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小田急から都心部に入るための重要なパートナーとして、長年に渡って直通運転が行われている東京メトロの千代田線。 現在は準急や急行での運行が基本とされ、昔のように小田原線内を起終点とするようになりました。 多摩線と千代田線が直通運転をしていた時期は、少しずつ遠い過去となってきましたが、やめてしまったことは最適解だったのでしょうか。 コロナ禍を経て状況も変化しつつあるように思い、改めて考えてみたいと思います。 多摩線と千代田線の関係小田急と千代田線の相互直通運転が始まったのは、1978年3月31日に実施されたダイヤ改正からでした。 元々の計画では、多摩線との相互直通運転を行う想定となっていましたが、小田原線の本厚木駅を起終点とし、準急で運行を開始することとなります。 多摩線と千代田線の直通運転が始まるのは2000年のことで、朝のラッシュ時に上りの急行が走るようになりました。 限られた本数でのスタ
2022年のダイヤ変更をきっかけとして、日中の時間帯に多く走るようになった6両の急行。 町田から小田原の間で運行され、新松田から小田原までは各駅停車となります。 減便の流れで多く走るようになった6両の急行ですが、新宿寄りの区間になればなるほど混雑するため、様々な声があがっているのが実状です。 それでも小田急が6両の急行を走らせている背景には、どのような事情が隠れているのでしょうか。 分割併合の廃止による弊害小田急が2022年に行ったダイヤ変更は、減便による輸送力のダウンサイジングを目的としたものでした。 全線的な規模で列車本数の削減や、両数を短くするといった対応が行われ、小田原線の相模大野から小田原にかけての区間では、6両の急行が多く走るようになりました。 ダイヤ変更の前は、新宿から新松田まで10両の急行を走らせ、新松田から小田原までは6両の各駅停車が補完するようになっていましたが、これを
小田急の江ノ島線内に入ると、駅名に林間と入る駅が続きます。 東林間、中央林間、南林間の3駅が存在しますが、これは開業当時に計画都市を開発する構想があったためで、今も名残として駅名に残っているものです。 3駅の中で最も相模大野寄りにあるのが東林間ですが、南林間が南に位置しているのに対して、東林間は北西に位置しています。 立地から考えれば、北林間や西林間という駅名がふさわしいように感じますが、なぜ東林間という駅名になってしまったのでしょうか。 東にはない東林間駅実際に位置する方角と、駅名に入る東西南北が一致しないケースは色々とありますが、小田急の場合には東林間駅が該当します。 江ノ島線は北から南にほぼ一直線で向かう路線であり、駅も北から南に向かって並んでいるため、本来は東や西が登場することにも違和感があるのです。 林間都市計画の名残である3駅は、起点の相模大野寄りから順に、東林間、中央林間、南
横浜市営地下鉄の延伸が予定され、今後大きな変化が予想される小田急の新百合ヶ丘駅。 実現性という面では、新型コロナウイルス感染症の影響による利用者の減少、電気代の高騰といった不確定要素があるようですが、2030年度の開業を目指して進められています。 新百合ヶ丘に新たな路線が繋がると、人々の移動にも変化があると想定され、小田急の混雑度にも影響する可能性があります。 具体的な進展がない、向ヶ丘遊園から新百合ヶ丘までの複々線化について、影響する可能性を考えてみたいと思います。 ブルーラインの新百合ヶ丘への延伸横浜市営地下鉄のブルーラインは、小田急の江ノ島線や相鉄のいずみ野線が乗り入れる湘南台を起点に、あざみ野までを結んでいる路線です。 あざみ野では東急の田園都市線と接続していますが、小田急にとっては近くて遠い路線といえます。 ブルーラインが新百合ヶ丘まで延伸されれば、横浜方面に行きやすくなりますが
多摩ニュータウンの中で最初に入居が始まり、小田急と京王の駅が設けられている諏訪・永山地区。 両線の駅は隣接して並んでいますが、駅名は小田急永山と京王永山になっており、会社名が頭に付けられています。 それぞれの駅は1974年に開業しましたが、それまでの諏訪・永山地区は「陸の孤島」と呼ばれていました。 なぜそのように呼ばれてしまったのか、鉄道が開業する前夜を振り返ってみたいと思います。 1974年に開業した小田急と京王の永山駅高架駅が並ぶ小田急と京王の永山駅ですが、どちらも1974年に開業しました。 小田急が6月1日に、少し遅れた10月18日に京王が開業しますが、小田急が永山までの暫定開業だったのに対して、京王は最初から多摩センターまで開業しています。 1975年に小田急は多摩センターまで延伸し、永山は中間駅となりましたが、当初の多摩線は利用者が少ない状況が続きました。 開業当初は4両で運行さ
