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体力トレーニング
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「ふるさと」はどこにあるか ――室生犀星「小景異情(その2)」を考える―― 信時 哲郎 ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの 小景異情(その二)が人口に膾炙されているというよりも、この冒頭の二行だけが人口に膾炙されていると言った方が正確かもしれない。これについて岡庭昇氏は「あたかも都市に流出した民によるふるさとへの追慕というようにうけとられ、感情移入されている」として、それを「誤伝」であると言いきっている。そして「犀星の作品で、ふるさとが遠くからしみじみと想い出されたりしているわけではない。(とてもじやないが)ふるさと(なんてもの)は、遠くにあって(こそ)想い得るもので、そうでなければまっぴらだ……という以外に、ほんらい解釈のしようがない作品なのである。つまり歌われているモチーフは、なによりもふるさとへの憎悪だということだ。」(1)とつづける。 萩原朔太郎は「これは年少時
今日は電子メディアと宮沢賢治ということでお話をしてみたいと思います。しかしいざ面と向かって、「一体両者にどういう関係があるのか」と問われたら、「ほとんど関係らしい関係はない」とお答えするしかありません。今日は「これからの賢治」というテーマに甘えて、かなり勝手なことを話すということをあらかじめご了承願います。 しかしだからといって、これが本当に単なる「こじつけ」なのか、というとそうでもないのです。賢治の思索や行動の軌跡をよく考えてみると、昨今のエレクトロニクス全盛時代の、とりわけインターネットというものは、賢治にとって理想的なメディアであったのではないかと思えてくるのです。 インターネットどころかもっとずっと大昔、人間がまだ文字を持っていなかった頃、そこでは言葉を書き留める術がまだないわけですから、すべては口承で伝わっていました。しかしこれはただ「文字という技術」がなかったというだけの問題で
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