サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
大阪万博
www.storys.jp
爆速で成長していた、ベンチャー企業ピクシブ 面接の時の話はこちら=>ピクシブに入るときの話 そんな訳で、ピクシブでアルバイトとして働くこととなった私は、初出勤の日を迎えた。 (↑ピクシブのユニークなオフィス) ほぼ何も分からず始まった開発 プログラミングスキルはほぼ無く、やることも決まっていなかった私は、早速開発の統括をしていたCTOの青木さんからの指示を仰いだ。 私「青木さん、何をすれば良いですか?」 青木さん「そうだね〜とりあえずこれのモバイル版を作って欲しいな〜」 私「分かりました!(分かってない)」 青木さん「Subversionのアカウント発行しとくから、まずは環境作ってみて〜」 私「はい!(分かってない)」 青木さん「かみぽ〜溝部君のアカウント作ってあげて〜」 kamipoさん「はい」 こんな感じで、話は進んでいった。 そして、私は早速困った。 「Subversionって何だろ
25歳のある日… 僕は大阪にある本社ビルで 「起業セミナー」を受けていました。 この当時、 僕はサラリーマンとして会社に勤めていて 毎日仕事に追われる生活。 そんな平凡な日々の中、 あるキッカケから輸入ビジネスの メンター(指導者)と繋がることができ そのビジネスコミュニティに属することになりました。 そして、そのコミュニティの 最初のセミナーを受けることになったのですが、 なんと偶然にもセミナー会場は 僕が勤めている会社の本社が入っているビル。 これはただの偶然なのか…。 そのセミナーから僕の人生は激動するなんて 思ってもいませんでした。 僕の過去も含めて、 現在までの人生をお話ししたいと思います。 【安定な企業への就職】 僕は専門学校を卒業後 21歳から企業に勤めることになりました。 就職した会社は東証一部上場企業で 世間的にも「ザ・安定」だと認識されている企業です。 就職した頃はやる
売上20億,負債14億,赤字2億『絶対倒産する』と言われたOWNDAYSが10年間で売上200億,世界10カ国に進出するまでの話。 【第1話】1.4tの砂利を積んだ2tトラックのハンドルを握る。 2008年1月 東京では新幹線のぞみの喫煙車両廃止に続いて、タクシーでも全国で全面禁煙が実施され、愛煙家には一段と肩身の狭い時代に入りつつあった。この頃、当時の僕と言えば、今では信じられないくらいの超が付くヘビースモーカー。そんな世間の風潮など、どこ吹く風とばかりに、ポケットの数だけタバコを洋服に詰め込んで、禁煙ブームなど我関せずといった態度で、盛大にタバコをふかしながら毎日、忙しく仕事をしていた。 「え、オンデーズの増資を田中社長が、自分個人で引き受けるって言うんですか?」 六本木の交差点にある有名な喫茶店「アマンド」の2階の窓際の席で、奥野さんは「まるで信じられない」という顔で目を丸くしながら
「上京」 19才になった僕は故郷を捨て、彼女を連れて、横浜の地下鉄弘明寺駅のホームに降り立った 滴り落ちる汗を拭いながら、僕らはこれから始まる新生活を想像していた 給料がよくて住み込みで働けるところ 求人雑誌を買ってきては、仕事の内容もろくに見ないで、片っ端から電話をかけて履歴書を送った 仲間とつるんで悪さばかりしていた僕は、なんとなく時間ばかりが過ぎて、このまま小さくまとまってしまうことが怖くて、彼女を連れて逃げるように田舎を飛び出した 住み込みで働けるところが決まり、金も頼れるような人も何もなかったが、2人で始める新しい生活に不安はなく、若い僕らは希望に満ちあふれていた どこか僕らは似ていて、彼女も今の現実から連れ出してくれる人を待っていたのかもしれない そして、2人とも両親が離婚していて、何か普通の家庭に憧れがあったような気がする いつも僕らは何をするときも一緒で、お互いがお互いを必
