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著作権の保護期間を延長するのは止めて欲しい。 日本は過去に発掘されていない文化物を大量に持っている。著作権の保護期間の延長すれば延長するほど、そういうものの全貌を認識するのが遅くなる。 発掘されていない文化物っていうのがよく分からないと思うので、私が調べている明治の事例を出すと、『商業小説』というジャンルがある。『商業小説』の研究者なんか存在しないし、文学史にも登場しない。その他、『凄動小説』や『時代薄小説』などといったジャンルが、私によって確認されている。こういう話は絶対に文学史に登場しないし、研究対象にもなっていない。 過去の物事というのは調べられていて、整理されているように見える。だけど実際にはそうでもない。『時代薄小説』は一二冊くらいしか出ていない。文化的な価値もほとんどない。あとぶっちゃけ面白くもない。だから普通は研究もされないし、整理もされない。 そもそも『時代薄小説』ってなん
名前:山下泰平生年月日:1977/10/07主な活動明治全般の娯楽物語を調べて遊んでます。 遊んでいる途中で発見したことは、なるべく公開するようにしています。 かのとみ 山下泰平のブロマガ 山下泰平の趣味の方法 執筆、寄稿など趣味が高じて仕事をいただいたりします。 スタジオジブリ出版部の小冊子『熱風』で『忘れられた物語 講談速記本の発見』を連載していました。 一覧 2015年は朝日新聞デジタルにて、『物語の中の真田一族』を書きました。 上 中 下 明治中盤から大正あたりの娯楽小説やら文化については、わりと知ってるほうだと思います。 textpresso@gmail.com
昨年から電子書籍の環境を整え続けている。 電子書籍をさらに読みやすくするために、書誌情報にページ数を付け加えることにした。ページ数が分かると、どの程度の時間で読めるのかが予測できる。まああってもいいけど、なくてもいいかなという程度の情報だ。 ところが使ってみると実に革命的で、予測すらしたことがなかったが、書名や筆者、出版社などの情報よりもページ数が役に立つことがある。出版年とジャンル、あるいは出版社などによってページ数に類似性があり、慣れてくると一覧に表示されるページ数で内容も感覚的に予測できるようになる。 書籍の総ページ数というのは、それ程重要視されていない。だから引用の書誌情報に、総ページ数はあまり書かない。ただし並べてみると、なんらかの重要な情報が含まれているように思えてくる。 私のデータはたかだか2000、それでもこういう面白い並びになる。 感覚的に利用できている以上は、なんらかの
電子書籍というのは便利なんだけど、環境を改善するとついつい読書しすぎてしまう。読書しすぎた結果、発生したのが次の三つのデメリットだ。 思考力が落ちてくる注意力が散漫になる不安が広がっていく本を読んでいる間は他人が考えているのと同じ状況、だからどんどん自分の思考力が落ちていく。この辺りのことは読書についてという本でも指摘されている。関係ないがこの本は名著。 その後どうなるかというと、注意力が異常に減少し始める。なぜ注意力が減少するのかというと、思考力が落ちているため考えるのに時間がかかるからである。本を読んだ後、どうしても本について多少なりとも考えてしまう。しかし読みすぎているため、考える速度が落ちている。その結果、本来は水道の蛇口を閉めたり、歯磨き粉と石鹸を区別するのに使われるべき脳のリソースが、読んだ本について考えることに利用されてしまう。すでに日常生活にかなりの支障が出ている。 最後、
