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一昨年、蔵書のほとんどすべてを失ったことで、体調に変化をきたじ、これを機に蔵書とは何かということを考えるようになりました。 近年、蔵書処分をめぐって悩む人が増えているそうで、1つの世代的な現象なのかもしれません。私の場合はあらためて近代の蔵書形成期を振り返りながら、その中に自らを位置づけ、さらに蔵書の可能性と限界について考えてみました。 すでに脱稿し、出版の方向に向けて動き始めています。私の最後の本になると思うので、時間をかけて仕上げたいと思っています。
白内障の手術を受け、右眼が約1ヶ月、左眼が20日間ほど経過した。幸い順調なので、これから同じことをしたいという方々のご参考に、経験したことの一端を記しておきたい。 ◆思ったより大変だった 眼科専門の医院で定期検診のさい、「白内障が出てますよ」といわれたのは2年ほど前のことだが、あまりピンと来ないで、近眼用のメガネを新調することばかり考えていた。新調といっても、遠近両用となると廉価なものではない。ためらっているうちに昨年秋ごろ、「もう手術しても早過ぎはしませんよ」といわれてしまった。 昨年の前半から夏にかけて、いろいろ心労が重なったので、白内障の症状もだいぶ進んだに相違ない。すぐにも手術をと考えたが、折悪しく移転話が持ち上がった。一口に移転といっても、四十年間住んだ土地を離れ、三万冊の蔵書を処分しなければならないのだから、半生に経験したことのない“大難”である。もう白内障どころの騒ぎではなく
突然ですが、このホームページをしばらく休止することになりました。書斎の移転に伴う再出発にあたり、新たな構想を練るために時間をいただければ幸いです。 1997年にスタートし、その後一時的な中断もありましたが、なんとか18年間を維持してまいりました。創設の動機は、私の執筆活動の一環となるよう、目下のテーマ、創作余滴、日常の話題などを気軽に書き込むことにありました。紀行のような、ふだん手がけない分野に踏み込んでみたいという意欲もありました。 結果として、震災対策を兼ねた書斎および書庫を、岡山県の吉備高原という中山間部の“吉備高原都市”(ニューシティ)に定め、新たな心境のもとに執筆活動を開始したのは1997年5月のことでした。ホームページはその活動の一環として始めたもので、同地にて創作活動にいそしむ日本画家、森山知己さんの全面的なご協力によるものでした。 森山さんのご案内で岡山の豊かな自然と伝統に
装幀家の菊地信義氏の持論に、「見えすぎない装幀」がある。装幀とは著者と読者の間を取り持つものであるから、著者の既成のイメージをこわすのはよくない。といっても、型にはまれば「またか」と飽きられる。すでにあるイメージにわずかに変化をつけるのがコツであるという。見えすぎない装幀という考え方も、このような批評性から生まれたものにちがいない。 著者と読者の仲立ちとなるという装幀家の機能は、編集者の役割と同じである。本の内容を客観的に評価し、その魅力を引き出して読者に差し出す。装幀という仕事が基本的に編集者の依頼によって成立し、多くの場合オビのデザインまで担当するのも、それが編集行為の延長上にあるからだと思えば、なんの不思議もない。 それでは電子出版(DVD)の装幀はどうだろうか。古い例で装幀というよりもパッケージデザインというべきだろうが、ボイジャー社の『新潮美術ROM』ほか電子本シリーズ、伊ミリー
「富裕層」という、いつ聞いても小骨がのどに突きささるような言葉がある。明治大正時代には「成金」ということがあった。いまから8年前の「週刊ダイヤモンド」(06/10/02)に寄稿した談話を、以下に再録したい。 「新たな富裕層の台頭で時代が逆行する日本社会」 明治、大正時代に突如として現れた富裕層、いわゆる「成金」である。彼らは途方もない豪邸を建て、愛人を囲い、常識破りの浪費に明け暮れた。もちろん、大倉喜八郎のように、事業を興し、美術館を残した人物も存在したが、多くの場合、成金は数年で姿を消した。 彼らは放蕩に明け暮れ、社会も彼らを立身出身の象徴としてもてはやすことが多かった。国力の発展と個人の成功が一致するという考え方が、国民の心を支配していたからだ。無論、高額紙幣を燃やして見せるような成金の行為は軽蔑されたが、成金が姿を現すたび、同じような愚行が繰り返された。 当時の日本は圧倒的に貧しく、
