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インタビュー
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鎌倉時代はシェイクスピアである――。 そんなこと、いきなり言われても「わけわからん」と思われるでしょうか? 実は、今なおファンの多い『鎌倉殿の13人』について、脚本家・三谷幸喜さんが公式サイトのインタビューで、以下のように語られていたのです(→link)。 シェイクスピアには、おもしろい物語の要素のすべてがある。 和田義盛と三代将軍・実朝。 2人の関係は、『ヘンリー四世』に出てくるフォルスタッフとハル王子に重なります。 三浦義村は『オセロー』に出てくるイアーゴー。 頼家の苦悩は『リチャード二世』に出てくる若き王の哀しみと似ている。 そして頼家の息子の公暁。 彼が置かれた境遇はまさにハムレットそのものです。 ※脚本・三谷幸喜さんインタビューより引用(→link)※現在はリンク切れ 「シェイクスピアなんて知らんがな……」という方も後述しますのでご安心ください。 実はこの発想は三谷幸喜さんに限っ
確かに『鎌倉殿の13人』の主人公が発表された時点で、 「えっ?北条義時って???」 と違和感、あるいは驚きを抱かれた方も多かったでしょう。 源頼朝や北条政子ならまだしも、二代目執権・義時とは、まさしく予測不能――。 前半生は「何もしない人」と揶揄されるほど影が薄く、表舞台に立ち始める頃には陰謀の渦中にいて、何度も結婚を繰り返す。 英雄と持ち上げるには黒すぎて、しかも平安末期から鎌倉時代など視聴率だって望めなさそうだ。 やはり大河ドラマの主人公に適していない人物では? 実際、そんな意見も多くあったようですが、あらためて考えてみたいのがこれ。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のクライマックスになるとされる【承久の乱】。 後鳥羽上皇の朝廷と、北条義時の幕府が衝突した朝幕対決は、幕府の勝利で幕を閉じます。 これで鎌倉幕府も安泰――とはならず、承久の乱からわずか26年後、今度は鎌倉幕府を二分しかねない大事件が勃発します。 宝治元年(1247年)6月5日、北条と三浦が衝突した【宝治合戦】です。 『鎌倉殿の13人』では、小栗旬さん演じる北条義時と、山本耕史さん演じる三浦義村は、盟友のような間柄。 さすがにこの両家は安泰では? と、北条は確かに討幕まで存続するものの、三浦は違います。 北条泰時の孫・時頼と、頼朝の側近であった安達盛長の子・安達景盛が、三浦義村の子・泰村や光村らを排除する事件が起きてしまうのです。 凄惨極まりない結末を迎え、三浦一族が自害を遂げたあとは今も鎌倉にひっそりと残されています。 三浦義村はドラマの演出で賢いわけではありま
せがれの音之進はいずれ 指揮官になっち 決まっちょります 指揮官には大勢の若い命を預かる責任があっど せがれには我から進んで困難に立ち向い ふさわしい男になっくんやせ 鯉登平二(『ゴールデンカムイ』第139話より) 『ゴールデンカムイ20巻』は、前を見据えて進む杉元が表紙です。 彼が進みゆく道に待っている冒険の結末は、どうなるのか? それはこの先を読み進めねばわかりませんが、金塊争奪戦以外の未来は興味深いものがあります。 現実に起きた史実を振り返れば、様々なことが見えてくるからです。 彼らの過去、そして未来について、区切りとなるこの機会に考えてみましょう。 ※この記事はネタバレを含んでおりますので単行本20巻読了の方のみ、読み進めてください 【TOP画像】ゴールデンカムイ20巻(→amazon)