事情はよく分からないのだが、私が子供の頃はとにかく差別はいけないことだと教えられた。 別に清掃業のことを馬鹿にしているわけでもなく、むしろごみ収集車の後ろの部分は格好良いと思っていた子供も大量にいたにも関わらず、なぜか社会見学でゴミ処理工場に連れていかれ、教師がキレ気味にゴミ処理は大切なんだ職業に貴賤なしなどと演説するのを、私たち子供と業者の人がウザそうに見ていたというようなこともあった。 あと黄色人種しかいない教室で、肌の色で差別するなだとか説教され、差別しようがねぇだろと突っ込みを入れたりもした。なんであんなことを教えてたんだか分からないのだけれども、とにかく差別は駄目だというのが流行った時代があったのだろう。 そういう時代に教育を受けたので、無条件に差別は駄目だということを、知らないうちに学んだような気がする。差別は駄目だと誰もがなんとなく知っていたため、知らない人間の差別発言は、一
一般的には講談の口演を速記で筆録して刊行した書籍を、講談速記本としている。 こちらも参照のこと: wikipedia:講談速記本 一八八四年、怪談牡丹灯籠が出版される。三遊亭円朝の怪談牡丹灯籠を、田鎖綱紀の速記講習会を卒業した若林玵蔵(かんぞう)と酒井昇造が速記し制作した作品である。これは速記の効用を宣伝を目的とした出版であったが、世間から絶賛される。 その後も円朝による速記本は、刊行されるたび人気を博し、講談・落語の速記本が相次いで出版されるようになる。こうして講談・落語速記本は、ひとつの商法として成立するようになる。 円朝に始まったものの、やがて落語の速記は廃れていき、講談による作品が増えていく。江戸時代にはすでに講談の種本(たねほん)が、貸本屋で人気を博していたことを考えると当然の成行といえよう。 一八九〇年に帝国議会が開設、議会速記が必要とされるようになると、速記者から講談の速記は
かってアニー・アボットという、怪力で名を馳せた女性がいた。 Tony Wolf / The Bartitsu Society http://www.bartitsu.org/ http://www.georgiaencyclopedia.org/articles/arts-culture/georgia-wonder-phenomenon このアボット嬢が、キャラクターとしてのニンジャに強い影響を与えている可能性がある。 かなり複雑な話なので、細かいことは割愛しながら解説していく。 まずアニー・アボットは明治時代に来日し、興業をしている。日本におけるアボット嬢の活動については、下記ページに詳しく書かれている。 http://blog.livedoor.jp/misemono/archives/cat_50050015.html 上記ページからニンジャキャラへの影響に関係ある部分のみ、まとめ
就職難の際に仕事は選ばなければあるって話が出るけど、人材不足の際に給料を惜しまなければ人材は集まるだとか、選ばなければ人材不足などないというような意見が出てこないのが不思議で仕方ない。
消耗品の中から一つだけ無制限に使えるものを決める無制限に使える消耗品を普段の三倍ほど購入する思う存分に消耗品を使用するこれだけで贅沢が完成する。 やってみると分かるが、無制限とはいえ使える量はせいぜい二倍くらい、その上消耗品だから値段も安い。キッチンペーパーなら、高くて月に八百円、安ければ三百円程度で自由に使うことができる。 自由というのはかなり質が高い贅沢だが、この方法だと安くて手間もかからない。
** 明治二八(一八九五年)六月六日読売新聞 ** この当時、しばらく小説を書かずにいた幸田露伴が、靴工場の工場長になるという噂が流れていた。 今となっては意味不明な噂だろうから、解説もしておこう。 幸田露伴は、博学多識だと当時は広く認識されていた。文学の知識は当然として、数学も学んでいる。道教を研究していたイメージからか、錬金術が使えるという噂まであったほどだ。 錬金術が使えるのだから、もちろん科学的な知識もあるのだろう。それなら工場長も立派に勤めることができると、当時の人は考える。 それだけでなく露伴は一種の変人として目されていた。こちらでは坊主頭の露伴が、髭まで綺麗さっぱり剃ってしまったという記事を書かれている。 当時の常識と露伴の社会的な地位から考えると、変人だといわれてもおかしくない行動だ。 変人なのだから、突飛な行動に出るかもしれない。