きっかけは昨日、十数年にぶりに観返した映画『八日目の蝉』だった。 公開当時、私はその作品を激しい怒りとともに観た。 母親という存在に無条件の自己犠牲を求め、女たちの間に血縁という名の呪縛を貼り付ける。 あまりにも旧弊で暴力的なジェンダーバイアスに満ちた映画だと、私は当時のSNSやWeb媒体で苛烈に批判した。 女性の自立や母性の解体、血の神話からの脱却を訴えるフェミニストとしてそれは当然の論評であり、私の論客としての評価やポジションを固めるマニフェストのひとつでもあった。 しかし昨日。十数年の歳月を経て再びこの映画の前に座った私は途中で言葉を失い、やがてただ唖然として画面を見つめていた。 怒りなど湧かなかった。 それどころか、物語の終盤。逃亡の旅の果てにある母親たちの選択と、その抱え込んだ業の深さに、私はとめどなく涙をこぼしていた。 かつては”押し付けられた歪んだ母性”と切り捨て糾弾していた