サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
体力トレーニング
tanken.com
大航海時代、ヨーロッパ人のアジア進出を阻んだ大きな壁が、蚊が媒介する感染症マラリアでした。 南米ペルーに自生するキナという植物がマラリアに効くことは17世紀から知られていましたが、成分を薬にまで精製する技術はありませんでした。 ようやく19世紀の初頭、キニーネというアルカロイド成分の分離に成功、これがマラリアの特効薬となったことを受け、東南アジアの植民地化が進みました。 ペルー原産のキナは、その後、オランダ領ジャワに移植され、20世紀初頭にはジャワ産が世界市場を独占していました。 どうしてペルー原産の植物がジャワ島に移ったかというと、あるイギリス人がペルーの山中でもっとも医薬品に向いたキナ種を探し出し、これをイギリス政府に献上したものの、政府はまったく関心を示さない。そこで、この人物はオランダ政府にこの種を買ってもらったのです。キナの将来性に気づいたオランダ政府が、ジャワに移植し、特産品と
歌人の斎藤茂吉が経営していた青山の脳病院は、1945年(昭和20年)になると、物資不足で運営が不可能になってきました。そのため、茂吉は院長職を辞し、山形県金瓶(かなかめ)に疎開します。茂吉は、当時の様子をこう書いています。 《5月25日には、東京の病院も家も全焼してしまった。自分の金瓶に行ったころは、村民が竹槍の稽古をしていた時分で、競馬場あとに村民が集まり、寺の住職などもそこで竹槍の稽古をした。それから、役場には手榴弾の見本と称するものが2つ置かれてあって、追々は国民全部に1つぐらいずつ渡されるということであった》(『三年』) 太平洋戦争末期、敗戦色の濃くなった日本では、「竹槍でB29を落とせ」といった精神論が強くなりました。 当たり前ですが、竹槍で飛行機を撃墜することはできません。そんなことは誰でもわかっていますが、しかし、日本では長らく銃剣術という教練があり、竹槍も「大和魂」を涵養す
明治期の日本では、欧米文化が絶対的な評価を受けていました。そうしたなか、日本やアジア文化にも独自の価値があると主張し、言論界で大活躍したのが三宅雪嶺です。 雪嶺は明治21年(1888年)、志賀重昂、井上円了らと政教社を結成し、雑誌『日本人』を創刊します。この雑誌は、明治40年(1907年)に『日本及日本人』と改題され、国粋主義を訴える名高い雑誌となりました。 その『日本及日本人』が、大正9年(1920年)、春期増刊号で「百年後の日本」を特集しました。 これは2020年の未来予測を、学者から実業家、文学者などに片っ端から問い合わせたもので、結果、370人ほどが回答を寄せました。 意外にもかなり多くの人が「わからない」「答える資格がない」などと答えており、また、返答があっても「東洋主義が世界を明るくする」「皇国日本が世界から羨望を集める」などとつまらない回答をしており、「あぁ、人間の想像力って
日本史の教科書には、日露戦争で多くの成金が登場したとありますが、具体的にはどのような人物たちなのか。よく言われるのが、札束に火をつけて明かりを採った、豆まきの代わりに銀貨をまいた、汁粉に金貨を入れて芸者に飲ませた、などです。 当時、有名だった成金に村上太三郎と鈴木久五郎がいます。その2人が、白米10俵を用意してこんな会話をしました。 《桂(太郎)総理の寵妓に尻をまくらせるという久五郎の話をきくと、村上太三郎はおどろいて、 「一体どんな仕掛なんですか」 「いや、広間で潮干狩をやるんですよ」 久五郎の作戦は斯(こ)うである。 大広間を浜辺に見立てて、厚さ五寸位に白米を敷く。砂の代りである。 その白米の中へ、五円金貨や紙幣を埋めて置くのだ。芸妓達は尻を端折ってその中へ入り、貝を掘る要領で金貨や紙幣を掘る——というわけである》(沙羅双樹『近世成金伝 恋の鈴久』) では、鈴木久五郎(鈴久)はどうやっ