はるひ野駅が2004年12月11日に開業して以降、新駅の設置が行われていなかった小田急線。 まだ公式発表ではないものの、神奈川県伊勢原市内に新駅の設置を検討しているとの報道がありました。 報道によると、新駅の設置に合わせて大野総合車両所の移転も検討されているようですが、仮に実現へと向かう場合、小田急はどのようなことを狙っていると考えられるのでしょうか。 伊勢原市内に新駅の設置が検討されているとの報道2023年2月24日のことですが、伊勢原市内に小田急が新駅の設置を検討していると、NHKが報道しました。 設置が検討されているのは伊勢原と鶴巻温泉の間とのことで、駅間距離としては3.7kmの区間です。 具体的な位置は発表されていませんが、鶴巻温泉寄りの農地が広がるエリアが検討対象のようで、小田急沿線では少なくなった田園風景が広がっています。 報道が事実である場合には、既に水面下で地権者との接触は
1978年に小田急と営団地下鉄(現在の東京メトロ)の千代田線との間で始まった相互直通運転は、2016年にJR東日本の常磐緩行線を加えた3社での取り組みに発展しました。 千代田線と常磐緩行線の相互直通運転は、小田急よりも早い1971年に開始されており、長い年月を経ての変化となりました。 3社での相互直通運転にはなったものの、千代田線と常磐緩行線が活発な乗り入れを行っているのに対し、小田急は本数が控えめとなっていますが、この差はなぜ生じているのでしょうか。 結び付きが強い千代田線と常磐緩行線小田急、東京メトロ、JR東日本の3社は、お互いの車両が他社の路線を走る乗り入れを行っています。 以前は東京メトロの車両だけが3社を通して運転していましたが、2016年からは小田急とJR東日本の車両もお互いの路線に乗り入れるようになり、運用の柔軟性が高まりました。 現在乗り入れを行っている車両は、小田急が40
快速急行を主体としたダイヤになり、昔に比べて影が薄くなった小田急の急行。 以前は新宿から箱根湯本までを走る列車が多くあり、特急を除く優等列車の主力でした。 ロマンスカーとは違った旅情を感じつつ、箱根湯本まで行くことができた急行は、なぜ廃止されてしまったのでしょうか。 主力だった箱根湯本行きの急行1950年8月1日に始まった小田急から箱根登山線への乗り入れによって、乗り換えをせずに箱根という観光地に行けるようになりました。 いつ頃からそのような状態となったのかはよく分かりませんが、一時期はロマンスカーと急行が乗り入れの中心となっており、箱根登山鉄道の短い車両に混ざって箱根湯本まで走っていました。 昔は現在のように大型車が乗り入れることはできず、箱根湯本行きの急行は中型車に限定されており、2400形が専用車両に近い状態となっていた時期もありました。 4両の短い編成は当然のように混雑し、非冷房車
新宿から小田原まで、スーパーはこね号が最速59分で走破している小田急のロマンスカー。 3月12日のダイヤ変更後も最速列車は維持されますが、午前9時に新宿を出発するスーパーはこね1号の1本のみとなります。 ロマンスカーといえば、3000形(SE)が新宿から小田原までを60分で結ぶことを目指したように、高速走行を行うイメージもありますが、実際には運転する際の最高速度を110km/hまでに抑えています。 120km/h以上での運転を行う路線もある中、なぜロマンスカーはそれを行わないのでしょうか。 110km/hを最高運転速度としているロマンスカー小田急のロマンスカーといえば、新宿から小田原までをノンストップで走り、箱根に多くの観光客を運んでいる、それは少しずつ昔のこととなりつつあります。 今でもそのような列車がないわけではなく、土休日に運転されるスーパーはこね号がその役目を担っており、新宿から小
現在は小田急の車両だけが営業運転を行っている、箱根登山線の小田原から箱根湯本までの区間。 以前は三線軌条を活用して、箱根登山鉄道の小さな車両も小田原まで走っており、両社の車両が交換する光景も頻繁に見ることができました。 小田急の車両だけが走るようになり、現在は撤去されてしまった三線軌条ですが、僅かな区間にだけは現在も残されており、昔の懐かしい風景を思い出させてくれます。 三線軌条によって実現した小田急の乗り入れ小田原までしか走ることができなかった小田急が、箱根登山線に乗り入れて箱根湯本まで走れるようになったのは、70年以上前の1950年8月1日のことでした。 箱根への輸送で競合する国鉄に対抗するという意図もあった乗り入れでしたが、その実現には多くの困難が伴っていました。 乗り入れにあたっての問題としては、主に以下のようなものがありました。 ・軌間の違い ・車両の大きさの違い ・架線電圧の違
運転本数の見直しを中心として、2022年3月12日に減便を伴うダイヤの変更を実施する小田急。 後ろ向きな内容が多いためか、ダイヤ改正という表現を使用していませんが、変更点は多岐に渡るものと思われます。 様々な変更が発生するこのタイミングでは、江ノ島線の運行形態が大きく変わります。 藤沢から片瀬江ノ島までは折り返し運転となりますが、これにはどのような意図があるのでしょうか。 区間運転に変更される江ノ島線の末端区間小田急の江ノ島線は、相模大野から片瀬江ノ島までの27.6kmを結んでいる路線です。 直線区間が多く、比較的高速運転ができる路線ですが、開業時の事情で藤沢駅にスイッチバックが存在しており、長年運行上のネックとなっていました。 スイッチバックの際には乗務員の交代が発生し、停車時間も終点の駅と同じ程度必要となります。 相模大野方面と片瀬江ノ島方面の列車が平面交差を行う関係で、どうしてもダイ