小説を止めて、靴屋になるというのもあり得な
『 (笑)』 『www』 など文末に付ける決まり文句は、恐らく演説本からはじまったのだろう。 演説本というのは演説を速記した書籍、この事例で『 (笑)』ではなく『(大笑)』となっているのは、呵々大笑の略なのかもしれない。 こういった表現のバリエーションは多い。 こちらの例では、盛り上がる会場の様子を表現している。さらにこの当時はヒアというのも多用されていた。 このヒアヒアというのは、『よく聞け』『賛成』または『良く言った』というような意味を持つ。 ところがヒアは演説本で発達する。『ここを読め』や『会場の盛り上がり』を表現する一種の記号となってしまうのである。 『大ヒア』というのは大賛成で会場騒然といったところ、こういった高度な表現が、明治二〇年代には存在している。もっともこれは明治に限った話ではなく、もともと日本は文字をイラストとして扱うことに長けた国だった。 顔文字や絵文字が高度に発達す
味噌汁で顔を洗って出直して来いというフレーズは、落語などで聞くことが多いため、なんとなく江戸時代くらいからあった古い表現の様に思える。 ただ江戸時代のあたりから、庶民が味噌汁という言葉を使っていたのかというと、多少の疑問が残る。関西では味噌汁をしる、あるいはつゆ、江戸ではおみおつけと呼んでいたというような話も聞いたことがある。 それでは味噌汁という言葉は使われていなかったのかと調べてみると、江戸時代に大阪人が書いた料理物語というレシピ本でも使われていた。 ここで明治三五年の『味噌汁で顔を洗って出直して来い』を貼り付けておこう。 こちらも大阪の出版社が出した書籍に掲載されていることからも、『味噌汁で顔を洗って出直して来い』というのは大阪発祥の可能性が高い。少なくとも、江戸時代に江戸っ子が使った啖呵ではないことは確かだろう。 それではいつ頃から使われていたのかというと、実はよく分からない。これ
今とは少しだけ違って、明治時代には下等社会というのが存在していた。次に引用するように、教育のある人は無教育な人々とコミュニケーションは取ることができない考えていたようだ。 ところが明治も終りに近付き大正時代になろうとする頃には、無教育とされている人々も、立派に理を立てて考えることが出来るようになっている。次に引用するのは、大正初期における日雇い労働者の理屈である。 引用部分だけでは分りにくいため補足すると、自分の面倒は自分で見ているのだから、俺たちも教育のある他の人々も同じ人間であるという理屈である。単純ではあるが、近代以前の普通の人々は、このように筋道を立てて思考することが難しかった。 どうでもいいようなことに思えるかもしれないが、誰もが筋道を立てて考えることが出来るというのは、日本が近代化に成功したことと多いに関係がある。 誰もが筋道を立てて考えることが出来る国というのは、情報の伝達速
オッさん雑誌では「~ですゾ」という語尾が使われることがある。 私はオッさん雑誌の文体についてはあまり詳しくないので、間違っている可能性があるのだが「~ですゾ」というのは次のように使用されていることが多いように思える。 記事の結末を述べる オヤジが選んだAKB48の選抜ベストテンを、本物の選抜総選挙の結果と比べてみるのも一興ですゾ! なにかをお勧めする 彼女たちに賭ければ、勝ったときの喜びもひとしおですゾ! 読者に語りかける、あるいは賛同を求める 国民的女優は国民みんなのものだ。泥酔痴態&絶品ボディを我々に見せてこそ、ですゾ! 引用部分は全てデジタル大衆より 私は特に「~ですゾ」に執着し過去の文章を読んでいるわけではないから、オッさん雑誌的な意味合いで「~ですゾ」が初使用されたのがいつなのかは分からない。なんとなくだが、戦後あたりに使われ始めたのじゃないのかなと妄想していた。 ところが偶然に