早稲田大学の校歌「都の西北」を作詞したのは、新潟県糸魚川市生まれの文学者・相馬御風(そうまぎょふう)です。 御風は、昭和初期、「糸魚川を治めていた姫がヒスイの勾玉をつけていた」という伝説から、この地方にヒスイがあるのではないかと考えました。これがきっかけとなり、昭和13年(1938)、糸魚川でヒスイが発見されました。 実は、糸魚川市にある長者ケ原遺跡は、約5000年前(縄文時代中期)、世界最古の翡翠(ひすい)工場だったと言われています。ところが、弥生時代以降、なぜかヒスイは採掘されなくなり、戦前まで日本にヒスイ産地はないとされてきたのです。 伝説って、意外に真実を語ってるわけですな。 そんなわけで、オレも、ヒスイを探して伝説の大金持ちになることにしました。 でも、いったい、ヒスイってどうやって採るのか? 『万葉集』には 《沼名河(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得し玉かも 拾ひて 得し玉か
かつて映画には音声がなく、「活動弁士」が独自の語り口で内容を解説していました。その弁士として有名だった徳川夢声は、若い頃からアルコール依存症になっていました。 徳川夢声はずっと日記を書いており、当然、そこにはアルコールの話が頻出します。 戦争末期の1945年(昭和20年)5月23日、友人の俳優・高山徳右衛門(薄田研二)が、「アルコール製ウィスキー」を1升瓶400円で買わないかとやってきます。もちろんヤミ物資ですが、いったい「アルコール製ウィスキー」とは何なのか? 高山が持ってきたものは、《アルコールに染料、香料を入れたるもの。香料はバニラ》で、いわゆる合成ウィスキーのことでした。 意外ですが、戦争末期も庶民は「国民酒場」などで普通に酒を飲めました。しかし、値段は上がっており、しかも販売量には一応の制限がついていたので、こうした合成酒が幅を利かせていたのです。 合成酒というとイメージが悪いで
戦前、子供向けの科学雑誌などで人気があった記事に「断面図」がありました。もちろん、地層の断面図や生物の断面図もあるんですが、圧倒的に人気だったのは大型船舶や航空機のものです。 戦争が身近だったこともあり、子供たちは空母や潜水艦の中身に大きな興味を持っていました。その延長で、ポンプやらドックやら大型機械や巨大施設の断面図も大量に作られていきました。 個人的には、これが「図解」文化につながり、日本人の教育レベルを高めた可能性さえあると思っています。 そんなわけで、美しい断面図を一挙紹介します! なお、いずれもクリックで巨大画像がダウンロードできますが、データ量も大きいです。 「海の龍宮」ノルマンディー号 船員1345名、乗客2000人の乗船が可能。全船に4万個の電灯と770本の電話線がついています。3本の煙突のうち、実際に使われてるのは前と中央の2本で、後ろは通風用。第6甲板まである巨大な船で
私刑類纂 遊郭の私刑 民衆の歓楽境と呼ばれし遊郭内にも、昔は種々の私刑行われたり。クグツメ(=傀儡女、中世の遊女)時代のことは、美濃の青墓、近江の鏡山などにありし娼家の長が、少女を虐待せしことありか、後の小説本に2、3ホノ見ゆるのみにて、信ずべき記録の存せしものなし。 私刑と称すべき苛酷制裁の行われしは、集娼制となりし徳川時代初期以来のことなるべし。江戸の吉原、京の島原、大阪の新町など、大都会に集娼遊郭の成立せし余弊として、奴隷制度の盛んに行われし時代には、遊客の機嫌取りを強い、粗食虐遇に甘んじせしめ、もしその不平を漏らせし者、またはその苦痛に堪えかねて、脱走あるいは情夫と駆け落ちせんとせしがごとき者あらば、「他への見せしめ」として苛重至極の私刑を加えしなり。 また遊客に対しても、亡八(=遊郭の経営者)根性の発露として、遊興代価不払い者には、繋獄以上の制裁ありたり。また娼妓が遊客の髷(まげ
