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衆院選
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世間的には「シン・ゴジラ」ネタは飽和状態なのでしょうが、まぁ、こんな見方もあるのか、くらいのことで。おつきあいいただければ幸いです。 遅ればせながら先々週、映画を観た直後の感想は、「東京防衛軍だ!」でした。 何のことかと思いの方も多いでしょうが、よしもとよしとも『東京防衛軍』というマンガでは、地球を侵略する巨大な一円玉型ロボットが、池袋サンシャイン60に押し潰されています。『東京防衛軍』は1990年に単行本化されていますから、(少なくとも池袋方面では)サンシャインだけが屹立していた80年代の東京と、超高層ビルが林立する2010年代という対比が、何だかおもしろいなぁくらいの感慨でした。 でも昨日、ふと『東京防衛軍』を読み返してみて、ここ30年のメディア史について妙に語りたくなってしまいました。というわけで 『東京防衛軍』とテレビ さて、巨大一円玉が暴れたのは、「東京防衛軍2宇宙指令0.03」
20世紀後半、とりわけテレビがメディアの中心に君臨していた時代には、広告とコンテンツの区分は明快でした。 民放の場合、番組が途切れたところでCMタイムが始まり、15秒・30秒CMの一連の流れがあったのちに、また番組へと戻っていく。コンテンツ(番組)と広告(CM)とは別物として存在していましたし、それがあたり前の姿としてありました。 ところが、そうした自明の前提は、メディア環境の激変の中、この10年ほどで一気に怪しくなってきました。今回は「コンテンツ/広告」の区分けのゆらぎという点から、曖昧化する「広告」の現在を見ていきたいと思います。 広告化するコンテンツ広告とコンテンツとの境の曖昧化の、もっとも見やすい最近の事例として、パッソ×テラスハウスのコラボCMがあります。解説するまでもないことですが、「テラスハウス」は、いわゆるリアリティ・ショーないしリアリティ・プログラムと呼ばれるようなテレビ
広告ないしマーケティングの最先端と言えば、AR(拡張現実)やらビッグデータやらといった話になるのでしょう。「今、○○が新しい」「これからは××だ」と、それこそバズワードが毎年のように生成消滅を繰り返す広告業界・マーケティング業界。テクノロジーに暗く、現業にいない身にとっては、その目まぐるしい変化を理解するのも困難だし、その最前線のあり様などは追尾不可能と言わざるをえません。 ですが、新たなメディア、新奇な広告手法が次々と現れる一方で、オーソドックスな広告のあり方も、急には無くなるわけではないようです。新旧が一挙に入れ替わるというよりは、存続する従来型の広告の上に、新たな広告媒体・手法が重層していく…といった方が、現状を正確に言い表しているのでしょう。 そう考えてくると、大学教員(しかもどちらかと言えばメディア史・広告史が専門の)が、一歩引いたといか、一歩後ろの立ち位置から、現在の広告をめぐ
社会学のみならず、広く社会科学ないし人文学の世界において、ここ数年来、「承認」概念をめぐってはさまざまな議論がなされてきました。現代社会を語る上で、一種のキーワードとなっている観もあります(斎藤環『承認をめぐる病』日本評論社、2013年参照)。たとえば、2008年に起きた秋葉原での無差別殺傷事件。家族と離れ、派遣労働者として職場を転々とする犯人が求めていたのは、他者からの「承認」であったと、しばしば語られてきました。そして、とりわけ彼の場合は、ネット上でのつながり――たとえ罵倒や冷笑であっても、何らかのレスポンス――を求めていたのだとも論じられました。 現代社会を生きる人々は、さらに言えば現在の若者たちは、それほど強く「承認」を求めているのでしょうか。 この問いに対して、私の中に解答はありません。ただ思うことは、いつの時代にも若者たち(まだ何者でもない者たち)は、周囲や社会からの承認を求め