赤瀬皮原平さんが亡くなられた。外骨忌で同席したり、家が近所になってからは散歩の時間に立ち話をするといった関係だった。共通の知人も多かったが、その中に宮田国男という私の高校時代の親友がいたことを、1986年刊の『東京路上探検記』(新潮社)によって初めて知り、意外の感にうたれたものだ。 宮田国男は内科医の次男で、父親の跡を継ぐべく慶応医学部に在学中、当時の国電新橋駅直近のビルに内科医を開業していた父親に死なれてしまったのだが、まだ学業半ばとあって、診療室を画廊として開放することにした。 たまたま赤瀬川さんの友人画家が国男を知っていたことから、この画廊を紹介されたことで、デビュー前の赤瀬川さんが〝梱包作品〟などの前衛作品を展示するチャンスを得たというわけだ。当時、新橋駅のホームからも「内科画廊」という看板を見ることができ、本書の図版にはその窓から赤瀬川さんの作品(梱包材)がハミ出しているユーモラ
終戦の秋、十一月の下旬、私の親兄弟姉妹五人が疎開先の小田原から、おんぼろトラックに煤詰めとなって、辛うじて引き揚げてきた思い出は、数十年を経たいまも鮮明に甦る。その記憶と見合うのが、谷内六郎の『終戦の秋』という有名な絵だ。 この絵は敗戦から十年以上経て描かれたものであろう。どこまでも続く荒涼たる焼け跡。地平線に沈む夕陽を、「ラッキーストライク」の外装として、敗戦の忌ま忌ましさ、屈辱感を端的に表現しようとしたか。諷刺性もあるが、しかし、敗戦後三ヶ月ぐらいの時点にあっては――トラックの助手席に重なり合うように乗った、痩せ衰えた私たち兄弟姉妹が街道の荒涼たる風景から感じたものは、到底それどころではなく、一種の寂寞感、不安感のみであった。 こうした感情は、同時代を知る人の間では共有できるものと思っていた。長いあいだ、そのように思ってきたし、いまでも間違いないように思うが、近年、後続世代の間との解釈
幻想怪奇小説のアンソロジーとして、ファン必携といえるだけではなくく、このジャンルに無関心な読書人にもおすすめしたくなる逸品である。収めるところ、ビュルガー、ゲーテからシャトリアン、オルコフスキーにいたるまで、19世紀英独の滅多に読むことのできない作品ばかり。これだけでも鮮度抜群なのに、編者自身の長年のウンチクを凝縮させた解説が、また読み応えたっっぷり。平井呈一をはじめとする先達が、いかに海外の幻想怪奇小説を紹介――というよりも導入してきたかを実証的な資料を駆使して回顧する。このジャンル(海外幻想小説の翻訳紹介)も1970年代のブーム以後、かなり恣意的、散発的に紹介されてきたので、昨今はやや行き詰まりも感じられ、その上読者の翻訳ばなれによって衰退の兆さえ示しはじめているが、本書はそうした現状に活を入れる快挙といえよう。創作の怪奇小説が隆盛なことは喜ばしいが、やはり翻訳がないとスケール面でも、
南條竹則氏による『完訳エリア随筆の刊行がはじまった(全4巻、国書刊行会)。この名作の翻訳は大正期の平田禿木から昭和の山内義雄にいたるまで、数人が手がけているが、全訳のものは少なく、概ね訳文が古びているので、清新な訳が待望されていたといってよく、その点、今回の企画は朗報といえよう。 ラムの文章は読みやすいとはいえず、注釈の助けも必要になろうが、本書には藤巻明氏による驚異的な詳注がついているので、安心して読み進めることができる。完訳に〈完注〉だ。 なお、私は同書を高校時代から愛読書の一つとしてきたので、1977年に『世界の書物』執筆のさいにも真っ先にとり あげた。旧稿ではあるが、以下に再録がてら、あらためて新訳の完成の一日も早からんことを祈りたい。 ------------------------------------------ これはすでに人生の穫り入れ期に入った人の本音を吐露した文章で