NEC PC-8801 本サイトの管理人は秋葉原のそばで育ったこともあり、いわゆるマイコン時代から、コンピューターに強い関心を持っていました。 そのため、1980年ごろから数年間、毎日のように秋葉原に通っては、当時人気のNEC、富士通、シャープを代表とするパソコンのカタログやパンフをひたすら集めました。 コレクションはクリアフォルダー何冊分にもなりました。しかし、ある時期、コンピューターへの関心が薄れたこともあり、すべて廃棄してしまったのです。 それから30年以上たち、たまたま実家の押し入れを整理していたところ、当時のカタログコレクションが出てきました。相当廃棄したものの、重要だと思った一部を残していたのです。内容は、当時、名機と言われたPC-8801を中心としたカタログやビラの類です。周辺機器のカタログもほぼ完全に残っていました。 1980年代前半は日本のパソコン市場の黎明期であり、いま
韓国が不法占拠している島根県の竹島は、現地では「独島」と呼ばれています。韓国では『独島はわが領土』という歌を幼稚園から歌っており、韓国人にとっていつかは行ってみたい場所です。 実は、独島観光が一般に開放されたのは意外に最近で、2005年のことです。この年4万人だった観光客は年々増えつづけ、2013年4月、ついに100万人を突破しました。 韓国人にとって憧れの地・独島ですが、はたして日本人も行けるんでしょうか? ネットで調べてみても、渡航情報はほとんどなし。もちろん、旅行記もゼロ。これは、日本の外務省が「韓国側から竹島へ渡航すると韓国側の管轄権を認めることになる」として、渡航の自粛を求めているからで、上陸しても、基本、大々的に書くことは難しいんですね。 というわけで、実際のところはどうなのか、2013年7月上旬に現地に行って、試してきたよ。 まず、独島に行くには韓国最東端の町・浦項からフェリ
1870年(明治3年)の梅雨時の話です。 福沢諭吉は熱病にかかり、氷を所望します。しかし、当時は氷を簡単に手に入れることはできません。塾生たちはあわてますが、たまたま福井藩主だった松平春嶽が、外国から製氷機を購入していたことがわかります。 春嶽は、せっかく買った氷製造器の使い方がわからず、放置したまま。塾生がお願いして借り出し、大学東校の教授だった宇都宮三郎の元に持ち込みます。機械自体は単純な構造だったので、すぐに氷を作ることができました。こうして、福沢の熱病は治まります。これが日本で初めて人工的に氷が作られた瞬間です(『時事新報』1898年8月20日)。 氷の歴史は古く、『日本書紀』には仁徳天皇の時代の話として、 《土を掘ること丈余(ひとつえあまり=3m)、草を以て其の上に蓋(ふ)く。敦(あつ)く茅荻(すすき)を敷きて、氷を取りて、以て其の上に置く》(仁徳62年) とあります。これは氷室
1936年5月18日、世の中を震撼させる事件が起きました。 東京市荒川区尾久の待合で、女が愛人の首を絞めて殺し、局部を切り取ったのです。いわゆる「阿部定事件」です。 当時の新聞は、 《待合のグロ犯罪/夜会巻(やかいまき)の年増美人/情痴の主人殺し/滴(したたる)る血汐(ちしお)で記す「定、吉二人」/円タクで行方を晦(くらま)す》(『東京日日新聞』) とセンセーショナルに見出しを打ちました。事件は、二・二六事件後の閉塞感漂う世相の中で、きわめて屈折した盛り上がりを見せます。 1905年5月28日に生まれた阿部定は、江戸時代から続いた畳屋の娘で、裕福に育ちました。ところが、家運が傾いたことで、身を持ち崩し始めます。 17歳ごろ芸者となって、日本各地を転々とします。そして、30歳のとき、女中として働いていた東京中野にある「石田屋」の主人・石田吉蔵を、性交中に殺害するのです。 いったいなぜ、阿部定