こんにちは。 美容室経営をしている北原といいます。 僕は小学生の頃からずっと落ちこぼれで、友達は一人もおらず、学校の勉強にもついていけませんでした。 そんな僕は社会人になっても落ちこぼれつづけ、先の見えない将来に強い不安を感じていました。 ところが、たった1つの魔法の習慣で人生がガラリと変わり、3年で当時働いていたお店の店長に就任するまでになりました。 ここでは、その時の話をお伝えさせていただこうと思います。 何かに行き詰ったり、将来に漠然とした不安を抱えたりしている人たちの力になれれば幸いです。 学生時代の僕は絵に描いたような落ちこぼれだった ・成績は下の下 ・友達ゼロ ・コミュ障 ・ネクラ 父親の都合で小学生から転校を繰り返し、「どうせすぐ転校するから」と友達をつくらず、勉強もついていけなくなっていた。 「どうでもいい」 当時の僕の口癖だった。そして、自分の殻に閉じこもっていった。 そ
女の子とお酒飲んでお金貰えるなんて最高だな! 華のキャンパスライフに憧れ入学した中央大学。 留学もしよう、公認会計士の資格も取ろう、宅建も取って、中国語もマスターするために語学は必修が多いコースを選択しよう……などといわゆる意識高い系だった僕の夢は、結論から述べると全て叶わなかった。 多くの大学生がそうであるように実際は新入生歓迎会という名の飲み会に明け暮れ、どんどんと自堕落な方向へと流されてしまっていた。 大学一年の夏休みのこと。 ちょっと買い物に行こうと街を歩いているとチャラいお兄さんに声をかけられる。いつもはシカトなのだが、その人がまぁしつこくついてくるのでイヤフォンをとって話を聞く。 「――興味ないですか―?」 「ん?」 「ホスト!ホスト!」 その場は華麗にスルーした。しかし、帰りの駅の改札で再びそのスカウトと鉢合わせた。どうしたもんかと思いながら、帰る方向も同じだったので、不本意
2016年1月僕は市内のとあるバーで働いていた 午後3時にはお店にいた。 店長「しんたろ〜買い出し行ってきて!レモン4つ、ライム3つ、牛乳2パックとー帰りにドンキで2ℓのコーラ3本、炭酸水2本よろしく〜〜〜」 「りょーかいです!行ってきまーす!」 買い出しは自転車で行きます。 「はーはー」 「今日は買い出しいっぱいだな〜」 スーパー(牛乳2パック) ↓ 八百屋(レモン、ライム) ↓ ドンキ(コーラ、炭酸水) ↓ チャリンコのハンドルに買いもの袋をぶら下げながらの運転 今思えば超危険ww 「買ってきましたー」 店長「センキュー!仕込みして、床とカウンター拭いて、トイレ掃除よろしく〜」 「了解です」 「トントントン」 「キュッキュッキュ」 「ゴシゴシ」 「ジャ〜〜〜」 ふ〜〜終わった〜。 午後6時 店長「そろそろお店開けるよー看板出してきてーーー」 「はい!」 「カランカラーン♪」 人生を考え
僕の職場は「戦場」でした。 毎日毎日、朝から晩まで、社内は燃えたぎっていました。 その熱は元々一人の事業家の「情熱」から始まったものですが、現場としてはそんなに美しいものではなく、朝から晩まで全く息が休まることはなく、「混乱」「焦燥」「窮地」から滲み出る「労働者たちの”人熱”の集合」みたいなものでした。 現場は常にギリギリの戦いを強いられて疲労困憊していました。 「おい、この件、どうなってる?担当の●●はどこいった?」 「(連日の徹夜で)さすがに倒れてしまって病院いってるみたいです。携帯も繋がりません!!」 「ふむ、そうか」(しょうがない、かまってられない、進むしか無い) みたいな会話が日常に行われていて、労働問題が叫ばれる昨今(2017年現在)ではあり得ないセカイでした。 =========== 2000年前後、当時ソフトバンクグループは既に日本を代表するインターネット企業に上り詰めよう
