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ドラクエ3
yagian.hatenablog.com
ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」を読んだ。 心理学者である著者は、第二次世界大戦中、ナチスによる強制収容所に収容された。この本は、その経験を心理学の立場から記録しようとしたものである。 強制収容所での生活は、苦痛と飢餓と暴力と死に満ちている。そしてなによりも、自分の将来を自分でコントロールする力を完全に奪われてしまう。そのような状況が続くことで、被収容者には、自分の心を守るために「感情の消滅や鈍麻、内面の冷淡さと無関心」という心理的反応が生じるという。 「収容所で被収容者を打ちひしぎ、ほとんどの人の内面生活を幼稚なレベルにまで突き落とし、被収容者を意志などもたない、運命や監視兵の気まぐれの餌食とし、ついにはみずから運命をその手つかむこと、つまり決断をくだすことをしりごみさせるに至る」という。そして、「自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。」 以下、破綻し
先週が体調の底だったようで、今週は徐々に上昇してきた。ようやく目先の仕事を片付けることができて、ToDoがとんでもないことになっていた。加速装置のスイッチをいれないと仕事が終わりそうにもないのだが、しかし、こいつを使うとまた倒れるかもしれないので慎重にしなければならない。悩ましいところである。 さて、今週、へろへろになりながらも、新任プロジェクトリーダー向けのプロジェクトマネジメント研修の講師をこなしたが、来月のはじめには新入社員向けのプロジェクトマネジメント研修のコマがある。新任プロジェクトリーダー向けの研修の資料を流用できるから、集中すれば準備作業はそれほど手間はかからない予定だが、話の内容、レベルは調整しなければならない。 アイデアをまとめるために、レジュメ(案)を書こうと思う。テーマはプロジェクトマネジメント入門となっているけれど、実際の内容は「お仕事のお作法」という感じになると思
ミシェル・フーコー「言葉と物」を二週間かけてようやく読了した。長い旅路だった。さすがに達成感がある。 「臨床医学の誕生」「監獄の誕生」(id:yagian:20100523)も難解だと思ったけれど、「言葉と物」はより抽象的でさらに難解だった。さっぱり理解できない文章が続き、まるでお経を読んでいるような感じだった。でも、フーコーの主張を少しでも理解しようと思えば、総論にあたる「言葉と物」は避けては通れないだろう。わからないなりに読んで、漠然とではあるけれど、フーコーの言いたいことのイメージがつかめたような気もする。原典にあたることの収穫はあったように思う。 一章読み終わるごとに、読書メモ代わりにその章の要約をツイートしてきた。途中で挫折してしまうと、それが知られてしまう。その恥ずかしさを考えて、なんとか最後まで読み通すことができた。その要約をまとめてみよう。 序 この本の目的は、知、観念、学
以前、村上春樹のカタルーニャ賞でのスピーチを英訳したところ(英語の品質には問題はあったけれど)好評だった。いまでもけっこうアクセスする人がいる(http://goo.gl/Gi2hH)。 今度は「1Q84」の英訳が出版された機会に、英語の媒体(the Gurdian)に出た村上春樹のインタビューを和訳してみようと思う(原文が「文学的」な文体で、翻訳していて腑に落ちないところや、辻褄があっていないところもある。多分私の誤訳なんだろうと思う)。 村上春樹が以前から語っていたことも多いけれど、彼が海外ではこのように読まれているんだと興味深く感じる部分もある。 http://www.guardian.co.uk/books/2011/oct/14/haruki-murakami-1q84 「賭けをして、そして、生き延びた」 彼の両親は、彼が三菱に就職すると期待していた。しかし、その代わりに村上春樹
しばらく前に書いた記事「パターン認識、校正、速読術、音読と黙読、ロゴス中心主義、声に出す日本語、黙読における文章のリズム、漢字の認識の限界とは」(id:yagian:20120119:1326972915)とそれについたコメントの続編なので、一応、目を通してもらえるとうれしいけれど、この記事だけでも独立して読めるように書こうと思う。 これから少々偉そうなことをあれこれ書いていくわけだけれども、基本的には素人の与太話なのであまり真に受けないように(なんていう前置きをしたら誰も読まなくなるかな)。 哲学の大きな議論に「実在論」と「唯名論」の対立がある。ごく簡単にまとめると、「実在論」はそれぞれの事象に本質が「実在」すると考え、「唯名論」は本質が実在する訳ではなく、唯だ人間が名づけているだけだと考える。 例えば、「赤」という色がある。「実在論」では、「赤」という色には、それが他ならぬ「赤色」たら