1990年10月、経済企画庁は今後20年で世界はどうなるのかを「世界経済」「国民生活」「産業経済」「社会資本」の4つのテーマで分析することになりました。 その一環として「2010年技術予測研究会」が設置され、特に産業技術に関して集中的な予測が行われました。 なぜ産業技術の調査が重視されたかというと、バブル真っ盛りの日本で、特に対米技術戦略が非常に重視されたからです。 たとえば1980年代半ば、半導体は「産業のコメ」と言われ、日本の半導体産業は世界で圧倒的な立場にありました。国際市場で5割以上のシェアを獲得し、自動車産業と並ぶ日本の基幹産業だったわけです。 当然、車も半導体もアメリカと熾烈な競争をしており、将来の予測は非常に重要でした。 ところが、「未来の技術が経済に与える影響」という体系的な研究が、それまで日本ではほとんど行われていませんでした。もちろん科学技術庁では1971年以降、数年お
インターネットの百科事典ウィキペディアで「ビジネスモデル」の項目を見ていたら、面白いことが書いてありました。創造された過去のビジネスモデルとして、 ●百貨店はフランスで創作された。 ●スーパーマーケット、コンビニエンスストア、フランチャイズ、通信販売、クレジットカードはアメリカで創作された。 たしかにいずれも新しいビジネスモデルです。では、こうしたモデルはどうやって作ればいいのでしょうか? 第1節 ビジネスモデルと何か? ビジネスモデルには、小は八百屋などの家業から、大は大手企業のM&Aまで数多くあります。 ビジネスモデルはかくあるべしといった定説、あるいは理論があるわけではなく、事業ごとに考えられ、またアイデアをこらして組み立てられるべきもので、まさに千差万別といってよいでしょう。 ビジネスモデルがアイデアとして知
日本軍に追い詰められ、フィリピンから脱出したマッカーサーが残した有名な言葉が “I shall return.” で、訳せば「絶対に戻ってくる」。 その言葉通り、フィリピンのレイテ島にマッカーサーが再上陸したのは、1944年10月20日のことでした。 この日の前日、日本軍は「捷一号作戦」を発令しており、米軍に対し、徹底抗戦することが決まっていました。こうして、レイテ島は「天王山の戦い」となり、大激戦が始まります。 12月28日、日本軍は島の北西部にあるカンギポット山に司令部を移します。 1945年1月1日、カンギポット周辺にいた1万人近い日本兵は、米の飯を炊いて正月を祝いました。いかにも平和的な光景ですが、実態は大きく異なります。 レイテ島の戦いを描いた大岡昇平の『レイテ戦記』によれば、レイテ島に派遣された日本兵は8万4006人います。しかし、生還できた人間はわずか2500名。 この時点で
この事典は、作家で落語・寄席研究家の正岡容(まさおかいるる、1904-1958)が1957年に刊行した『明治東京風俗語事典』(有光書房)を復刻したものです。 正岡は自分でも落語の台本を書くなど、諸芸能に詳しく、多くの研究書を出版しています。その集大成が最晩年に出版されたこの事典です。 この事典を読むと、たとえばトイレに入ってるとき、外からノックされたら、昔はノックで答えずに咳払いで返答していたことなどがわかります。これを「雪隠の錠前」といいました。 あるいはまた、かつては警官のことを「がちゃ」と呼んでいたこともわかります。これは当時の巡査が身につけていたサーベルの音から来た呼び名です。 さらに「おもちゃ」(玩具)の語源は「お持ち遊び」なんていうことも書いてあります。 本事典は、もともと落語界の名人・三遊亭円朝の用語集を元に作られました。円朝は言文一致体を完成させたことで、「近代日本語の祖」
『JTB時刻表』が、2009年4月に発売された5月号で、なんと通巻1000号を迎えたそうですよ。創刊号は大正14年(1925)4月発刊で、それ以来80年以上も旅の必需品として利用され続けてきたわけです。 ただし、鉄道開通は明治5年(1872)で、言うまでもなく当時から時刻表は存在していました。つまり、時刻表自体の歴史はすでに137年もあるわけです。 そんなわけで、今回は時刻表の歴史です! 日本最初の鉄道は明治5年(1872)5月7日に開通したんですが、当初は品川〜横浜の仮開業でした。途中駅はまだ未完成だったので、ノンストップ。 横浜発が8時と16時、品川発が9時と17時の1日2往復。時間は35分かかり、料金は上等1円50銭、中等1円、下等50銭でした。
