サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
パリ五輪
www.journalism.jp
朝の駅がしら、通勤・通学に急ぐ人々の群れ、その一部はコンビニへと流れ込む。そんな人々がカウンターに並ぶ長蛇の列を見ていると、一人一人の焦りが感じられるようで、通勤地獄の過酷さについて想いがいたる。「毎日、すしづめの列車に揺られているので、もう慣れたものですよ」と当人たちは言うのだろうが、8時20分までにはオフィスに滑り込まなくちゃいけないという焦りと、それでも買い物をしなくちゃという焦りとがせめぎあっている様子が、彼らが眉間に寄せている皺からは見て取れるように思う。 もっとも毎日、同じ会社に行って仕事をこなせるのは幸せである。力があるという証拠でもあり、自ら生活費を稼げるということであり、何より自立している感覚が羨ましい。そして、仕事を積み重ねる中で、少しずつ力をつけて普段とは違うことができるようになる。そんな成長っぷりは確かな形で毎日を生きていくことを勇気づけるだろう。 ただ、そんな
1、はじめに 今、日本は空前のオタクブームなんだそうだ。確かにそうかもしれない。2005年にフジテレビで放送された「電車男」は平均視聴率が20%を超える高視聴率を記録。TVにはアニメーションやマンガ好きを公言して出演の機会を得る芸能人が増加。都市部ではメイド喫茶なるものが流行り、メイド服を着た店員が店のビラを配っている。書籍でも秋葉原のガイド本が出版されたり、新書で「オタク」を扱った本が増加している。野村総合研究所はオタク市場予測チームを発足させて、企業へマーケティング戦略や商品開発への応用のためのアドバイスを行なっている。日本政府も知的財産戦略会議の報告の中で、オタクという言葉は使わないまでも、アニメーションやマンガ、ゲーム等のコンテンツ産業に期待を寄せている。これからはオタクの時代、コンテンツを育成させて世界へ発信していくのだ。そんな声が聞こえる。でも、ちょっとまってくれ。そのコンテン
●今日発売の朝日新聞『論座』の4月号に、私が1月号に書いた『丸山眞男を(略)』に対する応答集が組まれています。 応答という括りでは(以下 敬称略)「佐高信」「奥原紀晴」「若松孝二」「福島みずほ」「森達也」「鎌田慧」「斎藤貴男」という、これだけでも凄まじいビッグネームが並んでいるワケですが、さらに「鶴見俊輔」(その中に「上野千鶴子」の反応も出てくる)「吉本隆明」という、重鎮インタビューでも私の話に触れていただいています。これは内心ガクガクブルブルものですね。 (こうして名前を書くだけでも、全部通して3度ぐらい、名前の間違いがないか、見直してしまった) これについては、論座の少し後の号で再対応します。 決して単純な反論ではなく、前回の話、すなわち既成左派と、私の噛み合わない部分について、もっと明確に深く考えて行こうと思っています。 そうそう、論座の発売日が毎月5日から、毎月1日に変更になったそ
●武田さんのところより きっこの日記で紹介されていた町屋の豆腐屋の親子心中も酷い事件だと思うけれど、弱い人間に対して、その傷みや絶望を含んで少しでも共感しようとする、本当の意味での想像力が社会全体として希薄になっているのではないか。だから格差社会が流行語として消費されるしかない。 こんな話を聞いた。ある新聞の書評委員系の会議で、赤木智弘の論座寄稿『丸山真男をひっぱたきたい』が話題になったとき、「若いうちって一度は戦争を望むとか言いたがるんだよね、ハッハッハー」で話は終わってしまったのだという。赤木がどういう立ち位置からその原稿を書いたかなんて全然分かっちゃいない。分かろうともしない。知識人ギョーカイ内で、シニカルでウィットに富んだ人間だと自分が思われたいという本当にくだらない虚栄心が、高層マンションとスーパーに包囲されて仕事の先行きがどうにもならなくなって町屋で心中するしかなかった年老いた