重田園江「ミシェル・フーコー」を読んだ。 フーコーの「監獄の誕生」を中心として、筆者のフーコー理解について述べた本である。新書版でさまざまな哲学者、思想家に関する入門書が出版されているが、この本は入門書という気持ちで読み始めると期待が裏切られるかもしれない。 哲学者、思想家の入門書が書かれ、また、読まれるのは、彼らが書く本が難解だからである。彼らの本が難解になってしまうのは、それまで誰も考えたことがなかったこと、また、日常生活のなかでは考えないことについて考え、それを表現しようとしているからである。それゆえ、原典が難解に感じられる。しかし、古典とされている哲学者、思想家の作品にはなにか有益なことがあるような印象があり、入門書を手に取ることになる。 以前、「原典が先か入門書が先か」(id:yagian:20100613:1276407940)というエントリーを書いたことがある。このときは、は
もともと英語のウェブログ( http://goo.gl/J3DhM )で書いた記事だけど、日本語でも伝える価値があるように思って和訳したもの(自分でだけど)をアップすることにした。 翻訳したものだから、不思議な日本語になっているような気がする。 うつ病になって約4年間になる。今ではほとんど回復したけれど、精神科には通っているし、抗鬱剤と睡眠導入剤を飲んでいる。 うつ病が発症したとき、プロジェクトマネージャーとして非常にハードに働いていた。突然、会社に行くことができなくなり、3か月の傷病休暇を取った。結局、翌年もまた3か月の傷病休暇を取り、今いる部署に異動した。 うつ病で多くのものを失った。 上にも書いたように、ほとんど回復したけれど、かつてのように働けるようになったという訳ではない。基本的にプロジェクトマネージャーの仕事は大好きだったし、今でも好きだけれども、もう二度とできないだろう。今で
ミッシェル・フーコー「監獄の誕生」を読んだ。 フーコーは、大学時代に何冊か読んだことがあるけれど、おもしろいことを書いているような気がするけれど、よく理解できなかった記憶がある。今回もよく理解できない部分が多かったけれど、どこか心惹かれるところがある。 途中で挫折しないように、一章を読み終えるたびツィッターにその章の要約を書きながら読み進んだ。まず、その要約をまとめてみようと思う。 第一部 身体刑 第一章 受刑者の身体 近代以前の刑罰は過酷な身体刑であり、見せ物でもあった。近代になって、身体刑は姿を消し、矯正・感化・治療を目的とした精神を対象とした刑罰になった。この歴史を明らかにすることで「知の客体としての人間を生み出す」ことが理解できるだろう。 第二章 身体刑の華々しさ 身体刑は、拷問を通じて自白を導く、公開された処刑によって人々の前で犯罪を再現する、国王の権力を顕現させるという三つの機
通勤中、桑田佳祐の新しいCD「Musicman」を聴いていた。 桑田佳祐の大ファンというわけではないけれど、このCDを聴いていると、やっぱり彼は日本のロック史上重要なミュージッシャンなんだなと再認識させられる。 1970年代のはじめの頃、日本のロックミュージッシャンたちは、日本語でロックができるのか論争していた。日本語は絶対ロックには合わないと言うミュージッシャンもいた。 そのころ、カルト的な人気があったロックバンドの「はっぴいえんど」は日本語のロックに挑戦していた。日本語だけで歌われている彼らの代表作「風をあつめて」は、日本語でロックできるということを証明した。 「はっぴいえんど」以降、日本語でロックをすることが普通になった。「はっぴいえんど」の歌詞を書いていた松本隆は、日本のポップミュージック界でもっとも人気のある作詞家となったし、細野晴臣はYMOを結成した。 いま、日本のロックはたい