ゴルゴ13が遠方から狙撃するとき、弾丸にもっとも影響を与えるのは、言うまでもなく風です。風が吹けば弾丸は曲がる。 当たり前と思うかもしれませんが、戦争では弾道の計算は最重要課題。いったい、なぜ弾丸は曲がるのか? その理論を最初に発見したのはドイツのマグヌスで、1852年のことでした。これが「マグヌス効果(マグナス効果)」と呼ばれるもので、理論としては次のように表記されます。 回転している円柱に流れが当たると、流れと回転軸の両方に直角の力が働 く 図示すると下の図のような感じ。 実例でいうと、「右回転してるコマに左から風が当たると、コマは向こうに動く」とかね。 この理論が1877年、ボールにも当てはまることがわかりました。言い換えると、野球のボールがカーブするのは、マグヌス効果による風の影響だったのです。うまくカーブが投げられるピッチャーは、無意識に風圧の計算をしてたわけ。 で、この原理を応
福澤諭吉の婿養子・福澤桃介は、実業家として著名で、日清紡績、東邦ガス、大同特殊鋼など多くの会社を設立しています。後年、「電力王」と呼ばれただけあって、特に水力発電に注力し、現在の関西電力や中部電力の元になる企業を作っています。 この福澤桃介らが設立した「東京地下鉄道株式会社」(資本金1500万円)が、1906年(明治39年)12月6日、日本最初の地下鉄計画書を東京市に提出します。ほかの賛同者は、慶応出身の実業家・藤山雷太、投資家の平沼延次郎、鉄道技術者の渡邊嘉一らです。 ルートは以下の2つです。 (1)高輪南町〜田町〜本芝4丁目〜門前町道路(増上寺前の大通り)〜銀座通り〜日本橋通り〜万世橋〜上野〜浅草雷門 (距離8マイル20チェーン。1マイル=80チェーンなので計算しにくいですが、約13kmにあたります) (2)銀座尾張町(銀座4丁目交差点)〜桜田門〜麹町通り〜新宿 (4マイル3チェーン=
文政11年(1828年)、オランダ商館の医師だったシーボルトが、日本地図など禁制品を国外に持ち出そうとするスパイ事件を起こしました。いわゆるシーボルト事件です。 シーボルトは1匹の猿を飼っており、その飼育箱の底を二重にして地図や書籍を隠していました。長崎奉行の家宅捜索が入るのを察知したシーボルトは、模写の終わっていなかった地図をあわてて複写します。 10日後に捜索が入ったときには、すでに大部分の地図がオランダやジャワに移送されていました。 ちょうど同じ頃、フランスでは、ダゲールが写真の原型であるダゲレオタイプの開発を始めています。写真があれば、シーボルトもスパイ行為が楽にできたのにね。 文書や画像をどうすれば簡単に複写できるのか。 1806年には、イギリスのラルフ・ウェッジウッドがカーボン紙を発明しています。 機械的なコピー機は、蒸気機関を発明したジェームズ・ワットが1780年に開発したコ
香具師(やし)とは何か? 灯籠売り かつて、東京でもっとも人が集まった市は、日本橋で開かれた「べったら市」でした。これは10月19日に、日本橋通旅籠(はたご)町、人形町、小伝馬町、通油町(とおりあぶらちょう)へかけて立った浅漬大根の市のことです(現存)。本来は翌日の夷講(えびすこう)に必要な土製・木製の恵比寿大黒、打出の小槌、懸鯛(かけだい)、切山椒などを売っていたのですが、いつの間にか浅漬大根の店ばかりになってしまいました。 明治44年(1911)に刊行された『東京年中行事』に、市の様子が次のように記録されています。 《この浅漬売と言うのは、いずれも白シャツ紺の腹掛けに向う鉢巻と言う威勢のいいいでたちで、町の両側にずらりと店を並べ、粕のべったりついたままを売るので、糸織りの小袖を着た立派な商人も、高島田に結った年頃の娘でも、皆このむき出しの浅漬を縄にしばったままで、平生ならとても出来ない
