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アメリカ大統領選
sionsuzukaze.wordpress.com
昨今、いわゆる「炎上」することが一つのマーケティングの「成功」事例になりつつある。「アンチ」が扇動することで、結果として反対する人の思惑とは裏腹に、その批判対象が「売れる」という現象である。例を挙げるまでもなく、いくらでも思い当たることは身近にあるだろう。良し悪しを別とすれば、大統領の座を射止めたトランプ氏のグッズが早々に大量に企画・販売されている現状を挙げられるかもしれない。差別/反差別界隈も同様だろう。「こんな酷い本がある」と流布されるたびにその本はAmazonのランキングを上げ、書店では入荷待ちとなることも一つならずある。 直近で最大の炎上商法の事例を挙げるとするならば、間違いなく「えんとつ町のプペル」を挙げることができる。今年2017年の五本の指に入るくらいの事例かもしれない(まだ1月だが)。私はこの書籍の制作にあたって、相当数に上るだろうイラストレーター他との間でどのような契約が
少し気が重たいのだが、久しぶりに記事を書いておくことにする。 ここのところセクシャリティ関係の話題が立て続けに出ている。 「アッコ 成宮の芸能界引退に釈然とせず「自筆で書いたってことは…」」 「元フィギュア村主がヌードになったワケ 極貧生活をTV告白」 「ホリエモン“新恋人”はカリスマ「女装男子」」 「マクドナルドがキャンペーン動画削除「罰ゲームは男性同士のキス」に疑問の声」 まことにウンザリするような情報量であるが、これは全て今月に入ってからの情報だ。 最初の記事は成宮氏の引退に関するものだが、薬物疑惑についてはここでは触れないことにする。とはいえ 「この仕事をする上で人には絶対知られたくないセクシャリティな部分もクローズアップされてしまい」と記載されていることについても言及。「今は(世の中の人は)気にしないんじゃないか。そんなことで事務所、芸能界をやめるのは…」と不思議そうに語った。
我が国の首相はカイロにおいて、人道支援やインフラ整備に25億ドルの経済支援を表明しました。「非軍事的分野」での支援であり、そのうち2億ドルは他ならない「イスラム国」が生み出した難民に対して必要な支援であり、喫緊且つ重要な支援となりましょう。 或は我が国の政策が、過去から今に至るまで全て正しかったことは無いかもしれません。あなた方が国を持ちたいと願い、或は実現したいと願う社会は、その動機において正しいものもあるかもしれません。しかし、テロルを否定するという一点において、その手段を放棄しない限り、我が国の歴史を振り返って我が国はそれの国家承認という選択をしないでしょう。曾てその横行で自らの国の政策を過ち、世界を相手に戦争するまでに至った狂気への道は、決して褒められたものではないでしょう。同時に、そのテロルが貧困や社会不満を背景とし、正義の実現を願って引き起こされたものであることも、それが独善に
何が問題なのかまったくわかっていない訳のわからない擁護論から批難論まで飛び交っていて、気が重いというかこういう記事はあまり書くつもりもなかったのだが、論点整理くらいはしておいても良かろう、ということで以下まとめてみる。 論点1:「どうして解散するんですか?」のサイトの何が問題だったのか。 この点でまず異論が無いであろうことの一つは「騙り」行為そのもの。小学四年生みたいなあたかも無垢を装うことそのものがそもそも駄目(なお、10代前後の多感な時期というのは、大人がそこにどういう視線を向けようが「無垢」どころか「無邪気な邪気」の時期でもあるし、そこに「無垢」だの「純心」だのを見出すのは大人の勝手な振る舞いである。その装いをしようという段階で既に浅ましいのだ)。「当時だったらどう考えたか」という言い訳をするくらいなら、「自分が小学校四年の時に感じていたことを思い返してみると」という前置きをしてその
大衆の無関心がファッショを呼び寄せる、という言動がしばしば聞かれるが、これが誤りであることを以下に簡単にまとめてみよう。 もともとワイマールドイツの議会制移行後の投票率は常に極めて高い水準で推移している。1919年の83.o%をスタートに、もっとも落ち込んだ時期で1928年の75.6%、ナチスが本格的に勃興する1930年代は常に80%以上、1933年は過去1年間で3回目の選挙にも関わらず、88.8%と最高値を示している。※史料により小数点以下の差異があるがどの史料も概ねこの数値 そして、1919年の選挙において、ボイコット戦術を展開した共産党に対して、社会民主党は37.9%の得票を得ることになった。明らかにワイマール期のドイツは「革命」でも「労働者政権」でもなく、「議会制統治」を選択している。事実社会民主党は明らかに労働者代表政党と言うよりは、大衆政党としての性格を持っていた。「抑圧する独