歴史とは完結したもの。 過去を取り扱うのだから「不変である」と思われがちです。 しかし、現実は違います。 歴史研究や創作物によって、同じ人物や事件でも、評価がガラリと変わることは多々ありまして。 例えば、豊臣秀吉像をとってみても、時代によって人々の願望が反映され、変化していることがわかります。 以下の部分に注目しますと……。 ―――大河ドラマや漫画、アニメなどで戦国ものが多く扱われていますが、そういった他のメディアで定着したイメージからの影響はあるのでしょうか? 木股:影響はありますね。常に新しい知識で、新しい武将の一面をみせることができたらなと。史実で新しい発見があったらどんどん取り入れていきたいと思っています。 良い例が今川義元ですね。昔は信長に討たれた中途半端なイメージでしたが、研究が進み再評価がなされ、『信長の野望』でも地位があがっていきました。 また、これまで義理が低いと言われて
大河ドラマ『青天を衝け』で、なかなか衝撃的なシーンがあったのを覚えていらっしゃるでしょうか。 主人公である渋沢栄一と出会った伊藤博文が、若い頃のヤンチャ自慢をするように【英国公使館焼き討ち】の話を始めたのです。 焼き討ちとは、現代でいえば「テロ活動」。 通常の感覚なら、こんな姿勢は褒められたものではないでしょう。 あれはドラマの中だけの話なのか? というと、実は史実においても、若い頃の渋沢栄一と伊藤博文は尊王攘夷の【テロ同志】と言えます。 かたや資本主義の父と呼ばれ。 かたや日本初の総理大臣であり。 お札の顔にまでなった二人ですから、にわかには信じ難い話ですが、実際に記録が残っているのだから仕方ありません。 では一体、二人はどんなテロ活動をしてきたのか? ドラマでも栄一と博文が意気投合していた怖い理由を見て参りましょう。
誠実な人柄で武芸は達者。 おまけに見た目は超イケメンで、しかも智勇兼ね備えている――。 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で中川大志さんが演じていた畠山重忠があまりにカッコよかった! 完璧じゃないか! と思うのは我々だけでなく、昔から「坂東武士の鑑(かがみ)」と称される程の人気ぶりでした。 では一体、坂東武士の鑑とは、どんな武士のことを指すのか? これが意外と難儀な問題で……考察しましたので、ご一緒に振り返ってみましょう。 坂東武士の理想とは?そもそも坂東武士の理想とは? 弓馬に優れ、主君との契りも厚く――なんて想像しがちですが、実は結構定義が難しい問題だったりします。 なぜか? 国語や歴史の授業を思い出してみてください。 『源氏物語』にせよ、『枕草子』にせよ。 中世日本人の精神性として習うのは京都王朝周辺となりがちです。 では坂東武士は? というと、当時の彼等は、自分たちの思いをスラスラと記す
ドドドドド………ゴゴゴゴゴ………ドギャアアアアン! と言えば? はい、『ジョジョの奇妙な冒険』ですが、実は本作って【歴史漫画】であり、その視点から考察してみよう――なんて言ったら笑われるでしょうか? ジョジョの起点はヴィクトリア朝時代のイギリスを舞台にしており、大いにその要素はあります。 歴史の絡んだ作品は、背景を考察するとさらに漫画が面白くなる。 今回はそんな視点から、ジョジョの奇妙な冒険の歴史的背景を探って参りましょう。 ※以下はヴィクトリア女王の関連記事です
そんな海軍で働く人々が、それに見合うだけの待遇を得ていたかというと、そんなことはありません。 木造戦艦に乗り込んだ乗務員たちは、長いこと陸地を踏むことすらできず、劣悪な食事しか与えられませんでした。 虫の湧く堅い乾パン、水でもどした豆、塩漬けの肉、ビール、ラム酒。 ビタミン不足の乗組員たちは、壊血病に悩まされ続けます。 18世紀末になってライムの摂取が義務化されると壊血病患者は減ったものの、チフス、マラリア、コレラの患者は相変わらず多く、実に海軍での死亡者の半数は病死が占めていたぐらいです。 任務もまた過酷です。 高いマストにのぼって帆を張り、敵の戦艦と戦い、仕事で重大なミスをすれば容赦ない鞭打ち刑が待ち受けているのです。 そして、ひとたび敵と戦闘になれば、狭い船内に逃げ場はありません。砲弾の衝撃、飛び散る木片、大砲の発射音に耐えながら戦い続けねばならないのです。 病死、戦死、溺死、戦艦に