来年は八十歳。もう蔵書は持ちこたえられないということで、この二、三年で約二万冊の書籍を処分したが、終末に近くなるほど断捨離が難しくなるのを実感している。以下の文章は七年前に雑誌「論座」6月号に寄稿したものだが、当時震災対策を兼ねて地方に1万冊を収容する書庫を設け、ある程度の成算を得ながら、現地事情から頓挫しかけている状況を記したものである。実際に頓挫してしまったわけだが、その後の閉塞状況を、第二回にリポートする予定である。 ------------------------------------------------------- 蔵書の整理に悪戦苦闘すること四十数年、古稀を過ぎてから敗北宣言をするのは正直いって辛いものがある。はじめて本や資料の分類整理、収蔵についての考えを『現代人の読書』(1954)という一書にまとめたのが三十歳になる少し前、高度成長の余慶がようやく庶民にもおよびはじ
DVDでヒッチコックの『白い恐怖』(1945)を見直していたら、主演のイングリッド・バーグマンが手紙を書く場面があった。美しい指がクローズアップされる。陳腐な表現だが「白魚のような指」とはこれである。 当時は手とか足などの大写しには、代役を用いるのが常識だった。美人の女優は手足も美しいという夢をこわしたくはなかったのか、どこでも専門の吹き替え(映し替え?)役を抱えていたのである。例の『サイコ』(1960)のシャワー・シーンにしても、手足のクローズアップはジャネット・リー本人のものではないという。 いつのころからかそのような習慣は映画から消え失せてしまった。TVではジャネット・リー(1927-2004)が『刑事コロンボ』の一挿話に出たのが1975年(昭和五十年)だが、『忘れられたスター』というタイトル通りの役柄なので、手のインサートなどはすべてリアリティーを出すためか、自前のものだった。その
大正末期、苦海に身を沈めていた女性の日記(随想)が朝日文庫に収録されました。原著は一九二七年(昭和二年)生活文化研究会刊の『春駒日記』です。解説は私に書かせていただきましたが、以下はその一部を新稿としたものです。 著者は森光子。といっても女優ではなく、吉原の「長金花」という遊廓で身を鬻いでいた春駒という花魁の本名です。花柳文献は多いが、娼婦自らの手になる資料は稀で、すでに朝日文庫から刊行された『吉原花魁日記』と姉妹編をなしています。 光子は群馬県高崎市内の貧しい職人の家に三人兄妹の長女として生まれ、高等小学校を卒業しましたが、大酒をくらって死んだ父親の借金返済のため、十九歳のときに吉原へ千三百五十円で売られてしまいます。周旋屋にピンハネされ、実際には千円と少々。詩歌と読書を愛する文学少女が、いきなり初見世を体験させられて人生に絶望し、何度も自殺を考えますが死にきれず、やがて周旋屋や抱え主や
東京渋谷に「co-ba library」という名のシェアライブラリーが、東京・渋谷にオープンする。自宅で所蔵する本を持ち寄って作るシェアライブラリー(個人集合図書館)という。 http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1205/02/news009.html また、二ヶ月ほど前には朝日新聞文化欄(2/11)に、マイクロソフト日本法人元社長の成毛眞氏の「蔵書持ち寄り・集合本棚ライブラリー」構想が紹介されていた。作家や学者、編集者らが空き空間に蔵書を持ち寄り、共同で会員制のライブラリーを立ち上げたいというのである。 http://www.asahi.com/culture/update/0210/TKY201302100067.html 死蔵しているうちに陳腐化する書籍、あるいは溜まる一方の(捨てきれない)蔵書を、古書店に処分する前に何とか活用できないかという