●「まだ続いていたのか!」と、ここの読者の人は驚くかもしれないけど、どうしても自分のしていることに責任を持ちたいので、まだなんとか続けていたわけです。 結局のところ、ワークシェアリングにしてもベーシックインカムにしても、経済強者の側、というか、ごくごく普通に生活をしている側に「弱者のために自分の金や仕事を支出するのは当然」という合意がなければ絶対に達成できないわけで、そういう意味で「強者は弱者と結婚するべき」という考え方も、これをわずかに変形させたものに過ぎず、これに対して発言主を誹謗中傷するような過剰な反発が起るような社会では、ワークシェアもベーシックインカムも達成できず、結果、その主張自体が単なる「平等平和ゴッコ」にしかならないことは、明白なのです。 で、まぁこのことの結論については、harutoの言葉を引用しましょうか。 「おまえが生まれたことが俺の不幸の原因だ」と誰かが言うなら、そ
●そういえば「(今のところ)論座だけ」の扉絵は、毎日でも仕事をしたのだから、そろそろ換えないといけないな。 ●あるある大辞典の件ですが、普通に「あるある大辞典なんて(「あるある」だけではなく、全ての健康情報番組は)、健康情報お笑い番組じゃん」と思ってた自分にとって、今回の過剰な報道や、街の反応に驚く。というか、こんな大騒動になるほど、この番組を信じている人がいるほうにビックリ。 たかだか数人の被験者による、測定条件すらまともに設定していない自称「実験」のデータなど、捏造でも本物でも無意味。 結局、問題は騙す側ではなくて、こんなものに騙されてしまう側にあって、こうした報道においても「我々はあるあるに騙されていたのだ!」と騙されている。 スーパーや納豆業界も被害者気どりだが、あるある的な「健康効果」を散々唄って商品を売ってきた過去があるのだから、彼らだって騙してた側であることに違いはない。ある
journalism.jpメンバー、東京大学先端科学技術研究センター・ジャーナリストコース受講者によるポッドキャストです。各回のテーマ、あるいは注目するニュースなどを題材に、参加メンバーがトーク・セッションを行います。 ◆ RSSの登録はこちらをクリック。 ◆ iTunesへの登録はこちらをクリック。 ◆ルノアール大久保店「会議室 1」での収録が恒例となりつつあるJCcast。第19回の第1部は粥川が『健康格差と正義』を取り上げる。第2部は赤木による「ビッグサイトでのエスカレーター事故から」。第3部は、先日閉幕した北京オリンピックに関するニュースから、先端技術と未来のドーピングについて山下が話題を提供。さて、これらのトピックに共通するテーマとは? (08年8月28日収録) 参加メンバー ・赤木智弘 ・粥川準二 ・山下祐司(JC-Nex!) ・武田徹 ◆第19回を視聴 ◇第1
●「「平等」か「生存」か」の内容が酷かったので、批判的なコメントを書いたら、「歩行と記憶」さんに勘違いされてショボーン。 俺がいきなりそんな意味も分からない一方的な批判文章を、今までやりとりをしてきた方に突然書くと思いますか? 思いますか。そうですか。そうですね……思うよな……。 さて、そういうわけで、私が「「平等」か「生存」か」の何が気に食わなかったのかということを、書くとします。全部は書いてられないので、2点だけ。もちろんその他の部分についても、全くの的外れであることは言うまでもない。(俺は「親ゆとり教育」だし、TBSに在日が入社したことだって、彼の思っているようなことはまったく思っていない) 最初に1点。 要は私がなんの為に「赤木智弘はニセ弱者なのか」というエントリーを出したのかが分かっていない。 もちろん、主題としての「立場を偽装するもの」というニセ弱者論に対する批判があるけれども
●研幾堂の日記 より なんとも奸智邪悪な なんでも筆者もまたフリーターであるそうだが、丸山真男を読んでいて、しかも「論座」に文章を掲載もしてもらえる「フリーター」とは、一体、いかなるフリーターなのであろう。私は、それは位置取りの偽装であると思う。そういう立地点でのものと偽装したいのであろう。 なんとも能天気な。 というか、「私がフリーターである」ということが偽装だったら、 もし、本当は俺がどっかの大学の研究員なりなんなりで、ちょこちょこっと論文を書いて、大学から給料をもらって、それで生活ができるんだったら、どれだけ幸せなことか。 私は今までの人生の中で何度、眠りに就く前の布団の中で「明日起きたら、この人生が全部夢で、本当は妻や子供がいて、幸せな生活を送っているということになってないだろうか……」などと考えたことか。 ああ、本当に私のこの人生が偽装であってほしい。 でも残念ながら偽装じゃない