『徳川慶喜公伝』という書物をご存知でしょうか? 文字通り15代将軍・徳川慶喜の生涯を描いたもので、著者は他ならぬ渋沢栄一。 大河ドラマ『青天を衝け』でも同書の内容をベースにしているようで、主人公の栄一が書いたんだったら間違いない! これは傑作だ! とはならないのが歴史コンテンツの宿命でもあります。 自己申告の武勇伝ほどアテにならないことは皆さん肌感覚でご理解いただけるでしょう。 自伝というのは「好き勝手に改ざんできる」とまでは申しませんが、文才さえあれば、いくらでも都合よく経歴事績をキレイに見せることができる。 ウソはついてない――されど読み方によっては意図的に誤解させられる――そんな書物って信用できませんよね? 残念ながら『徳川慶喜公伝』もまた疑わしき書籍だったりします。 これは何も私が言っていることではなく、同書は刊行直後から 「フザけた内容だ!」 として元幕臣や佐幕派の武士らを中心に
彼らの何が凄いのかって、全員が総じて能力(武力ときには知力)が高く、他国から恐れられていた点でしょう。 例えば織田信長の息子・織田信雄が、大友宗麟の息子・大友義統が「ダメ息子」のレッテルを貼られるように、各大名家には、一人ぐらい無能とされる人物が生まれがちです。 しかし、島津家では、常に優秀な主君を輩出してきたとして なんて言葉で称えられることもあります。 2018年大河ドラマ『西郷どん』では、島津斉彬と比較してその父・島津斉興や、異母弟・島津久光が、あまり優秀では無いように描かれていました。 が、実際、そんなことはありません。 本稿では、江戸時代の薩摩藩主・全12代の足跡をマトメてみました。 1代 島津忠恒(ただつね) 1576-1638 2代 島津光久 1616-1695 3代 島津綱貴(つなたか)1650-1704 4代 島津吉貴 1675-1747 5代 島津継豊 (つぐとよ) 1
良いときは良く、悪いときはとことん悪く――。 権力者の家族はギャップが激しいもので、慶長二十年(1615年)5月23日に処刑された豊臣国松もその一人でしょう。 「誰?」という声が聞こえてきそうですが、記事タイトルに答えはありますよね。 国松の生涯を追ってみていきましょう。
『鬼滅の刃』の「遊郭編」が地上波へ――。 当初、宇髄天元によって「ド派手に行くぜ!」という告知が公開されると、たちまちネットは大騒ぎになりました。 「遊郭を子供にどう説明すればいいんだ?」 そんなストレートな疑問が飛び交っていたかと思ったら、いつしか話は曲解されて 「遊郭はセーフティネットみたいなもんだった」 なんてトンデモ論まで出てくる始末。 一体これはどういうことだ……と軽く驚きつつ、辿り着いた結論がこれです。 【みなさん、遊郭の知識が曖昧なのではなかろうか?】 江戸には吉原という一画があって、そこでは遊女が客を取る。 彼女たちの中には花魁というアイドル的存在もいて、大名や商家などの有力者しか相手にしなかったような……。 と、それぐらいのことは何となく知っていても、実際にどんな場所だったか?という生々しい話となると、答えられる方が少ないのでしょう。 そこで本稿ではリアルな遊郭事情を振り
幕末の薩摩藩士とはとても思えないほど平和的だった大河ドラマ『西郷どん』。 主人公は常に人道的で平和主義。 そうなると、まず間違いなく「登場しない」であろう薩摩藩士が次の二人であり、 実際に登場しませんでした※1。 益満は西郷隆盛の信任も篤く、山岡鉄舟の護衛も務めたほどの藩士。 維新混乱期の中で活躍し、過去の映像化作品にも出ています。 例えば1979年放映『風の隼人』では、『西郷どん』ナレーターである西田敏行さんが演じましたが、そんな藩士がドラマに登場しないのはなぜか? というと彼らは、史実の西郷が強引に押し進めた【武力倒幕】に深く関わっていたのです。 悪徳将軍・徳川慶喜――ドラマではその愚行を止めるためとされた武力倒幕。 史実では「下策(よろしくない策)」とされながら、西郷は、なぜそんな策に走ったのか? 考察してみましょう。
