熊本赤ちゃんポストに3歳の子が入っていたというニュースについて。 このポストを黙認したはずの厚生労働省をはじめ、世間は、育児放棄という言われ方をするが、それでいいのだろうか。 あるいは、このポスト不要論が強まると思うが、それでいいのだろうか。 第1に不審なのは、このニュース、いったい誰が流しているのか、ということだ。これについて新聞やテレビは全く明らかにしていないが、知りうるのは、第1発見をする病院関係者か、通報を受ける警察か児童相談所である。児童相談所はこうした情報の漏洩に非常に神経質な役所であるし、マスコミとの交際もほとんどない。病院も深刻な内部対立でもなければ情報を漏らすことは自殺行為であり、考えにくい。県警察が保護責任者遺棄罪の立件を検討しているというからあやしい。 余談だが、この問題についてインタビューを受けた安倍晋三は適切だった。「私は正確な情報を入手できる立場にないので、何も
食育の認知度が低いというニュースが出る。このぐらいでいいと思う。 私の中では矛盾したものがある。食事という生活の一部をみんなで維持していこう、という考え方には共鳴する。しかし、一方で、「早寝・早起き・朝ご飯」だとか、「これが本当の和食」だとか、俗っぽい「本物」の押しつけ、汚い言葉で言えば草の根ファッショ、きちんとした言い方をすれば、モラリズムの押しつけみたいなことは、ほんとうにご免蒙りたいところだ。 具体的には、食育という言葉で、食事を大切にしようとしている人の生活スタイルをみんなが大切にしてあげよう、という気持ちは大事だと思う。ここ数年、新古典派経済学の(合成の誤謬の)論理で、大半の人たちは働くためにいろいろな生活のためのこと、私的なことを犠牲にさせられてきたから、少しはその歯止めとしてこうした感覚ってあった方がいいと思う。 それから、市場原理にのらない農業をやっていく人に温かい視線や政
PhotoNikon COOLPIX S50cで近所の猫を撮影。今回は「フォト蔵」さんに掲載した画像を直貼り。これだとfotolifeを使わなくて高画質な画像を掲載出来るので良いですね。 DSCN0261 posted by (C)ululun DSCN0265 posted by (C)ululun DSCN0263 posted by (C)ululun DSCN0205 posted by (C)ululun そうそう。このブログマーケティング関連で、近日中に面白い企画のお知らせがあるらしいですよ。
人間には二種類居て、ベタに生きる人とメタに生きる人がいる。 ベタな人は実に物事をシンプルに考えていて、感情もしくは感性で動いている人であり、体育会系気質な人や大学のサークルで人生楽しんでそうなタイプがここに当てはまる。精神年齢の面から見て若い。 具体的な行動で物事を証明することが多く、余計なことを考えないため人付き合いやファッションにはとても向いている。要約すると横のつながりに強い。 ただし、長期的な予測には感性の部分を相当磨く必要がある。 一方で、メタな人は体系的・分析的に物事を考えていて、いかに緻密に世界を把握するかを重視している。精神年齢の面から見て老成。 文章や知識、抽象的な論理で物事を証明することが多く、学問や求道者に向いている。要約すると縦のつながりに強い。 ただし、第一印象重視(ベタ視点重視)のファッションや人付き合いなどは苦手。 どちらも歳を経てくるとメタになっていくのだけ
えらそうなエントリでブクマを集めておいてなんですが、僕の本質は、根本的にはコミュニケーション不全。 確かにある一線を超えて脱却したような気はするし、歳を取るにつれ全くの他者からの反応には鈍感になって行き、社会人としては必要最低限どころか交渉能力や説得力の点では自画自賛してもいい思えるくらいではあったりするのですが。 一人でいるのが好き。人と話すのは嫌いじゃないけど、自分の話優先。出かけるのは好きだけど、誰かを誘うのは面倒。予定が思うとおりにならないとイライラするし、なんで自分のことをわかってもらえないんだろうと思う。本当の自分は今の自分じゃないと心の中で否定してみたり。大勢と話していると、いろんな話題が気になって、それは話題だけに興味があって話している人には興味が無い証拠。自分の内面なんて他人に語りたくも無い。 どう考えても不全。 僕の場合、ある一つのツール(趣味ね)でなんとか外界と接点を
はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
自分がブログに何かを書くとき、それは「私が」書くわけだが、この「私」というものに、どれだけの重さがかかっているか、ということを考える。 ぼくの場合、あまりかかっていない場合が多いのは、それをしないでもやっていける、ある種特権的な位置からものを言っている(書いている)ということだろう。 これは、「匿名で書いてる」とか、そういうことではない。また書いてる内容、話題とか題材ということとも違うし、文章の質とも違う。少なくとも、そのどれかに還元できない。 そうしたことの如何に関わらず、「私」をさらしてブログを書いている人というのが、たしかにいて、そういう人が、そのことのゆえに深く傷つく、という場合があるのだ、きっと。 そういう場所に立ったことのない自分は、恥ずかしいことである。 ブログに限らず、どういう場においても、「私」をむき出しにして差し出しているような人というのはいるものだ。「私」という代わり
自己批評と言えば聞こえはいいが、余り反省しすぎるのもよくないと思っている私は、敢えてべたな言動を心がけようとするところがある。もちろん、意識としてはいつも反省しすぎのところは否めない。でも、表現レベルでは徹底的にべたで勝負しようと思っている。批評は得意な人に任せよう。役割分担。 もちろん、学生さん相手の時には、自己批評の必要性をくどいほど説きはする。もっと悩め、と言いたくなることは少なくない。逆に、そこまで自分を追いつめてどうするの?といいたくなる時もある。ケース・バイ・ケース。 自分という怪物を飼いならすこと。飼いならすもうひとりの自分を育てること。自分の分裂をコントロールすること。自分を突き放すこと。所詮、宇宙は熱死に向かっている。ねえ?情報文化論の受講生の皆さん?すべてはいずれ「冷たくなる」んだよね?ならば、せめて、今ここで生きることを祝福する以外に何ができるというのか。大学生である
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