プロローグ 毎日残業なんてしたくない・・・。 嫌いな職場の人たちと一緒にいたくない・・・。 本当の自分を押し殺して働くのはもう限界・・・。 私は今、26歳の会社経営者。 新卒1年目22歳の時はブラックな職場で医療事務として勤務しており、 毎日がとにかくストレス、ストレスストレス・・・。 そんな生活に限界がきて 丸1年勤めた後に退職しました。 その後、23歳でサイトアフィリエイトを始めて 約2年後には医療事務の基本給と ほぼ同額の家賃がかかるマンションに住める収入になりました。 今は「時間的・金銭的に自由な人生」を謳歌しています。 さて、こんな私は何を考えて 人生をおくってきたのでしょうか? ~暗黒の新卒1年目~ 「今日は22時まで仕事だからね」 えーっ?! 入職2日目にして、いきなり22時まで残業?! 予告もなしにそう言われて、耳を疑った。 通勤時間は「自宅から徒歩8分」という一見、 楽そ
20代の頃、僕には付き合って2年の彼女が居た。 僕がすごく惚れててそろそろ結婚を切り出そうと思ってた。 それがある日、頭をハンマーで殴られるほどのことが起きる。 それは僕の友人と彼女がセックスしてるところを見たのだ。 あとでわかったのはお互いすごく酔ってたからだったけど、酒の飲めない僕は 「うん、あることだよね」と納得することもできなかった。 結果は友人とも彼女とも縁を切った、 周りはもっと怒ってよかったんじゃないの?と言われたけど感情的には何にもなかった。怒るどころかなんの喜怒哀楽も自分の中に無くなっているんじゃないかと思うほど何にも思わなかった。 ただ、粛々と身の回りの二人の思い出を片づけてた。 2週間くらい経って、ちょっと気持ちが落ち着いてきてた。 出会い系の女とのセックスで嫌なことを忘れる 僕の中には彼女が欲しいって気持ちは1mmもなかったけど、なぜか性欲だけは以前よりも増してた。
奇跡は自分で起こす!18歳で致死率99.9%の脳出血から奇跡的に生還。在学中に高学歴男子集団でビジネスに目覚めた秘訣。 あれ・・・? これって夢だよね? それにしても、この夢長くない? 今までこんなに長い夢あったっけ? 何だか現実のようだな・・・でも夢か。スースー 2009年の4月、総合病院の病室にいた私は、 あの世から無事に生還したが、 脳がやられて現実なのか夢なのか、よくわからない状態になっていた。 ~致死率99.9%の大病~ 高校3年生 卒業目前の3月に受験のストレスで、 ある日突然、致死率99.9%の脳室内出血を起こした。 その時は母が奇跡的に帰宅し、 ベッド上で寝ながら嘔吐していた私を発見。 母は「重度のインフルかな?」と思ったそうだが、 あまりにもぐったりしていて病院には連れていけないと思ったらしく 救急車を呼んだ。 しかしインフルのはずなのに、娘の状態がおかしい!!! どんど
ジェットコースターのような乱高下する人生は、友達のユウくんに誘われて、キャンプに参加したところから始まった。季節は秋。1泊2日のキャンプに、私は「暇だし」という理由で、特に期待する事なく参加した。私も含め男女8人が東京郊外のキャンプ場に集まったのだけど、私の知り合いは誘ってくれたユウくんだけ。私の他に女子が1人いて、残った5人の男の中に「彼」は居た。 やや小柄でモンベルの緑のアウトドアウェアを着ていた彼は、天然パーマのくせ毛で、ちょっとだけ前歯が出ていた。 「サッカー日本代表の遠藤に似てるね」 そう言ったのを今でも覚えている。その時の彼の返事は、 「前歯だけだろ」 というものだった。嬉しそうでも悲しそうでも恥ずかしそうでもない、それが私達のファーストコンタクトだった。 午前中に都心を車で出発して、東京郊外のキャンプ場についたのは午後3時頃。一番最初にしたのは、みんなでテントを建てる事だった
最初に言っておきますが、これは僕の勝手な見解です。 ちなみに、僕はカナダに住んでいた時期もありましたし、現地で留学エージェントとして働いた経験もあります。今はフィリピン留学のエージェントをしています。そんな僕のストーリーというか意見なので少しはみなさんの役に立てれば嬉しいです。 まず、題名にある通り日本人は正直英語を勉強しなくてもいいと思っています。 その理由は「別に英語なんて使えなくても日本語だけで生きていける」から。 僕は日本で生活していて英語が使えないから困ったという経験がほとんどない。 みなさんも考えてみてください。 あまりそういう経験はないはずです。 あるとしたら、あなたが意識的に必要な環境に身をおいているから。もしくは、観光で来ている外国人に道を聞かれた時ぐらい。。。。でしょうか?いやいや、もっとあるかもしれませんね。いずれにしろあなたにとってそんなにたいした事ではなかったはず