将棋は上品だがアニメは下品というような感覚がある。 こういった感覚は将棋やアニメに限らず、どんな分野にでもあるものだが、もちろん意図的に作られたものだ。 明治三五年に書かれた『空中飛行機』に、絵海丸象羅(エミイルゾウラ)という文士(小説家)が登場するのだが、次に引用するように彼は文士地位の向上を目指している。 絵海丸象羅の行動は、当時としては普通である。なぜならかって日本において、フィクションは全て下等という時代があったからだ。小説なんてものは下の下であり、日本のパトロン制度でも書いたことだが、当時の文学者たちはその地位の向上に努めた。 その結果、現代では文学というのは上品な存在になっている。 趣味や娯楽というのは、その行為自体が高尚だから上品になるわけではない。過去の行為によって上品になっていく。
日本というのは留学生に優しい国らしい。 http://shinjihi.tumblr.com/post/15618721749 これらの制度が作られた理由というのは、それなりにあるのだろう。ただし私自身は、そんな理屈とは別に、明治大正あたりの考え方が未だに残っていて、惰性で続けている部分も大きいと考えている。 まず戦前の日本という国は若者たちに優しかった。 かって学生に優しいとのが当然という感覚が存在したのである。 次に海外の人間だって仲間だという感覚も存在する。 これは男らしさを追及したために、発生した感覚だ。つまり国籍などといった小さな事にこだわる人間は男らしくない。困っている奴は、誰であろうと助けろという思想である。 この二つの感覚から導き出されるのは、海外から学生がやって来て、困っているなら助けるのが当然だという感覚だ。 雑な理解で紹介した熱血団 冒険秘密小説という作品でも、馬賊の
終戦というのはものすごいことだ。で、終戦を終りにするため、様々なものが打ち捨てられてしまう。 例えば八紘一宇というのがある。この八紘一宇は、ひとつしかないということになっているが、かなり雑な理解だ。八紘一宇が発生するより先に、人々の感情が様々な形で動いているのは当然の話であるし、八紘一宇が成立した後も、ひとつの理解の元に日本人全員が動いているはずもない。 若者に優しい国に、若者たちに期待する大人たちについて書いた。大人たちに期待された若者たちは、やがて海外の人々の肝玉を驚かすようになる。実質的にどうかは知らないが、まあ海外と対等だと考え始める若者たちが出現する。 彼らは次にどうするのか、おせっかいにも海外の人々を応援し始めるのである。 明治大正時代の小説家たちは、冒険小説の中で国籍関係なく男らしい人物を活躍させる。彼らは共闘し共通の敵に立ち向かう。ただし日本人が無条件に海外の人々を庇護する
次に引用するのは、学生が起こした遊郭の大げんかに駆り出された巡査の言葉である。 これも無教育の人間なれば本官は決して容赦は致さんぞ、が君達は前途有為な学生ぢゃと思うから穏やかにことを納めたいと思うがどうか 蛮カラ王北村一舟斎 駸々堂編輯部 駸々堂 1914 もちろん理屈が好きな学生と面倒な喧嘩をしたくはないという気持ちもあったのろうが、少々の事はなんだかんだで許されてしまう。 これは採鉱治金科の学生と教師たちが、佐渡島への旅行ではしゃぎすぎ、毎夜のごとく鯨飲馬食を繰り返し、宿への払いができずに夜逃げをするという一幕、こんな暴挙も許されてしまう。 なぜに彼らは学生たちに優しいのかあくまで私が読んだ範囲内での感想にすぎないが、明治維新から明治の真ん中あたりまで、普通の大人たちは自分たちでは西洋には太刀打ちできないと思っていた節がある。 分かりやすい例として、旅行免状(今のパスポート)を発行して
私は永谷園のお茶漬けをたまに食べる。しかしあの食品には、栄養というのはほとんどない。 エネルギー15kcalたんぱく質0.5g脂質0.04g炭水化物3.1gナトリウム858mgそれじゃなんで食べるのかといえば、私の場合は美味いから食べているのだろうと思う。 ただビタミン入りの清涼飲料のほうが、場合によっては栄養価が高いというのは、なんだか不思議な気がしてしまう。それじゃビタミン入りの清涼飲料を白米にかけて食べられるかといえば、まず無理だろう。 美味いから食べるというのは当然なのだけど、栄養のある食品が美味いと感じるほうが、生物としての機能としては正しいような気もするわけで、美味いものに栄養があるとは限らないというのは、やっぱり不思議に思えてしまう。