●フリーターを探せ ワーキングプア依存のもろさ なんだこのバカな記事(爆笑) なんで企業のチェーン展開を支えるために、フリーターが犠牲を強いられなければならないのか。 人が集まらないなら給料を上げればいいのに、「働きがい」を給料代わりにするバカさ加減。 格差の存在を前提にした企業形態など、崩壊して然るべきだ。 「仕事をやってもやらなくても同じ給料では、モチベーションも上がらない。鉄人には社内の会議にも出席してもらい、ほとんど社員に近い扱いをします」(同社エリアマネージャーの片平豊彦さん) って、たった時給1000円で社員並みにこき使うことが、彼らの中では「フリーターにヤリガイを与えている」ということになっているらしい。なんてバカなんだろう。 共著『10代のぜんぶ』(ポプラ社)などがある博報堂生活総合研究所研究員の原田曜平さんは、 「人間関係のしがらみの少ない社会で生きてきた彼らは、『おまえ
●労働市場改革:正社員待遇を非正規社員水準へ 八代氏示す 素晴らしい。 まぁ、俺が戦争を引き合いに出さなければいえなかったようなことを、学者先生というのはアッサリ言うことができて、不公平だとは思うけれども。 非正規雇用者を本気で救おうと考えるならば、正規雇用者との格差の是正を行なわなければならず、そのためにもっとも必要なことは、双方の賃金格差をなくすことであって、この提案はまさにその原理原則に則った内容と言える。 「平等!」と叫べばそれが達成できると考えている連中には分からないのだろうが、平等には金という後ろ楯が絶対に必要なのだ。金のランクが平等になって初めて民族や性別や出身地というファクターを解決できる。そのためにできることは、まさに労働層の賃金格差の是正、それも、今すぐできることが明確な下方修正が必要だ。 なぜ上方修正でないのかといえば、上方修正のためには社会全体のパイを引き上げなけれ
●論座の記事のタイトルになっている「丸山眞男をひっぱたきたい」ですが、文章を読んでいただければ分かるように、丸山の名前に意味はほとんどありません。 まぁ、原稿出してゲラが戻っていたらこのタイトルになっていて「え?そこ?」と思ったんだけど、短い文字数でインパクトがあっていいなと思ったのと、他にいい案も思い浮かばなかったのでOKにしました。 そもそも、文章を書いている途中では、丸山の事例はいい具合の「低学歴で決して裕福では無い人間が、知的エリートを下に見て引っぱたくことができるステキな事例」として提示したにすぎないんですよ。 しかし、このタイトルを見て「ああ、ここで丸山眞男の名前を出すということは、戦後民主主義の枠組み自体に反発するという意味にもなるな」と気づいたのです。なんか、意図せずに駄ジャレを言ってしまったような気分ですね。 また、丸山眞男の名前は、私の今のターゲットでもある既得権益左翼
●この記事についての注意。 この文章は2006年9月15日に書かれたものであり、いまの私は、この文章のママの考えかたをしていません。 また、私の男女問題の認識につきましては『若者を見殺しにする国』(双風舎)の中に記していますので、必ずそちらを一読していただけるよう、よろしくお願いいたします。 Blog記事というのは、あくまでも著者の考えかたの断片を記しているに過ぎず、その言説を行うためのさまざまな仮定された条件を読み解いて、始めて著者の考え方が読み解ける物であると考えています。 この記事は、私が論壇デビューする前のものであり、さまざまな考え方や書きかたの実験を含んでいます。 特に「過去の記事」というのは「その時点で考えていたこと」に過ぎません。一度でも過去になにか書いたら、一生、その発言について責任を取れという考え方を私は好みません。 本当なら、過去の文章に手を入れるのは好きではないのです
●論座、まだ誌面確認してない(笑) 5日はちょっと外に出られなかった。出ようと思ったらもう夜遅いし、ここ数日で一気に冬がきたようで寒いし、明日でいいかな、と。(なんてことを、5日の深夜に書いていたら、もうそろそろ6日の本屋が開く時間が迫ってきた。日記のアップが終ったら、本屋に行くことにする。本は送られて来るだろうから、買わないでいいや) で、論座を読んで来てくれた人向けに、私の基本的な姿勢を書いておきます。 まず、第1に私はリベラルであることを志向しています。 ちなみにネオリベではなく、福祉国家的な方向で。 私が平和な社会を批判するのは、この「平和な社会」という言葉が指し示すものが、コンクリートで塗り固められた強固な幸福階層制度を意味しているからに他なりません。 すなわち、「現状で幸せである人が幸せであることこそが平和である」。このような社会です。 こうした平和社会観は、「子供の安全安心」