言葉そのものは戦後に生まれた「守護大名」にせよ「戦国大名」にせよ。 これらのワードは戦後に生まれた学術用語です。 もとは鎌倉幕府にも室町幕府にも設置されていた【守護】が守護大名の語源。 鎌倉時代の守護・地頭は、朝廷から派遣された国守とうまくやっていくことも仕事のうちでした。 が、室町時代にもなると国守の力はほとんどなくなり、守護が国守の仕事も実質的に行っています。 これによって収入も軍事力もUP! そもそもが武士ですから家臣団もおり、武力と経済力が伴った小国家みたいな組織となりました。 鎌倉幕府や江戸幕府に比べて、室町幕府の力が相対的に弱く感じられる理由の一つですね。 力を得る代わりに守護の職務も増えますが、さほどの問題ではなかったようで。 このような状態になってから「守護」ではなく「守護”大名”」と呼ぶことが多くなる気がします。 しかし、あくまで建前上は「幕府に任命されて守護の地位を得て
歴史とは既に終わったものであり、評価はそうそう変わらない――。 なんて思われがちですが、実際は日々の研究により、ときに大きな変貌を遂げます。 戦国武将の中で、その代表格が天正10年(1582年)3月11日に亡くなった武田勝頼でしょう。 かつては偉大なる父・武田信玄の偉業を引き継げなかった暗君とされてきましたが、2000年代以降、急速に研究が進んで別の像が語られるようになっており、その成果のひとつが2016年大河ドラマ『真田丸』。 ドラマでは第一回で散ってしまうにもかかわらず、高潔で聡明さをにじませた姿は、視聴者に鮮烈な印象を与えました。 一方、2023年大河ドラマ『どうする家康』では、地下闘技場で修行させられているような描写があったり、瀬名の策に乗せられたかと思ったら突然裏切ったり……いったい勝頼とは愚なのか賢なのか? 本稿では、父・信玄とは違った真の魅力に迫ってみましょう。 ※本稿の「信
今川義元は家督継承順の低い五男か今川義元は、永正16年(1519年)に生まれました。 父は今川家の当主である今川氏親で、母は中御門宣胤という公卿の娘(寿桂尼)。 母の寿桂尼は氏親の正室として今川家にかなり大きな影響を与えていたようで、「女大名」「尼御台」などと称されることもあります。 しかし、上記のように格の高い出自を有しながら、義元の家督継承順位はかなり低いものでした。 それはなぜか。 義元には複数の兄がいたと考えられるからです。 広く知られているところで二人の兄(今川氏輝・玄広恵探げんこうえたん)がおり、また近年では、経歴不詳な彦五郎という人物や、仏教界ではそれなりに名の知られた象耳泉奨しょうじせんじょうも兄とされます。 依然として義元の兄弟については複数の説が乱立していますが、本稿では今川家の五男として進めます。 たとえ大名家の子息として生まれても、これだけの兄弟がいればどのような生
様々なやんちゃ行為のおかげで、最強のネタ系戦国大名としてお馴染みの伊達政宗さん。 とりわけ政宗の手紙は飛び抜けてお茶目で面白い――そんな評判であることをご存知でしょうか。 政宗の場合、好条件が揃っており、ありのままに感情が炸裂した手紙が現代まで多数残っております。 その好条件とは、 ・祐筆をあまり使わず、自筆で書状を書いていた ・筆まめ ・伊達家が改易されておらず、家臣たちが「藩祖」の書として家宝扱いにした ・彼自身の知名度が高いため、発見されやすい 例えば政宗にとって伯父にあたる最上義光の場合、最上家が改易され、知名度が下がったために未発見のものが多いです。これは近年の研究で改善されつつあります。 しかし政宗については今なお、ちょいちょい発見されています。 2020年にはもこんな記事が掲載されておりました。
武士とは、平安後期に生まれた新しい身分です。 初期の頃は貴族に都合よく使われたり、地方の親分として粗暴な振る舞いをしたり。 ぶっちゃけ「野蛮」な存在であり、鎌倉時代初期(特に承久の乱)のあたりまでは文字を読めないのもフツーという文化レベルでした。 しかし、彼らだって、いざとなれば「やれば、できる!」。 地方統治を担うようになって自然と【法や裁判】に関わるようになり、意識改革も起きます。 たとえば文字が読めるようになったことで、学問に興味を持つ者も現れ始めました。 その最たるものが、金沢文庫を作った北条実時でしょう。 今回は鎌倉武士の衣食住・武芸・刀剣甲冑について見ていきます。 彼らと関わりの深い仏教については、別の機会にして、まずは武芸から!