画像はそれぞれ左から昭和四年大正六明治四二年の出版物から適当に集めたものだ。集めようと思えばもう少し集められるのだけれども、とにかくこれは昔からわりとメジャーなフレーズだった。 現代の人々が「まいごのまいごの」で思い出すのは、やはり童謡『犬のおまわりさん』だろう。先の引用も『犬のおまわりさん』のパロディーなのではと考えてしまいそうになる。 ところが『犬のおまわりさん』は1960年10月に発表されたらしい。それでは明治の末期になぜ『まいごのまいごの』というフレーズが使われているのだろうか? これは調べれば簡単に分かることで、かって日本には子供が行方不明になってしまう神隠しというものが存在した。で、神隠しで子供がいなくなると、町内人々が集まり、鉦や太鼓をたたきながら、まいごのまいごの〜やーいと唱え、一晩中ねり歩るくという風習が存在しのである。 つまり『まいごのまいごの子猫ちゃん』というのは、異
文章は時代が進むにつれて、読みやすくなる性質を持っているのではないかと、私は考えている。 明治初期と昭和初期の書物では、全く読みやすさが違う。フォントが美しくなり、スペースが増える。漢字の量も減り、句読点も適切に使用されるようになる。
「~足りうる」という書き方 二葉亭四迷の「文学は男子一生の事業と為すに足らず」漱石の「文芸は男子一生の事業とするに足らず乎」っていう超有名な言葉があって、「誤訳も芸のうち―文芸翻訳は一生の仕事足りうるか」というのも、恐らくそのパロディーだ。 しかし「足らず」も「たりうる」も、今や日常生活でほとんど使わない。にも関わらず漱石四迷の二つ言葉なりタイトルの影響っていうのも今は残っていて、ついつい使ってしまう。 パロディーの大元は明治に作られ、今は平成なのだから「足りうる」になってしまっても仕方ない。 そもそも二葉亭四迷の「文学は男子一生の事業と為すに足らず」というのも私自身がうろ覚えで「足らず」だか「非ず」だかはっきりしない。ただ明治に「足らず」で流通してしまっているのだから、元が「非ず」だったとしても「足らず」じゃないと締まらない。 「文芸翻訳〜」の著者が、二葉亭なり漱石なりの言葉を頭に浮べて
基本的に大衆文化というのは、下等なものだ。そして下等なものには、学問的な価値はない。 これはわりとしっかりとしたルールなので、ゴチャゴチャ言ったところで仕方がない。 ただし文化の流れのようなものを解釈しようとする場合、このルールには問題点が多い。 戦争というのは下等だけど、戦争を除外して技術がどのように発展してきたのか考えることは不可能だ。 ゲームも大衆のための娯楽で下等だ。しかしゲームが存在していなければ、パーソナルコンピュータは今とは別の進化をしていたはずだ。だからゲームを抜きにして、パーソナルコンピュータの歴史を考えることもできない。 こんなことは当り前なんだけど、当り前になっていない分野もある。 例えば日本の口語文というのは、娯楽を除外して解釈されているため、かなり異様な解釈をされている。どう異様なのかものすごく簡単に説明すると、かっては純文学の力で口語文が完成したと考えられていて
記憶が定かじゃないんだけど、小学生と中学生の境目くらいに『TN君の伝記』という本を叔父からもらった。 TN君の伝記 (福音館日曜日文庫) この書籍、とにかくTN君が魅力的に描かれている。ただし最後までTN君が誰なのかは明かされない。当たり前だがTNくんが誰なのか知りたくなる。 当時の私が採用した調査方法は、とにかく明治あたりの本を読んでみるというものだった。ところが小学校の図書館にはあまり蔵書がない。自宅には本棚すらなく、私の買った本以外には、辞書一冊と家庭の医学百科しかないという文化環境だ。お小遣いの関係で毎月買える書籍は一冊、その上に調査方法が当てずっぽうなのだから、TN君が誰なのかはわからない。 その後もTNというイニシャルの作者を捜せばいいだとか、登場人物を参考にすれば良いだとか、幼稚でバカバカしい方法で私はTN君を断続的に探し続けた。TN君が誰なのかが判明したのは、数ヶ月後のこと