●ネタがないので、中途半端に終ってた書きかけの文章を引っ張り出して、ちゃんと終らせてみる。 子供は超ハイコストを支払っても、生かされるべきなのか。 最近は「死ぬ死ぬ詐欺バッシング」が大人気である。(これを書いた時はそうだった) つまり、「子供が難病にかかっているから寄付をしてほしい」というサイトが、ロクに収支を明確にせず、かつ自身の財産をロクに切り崩さず、大量の金を集めているということに対する批判である。 もっとも多いのが、渡航費用の不明瞭さに対する非難。 ただ、少々炎上しすぎだと思うのが、「両親のホテルの宿泊費まで、寄付でまかなっている」という非難。 「移植者のための居住施設があるのに、ホテルに泊まるのは贅沢だ」という考え方があるようだが、私は当然両親の渡航費用や滞在費は寄付でまかなうべきだと考える。そして日本語によるサービスの有無を考えれば、日本語スタッフが常駐しているようなそれなりの
●いわゆる「死ぬ死ぬ詐欺」について考えているんだけど、俺にはどうも「なぜ難病の子供が生きる権利があるのか」が分からんのよ。 「命は等価だ」と考える自分にとって、片や1億以上のコストをかけて生かされる命と、片やワクチン注射など、数百円で生きる事のできるできる命を両天秤にかけないことは、バランスを欠いているとしか思えない。 これは「1億以上のコストの子供」と「一人頭500万もかければ、仕事を与えることのできるフリーター」も同じことで、なぜ日本人の裕福(子供を産むことができる経済力=裕福)な家庭だけが、1億もの金を与えられて、それを正当だと考えられるのかがさっぱりわからない。 ぶっちゃけ、これが詐欺だろうがなんだろうが、その辺はどうでもいいんだけど、とにかくこの「生存権の極端な偏り」を大きな視点として、ひとつ文章を考えています。 ちなみにざざっと、みなさんの思考のヒントになりそうなキーワードだけ
●本来書こうと思っていたことが、少々煮詰まり気味なので、違うことでお茶を濁す。 北田暁大による「『カーニヴァル化する社会』 鈴木謙介」の書評。 これを読んで、ちょっとムカッとした。 率直に言わせてもらえば、私は世代論こそが今もっとも重大かつ重要な議論であると考える。 なぜなら、我々の不幸は「バブル崩壊後に社会人になるしかなかった」事であり、彼らの幸福は「他者の作り上げたシステムに乗っかって、なんの苦労もなしに定年を迎えつつある」事であるからだ。もちろん、前者が団塊ジュニア世代で、後者が団塊の世代である。 もっとはっきり言ってしまえば、世代論の忌避は団塊の世代の利益にしかならない。 世代論の忌避は「世代」によって彼らが得た利益を、「個人」の利益にすげ替えてしまう。 かくして、「団塊の世代は、その卓越した能力によって、今の地位を得た」ということになり、団塊ジュニアはその無能さがゆえに地位や金を
●思いつきにつき、メモとして。 昨日書いたような「左翼と若者弱者の離反」が起るのは、それぞれが論じている「格差問題」が、同じ言葉を使いながら、まったく内容の違うものだからではないだろうか? とりあえず「格差問題」を3つにザックリ分けてみる。 1、現行の社会システムが必然的に発生させてしまう格差の問題 これは、もともとこの手の問題が「格差問題」と言われる直接的なきっかけになった佐藤俊樹の『不平等社会日本』や、山田昌弘の『希望各社社会』で論じられているような、日本のシステムが必然的に格差を生み出してしまう問題としての「格差」である。 佐藤俊樹は、職業が決して各人の能力に従った適正に沿ってあてがわれるのではなく、親がホワイトカラーなら、子供もホワイトカラーになりやすいという関係性を見つけ、決して日本は平等ではなく、一億総中流の社会が過去のモノ(団塊世代の時点で、既に過去になっている!!)であるこ