「ブレイクアウト」を“崩し”にかかる ① 戦略の決定 さっそく西角は戦略を思案。 ブレイクアウトを超えるためには、 ブレイクアウトの面白さを取り入れた上に、オリジナル性を出すことが重要だと考えた。 ブレイクアウトの面白さは、やはりターゲットを一つずつ消していき、最後の一つを消した時のあの爽快感だ。 次に、ブレイクアウトには無いオリジナル性の部分だが、 これは「CPUを駆使した撃ち合い」だと考えた。 ブレイクアウトでは、プレイヤーが一方的にブロックを崩すだけ。たまに跳ね返ってくるものの、それは自分が放った玉であって、受けても問題はない。 これを”当たってはいけない”相手からの攻撃にしようと考えた。 さらに、これまでのゲームでは敵から攻撃されることはあっても、 敵から「狙われる」ことはなかった。 「プレイヤーの位置をコンピューターが認識して選択的に攻撃をしかけてくる」 今では、当たり前となった
Appleの創業者スティーブ・ジョブズが19歳だった頃、 ジョブズ「おれを雇うまで、帰らないからな」 そう言って、オフィスに居座った会社があったのをご存知だろうか? 社名は「アタリ」、ビデオゲーム*の開発会社だ。アタリ全盛期の企業成長スピードは、Apple、Google、Facebookをも凌ぎ、アメリカ史上最速だったと言われている。 (*ビデオゲーム: モニター画面に表示される内容に従って進めるタイプのゲーム。ゲームセンターなどのアミューズメント施設でプレイするゲームから、テレビに接続して家庭でプレイするゲームまでを指す。) 1970年代前半、この「アタリ」社のビデオゲームが世界を席巻していた。その頃の日本はかなりのゲーム後進国。今でこそ、プレイステーションやWiiなど、日本は世界一のビデオゲーム立国と言っても過言ではないが、当時はアメリカにずいぶんと劣り、ビデオゲームにおける開発技術力
ひとり結婚式から1年余り経った頃。 なんと、ふたりで結婚することになった。 本当にちゃんと結婚しました「ふたりで結婚する」という言葉は「頭痛が痛い」のように間違った日本語なはずだけれども、ひとり結婚式を知る周囲の人々に結婚の報告をすると必ず「またひとりで?」と訊かれるので「ふたりで」と付け加えなければならない羽目になった。 あるいは「こいつなに言い出すんだ」「またろくでもないことをやるつもりだろう」と苦い顔をされたり「もうしたでしょ」と認知症のご老人に諭すような口調でからかわれたりなど、なかなかまともに取り合ってもらえなかった。 心配の声も多かった。「旦那さんになる人は同棲失敗をネットに書いていることやひとり結婚式を知っているのか」 ちゃんと知っているのでご安心ください。面白がってくれており、同棲に関しては「ゴミ屋敷に住んでる人ってたまにいるよね」ひとり結婚式に関しては「特にケーキ入刀がカ
普通の人が一番だ。 これが私の行き着いた結論だった。 ワンルームマンション一杯にゴミを溜める男はダメだし、チリひとつない部屋に住み私のファンデーションのヨレやマスカラの滲みを即座に指摘するような細やかな人は疲れるし、「いつかビッグになる」が口癖でスタジオ代をせびり、浮気をした挙句に家財道具一式を持ち逃げするようなバンドマンは最悪だし、道をまっすぐ歩くことができず、電柱やガードレールに登りながら移動するような宇宙人とは相性が合わなかった。 とにかく奇人変人はもうまぴらごめんだ。 もっと早く気がつけばよかったのだが、いかんせん私はどうしようもない阿呆なのであった。 私、普通の人と付き合いたい「普通の人が良い」と鼻息を荒くしていたちょうどその頃合いに、大学で知り合った普通の好青年が私にアプローチしてくれた。同じ大学に通う学生同士の交際。その普通さになんだか感動した。鴨がネギをしょってきた、という