三田村鳶魚の『大衆文芸評判記』という本がある。「江戸学」の祖が、大衆小説家をバッサバッサと斬っていく。で、指摘している部分は正しいのだけど、鳶魚という人が根本的に大間違いしている部分があるので、読んでいるとかなり妙な気持ちになってしまう。 で、彼はなにを間違っているのか。 私としてはこの中に書いてあることが、錦絵表紙の草双紙にあること以上に不思議なものであって、確かにこういう読み物として、五六十年も逆転した感じがある。そうしてまたよくもよくもこれほどトンチンカンな馬鹿げたことが書けたものだと思って感心する。これが現代に沢山の読者を持ったということも、そうなると呆れ返らないわけにはゆかない。私はこの縮刷本の巻頭に入っている、著者の肖像を眺めて、それほど年を取った人とも思われないのに、どうしてこんなものが書けるほどぼけたものかと思って、それが不思議にたえません。 フィクションの楽しみ方は、文化
デザインと見た目は、だいたい同じような意味で使われている。 だから見た目という意味で、デザインって言葉を使う人は、デザインなんかは好き好きでしょうというような発言をする。そういう人とは別に、意匠や構造なども含めてデザインとして捉えている人もいる。この二者が、日常会話するのはなんら問題ないんだろうけど、仕事を一緒にするとなると、かなり厳しいことになる。 実際、デザインという言葉に対する認識の違いによって、この世の中に生まれたダサイ商品は多いと思う。 見た目の意味でデザインを使っている人が認識を改めようと思えば、なんだかんだで一時間程度読んだり考えたりすればすむことなんだけど、普通は大人になって言葉の定義について考え直そうとは思わない。あとこれまで間違った定義を基準にものを考えてきたから、新しい知識を元にして考えるのが難しいというのもあると思う。人間だれしも難しいことは嫌いなのだから、知識はあ
近年、書店の数が減っているらしい。こういう変化は明確に数字として出るから分かりやすい。そんなわけで書店がなくなると、本との新しい出会いもなくなるみたいな話が出てくる。ただ個人的には、書店が減ることで発生する本との出会いというのは、あまり意味のない話だと考えている。 かって避暑地には、いくつも古書店があった。長期滞在する観光客は、何冊も書籍を買い、夏の間は読書を楽しむ。夏の終わりには、書籍を古書店に売り、避暑地を去る。これは良い文化だ。新しい本との出会いもあるだろう。しかしこういうことは、今やほとんど行われていない。 それではこういった習慣を、電子書籍の分野で復活させましょうという話になるかといえば、そうはならない。電子化するとすれば、避暑地に滞在しいくらか払うと、その場所にいる間は電子書籍が読み放題になる……というようなものになるのだろうけど、おそらくコスト的にはあわないだろう。 避暑地で
夏目漱石はイケメンであり、イギリスでハンサムジャップと罵られたことがあるというようなエピソードが、ネットで流れているのを見たことがある。 これはかなり上手くできたシャレだが、理解するためにはいくつか知っておかなくてはならないことがある。 こういうことを書くのはヤボなのだけど、かなり気に入ってしまったので、解説をしておきたい。 明治期の写真はほとんど修正されている明治期の写真が修正されているというのは、わりと有名なお話だ。 当時は写真を撮ること自体が珍しかった。せっかく撮るんだからと、写真は修正されることが多かったというわけだ。 欧米諸国へのコンプレックスもあって、西洋人の美しい顔を目指し修正していたのだろう。だから明治人の写真は、鼻筋が通っていて、目もパッチリしているものが多い。そんな写真を見て、現代の私たちが、イケメンだと感じてしまうのも当然の話である。 というわけで、『漱石はイケメンだ
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