●最近、飲酒運転がどうたらな報道が盛んなようですが、飲酒運転は公共交通の重要性を軽視し、自動車会社の発展の為に自家用車の所有をさも「成功体験」であるかのように喧伝し、自家用車を走らせるために高速道路や各種道路をつくってきた国の経済策によって引き起こされている問題であり、決して個人のモラルの問題ではありません。 そもそも、人が一人移動するのにわざわざ、数トンもの鉄の塊である「自家用車」ならぬ「自己用車」を動かしているのですから、それで事故が起きないほうがおかしい。歩行者同士なら、曲がり角でぶつかって「ああ、すみません」ですむ出会い頭が、どっちかが車であれば、途端に大事故に変貌してしまう。 別に飲酒運転に限らなくても、そのような事故はそこいらじゅうで毎日のように起っているわけで、そうした現状を無視して、さも飲酒そのものが事故の原因であるかのような報道は、恣意的過ぎます。原因では飲酒ではなくて、
●売国奴安倍晋三の出馬表明。 マスコミは「美しい国日本」という部分を強調しているようだけど、俺は「(各種既得権益者のためではなく)普通の人々のための政治を行なっていきたい」という部分に注目する。 「普通の人」というのは誰のことかと言えば、安倍晋三が否定する「既得権益者」を含む全ての人々の事。全ての人々が自分の事を「普通の人」だと思っているし、そうした意味ではこの発言は一見、何も言っていない発言のように思える。 しかし、「普通の人」であることを土台に、そことは少し違うことにアイデンティティーを持っている精神的に裕福な人たちに比べて、普通の人であることを土台に持たない人々がいる。それが「若者弱者」だ。 当然私を含む彼らは、「自分たちは普通の人のハズである」と思いながらも、普通の人が得られる「給料や尊厳」という重要な土台を得られないでいる。 そうした中での「(各種既得権益者のためではなく)普通の
●『バックラッシュ!』の件がまとまらなかったので、少々別の話題を。 件の「子猫殺し」の話。 別に「私は猫を飼わない」という人が「生まれた子猫に責任を取れ!」というなら、「責任をとれないのなら飼うな」という話で、スジは通っていると思うのだが、一方で子猫を飼っている人が「ちゃんと避妊手術を受けさせろ!」というのは、私にとっては大変不可解な抗議だし、この抗議の不可解さに気付かないということに「恐ろしさ」を感じてしまう。 「歩行と記憶」経由で「てるてる日記」のコメント欄を読んで見たが、なるほど、気が滅入る発言ばかりだ。 この感覚は、いつぞやのイラク人質事件に対する「自己責任論」が噴出した時に感じた絶望感「世の中にはここまで性根が腐っている人間がいるのか……」と同じものだ。 「犬と猫の去勢手術のFAQ」というのを読んでいても、明らかに「人間にとっていいことづくめ」という、猫を一匹の生体ではなく、一個
●「太陽」を見てきた。 川崎のシネチッタまで行ったのですが、館内は満員、別に変なウヨクとかもいませんでした。 映画は敗戦直前の極めて緊迫した空気の中で映画は始まり、極めて重苦しい空気の中で、天皇の日常が過ぎていく。従者たちは極度に落ち着きがなく、天皇の精神も決して正常なものではない。 気がつくと既に日本は敗戦している。 やがて天皇や従者たちも、ようやく自己を回復したかに見え、ギャグシーンなどもあり、映画館自体を巻き込んで、なごやかな雰囲気に変わっていく。 そして皇后が疎開先から帰宅。人間宣言に触れ、夫婦の会話と触れ合いで完全に人間であることを取り戻したかのように見える天皇。 しかし、従者が映画内で唯一「いいえ」とハッキリと天皇に対してものを言うラストシーンで、天皇という現人神は、けっして人間になれないという現実を突きつけられる。 作品としては全体的に重苦しいので、映画館という「目の前のもの
●私は今までウヨ厨のいうような「日本の家族を崩壊させたがっているサヨク」の存在など、ふざけた妄想に過ぎないと思っていました。 そしたらいましたね。本当に。 「記憶と歩行」06/08/11のコメント欄より。 terutell 『その、赤木さんという方が、どうして、強者男性に、養ってくれ、といわないのか、わからないんです。別に、生活のために強者女性と結婚しなくても、生活のために、強者男性のなかから気の合いそうな人を選んで友情に基づいた共同生活を送ればいいんではないでしょうか? なんで女性に要求するの?』 serohan 『おはようございます。 terutellさんのコメントに、共感をしながら読んでいました。 >女の人が「男を慰めたり支えたり」することを生き甲斐にしているんではないかと、思っている男性は多いと思いますよ、 本当にそうだと思います。おそらく、赤木氏も無意識のうちに、そのような概念が