ここ一両日の事件報道を見ていて、ぼんやりと考えていたことに少し焦点が当たったようにも思えたので備忘録的に。 「頭が良すぎて特殊な子」 「カントを愛している」 この2つはいずれも交友関係から出てきた証言である。 或は 「からあげ弁当ばかり買っていくので気持ち悪い」 でも良いし、 「少女漫画を持っている不審者」 でも良いかもしれない。 個別の事件・事案への言及はこれ以上ここでは行わないが、これらは全て犯罪報道で取り上げられている「証言」である。中にはある種の「病んでいる」人も居たのかもしれないし、或はただ「そうであった」だけかもしれない。その事実性はここでは問わない。 昨今の「普通の日本人」といった表現や、それに対抗するに「普通は人として赦さないだろう」といった表現でも良い。或は「ネトウヨはキモオタ」でも良いし、「デモに行くのは暇人」でも良いかもしれない。それらの個別の事実性もここでは問わない
「今日私は、米国史の中で、自由を求める最も偉大なデモとして歴史に残ることになるこの集会に、皆さんと共に参加できることを嬉しく思う。」 この一節から始まる有名な演説があります。誰もがその名は知っているであろうマーティン・ルーサー・キングの「I Have a Dream」と呼ばれる演説です。 「われわれの共和国の建築家たちが合衆国憲法と独立宣言に崇高な言葉を書き記した時、彼らは、あらゆる米国民が継承することになる約束手形に署名したのである。この手形は、すべての人々は、白人と同じく黒人も、生命、自由、そして幸福の追求という不可侵の権利を保証される、という約束だった。」と指摘されたその約束手形は、演説の中で残高不足の小切手と称された上で、「だがわれわれは、正義の銀行が破産しているなどと思いたくない。この国の可能性を納めた大きな金庫が資金不足であるなどと信じたくない。だからわれわれは、この小切手を換
保守主義。 この言葉ほど本邦において適当に用いられている言葉も無いだろう。同様に左翼という言葉もまたそうではあるのだが。曰く「文化と伝統を守る」、曰く「国を愛する」、曰く「右翼」、曰く「歴史修正主義者」、曰く「軍国主義者」、曰く「尊皇派」等々。果たして、そのどれもが適当に都度自認として、また批判の言葉として用いられている。昨今では「排外主義者」とも同義に用いられることさえある。しかし、そもそもその「保守主義」という用語について、どの程度の思慮を働かせて用いているだろうか。 1955年のいわゆる政党合同以降、「保守・革新」という言葉で括られることにより、「保守政党=自民党」「革新政党=社会党・共産党」といった区分がなされ、その分類において一般に進歩的文化人と呼ばれた一群が社会党ないし共産党寄りの発言を繰り返し、また自民党がしばしば戦前について、または先の大戦に対してともすれば是認的言動を行っ
さようなら、「保守」 というわけで、一応は保守を自称してきたわけですが、そろそろの名乗りは終わりにしよう、と考えた次第。 保守主義とは元来は近代化に対するアンチテーゼの一翼を担い、また急進的社会変革を求めず時に合理性の上に偏見を配して非合理であれ因習として培ってきた社会制度の中に伝統の存在を肯定をもしてきた、はずであった。 それは郷里・郷土とともにその地に住まい根付いた人々を同胞として共にそれらを実現するものとし、それ故に閉鎖的社会・村社会・排外主義とも隣接する危うい立ち位置でもあった。 これもまた、回顧趣味でもなく反動主義でもなく、漸進改良をも包含しない限り、ただの守旧と頑迷に留まるべきものをも内包するものでもあった。 然るに昨今の「保守」を名乗る界隈の動きや、またそれとは別にいくつかのやりとりを通じての「世間」とやらの因習の弊害が時にあまりに大きさの存在(同時にそれは「普通」とも称され
2013年もいろいろありました。 毎年年末は月次ごとに出来事、訃報を列挙して振り返るようなことをしているのですが、敢えて再読書も含めて、今年を踏まえて改めて読んでおきたい10冊、ということで選定してみたいと思います。 ■1位「中国化する日本」 與那覇先生は本年多作ではありましたが、敢えて選ぶならこれを。 日頃伝統や文化、「日本」とは何か、について考えることも多いだろう本Blog閲読の諸氏にも得られるものは多いだろうと思います。 自明だと考えていたこと、思い込んで済ませているもの、それらについて旧来のテンプレートからでは得られない視点を得られることもあるでしょう。歴史学の専門家でないならばなおのこと。 ■2位「集団的自衛権の深層」 日米安保や積極的平和主義など、国際社会の中での本邦の位置づけが変化を求められ、また変化を志向していく中で、果たして「集団的自衛権」また「集団的安全保障」とは本来は