もう8年も前のこになるが、中学生の読解力低下が問題となったのを機に、文科省が一般の成人についても国語力の調査を行うことを検討したことがある。その後の情勢変化で棚上げになったようだが、じつは成人対象の国語力調査は、1948(昭和二三)年と55年にも行われている。 終戦直後の調査は連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報局の指示によるもので、全国の15から64歳までの21,000人を対象に、漢字や数字の読み書き、文章や語句の理解度を調べたところ、100点満点の平均が78.3点という好成績だった。当時アメリカ占領軍は日本国民の再教育のため、彼らが非能率的と考えた漢字かな交じり文の廃棄を意図していたが、一般国民の識字率や国語力が意外に高いのを見て、急きょ政策を変更したといういきさつがある(本日付の「朝日新聞」参照))。 それから半世紀、いまの私たちは終戦直後の人々のような高い国語力を保持し得ているかど
『明治文學全集』全99巻・別巻1の復刊が話題となっている。1965年(昭和40)の第一回配本(写真)の当時、まだ駆け出しだったころの私は、全冊揃えきれるかどうかという不安を抱きつつ、そのころ神保町角にあった行きつけの書店に予約したことを思い出す。定価1,300円、その後1989年の全冊セット復刊を経て現在は各巻7,875円となった(セット価は79万円余)。値段に完結後約40年の変遷は感じるものの、内容的価値に変動は内ない。当時の明治文化研究会、とくに柳田泉はいい仕事をした。 しかし、ここでは全集の提灯を持つのが目的ではない。電子出版が支配的になろうとしている環境で、この種の“大全集”企画にどのような価値変動が生じるかということを考えたい。まず私は、読書の基本を身につけるための図書をはじめ、いわゆる基本資料のほとんどが電子化に不適であるという現実を指摘したい。 『明治文學全集』などはその最た
昭和を駆け抜けた天才編集者、プランナー大伴昌司は、1936年2月3日生、1973年1月27日没であるから、あたかも生誕75年、没後37年になる。私は最近「ミステリマガジン」に連載中の回想録「幻島はるかなり」の中で、この畏友について度々ふれているが、以下に再録するのは竹内博編『証言構成 OHの肖像』(飛鳥新社、1985.11刊)に際し、「週刊読書人」に寄せた書評である。 ちょうど1年ほどまえ(1984)の11月、NHK教育テレビ(ETV)で放映された「少年誌ブームをつくった男・大伴昌司」が異例の好評で、旬日を出ずして三回もアンコールされたと知ったとき、私は時代がまた一転回を遂げて、大衆文化が自らのアイデンティティーを強く求める時代に入ったことを直感し得た。本書はそのエコーとして企画されたもので、大伴昌司の晩年の弟子筋で気鋭の大衆文化研究家による、斬新なヒューマン・ドキュメンタリーである。 い
ちょっと意表をつかれる書名だが、これまでの辞書が常に要求されてきた「規範性」「権威性」の拠ってきたるところを究明、その本質を明らかにするという内容である。辞書史に関心のある人ならば、「政治」と聞いてまず連想するのは、近代辞書の成立がナショナリズムと密接に結びついていた事実であろう。本書はまず、日本近代の国語辞書成立にあたって、欧米に比肩する「文明国」辞書をつくるという愛国的な編纂動機が存在したことを丹念に立証する。 このことは大槻文彦の『言海』編纂(高田宏『ことばの海へ』など)によって知られているが、ここではさらに近代的方式による自国語の整備(語彙を網羅し、語釈を歴史的に記述する)をもって文明国の標準ないし条件であるとする観念が、幕末から明治初期にかけての洋学系の知識人から発したこと、およびその淵源が先進国の辞書観念、たとえばジェームズ・マリーらの『オクスフォード英語辞典』やグリム兄弟の『
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