本日10月14日はコロンブス・デーです。 世界史的に見て、コロンブスはもはや偉大なる英雄とはされません。 ところが日本では、2024年6月に3人組バンド「ミセスグリーンアップル」がミュージックビデオ『コロンブス』を公開して物議を醸し、早々に閲覧できなくなりました。 いったい何が起きていたのか? というと、ミュージックビデオの中で、コロンブス、ナポレオン、ベートーベンに扮したメンバーが、猿の着ぐるみを身につけた人々に様々な文明を教えるというストーリーが描かれ、差別的と見なされたのです。 たしかにアメリカでは、10月の第二月曜日を「コロンブス・デー」という祝日にしていました。 1492年10月12日にコロンブスがアメリカ大陸を発見した日を記念するものでしたが、疑義と批判が噴出し、各州で「先住民の日」と改められてゆくのです。 わざわざ祝日を変更するとは……英雄の銅像撤去にせよ、こうした世界的な歴
幕末――とは日本各地が限界に達した時代です。 黒船が来航したから? いいえ、それだけではありません。 相次ぐ飢饉。 自然災害。 様々な対応に迫られ、どの藩も借金まみれとなり、それに加えて外国からの脅威まで重なったのですから、もうどうにもなりません。 そんな激動の最中、全国屈指のベリーハードモードに突入した藩がありました。 松前藩です。 北海道のほぼ最南端に松前城を構えた同藩。 彼らは新政府軍についたものの幕府軍に大敗し、さらには城下町で大火災という悲惨な事態に陥ってしまいます。 慶長9年(1604年)1月27日は、そんな松前藩の統治を家康が認めた日。 本日は、その歴史を振り返ってみましょう。 コシャマインの乱で武田信広大活躍蝦夷地――それは【中央政権に屈しない民族が暮らす土地】というのが、中世以来の和人による認識でした。 東北地方は、和人の大名によって支配されたとみなされ、津軽海峡の向こう
一般的にはマイナーながら、ある地域では絶大な支持を受ける戦国武将を紹介させていただく当コーナー。 今回は千葉県旭市からピックアップいたします。 木曽義昌さんです! 木曽義昌さんは文禄4年(1595年)3月17日に亡くなったとされます。 命日については諸説あり国史大辞典では同年3月13日だったりしますが、お墓のある東漸寺では17日を供養の日としていますので、この日で進めさせていただきますね。 申し遅れましたが、私、“れきしクン”という芸名で活動を行っている長谷川ヨシテルと申します。よろしくお願いします!
生い立ち大岡忠相は延宝五年(1677年)、父・大岡忠高の第四子として生まれました。 貞享三年(1686年)同姓の忠真の娘婿として養子になり、翌貞享四年(1687年)9月に時の将軍・徳川綱吉にお目見えして公的デビューを果たしています。 こういった場面で公の場に出てこないと、武士であっても血縁関係や活動時期などがわからないことがあるため、重要なポイントです。 大岡家は本家・分家の間で養子のやり取りをたびたびしており、結束が強かったようです。 しかし、忠相の時代にはそれによる不都合が起きていきます。 まず元禄六年(1693年)に忠相の実兄・忠品が八丈島に流罪となっています。 将軍・綱吉の勘気を蒙ったらしいのですが、詳細はわかっていません。 さらに元禄九年(1696年)、いとこの書院番・忠英が番頭を殺害して自害という事件を起こしたため、忠相も父や他の一族とともに閉門処分となってしまいました。 父・
借金とは、個人にとっても組織にとっても頭の痛い問題。 歴史上でもこの問題がたびたび持ち上がってきますが、そこで財政再建の名君と称され、TVや書籍でも度々注目されるのが上杉鷹山です。 寛延4年(1751年)7月20日はその誕生日で、彼は、あの謙信公が引き継いだ「上杉家→米沢藩」の九代藩主でありますが、そこでちょっと気になりません? 「そもそも米沢藩って、なぜそんなに財政がガタガタだったの?」 と、その詳細については以下の記事に譲り、