Mukke氏のところに久しぶりにコメントを残したところ、示唆的なレスを頂いたのでお返事。 「逆右翼」と反中主義者たちをめぐって――梶ピエール氏への応答(元エントリ) 「イデオロギーフリーな学知は存在しないわけで,問題はそのイデオロギーがどのように用いられているかなんじゃないかなーとは。イデオロギー的に偏ってはいるけれども独創的で堅実な実証研究と「イデオロギーフリー」なクソ研究だったら前者の方が遙かにマシなわけで。」(Mukke氏レスより抜粋) これについてはベルンハイムをわざわざ引用した理由を特段書かなかったので、この示唆自体は興味深いお返事でした。 ベルンハイムの「歴史とは何ぞや」(以下断りない限り岩波文庫1976年版第36刷を参照)の第一章第一節において“「史学」における意義で用いれば”から始まる一節における“ギリシア語から出た外国語Historieで、この語はもともと「探求獲得した知
自分が浅学非才であるうえにいまもってまったく整理できていないのを承知で以下。 書く経緯となった発端はこのツイート。 ぼくは今でも「日の丸は記号にすぎない」という言説に強い反発を覚える方々からの反論のロジックを募集しています。せっかくなので直接コメントをいただければ。 — 金明秀 KIM, Myungsoo (@han_org) June 28, 2013 もちろん自分は金明秀氏のようにナショナリズムを専門分野としているわけでもなく(それどころかロクすっぽ学問などに身を投じたこともない人間)、以下においていくつかの誤りや撞着、はたまた論理破綻があるだろうことは容易に想像できるのだが、そこはいったん考えずに書き散らしてみる。 ■「日本」と「太陽」と「日章旗」 日章旗について触れる前にこれについて触れておく。 「日本」神話についてもっとも有名な神はだんとつで天照大神であると言っても過言ではない。
ヘイトスピーチに対する相応の対処が必要な状況であることの認識は広まりつつあるように思います。 左翼、人権派はもとより、民族主義右派からも批難され糾弾されている彼らの行動は、党派・政治的ポジションの問題を超え、カウンターを生じさせています。 また、重ねて言いますが、彼らの行動は対象国に対して本邦への国際社会における批難行動を正当化させ、本来謂れ無き批難をもあたかもそれが正当であるかのようなロジックの要諦にも成りつつあります。 このような状況を放置することは、本邦の道義・倫理に悖るだけではなく、実政治上も弊害にしか成り得ません。 宛先:東京都公安員会 東京都公安員会ヘイトスピーチ・デモの排除を目指して、新大久保から。 上記オンライン署名はすでに2100名の署名を集めています。 自分は当該事象に対して「ヘイトスピーチ規制法」のような新規立法を求めることについては否定の立場であり、その点においても
続く「嫌韓デモ」 国会で排外・人種侮蔑デモ抗議集会開催 ここのところ新大久保やら関西方面やらで”愛国者”と自称するレイシストどものデモが劣化の一途を辿っていることは度々報じられていることであるが、とりあえず表題の「朝鮮人をガス室に送れ」は看過しがたいにも程がある(それ以外にも座視し難いものは多多あるが)。 「ガス室」がナチスの民族絶滅政策のひとつであったことは論を俟たないところではあるが、この言動はそれをモチーフにしている点に異論はあるまい。 かつてより自分はナチスの戦争犯罪(及び国内犯罪 ※ユダヤ絶滅政策は国内政策の意味合いも強い)と日本の戦争犯罪(及び植民地政策の瑕疵 ※ナチスドイツは植民地を基本的には持たなかった点で大きく異なる)の差異において、例えば南京事件や半島統治政策において、ナチスの絶滅政策と日本の統治政策・戦争犯罪とは異なる位相であることを度々表明してきた。これについては今
中山成彬議員の国会質疑動画が消されただなんだで騒がしいが、はっきり言って何周遅れの話をしているのだ、という話である。 朝日の記事が適当だの根拠レスだのそんな話はとっくの昔に本質から外れている。まして強制性の有無といった話も現在進行形の問いかけの本質から外れている。 「私は中国や韓国が「歴史を直視して未来志向で」という決まり文句に我慢がならない。これは、日本が侵略国で中国や朝鮮に多大な被害をもたらし、従軍慰安婦や南京事件は実在のものであるということを確定した上で、だから日本は永久に中国や朝鮮に謝罪し続けなければならないという事を言いたいのだ。 これらのことを捏造したのが日本の朝日新聞であり、拡げたのが日教組であり、情けないのは、それを許したのが自民党であるという事だ。 私は、日本維新の会の議員として質問に立ったが、自民党ではなかなか言えないことも言えたという意味で、私が維新の会にいることの意