明治維新の後、士族となった元武士たちは、生活のため、さまざまな職に就きますが、慣れない仕事でほとんどが失敗してしまいます。これを「士族の商法」といいました。 婦人運動家の山川菊栄は、「士族の商法」の代表として「うさぎの飼育」をあげています。 《(殖産興業の)かけ声にのった流行の一つが養兎(ようと)でした。くいつめた士族が家屋敷を抵当にし、家財道具を売って高い種兎を買い、荒れ屋敷の片すみで育てるうちに、ふえたわ、ふえたわ。兎はむちゃくちゃにふえたものの、さて肉や皮の利用は知らず、政府も奨励しっ放しであとは無計画なのですからしまつがつかず、はては餌代にも困り、ただでも貰い手がなくなると、夜になってこそこそ空地やお濠の土手の中にすててゆく者がふえました》(『おんな二代の記』) これは東京の話で、時期はおそらく明治4〜5年頃です。 いったいなぜ、東京でウサギを飼うことになったのか。 実は明治4年以
日本軍が作った伝単 忠勇なる米兵諸君、私(ルーズベルト大統領)の地位と名誉を維持するため、 こんなことをしなければならないのだが、お前たちより、私のほうが苦しいんだよ。 しかし、私の地位ではこれをしないとね。さて、次は誰かな? 昭和15年(1940年)8月、神田・淡路町の荒井ビル3階に、ある事務所が開かれました。看板には「田中商会」とありましたが、これはカモフラージュで、実際は参謀本部が使っていました。この場所こそ、日本軍の秘密組織「伝単部」の事務所でした。 伝単とは、敵に対して投降をすすめたり、厭戦気分を植え付けたりする宣伝ビラのことです。 インドではインド人とイギリス人を離反させるもの、オーストラリアではオーストラリア人とアメリカ人を離反させる目的でもばらまかれました。 文章だけのものもありましたが、日本軍が作った伝単は、たいていは目立つよう、イラスト入りでカラー刷りでした。 この事務
一説によると、企業は創業からわずか5年間で半数が倒産するといいます。そして、次の5年で、なんと8割以上が倒産するのだそうです。この数字がどの程度確かなものかはわかりませんが、「千3つ」(成功するのは1000社に3社)という言葉もありますし、また私の実感からしても、ある程度正しい数字だと言えるでしょう。 それほど起業を永続させるのは困難な話なのです。では、その失敗にはいったいどのようなものがあるのか見ていきましょう。 第1節 無謀な挑戦が死を招く 成功体験を参考にして起業することは一見成功への近道に見えますが、現実には成功よりも失敗のほうがはるかに多いので、失敗を参考にして、その轍を踏まないようにする方が役立つようです。 以下は私が出会った起業家との体験です。私が失敗を予見できて投資しなかった例と、投資までいかずに支援し始めた段階で失敗した事例をすべて列挙しました。なかには他の
1967年4月12日、42歳の三島由紀夫は自衛隊に体験入隊します。仕事の都合もあり、3回に分けてでしたが、合計で46日間という本格的なものでした。 最初に入隊したのは、陸上自衛隊の久留米幹部候補生学校でした。本名・平岡公威として、毎日午前6時起床、6時5分には乾布摩擦をしながら舎外で点呼するという生活を始めます。課業は午前8時から午後5時まで。当時の様子を、『サンデー毎日』に寄せた手記から引用しておきます。 《夏の高良山マラソンの練習にいそしむ若い学生の、飛鳥のやうなランニングには追ひつけなかったが、22年ぶりに銃を担って、部隊教練にも加はった。肩は忠実に銃の重みをおぼえてゐた。行動の苦難を共にすると、とたんに人間の間の殻が破れて、文句を云はせない親しみが生ずるのは、ほとんど年齢と関はりがない。私は実に久々に、昼食後の座学の時間の耐へられない眠さを、その古い校舎の窓外の青葉のかがやきを、隣