八甲田山に駆けつけた辨開凧次郎(イカシパ)『ゴールデンカムイ』の舞台、直前の明治35年(1902年)。 雪深い青森県の山中で行われた「八甲田山雪中行軍訓練」で、当時の陸軍は、史上稀に見る規模の犠牲者を出しました。 訓練の参加者210名中、実に199名が遭難で死亡したのです。 このとき歩兵第五師団が、難航する救難と捜索のため、協力を求めたのがアイヌ民族。 寒冷な冬の山を捜索するのであれば、彼らこそ頼りになると考えたのです。 早速、要請を受けた茅部郡落部村(かやべぐんおとしべむら)のアイヌ・イカシパ(和名:辨開凧次郎/べんかい たこじろう)は、仲間10人を引き連れ、八甲田山へ向かいました。 『ゴールデンカムイ』ではこの中に、イポプテもいたという設定がなされています。 現場に到着した辨開らは、67日間、探索に参加しました。 が、もとよりほぼ全員が亡くなった事件ですから、彼等も生存者を発見すること
日本の男色は古代ギリシャに匹敵する?まず国際的に見て、歴史上の日本の男色は「古代ギリシャに匹敵する」と言われたりします。 キリスト教圏では、男性同士の性行為は「ソドミー」、「自然に反する最悪の罪」とみなされました。 イギリスのように20世紀まで投獄された場合もあり、多くの諸国で社会的に受け入れられてなかったのですね。 日本と地理的に近い中国および朝鮮半島では、時代や王朝によっては禁止、制限されることがありました。 容認はされていましたが、推奨とまではいかなかったようです。 彼の愛人は、史料から確認できるだけでも最低7人。 そのうち源成雅については、父の藤原忠実と共に愛人として共有していました。 成雅モテモテ?かと思ったら、この藤原忠実、『富家語』によると、こう語っていたそうです。 「亡くなった源信雅はイケメンだったけど、お尻は駄目。息子の源成雅は、顔はイマイチだけど、お尻は父より上。だから
「民が腹いっぱい食えるよう! 民のため!」 2018年の大河ドラマ『西郷どん』の西郷隆盛は、常に庶民のことを第一に考える【現代的人格者】の姿で描れていました。 そのクライマックスは明治10年(1877年)。 9月24日に終わったいわゆる西南戦争です。 しかし、その現実、さすがにドラマのように甘いものではありません。 なにせ規模の大きな内戦です。 戦場ではバラバラになった肉体や死体が散乱し、疫病も蔓延。 それを官軍兵士が日本各地へ持ち帰って全国規模で流行する――国内でパンデミックの様相まで呈したほどです。 ドラマでこそ現代的な人格者として描かれてきた西郷ですが、史実では好戦的な性格でも知られており、西南戦争もリアルで見ると悲惨極まる戦いでしかありません。 多くの「民」も巻き込まれ、犠牲になりました。 「腹いっぱい食える」どころか、巻き込まれて死んでいったのです。 本日は、西郷という英雄を今一
明治三十八年(1905年)の5月27日、旧日本海軍と露・バルチック艦隊が激突する日本海海戦が勃発しました。 日露戦争における日本の勝利を実質的に決定付けた海での戦い。 東郷平八郎が指揮したことでも知られ、翌28日までにロシア艦隊39隻のうち(旗艦含む)19隻を撃破し、壊滅的な打撃を与え、反対に日本側は水雷艇わずか3隻の被害で済んでいます。 不利だとされる状況でなぜ勝てたのか? 振り返ってみましょう。 日露戦争の流れ教科書だと「バルチック艦隊に勝ちました」の一行で済まされてしまいがちなこの戦い。 まるで「来た、見た、勝った」かのような扱いですけれど、この勝利を収めるまでには並々ならぬ下準備、そしてそれだけではない偶然の味方などがありました。 軍事的な専門用語をなるべく排除してスッキリ進めましょう。 まずは日露戦争の経緯をまとめるところから。 前年に始まったこの戦争は、旅順という要塞を攻略する
大河ドラマ『麒麟がくる』で、吉田鋼太郎さんの演じた松永久秀が、戦国ファンのみならずお茶の間でも話題になりました。 梟雄イメージじゃない! それどころか非常に思慮深くて外交力、政治力も有している。 そして織田信長とぶつかった後の死に様が圧巻だった――。 信長と久秀、二人の関係性は非常に複雑かつ印象的ですから『麒麟がくる』でも大きな見どころでした。 史実における松永久秀の実像も、最近の研究で変わりつつあります。 気品。 知性。 そしてワイルドさ。 歴史の歯車が一つ変わっていればイケメン智将で描かれてもおかしくなかったのではないか? と、そう思わされるのです。 本稿では、天正5年(1577年)10月10日に亡くなった、松永弾正久秀の生涯を史実ベースで振り返ってみます。
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