まえがき 28歳大学生受験編から32歳新卒内定までの体験談を読んで頂いて、 誠に感謝です!沢山のお声を頂戴して書いてよかったなあとしみじみ思います。 今回は新卒就活ノウハウ編を書かせて頂きます。 それにあたり、正直なところ僕の場合は特殊なケースで、 32歳から新卒就活で10社中6社内定を頂きました。 そのため、22歳で就活をされる多くの方の参考になるか分かりません、 僕ぐらいの年齢で大学入られた方の参考には少しだけなるかもしれません。 ただ、一つだけ言えるのは、僕の考え方は非常識だということです。 それでも良いという方は読んで頂ければ幸いです! それでは、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ このたびSTORYS書かせて頂いたご縁で出版いたしました。 2017年4月15日八重洲ブックセンターさんで14時からトークショーを行います! ご興味があれば是非!お話しましょう!
最初はアムウェイでした。 声優目指してる時に誘われたんですが、未成年だった為登録には到りませんでした。 ただ、そこには夢を語り、すごく輝いて見える大人達がいました。 まあ・・・、三十路も過ぎればそれがどんなものだったのかは言うまでもないのですが、 夢も希望もそれなりに明るく持っていた19歳には、新鮮では済まされない世界でしたが、 未成年ということで取りこぼした夢のカケラだったのです。 それから3年を経て、音楽で上京していた私にまたしても声をかけてきた人が居た。 渋谷の青山通り 宮益坂にある怪しい会社です。 当時、超音波美顔器を扱っていました。 一台40万もする代物です。 いくら情弱全盛の時代とはいえ、大阪人の勘が「市場価値的におかしい!」と訴えていたのですが、「洗脳」に負けてしまいました。 当時でも数千円から1万円ちょっとで超音波美顔器くらいありましたから・・・。 そういう市場価値と照らし
前編をおさらい前編 28歳大学生サラーリマンからの受験挑戦を読んで頂いて誠にありがとうございます。 簡単におさらいすると、フツーの高卒サラリーマン営業職が葛藤の末に偏差値40からの大学受験を決意し、半年で国公立大学に受かるという体験記でした。 今編では、実際にあった体験記を描きます。 ノウハウ等は読みたい方がいらっしゃたら書こうと思いますので、 宜しくお願いします。 おかげさまで、全国書籍化決定致しました。 作こすげまさゆき 画よこたちさ かんよう出版 2016年12月発売予定 現在は、アマゾンで先行予約をしております。 もしご興味があれば。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大学の洗礼 大学に受かった3月、ぼくは腑抜けになっていた。 気力を果たして、10キロ痩せていた。 ジャストサイズのパーカーがよれよれと動く。 とにかく受かった。 10日程、家に引きこもって眠りたい
「大学って、何?」 「おまえギャグかよ!その年で大学行ってどうすんの?キャリアも無くなるし32才で新卒採用で取ってもらえると思ってるの?!」 同僚の厳しい論調はこの夜ずっと続いた。 今から8年前、2009年1月、ぼくはサラリーマンをしていた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ おかげさまで1万人以上の方に読んで頂きました。 誠にありがとうございます。 現在、書籍化プロジェクトをMAKUAKEでやっています。 20%OFFで先行予約や就活ノウハウブック!などをしていますので、 ご興味のある方は是非そちらも宜しくお願いします。 それでは、続きをお楽しみ下さい。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高校3年生の時に、原因不明の病気で倒れた。 気がついたら水だけの生活が待っていた。ようやく回復してきたのが20才の時、アルバイトを始めた。 何度も挫けそうになってやっ