相手のルールで戦うということここ数年来、私は1年生向けの「社会学リレー講義」の責任者を務めています。リレー講義とあるように、10数名の社会学部専任教員が、1回ごとに入れ替わり立ち替わり、自身の研究テーマにひきつけながら、「社会学への導入」となるようオムニバス形式で講義をしていくわけです。 その責任者ですから、学期始めの1回目のガイダンスを担当し、時には講義のトップバッターを引き受けたりもします。その初回のオリエンテーションにおいて、まずフレッシュマン&ウーマンに向けて言うことは、家庭教師や塾講師のアルバイトというシチュエーション以外では、「大学に入ったら入試や受験勉強のことは忘れましょう」です。今まで上の学校へ進むため、入学試験をクリアするために勉強してきたかもしれませんが、これから先の学習は、これまでとはルールが違うということを肝に銘じてほしいのです。 以前にも述べたように、多くの学生は
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大学卒業後、1984年に博報堂入社。12年間の会社員生活(最後は経営企画室員)を経て、関西学院大学社会学部に転職。専攻領域は広告史・若者文化史・メディア史など。コピーライターとしては大成せず、研究者としてもいまいちで売れる本も出せていないが、書くことへのこだわりだけは持ち続けたいと思っている。この場では、各種コンテンツへの批評や大学教員としての雑感などを綴っていく予定。男女の双子(小学生)の父。
「使える!」の千差万別さて前回、就活において採用側が考えているのは、つきつめて言えば「この学生を迎え入れることによって、当方に何のメリットがあるのかだけだ」と書きました。そして今回、いくら学生側が「私を採用することによる御社にとってのメリットは…」と自己申告しようとも、採用する側はシビアに査定するものであり、学生の言い分をそう簡単に真に受けることはない、といったあたりを述べるつもりだと予告しました。 では、そのメリットなのですが、まぁこれは千差万別としか言いようがありません。世の中にはいろんな企業があります。そのうえ企業内にはさまざまな部署があり、それなりの規模の会社ならば、どこかにその人がはまる場所がある(かも)、くらいに考えておけばいいと思います。ある企業に内定を得た人の中でも、「使える」と評価されたポイントは、人それぞれだと思います。 就活時期になると、よく「○○社は、××タイプしか
私の大学進学動機大学は就職予備校か?という問いが発せられた時、多くの場合、それに続くのは、いいやそうじゃない、そうあってはならないといった議論です。企業などからしてみれば、「大学に即戦力を育成できるはずはないのだから、変にビジネスの真似事をさせるより、もっと基礎的な学力をつけさせておいてくれ」でしょうし、大学の側からしても依然「大学はやはり学問の府であるべきだ」でしょうし、学生の中にも「高邁な知識・教養にふれたくて、真理を探究したくて進学したのだ」という者(大学進学率数%時代の残滓)も存在します。 それぞれもっともだと思います。 ………。 でも、どこかで私は違和感をおぼえてしまいます。なぜなら30数年前、私が大学受験をした際、心底思っていたことは「この大学・学部に入って、出て、定職に就きたいなぁ」だったからです。 お前の半生はどうでもいい、という方も多いでしょうが、あえて書きます。私は19
ごあいさつプロフィールにもあるように、私は現在、私立大学文系学部の教員です。そして、私のブログに飛んでいただければお分かりのように、学部での教務・職務以外にも、ここ数年は大学全体の「入口」を司る仕事をしています。「大学にどう入るか」「どこの大学・学部に入るのか」と考え中の人たちと向きあっているわけですが、学部教員としては3~4年のゼミ(演習)も担当しており、「世の中にどう出ていくのか」の問いに日々迫られている学生を眼前にしています(大学院のゼミも担当していますが、またそれは別の話)。 さて、その入口を司る仕事なのですが、就いてみての感想は、メーカーで例えるならば、これは原材料の仕入れ部門にあたるんだろうなぁ、というものでした。大学を工場に例えること、学生を製品になぞらえることには、多大な反発をおぼえられる方もいることでしょう(この点については、後日述べたいと思います)。また、大学で入口系の
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