●『サイファ 覚醒せよ』文庫版あとがき:「実存的な曖昧さへ」を読んで、「まだこいつはこんな悠長な事を言っているのか」と愕然とした。 ハッキリいえば、このような思想は、その生活に対して十分な金銭という土台が築かれていることが前提条件なのだ。 ただ曖昧なままに生きていれられる強度など、金銭のない生活の上では容易に瓦解する。 ならばこうした論理が適用されるのは、若い人や現在道を迷っている人たちではなく、既に金銭という土台を手に入れた、既存の強者である。 そしてそうした強者のうち、女性に対して、「NANO主婦」という新たな付合がつけられているそうだ。 もちろん、私自身はこのようなレッテル張りに賛同しない。だいたい、主婦なんて昔っからその程度のものだろう。(念の為に書いておくが、男性会社員だって同様に「その程度のもの」でしかない。別に彼らが主体的な意味をもって会社にいるわけではないだろう) このよう
●件の場所がコメント欄を差し止めてしまったので、仕方なしにこちらでコメントに対する返信を掲載。どれだけの人が見てくれるかは知らないけど crafty さんへ >先延ばし、なにも解決しないというのは、 >再配分、つまり強者がコストを払わなければ意味が無いということでしょうか。 その通りです。 現在においては「弱者から強者へ」の金の流れはあっても、「強者から弱者へ」の金の流れがまったくありません。というか、そうした流れが一方通行になってしまったからこそ、現在の格差問題が発生しているのです。 ですから、なんとか「強者から弱者へ」という金の流れを作り出さなければなりません。 >それなら、やはり再配分を結婚という形で実現するよりは、お金の形でルームシェアのコストを援助させたり、 >ベーシックインカムを保障する方が多くの弱者男性にとっては現実的な気がします。 問題は「それを誰がするのか?」です。 だれ
●「成城トランスカレッジ!」によると、私が火をつけた(と自慢してもいいだろう)「弱者男性に対する問題」という火の手が順調にのびているようでなにより。みんな張り切ってやって欲しい。 と言いたいところだが、飛び火した先での議論のレベルがあまりにも低くて辟易しているのが正直なところ。 まぁ正直、最初っからそれ以上の期待はしてなかったんだけど、やはりというかなんというか、単純に「弱者男性をどうするか」「弱者男性と男女平等論の関わりは」という話に終始してしまっていて、私が書いたことの一部要素だけを勝手に抜き出して、さもそれが問題の本質であるかのような「雑談」になってしまっている。 で、このような論点の捻じれ構造を別の例で例えてみましょうか。 ゲームをしていますよと。 そのゲームは、サイコロを1個振って、1の目が出れば勝ち。他の目なら負けというルール。 ただし、直接賭ける人間はサイコロを振ることはでき
●少しの間、適当な日記を。 まぁなんかいろいろあるので、部屋の掃除(現状:アリ塚のように本がここかしこに積まれている)と、youtubeひとりハルヒ祭り。最初から最後まで、2日かけて見ました。 第1話で唐突に劇中劇で話が始まり、最終話で見事にそのまんまなオチ(誉め言葉)で終わる構成は見事でした。 「セカイ系」と言ってしまえばそのままですが、ストーリー自体はあくまでも学園生活(=社会)を中心に構成され、最終話では確かにセカイ系的オチでストーリーは閉められるものの、物語が冬の話、すなわち時間軸的に最終話後の話であろう第9話の存在を考えるに、あくまでも最終話の話も「学園生活の些細さ」の一端に括られるべきなので、むしろ「メタセカイ系」と言うべきなのかも。 まぁ、へんな分析やめておきましょう。 とにかくyoutube様々。DVDを始めとするハルヒ関連グッズは売り上げがいいらしいが、アニメコミュニティ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『journalism.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く