『水がない…』 2015年2月21日 僕は3人の先輩とマレーシアの熱帯雨林の真ん中でうなだれていた。 僕はジャングルで遭難した。 この話は僕が卒業旅行で先輩たちと野生動物を観察しに行った時の話である。 マレーシアのジャングルへ 事のきっかけは北海道テレビ放送の人気番組『水曜どうでしょう』にあった。 僕が卒業研究をしている時に大学院生の先輩に観るように勧められたのが人気俳優の大泉洋がマレーシアのジャングルに野生動物を観察しに行かされる放送回でした。 それを見た僕は、 『なんだこの面白い番組は!!!』 僕は水曜どうでしょうにどっぷりハマってしまい、ついには視聴することを勧めた先輩に しょ~りん「先輩!卒業旅行でマレーシアのジャングルに行きましょう!」 先輩W「お前が予約とか事前の手配してくれるなら良いよ。」 僕がマレーシアに行きたいのには水曜どうでしょうのロケ地に行くこと以外にも 『日本では観
最近、YouTubeに昔弾いたピアノの音源をアップしたら「勇気をもらった」「感激した」と言っていくれる人が結構いた。なので当時の体験をシェアしたいと思う。 この話は僕が起業した後の人生の教訓にもなっているので、もし今何か挑戦していることがあれば参考になれば嬉しい。 親のような真面目なサラリーマンだけにはなりたくない 銀行マンの父と証券ウーマンの母の間に生まれた僕は、とにかく両親のような生き方が嫌で嫌で仕方なかった。 僕「なんで学校変わらなアカンの?」 母親「父さんの勤め先の支店が変わるんよ。」 僕「なんで変わるん?」 母親「上の人が言われたら従うしかないんよ」 僕「従わんかったらどうなるん?」 母親「銀行におったら上の言うようにせなあかんのよ」 上司の命令1つで転勤が決まる転勤族。 そのため僕は転校を繰り返していた。 小学校は3校行ったし中学校も2校行って義務教育だけも5校も行ったので、
ある夏の日、 僕はかつて絶対に行きたくなかった場所に行きました。 そこは、曹洞宗の大本山永平寺。 俗世間では「日本一修行が厳しい」とまで言われたお寺です。 そして何より、小学校の遠足で行ってトラウマになった所です。 遠足のときは、 寺内を若い雲水(うんすい:修行僧のこと)さんが、 親切に案内してくれました。 しかし、雲水さんの懇切丁寧な説明とは裏腹に、 「永平寺」に対して持った印象は最悪でした。 一年中、朝から晩まで修行 家族や友達とも会えない 遊べない テレビも見られない おしゃべりできない 意味がわからない… 怖すぎる…!! 生まれて十年そこそこの僕には、 永平寺の厳しさはあまりにも衝撃的で 心底震え上がりました。 帰り際に、案内してくれた雲水さんから、 「将来、みなさんの中から修行をしに来てくれる人を待っています(^^)」 と言われましたが、 もう一生二度と来るもんか!と思いました。
昨年の終わりごろから先月にかけて、私は築45年の中古マンションを購入し、フルリノベーションをしました。ヴィンテージマンションの明確な定義はありませんが、築50~30年くらいの、立地がよい土地柄に建てられ、今のある程度の人気・知名度があるようなマンション・棟のことを指しているのかと思います。(本当に有名なヴィンテージマンションもありますが、私のはそこまではありません。) 金額の詳細は伏せますが、だいたい同じエリアの今売りだしている新築マンションの約半額強の値段で部屋を作ることが出来ました。お風呂やキッチンなどの設備は、むしろこちらのほうがグレードいいくらいでしょう。 大変でしたが、満足できる部屋に住めることになりました。これから家が欲しい、リノベーションに興味がある。という方のために、初歩的なことも含め、私の経緯などお伝えさせて頂きお役に立てればと思い、長くて恐縮ですが文章を書きました。 も