2月17日予定の新大久保「反韓デモ」に対し、差別反対の意思表示をしませんか。 という次第であります。 昨今排斥運動(差別運動)も公然堂々と、あろうことか一般市民を標的として展開されるようになり、その言動も「殺せ」「殺される」といった憎悪のインフレーションを起こしている有様で、醜悪にして心やすからぬ状況であります。 その主義主張そのものは、あるいは政治主張のつもりでありましょうし、あるいは実際にはそのつもりがなく憤懣晴らす標的として選び易いものを選んだだけなのかもしれず、またその場にいる高揚感こそがそれを一層過激へと追いやっているのかもしれません。 しかしながら、あまりに見るに堪えないそれは、愛国の美名の下に許されるものではないと考えます。 その意味において、上記の動きについては全面的にではないにしても、その趣旨において賛同を表明しておきます(全面的に、でない点については割愛しますが)。 さ
脱原発運動の当初において、比較的大きな声は「怖い」という根源的心理的ものであったように思う。経済性に対する欺瞞や安全管理に対するあまりの杜撰さに対する批判もあったが、やはりその根本は「恐怖」ではなかったろうか。いわゆる「危険性」への問い、という声と言える。 オスプレイを巡る一連のそれも、また「危険性」への問い、ということはできるように思う。その当初段階においては、であるが。試験飛行段階から実戦運用段階へと昇華する過程で格段に安全性が向上したとも言われるが(そうでなければなかなか大量配備には至らない性質のものでもある)。 その意味で、両者とも根本としては同じ根っこを持っているように思えないでもない。が、しかし、と思うこともある。このどちらもが、付随する様々な問題(原発では廃棄物や耐用年数超原子炉の廃炉、オスプレイでは米軍基地の存在そのもの)を巻き込み、当初叫ばれた「危険性」というものはいささ
前回のエントリはだいぶいろいろ反響を頂いたようだが、できれば「日本統治下の朝鮮半島を見る」などもあわせて参照頂きたい。日本がいかに半島に資本を投下し、それがどのように経済・社会に立ち現われたかが簡潔ではあるが見てとれるだろう。それと、自分がIDによる原稿記載を行っているからといって、「実名じゃない」という短絡した向きには、ちょっと調べれば自分の実名はウェブ上に晒してるわけだから、調べれば?とだけ。だいたい自分はこのIDでかれこれ10年以上通してきたのである。匿名実名論争に乗るつもりはないが、このIDは自分そのものであり、またそれを自負もしている。 さて、ここで改めて“現在の”スタンスを確認しておくと、以下のような感じとなる。 1:在留外国人への差別はいかなる人種・民族であれ反対 2:犯罪の取り締まりは厳に成すべきで、それは人種・民族の如何を問わない 3:北朝鮮、中国は潜在敵国であり、同時に
石原都知事が新党結成を表明しました。 一都民としては彼の人格には非常に問題があり、また世界有数の影響力を持つ国の首都に戴く人物として適切であったか、という点については極めて懐疑的ではありましたが、さりとて、といったところです。 まず第一に、都民として彼を票を持ってして落とすことができなかったことはおろか、高齢を理由にした引退さえもさせ得なかった、という点について、率直に言って敗北した、と言わざるを得ません。いかに石原都知事に対する人格的・人物的問題があろうとも、その点については疑いようもありません。もちろん前回の都知事選に書いたように、過去の都知事選において、彼がその地位に就任して以降、対抗馬として勝ち得る人物がいたわけでもなく、また勝つための戦略を打った候補者もいなかった、ということはあると思います。 第二に、石原都政において、決して彼は(誉められた部分ばかりとは言いませんが)無能ではな
「戦争なんか起こるわけがない」は思い込みだという歴史的実例 を契機としたリアリズムとアイディアリズムについて拙稿を書く次第。 リアリズムとアイディアリズム(またはユートピアニズム)は国際関係学(国際政治学)において、最もポピュラーな2つの考え方である。 しかし、この2つの考え方は、短絡的にまとめればまとめられなくもないわけだが、一方で時代に合わせた変遷、それぞれの思想が抱える欠陥とその克服の試みにより、あまり短絡的理解をするべきではない状況ではある。 さて、ここで一つ断っておくと、アイディアリズムもユートピアニズムも、いずれも邦訳する際は「理想主義」と訳されるわけだが、これはいろいろと問題もありそうにも思える。確かにいずれも「あるべき理想像」を据え、それへ向けての思想、とはなるのだが、アイディアリズムとユートピアニズムでは程度の差はありそうである。ここでは極端な理想を掲げるものをユートピア
