など)は、 いくつかの公理から、論理的に導き出された構築物である。 だが、「論理さえ公理(暗黙の了解)にすぎない」と 『不思議の国のアリス』の作者であるルイスキャロルは、自分の作中で述べている。 以下は、その内容の要約だ。 アキレスは、頭の回転の遅いカメに、 ある命題が論理的に正しいことを説明しようとしていた。 前提1 A=B である。 前提2 B=C である。 ↓ 結論 A=C である。 アキレス「というわけだ。つまり、論理的にこうなるのさ」 カメ「ん〜、わからないよ」 アキレス「論理的に考えたら、間違いなくこうなるだろ!」 カメ「ん〜、なんで間違いなく言えるの?僕もそんなに馬鹿じゃない。 A=Bはわかった。B=Cもわかった。 でも、A=B、B=Cだったら、どうしてA=Cになるの? 何の必然性もないじゃない
人工生命ティエラ 「人工生命は、生命系特有の振る舞いを示す人工的なシステム についての研究である。 これは生命というものを、地球に生じた特別な例に限定せず、 可能な限りの表現を通して説明しようとするものである。(中略) 究極の目標は、生命系の論理形式を抽出することである」ラングストン 進化生物学者であるトム・レイは熱帯雨林で、 進化の形跡を求め観察を続けていたが、 次第に強い不満を感じるようになっていった。 「進化のプロセスに対して、人間の寿命はなんて短いんだ! 進化のプロセスをこの目で見ることはできないものか!」 1987年。 トム・レイは東芝のパソコンを買い、それを使って、 学生のころに思いついた自己複製するプログラムを作ろうと考え始めた。 レイは、人工生命という言葉の名付け親であるラングストンの噂を聞きつけ、 彼と連絡を取り合い、ついには、 人工生命システム「ティエラ」を生み出し、
「宗教とは、『神が存在する』という公理をもとにして構成された世界観である。 したがって、宗教について反論することは無意味なことである。 結局のところ、 議論の焦点は『神が存在する』という根本的な公理を認めるかどうかであり、 そもそも公理の本質が『証明不可能な暗黙の了解』であるのだから、 その公理を受け容れるかどうかの個人的な問題となり、 一般的理論的な議論は無為である」 「『宗教を信じること』 と 『幾何学を信じること』は、 証明不可能な公理を受け容れているという点で、本質的に同じことである」 なんと、このサイトが本になりました! 本だと、もっと読みやすいですよ~(編集者のチェックが入っているので) 「哲学的な何か、あと科学とか」 飲茶 送料無料で注文できます Amazon 楽天 好評につき、2冊目がでました!(書き下ろし) 「哲学的な何か、あと数学とか」 飲茶 送料無料で注
「シュレディンガーの猫」という思考実験。 一体、何が問題なのだろうか? もう一度整理してみよう。 まず、そもそも、 この「シュレディンガーの猫」の思考実験では、 ・電子が位置Aにあるとき → 毒ガスでる → 猫は死ぬ。 ・電子が位置Bにあるとき → 毒ガスでない → 猫は生きる。 というように、「電子の位置で、猫の生死が決まる」ように 関連付けられた装置を想定している。 ここで、 量子力学のコペンハーゲン解釈では、 観測していない電子は、『位置Aにあるかも』 『位置Bにあるかも』 といった 複数の可能性として、同時に存在している と考えているのだから、 「その電子の位置によって、生死が関連付けられている猫」だって、当然、 『生きているかも』 『死んでいるかも』 といった複数の状態として、 同時に存在している ということになるはずだ。(だって、電子の状態で、猫の状態が決まるのだから) しか