『一歩先は足場もない崖だと思っていたら実は楽園だった』 僕はこれまでの人生で一度も『人生の第一志望』というものに合格したことはなかった。 学校の成績もとりわけいいわけではなく、せいぜい中の上 スポーツはといえば、足が速いわけでもなく、男子中高生の平均値くらいだ。 クラスで最高でも最悪でもないどこにでもいそうな冴えない僕は世間で言う『一般ピーポー』というやつだったのだろう。 当時は特に劣等感というものもなかったので『どうせ自分は...』と無意識に諦めていたのかもしれない。 そんなごく平凡な人生を送ってきた僕だったがついに転機と呼べる時がきた。 『大学受験』だ。 僕は中学は地域の公立校で、高校も隣の市にある偏差値50くらいのところだった。 そんな『THE・平均人生』を歩んできた僕は大学くらい頑張っていいとこを狙ってやろうと決意したのだ。 なぜここにきて頑張って平均値以上の人生を狙おうと思ったの
アルベルト・アインシュタインがこんなことを言っていたらしい。 『当たり前』と思っていることが『常識』。 『当たり前』だから疑問を抱くこともないし、そもそも気にも留めていないことだってある。 よく「常識を疑え」なんて言うけど、気にも留めていないことを疑うのは簡単じゃない。 でも自分の常識とは異なる常識と出会った時に、自分の中の常識がフッと姿を現す時がある。 16才の時にひとりで中国に行ったのが、ボクの初海外旅行だ。 高校2年生の時に、学校で「ひとりで中国に行ってくる」と冗談で言ったら本当に行かないといけない雰囲気になってしまい、特に海外に興味があったわけでも、特に中国に興味があったわけでもないのに行く羽目になってしまった自業自得の海外デビューであった。 そんな舐めた気持ちでやってきた16才の常識を破壊するには、中国は十分過ぎるパワーを持った国であった。 例えば・・・ 地下鉄の車内で座っていた
文系初心者が東大理系エンジニア集団Progateで、エンジニアとしてインターンするまで気付かなかった「1人・教材・海外留学」より大切なこと 最近は、プログラミングが流行っている。 今の社会では、世界中のあらゆる分野にソフトウェアが必要とされてきているからだ。 これからは、プログラマーに限らず、「あらゆる職種でプログラミングの知識が必要である」そんな時代がすぐそこまで来ている気がする。例えば、アメリカ、シンガポール、イギリス、エストニアなど海外の国では、国をあげてプログラミング教育を支援する動きが盛んである。 でも、文系の方からしてみれば、プログラミングは理系だけが大学の授業で学習するものだと捉えられがちではないだろうか? また、理系の方からしてみれば、授業で習うことが難しすぎたり、「これ何の役に立つんだろう?」と捉えられがちではないだろうか? 一昔前だとそうだったかもしれないが、今は違うと
どうせ将来はニートにでもなるんだと思ってた 夢がない、って言ったら嘘になるかもしれないけど なんとなくそういうことはごまして、実現しそうな未来だけ話す少年期だった。 今が楽しければそれでいい、とも思ってなかった。 ひっかかるものがある、でもそれが何かは分からず 「自分らしさ」とか「ありのまま」とかそんな言葉を多く使って 自由に生きてるぜっぽくはしたけど、結局そんな言葉こそが繭だったんだと思う。 今すぐ手が届くものより先は視界がぼやけて 手に取れることが分かる目標だけを、ただ当たり前にとっていった。 「人は死んだらどうなるのだろう」って、週刊少年ジャンプが発刊されくらいのペースで考えては 「希望も何もない人生だ」と考えるような少年期だったから、小学校の卒業文集の「あなたの20年後は?」っていう頁には無表情にバイトする自分の絵が描かれていた。 ここが地獄かなって思ってた 中学に入った部活は、テ
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『STORYS 人生物語 |あなたの物語、聴かせてください。』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く