朝のラッシュ時に上り方面にだけ運転され、快速急行や通勤急行を補完する役割を担っている小田急の通勤準急。 優等列車ではあるものの、登戸までは各駅に停車し、複々線区間では緩行線と急行線を交互に走行する面白い列車種別です。 通勤準急は、なぜ緩行線と急行線を交互に走るのでしょうか。 通勤準急の面白い走り方平日の朝ラッシュ時のみに運転される通勤準急は、本厚木等から出発します。 始発駅は列車によって異なりますが、10分程度の間隔で運転されています。 通勤準急が運転されているタイミングは急行の運転がされておらず、登戸を境にして各駅停車と急行の役割を切り替えていることが特徴です。 始発駅を出発した通勤準急は、相武台前や鶴川で上位の優等列車を待避して道を譲ります。 これは快速急行への乗り換えを抑制することにも繋がっており、混雑の分散化が図られています。 そして、通勤準急の走り方が面白くなるのが、複々線区間が
複々線化に合わせて地下化され、近年はロマンスカーも停車するようになった小田急の成城学園前駅。 連続した高架線となっている梅ヶ丘から登戸の区間内で、唯一地下に潜っている地点でもあります。 なぜ成城学園前だけが、地下駅となったのでしょうか。 複々線化時に地下化された成城学園前駅1989年から工事が始まった小田急の複々線化は、同時に高架化を伴う大規模なものでした。 最初に複々線化が進められたのは喜多見から和泉多摩川の区間で、続いて梅ヶ丘から喜多見にかけての工事へと移っていきました。 最後に工事が行われた下北沢付近とは異なり、梅ヶ丘から登戸までは連続した高架線となっています。 電車は踏切のない線路を走り抜け、一昔前の小田急では考えられなかったぐらい快適な区間となりました。 外を眺めつつ、快適な高架複々線区間を走行していると、突然暗い空間に突入する場所があります。 それが成城学園前で、高架線を走って
小田急、JR東日本、江ノ電の3路線が乗り入れ、神奈川県藤沢市の玄関口となっている藤沢駅。 駅舎の改良工事が行われると以前から発表されていましたが、2023年度から小田急の工事が始まるとの報道がありました。 改良工事によって藤沢駅はどのように変わるのでしょうか。 問題だらけの藤沢駅江ノ島線の開業と同時に設置された藤沢は、改良を重ねながら今日まで営業を続けてきました。 終点の片瀬江ノ島に向けて、江ノ電と並行することを避けるために、スイッチバックをしていることが最大の特徴となっています。 列車の運行頻度が高くなり、折り返しに時間を要するという問題があることから、藤沢から先には行かずに折り返す列車も多く設定されています。 列車の長編成化が進められる過程で、元々狭かった土地の範囲内で拡張が繰り返されたため、駅舎やホーム自体にも多数の課題を抱えています。 相模大野方は急勾配で東海道本線を跨いでおり、位
改良工事によって10両編成に対応したホームとなり、同時に小田急では珍しい島式ホームとなった代々木八幡駅。 小田急の待避設備がない駅で島式ホームが採用されることは珍しく、過去にもほとんど採用例がありません。 今回は、なぜ小田急で島式ホームが採用されなかったのか、過去に島式ホームだった駅も振り返りつつまとめたいと思います。 小田急が島式ホームを採用しなかった理由1927年に小田原線、1929年に江ノ島線を開業させた小田急は、待避設備がある駅を除くほとんどで相対式ホームを採用しました。 相対式ホーム、島式ホームのそれぞれにメリットとデメリットがありますが、小田急にとっては島式ホームのデメリットが大きかったことから、ほとんどの駅が相対式ホームとなったのです。 小田急の前身となる小田原急行鉄道は、社名に急行という文字が入っていることからも分かるとおり、開業時から高速志向の鉄道会社でした。 そのため、
ウルトラマンの曲が流れる駅として、利用客にも親しまれている小田急の祖師ヶ谷大蔵。 近年は準急の停車駅にもなっており、立派な複々線を活かした輸送が行われています。 現在は外側が緩行線、内側が急行線となっている祖師ヶ谷大蔵ですが、複々線化工事の過程で一時的に通過線が設置されていた時期があります。 今回は短期間だけ存在した待避線にスポットを当ててみることにしましょう。 連続立体交差化と線路の切り替え1994年12月、梅ヶ丘から成城学園前までの高架複々線化工事が開始されました。 それまでは限られた区間で行われている印象だった複々線化工事の範囲が広がり、小田急線の景色が目まぐるしく変わり始めたのです。 祖師ヶ谷大蔵の駅構造は工事の進捗に合わせて変化し、1999年3月21日に下り線が高架化されます。 現在の下りホームの使用を開始し、下りは高架、上りは地上という状態となりました。 翌年の2000年4月2
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