毎週日曜日の夕方、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の政治哲学の講義をテレビ番組にした「ハーバード白熱教室」(http://www.nhk.or.jp/harvard/)をつれあいと一緒に楽しみにしていた。 サンデル教授が抽象的な議論や過去の哲学者の思想を一方的に説明するのではなく、具体的な事例に基づき、学生とサンデル教授、学生同士が議論をしながら講義は進行していく。まるで、自分も議論に参加しているような感覚がありいろいろ考えさせられることが多かった。また、過去の哲学者の思想が現代の問題にどのように関わるのか理解できるようになったような気がした。 しかし、一般教養とはいえ、ハーバード大学の講義であり、難易度が高かった。ちょっと目を離すと、議論の展開に付いていけなくなる。いろいろな疑問点が残った。この講義の内容が出版されたという話を聞きつけ、復習のために「これからの「正義」の話をしよう」
丸山眞男「日本政治思想史研究」を読み終わった。 好き嫌いでいえば、好きな本と思う。なぜ好きなのか、その理由を考えてみたい。 この本を読んでいちばん印象に残ったことは、丸山眞男が近代国民国家を支持している近代主義者ということである。丸山眞男の所論は、近代に向かう進歩史観に貫かれている。ヨーロッパの歴史をモデルとして江戸時代にあてはめ、日本とヨーロッパの歴史の平行性、しかも、日本が一歩遅れて、不完全であることを明らかにしようとしていると思う。 「日本政治思想史研究」の元になった論文は、思想的な統制が厳しかった戦時中に書かれたものである。その時代において、近代主義者だった丸山眞男は、その時代の日本の国家のあり方、政府を直接的に批判することができず、江戸時代の思想家の封建制への「消極的」な批判に仮託して、当時の社会への批判と、積極的な批判勢力が不在であるという現実を示そうとしていたのだと思う。 「
昨日、谷崎潤一郎「蓼食う虫」を読んでいると書いた。それと平行して、図書館で借りてきた「円地文子全集第十五巻」で円地文子の随筆を読んでいる。文庫本の「蓼食う虫」は通勤で、単行本の「円地文子全集」はベッドサイドで読んでいる。 さて、その「円地文子全集」に「歌舞伎のともしび」という随筆の一節を引用したい。 私は子供の時分から歌舞伎を見て来たが、私が見初めて以来、歌舞伎が今にも消える前の蝋燭のように心細がられなかった時期は殆どなかった。この徳川時代の庶民の間に根を生やした娯楽的な、華美な舞台芸術はその官能美と、義理にも上品とは言えない無知な猥雑さのために、明治以来絶えず西洋文明の強すぎる光線に露骨に照らされて、白痴美だの時代錯誤だのと嘲笑されつづけて来た。 不思議にそういう歌舞伎滅亡論の影を絶ったのは、日本主義が一敗地にまみれて、アメリカの進駐軍政治が横行した終戦後に於いてであった。歌舞伎ばかりで
このところ残暑は続いているけれど天気は秋めいてきて、ゲリラ豪雨のニュースを聞くことも少なくなった。 今年の夏は、気圧配置のせいなのか、ヒートアイランド現象や地球温暖化のせいなのか、ゲリラ豪雨と名付けられた集中豪雨がよくあった。そのための被害もでて、一時期はニュースでもよく特集されていた。私も急な豪雨に降り込められてコンビニエンスストアで雨宿りしたこともあったし、家のなかで雷が鳴っているのを、パソコンが故障しないか不安で落ち着かない気分で聴いていたこともあった。 確かに今年は、豪雨の数も多く、その激しさも大きかったような気がするし、ここ数年、豪雨が増えているような印象もある。やはり、ヒートアイランド現象の影響もあるのだろうか、という気になっていた時に、「半七捕物帳」のなかの、「雷獣と蛇」という作品で、半七老人が次のように語っているのに突き当たった。 しかし昔にくらべると、近来は雷がならなくな
考証癖というとおおげさだけれども、風俗、風習の源や語源に関心をそそられることがある。そして、興にのって、この日記にも、考証めいたことを書くこともある。 「岡本綺堂随筆集」を読んでいたら年賀状の話が出てきた。以前、この日記で年賀状について書いたことがあったことを思い出した(http://www.lares.dti.ne.jp/~ttakagi/diary/diary/9803.htm#19980321)。ウェブログに移行する以前、エディターでhtmlを書いていた時代の日記だった。少々長いけれど、人の文章ではないので、著作権を気にすることもない。全文引用しようと思う。 1998.3.21 Sat.年賀状 今日もいつもの土曜日のように図書館へ本を返しがてら散歩した。目白の図書館へ本を返し、池袋まで歩き、ジュンクドウとリブロで漱石と虚子の文庫本を買った。家までの帰りに雑司が谷墓地を抜けると、ずいぶ