フックという人を知っていますか? 「バネにかかる力は伸ばした距離に比例する!」という 「フックの法則」のあのフックさんです。 F = kx (kはバネ定数) 理科の教科書に出てきましたね。 実は、このフックさん、十七世紀に活躍した英国の科学者で、 すごい偉い人だったんです。 ニュートンより少し先に学会に登場し、 初期の頃は、ニュートンをはるかに凌ぐ名声の持ち主でした。 彼は、発明・実験の天才で「十七世紀のレオナルド・ダビンチ」とも呼ばれ、 新型気圧計、反射望遠鏡、ゼンマイ式時計、 その他重要な科学器具を考案、製作したのです。 自作の顕微鏡を使って、「細胞(cell)」という言葉を作ったのもフックです。 ただ、理論化とかそういう小難しいことは嫌いだったようで、 ずっと実験の準備や実験道具の開発をしたりと…… ようは、「技術屋のオヤジ」の典型みたいな人でした。 でも、アイデアとか発想力のような
道具主義 「概念、理論は、それらがいかに精密で無矛盾であっても、 仮説とみなされるべきである。概念、理論は、道具である。 すべての道具と同様に、それらの価値は、 それ自身の中にあるのではなく、 その使用の結果、あらわれる作業能力(有効性)の中にある」デューイ 道具主義とは、 「科学理論の役割は、結果の予測をすることなんだから、 予測と結果に整合性さえあれば、理論は何でもいい」 という考え方だ。 たとえば、キミがある実験をしていたとして、 その実験結果と たまたまぴったり合う方程式を見つけたとしよう。 だが、その方程式は、虚数などが出てきて非現実的で、 しかも実験とはなんら関係のない数式に見える。 キミは、この方程式を世の中に発表するだろうか? もしかしたら、 『いやいや、実験結果と合っているのは偶然かもしれない。 この方程式の理論的な意味づけがわからないのに、 この実験と関連していると決め
エントロピー増大の法則というのは、つまるところ、 「世界(宇宙)は、時間が経つと、どんどん無秩序になっていくよ」 ということを言っている。 つまり、「形あるものは必ず壊れる」の言葉どおり、 今存在する「秩序」はすべて、時間が経つと、必ず「壊れる」ということである。 そして、「覆水盆に返らず」の言葉どおり、 一度壊れたものは、元の「秩序」には決して戻らないということである。 たとえ、ある一部が秩序を取り戻したようにみえても、 「全体」としてみれば、確実に、秩序の量は減少しているのだ。 (人間が部屋を掃除して、部屋という部分が綺麗になっても、 「部屋+人間」の全体では、秩序が減少している) このエントロピー増大の法則の結論は、 「世界(宇宙)は、常に「秩序→混沌」へと向かっており、 混沌から、新たな秩序は決してうまれない」 ということである。 だから、究極的に言って「世界(宇宙)は壊れ続けてい
原理的に不可能 「原理的に不可能です」という言葉があり、本サイトでもよく使っているが、 そもそも、この 「原理的に不可能」とは一体どういうことだろうか? 本当に、「不可能」なのだろうか? 人類は進歩することによって、今まで「不可能」だったことを 「可能」にしてきたじゃないか! いやいや、そういうことではない。 「原理的に不可能」は、ただの「不可能」とはわけが違うのだ。 禅に、こんな物語がある。 夜中、いきなり師匠が飛び起きて、弟子達をたたき起こした。 師匠「こんな夢をみたんだ!誰かこの謎を解いてくれ!」 それはこんな夢だった。 ツボに入っていたガチョウの卵が、そのまま孵化してしまった。 このまま、放っておいたら、ヒナのガチョウは死んでしまう。 しかし、そのヒナのガチョウは、ツボから出るには、大きすぎた。 だから、ガチョウをツボから出すためには、ツボを割るしかないのだが、 そのツボは非常に高
n が 3 以上のとき、 Xn+Yn=Zn を満たす自然数 X、Y、Zは存在しない この命題について、真に驚くべき証明方法を 私は発見した。だが、それを書くには、 この余白は狭すぎる。 フェルマーの死後から100年… 多くの数学者の挑戦にも関わらず、 成果を出すことができたのは、 数学の申し子オイラーだけだった。 だが、そのオイラーも、 フェルマーの最終定理を完全に証明できたわけではなく、 「nが3の場合」「nが4の場合」と限られた場合について 証明しただけだった。 それから、さらに半世紀が過ぎ… フェルマーの最終定理について、次の扉を開いたのが、 ソフィー・ジェルマンである。 もともと、ソフィーは、フランスの裕福な商人の娘であった。 父親は、すでに経済的に成功をおさめており、 物静かで美しいソフィーは、黙っていても、 優雅で快適な人生を送ることができただろう。 裕福な家庭の内気なお嬢さん