書こうかどうしようか非常に悩んだ末に、一筆。 Civil Action Japan の件。 いろいろ疑問なども出ているようだが、それは個々に解消されるか、納得できなければ寄附しなければ良いだけの話なので、それはそれ。 正直自分にとっては片山さつきもどうでもいいと言えばどうでもいい。どうせ世耕なども乗っかっているし、個人の問題では、当然「ない」。 不正受給問題を語るのに河本氏を持ち出す必要がないように、そこは瑣末な問題でしかない。 たとえば、電力行政全体を括る際、東電の対応、関電の数字、九電のやらせが、それぞれに風化していっているように、そういう個別具体的事例は全体の一部でしかないし、熱し易く冷め易く見たいものしか見ない、という点で、それほど大きな差があるようにも思えない。 個人的には小宮山氏の発言にあるように、社会保障費を抑えたい、という動機があって、それの格好の標的として、たまたまメディ
「電力や、需給関係がどういうものか、僕らの世代が身に染みて感じ、新しい電力供給態勢を考える上でも必要だ」 「関西だけでなく、日本全体の電力供給体制の問題。関西も自分たちで十分にやるが、関西の危機を日本の危機と捉えてもらいたい」 これは橋下市長の言である。 過去に「原発は無くても電力は足りる」「関電が隠している電源がある」と発言してきた人間と同じとは思えない豹変ぷりだが、軌道修正の気配は少し前から出ていたので、今さら驚くには値しない。 実際問題、大飯原発を動かそうが依然として電力供給量は綱渡りの状態であり、動かさなければ大規模な供給不足に陥ることは目に見えている。 「原発なくても足りる」⇒「関電は電力隠してる」⇒「需要予測が信頼できない」⇒「節電すればなんとかなる」⇒「不足時の対策を考えない政府が悪い」⇒「みんなで経験しようぜ!」←New! — 紫音/小早川裏切り、ほぼ確実西軍情報さん (@
日本全国の原発が止まって1週間。 このタイミングで日テレが「風の谷のナウシカ」を放送することの意味合いは非常に大きい。 風の谷のナウシカにおける「腐海」のイメージは放射能汚染された森にイメージが重なるし、「腐海の毒」というのも、放射能による人体への影響を示唆するように思える。 ただし、これには大きなトリックが隠されているといわざるを得ない。 まず「風の谷」自身が腐海のほとりに生きることを選択する、という原発からの避難をする必要がないかのような表現であり、その象徴たるナウシカは、それをあたかも正義のように振りかざす。 また、「腐海の毒」の影響が出ているのは総じて老人であり、これは「ただちに人体に影響はない」という枝野の嘘を、あたかも嘘ではないかのようにイメージさせるものでもある。 森を焼き払うイメージは除染を想起させるが、それも巨神兵のような、徹底したものではなく、あくまでホットスポット的に
国旗・国歌の強制。 またぞろ阿呆な連中が阿呆なことを画策しているので、再びここで強制に反対の旨を表明しておくことにする。 以前と同じことを書くのも芸が無いので異なる方向で書いてみよう。 第一 強制することで愛国心などは芽生えない 最も重要且つ本質的問題だが、強制されて国歌を歌おうが国旗を掲揚しようが、そんなものでは断じて愛国心など芽生えない。芽生えるはずがない。 もしそれが芽生えると言うのなら、試しにそれを求める人間を何人がピックアップしてインターナショナルを徹底して強制し、それによって共産主義者になるかどうか試してみれば良い。 強制は反発を生む。それは自明のことでさえある。面従腹背の場合もあろう。 形がいかなるものであれ、強制などしても得るものなど一つもない。 教員の口元を観察するなど阿呆の極みである。 口を動かしていれば愛国者なのか?歌っていれば愛国心があるのか? そんなチンケな愛国心