「テキ屋の親分」インタビュー 以下、千葉県の香具師(テキ屋)の総元締めの独占インタビューです。出典は『世態調査資料』第5号(昭和13年12月)。この『世態調査資料』というのは、昭和13年(1938)から18年(1943)にかけて、司法省調査部がさまざまな業態について当事者から聞き書きしたものです。 具体的には、 ・生糸貿易(横浜、第1号) ・秩父の絹織物工業(埼玉、第12号) ・函館の北洋漁業(北海道、第14号) ・花莚(岡山 、第22号) ・綿糸、メリヤス(大阪、第30号) などで、いわゆる正業が多いんですが、なかには雲水(うんすい=禅宗の修行僧、第6号)など風変わりなものもあります。そして、第5号に「香具師」の親分のインタビューが掲載されています。 6時間近くおこなわれたこのインタビューにより、これまでほとんど表に出たことのない香具師の生態が判明しました。実際、この資料はその後、『香具
1853(嘉永6年) 09.26(旧暦08.24) 佐賀藩士・本島藤太夫、ロシア・プーチャーチンが持ち込んだ汽車模型を目撃 1854(嘉永7年) 03.21(旧暦02.23) ペリーが持参した機関車の模型が横浜で運転された ペリーの鉄道模型 ペリー鉄道模型の運転風景 1869(明治2年) 12.07(旧暦11.05) 岩倉具視、大隈重信、伊藤博文ら政府首脳がイギリス人公使ハリー・パークスと面会し、鉄道建設と借款について意見交換 12.12(旧暦11.10) 鉄道建設の廟議決定。基本方針は東京〜京都を中山道で結び、東京〜横浜と琵琶湖〜敦賀港を支線とする 1870(明治3年) 04.17(旧暦03.17) 東京〜神奈川の測量令達。25日よりイギリスの鉄道技師エドモンド・モレルらが汐留から測量開始。これをもって鉄道企業の創始とする 04.19(旧暦03.19) 民部・大蔵省に鉄道掛を設置。事務所
「琉球で一番の人物になれ」という思いから、「球一」と名付けられた徳田球一は、1922年(大正11年)、非合法の日本共産党の結成に参加しています。 1928年(昭和3年)、衆議院選挙に立候補するものの、直後に治安維持法違反で検挙され、その後、18年間も投獄されていました。 戦後の1945年(昭和20年)10月に出獄した徳田球一が見たものは、信じられないほどの国土の荒廃ぶりでした。特に治水が大きく破壊されたことで、国民生活が重大な危機に瀕していると感じます。 徳田の考えは次のようなものです。 「治水の不全により、台風の襲来とともに洪水で山が崩れ、田畑は潰され、家も流され、交通も麻痺する。人民の生活は常に脅かされ、もし食糧危機が起きると、外国に哀れみを乞わなければならないから、日本民族の独立が危うくなる。 それだけではない。電気も危なくなっているし、港湾も新潟港をはじめ廃港寸前である。電気と海運
2012年から2013年の頭にかけて、各国・各機関からさまざまな近未来予想が発表されたので、内容をざっとまとめておきます。 まず野村総研の「未来年表<2013-2060>」では、すでに公表されたものが列記されています。そこから面白いものを引用しておくと、 ●2016年 クウェートに1001mの高層ビル建設 ●2016年以降 宇宙太陽光発電の衛星打ち上げ ●2019年 メタンハイドレードの商業化 ●2020年 中国が大型宇宙ステーション建設 ●2020年頃 アメリカが世界最大の石油生産国となり、中国が世界最大の石油輸入国に ●2023年 日本の借金が1300兆円(内閣府) ●2025年 世界の人口が80億人(国連) ●2025年 中国がGDP世界一に(内閣府) ●2027年 リニアモーターカーによる新幹線(東京ー名古屋)開業 ●2045年 リニア中央新幹線(
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『探検コム/驚異の画像ワールド』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く