n≧3のとき、 X n+Y n=Z n を満たす自然数 X、Y、Zは存在せん! この命題について、ホンマに驚くべき証明方法を わいは発見した。せやけど、それを書くには、 この余白は狭すぎる! こんな思わせぶりなメモを残し、 その証明方法を示さず死んでしまったフェルマー。 そのフェルマーの死後から、 100年あまりの時が過ぎた……。 だが、たくさんの数学者の努力にも関わらず、 それだけの時間が経過しても、 フェルマーの最終定理の証明方法を 見つけたものは、誰もいなかった。 しかし! 1700年代に入り、当時、最大最高の数学者であったオイラーが、 ついに、そのフェルマーの最終定理の突破口を開くことになる。 はっきり言っておくが、 オイラーは半端な数学者ではない! まさに、オイラーは 「計算するために生まれてきた」 と言われるぐらい、天才的な数学の申し子だった。 「人が息をするように、鳥が空を飛
結局、物理学的にいえば、どんな実験装置を想定したって、 つまるところ、その実験装置は、 「ミクロの物質」とその間に働く「力(相互作用)」で構成されている にすぎない。 で、「ミクロの物質」の間に「力の相互作用」が発生しても、 物質の状態は決まらないのだから、 なにがあろうが、絶対に「物質の状態は決まらない」ことになる。 しかしだ! 実際に、『人間』が箱をあけて、中をみたら、 「生きている猫」か「死んでいる猫」かのどちらかであり、 あきらかに、猫の状態は決まっている。 ここから、 「シュレディンガーの猫」の思考実験の、本当の問題が浮き彫りになる。 その問題とは、 「ふ~ん、理屈として、 ミクロの物質は、なにをしようと可能性のまんま、だということはわかったよ。 しかも、その複数の可能性が、干渉しあうんだから、 それらが、ちゃんと実在しているってこともわかったよ。 でもさ、実際には、『人間』が観
つまるところ、2重スリット実験の最大の謎とは、 「1個の粒子として観測される電子が、 なぜ、2つのスリットを同時に通り抜けられたのか?」 ということになる。 この謎は、既存の世界観ではうまく説明できなかった。 そこで、 「電子は、観測する前は波のような存在だが、観測すると粒子になる」 「その波は、粒子がどこで観測されるかという確率の波である」 という新しい世界観を持ち込む必要があった。 結局、観測する前の電子は、「波のような存在」なのだから、 2つのスリットを同時に通り抜けたとしても、何も問題ない。 たしかに、この考え方(世界観)に従えば、 2重スリット実験をうまいこと説明することができる。 だが、それでも本当に、納得できるだろうか? 「粒子」という位置や質量を持ったカチコチのものが、 観測していないときは、波のようなモヤモヤした存在になって、 2つのスリットを通り抜けた、という説明を受け
●実験Cの何が問題なのか? 実験Cについての考察の続きだ。 では、なぜこんなことが起きたのか? 実は…… それが、わからないのである!! 実験Aや実験Bなら、電子を「波」だと解釈しても、「粒子」だと解釈しても、 無理やりなんとか説明することができた。 だが、実験Cは、電子を「波」だと解釈しても、「粒子」だと解釈しても、 決して説明できない。 というのは、「実験Cは、なぜこんな結果になったのか?」を問いかけてしまうと、 どうしても説明のつかない「矛盾」に出会うからだ。 そのへんをみてみよう。 まず、実験Cで起きていることを一言でいえば、 「電子1個がスクリーン上のどこで観測されるか?」という確率の分布が、 干渉縞(波)の形になっている ということである。 つまり、 「電子1個1個は、干渉縞という「波の形」の確率分布にしたがって発見されるよ」 ということだ。 さてさて。 実験Cにおいて一体何が
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