本稿では韓国籍・北朝鮮籍・朝鮮籍の総称として朝鮮民族という呼称を用いる。 まず大前提として、旧帝国時代、半島は日本領であった。そして、半島には国民国家の基本たる大日本帝国憲法が適用されることがなく、総督府支配の下におかれ、本土とは一線を画する存在であった。 しかしながら、半島から本土へ移住した朝鮮民族は大和民族同様に選挙権・被選挙権を得、地方議会に籍を置く者もいた。これは法制上在地主義を取っていたからであり、逆に大和民族が半島へ渡れば、その権利は喪失した。 このことの意味をまず考えねばならない。それは、半島からの移住者たる朝鮮民族に対し、必ずしも敵視ばかりをしていたわけではない、という点がまずあげられる。そして一方で、半島全体としてみた場合、いまだ総体としては「国民」に有らざる者として扱っていた、ということでもある。 それに対しては「日本語」という言語障壁が大きく、一方では文化的差異が依然
東北・東日本大震災以降、あちらこちらで陰謀論が出回っている。中には荒唐無稽なものも多いが、中にはそうではない「かもしれない」ものもある。 陰謀論の多くは「政府が」というものであって、中には「東電が」または「電通が」といったものもあり、また複合的にそれらを組み合わせているものもある。 では、それらの多くが「聞く価値があるものなのか」というと、それもまた別問題であることは言うまでもない。 ■何故陰謀論がダメなのか まず、陰謀論とは何か、という点。 陰謀論の本質は、その「非証明性」にある。 陰謀論は当たり前のことながら「証明」されなければ、そもそもその存在自体が「非存在」であり続ける。 そして、多くの場合、その証明は「成されない」ままに、その陰謀論のみが独り歩きすることになる。 それは、「~であるのは、~の陰謀であるからだ」という形を取る(「陰謀」という呼称を使うかどうかは別として、そのようなニ
かつてマキャベリは「われわれが常に心しておかねばならないことは、どうすれば実害が少なくて済むか、ということだ」と述べた。 昨今の極めて軽い首相・大臣職の椅子が、今日また一段と軽くなった。 鉢呂氏が大臣を辞任したそうである。 失言とされたのは下記の2点。 「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」 「やっぱり、ひどいと感じた。放射能をつけたぞ。いろいろ回ったけど、除染をしないと始まらないな。除染をしっかりしないといけないと思った。」 というものである。 本人の弁明はどうでも良いとして、前者については修辞的意味として、現状では確かにそう譬えてもおかしくない状況ではあるが、帰郷を願う声が高まる中(それの実現可能性は別問題として)、デリカシーが無い発言とされても仕方がないように思える。 後者についてはもはや子どもレベルの問題であるが、この表現が本質的には「放射能
福島原発事故の収束は未だ先が見通せず、恐らくはかなりのロングレンジで居住不可エリアができるであろうことは想像に難くない。 ここにきていくつか気になることがある。 それは「避難するべき」という問題と、「避難できない」という問題をどう考えるか、である。 ※ここで言う避難とは中長期の「転居」もしくは「移住」という意味合いで考えて頂きたい。 一方では「被曝リスクの見積もりがどうしても精緻にできない以上、避難すべき」であり、もう一方は「被曝リスクの見積もりは一定以下では判断不能なのだから、避難するかどうかは自主判断であるべき」である。 さて、ここで問題になるのは基本的には以下の点になるだろう。 1:果たして避難の必要があるとして、それを強制することはできるか 2:避難するリスク、避難しないリスク 3:避難しなかった場合、それがどのような意味を持つか 4:このことから派生して考えるべきことは何か ■終
日本国憲法はよく知られているようにその原案はGHQ草案である。GHQ草案はその原点として各国の憲法を参照しつつ作成されたものであるが、特にベアテ草案は「女性の」権利について先進的言及をしていたことは、そのすべてが日本国憲法に反映されなかったものであったとしても、そもそもの条項規定において何が意図されていたかを知る上では重要である。 ベアテ草案第6条「すべて自然人は、法の前に平等である。人種、信条、性別、カースト又は出身国により、政治的関係、経済的関係、教育の関係及び家族関係において差別されることを授権し又は容認してはならない。(以下略)」 ベアテ草案第18条「家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は良きにつけ悪しきにつけ国全体に浸透する。それゆえ、婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然である〔との考えに〕基礎をおき、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ、男性の支
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