書こうか書くまいかずいぶん迷っていたけれど、これからウェブログを書き続ける上で不便なので、カミングアウトすることにした。 現在、うつ病と診断され、傷病休暇を取っている。 いつからうつ病になったのか、正確にはよくわからない。うつ病の定義によっても変わってくると思う。苦痛なほど落ち込み、倦怠感などの身体症状がある、という意味であれば、もう十数年は間歇的にうつ病だったような気がする。季節的な周期があって、12月頃から3月頃まで、寒く、仕事も忙しくなる時期には、ひどく落ち込むことがあった。 社会生活に支障が生じる、私の場合は会社の勤務が難しくなるという意味であれば、一昨年の11月、このウェブログでも書いた腰痛(id:yagian:20061126:1164538133)がきっかけだった。うつ病と腰痛を併発することはよくあるようで、私もその一例だった。立ち上がれないほど腰痛がひどくなって入院し、その
窓をいっぱいに開け、雨上がりの夕方の風に吹かれながらビールを飲んでいる。 結城さんのウェブログ(http://d.hatena.ne.jp/textfile/20070728/jkondo)を経由して、「自分はもうこれ以上は仕事できない、というところから5回くらいは壁を越えられる気がする」(http://d.hatena.ne.jp/jkondo/20070727/1185575866)を読んだ。近藤さんもまだ若いのだなと思い、彼に比べて、自分は年をとって、それなりに世間智を身につけてきたと思った。 自分も、自分の限界を試しがちであり、特に、20歳代の後半から30歳代の前半にかけて、「自分はもうこれ以上は仕事できない、というところから5回くらいは壁を越え」たというようなことをしてきた。たしかに、そのような経験で得られるものがないとはいえない。しかし、壁を越えられず破綻してしまったときには、
月曜日のウェブログ(id:yagian:20070625:1182775126)に、ニューヨークでのゲイのパレードの記事を引用した。同性婚の運動について、あれこれ考えているけれど、どうももやもやしてすっきりしないところがある。自分の考えを整理するためにも、とりあえず、思いつくことを書いてみようと思う。 まずは、問題の記事をもう一度引用する。 "I don't know why someone else's marriage has anything to do with me," Elizabeth Edwards said at a news conference before the parade. "I'm completely comfortable with gay marriage." 「誰か別の人の結婚が、どうして私に関係するのかわからない。私は、同性婚にかんぺきに満足してい
今、柳田国男「木綿以前の事」(岩波文庫 asin:4003313836)を読んでいる。 柳田国男の作品のなかではあまりメジャーなものではないけれど、意外な事実が示されていて、読んでいて楽しい。 表題作の「木綿以前の事」とは、木綿が普及する以前にふつうの人たちが着ていたものに関する考察である。綿花の栽培が普及するのは江戸時代である。江戸時代以前、一般庶民にとっては、絹は高級すぎるから、主に麻布を着ていたという。考えたことはなかったけれど、昔から木綿があったわけではないから、ごわごわとした麻を直接身につけていたことになる。そして、糊を強くきかせた木綿の浴衣を着るのは、「麻の気持ちの心持を遺していた」ものだとという。 この本のなかには、このほかに衣食住の変遷についてさまざまなテーマが扱われている。餅を搗くための柄がついている横杵はあまり古いものではなく、かつては、ウサギの月見の縦の杵が使われてい
正月、父親と仏教に関するの話をした。また、NHK−BSのハイビジョン特集「五木寛之21世紀仏教への旅」のシリーズを興味深く見た。日本の仏教に感じていることを書こう。 インドでは輪廻という世界観が仏教の前提となっているけれど、輪廻という概念がない中国、日本において、仏教はずいぶんねじまがってしまったと思う。 仏教では、人生の本質が苦しみであることを直視し、人生の本質が苦しみであることを認識するすることによって、その苦しみを乗り越えることができると教える。しかし、そのような境地は、ふつうの人にはとてもたどり着くことができそうにもない。現代の日本に生きる私から見ると、なんと救いがない教えだと思う。救いに至る道があまりにも狭く、たどり着く境地も、救いがない教えである。それこそが世界の真実なのだろうと思いつつも、なぜ、仏陀はそんなに救いのないことを教えたのだろうかと疑問に思っていた。 文化人類学者の
〜このエントリーには、映画「鉄コン筋クリート」のストーリーにかかわる記述があります。〜 仲間内だけで、家族の間だけで通用し、外の人たちには意味を説明するのが難しい言葉がある。 夫婦の間だけ通じるニュアンスで、「ボーイズ」という言葉を、よくつかっている。この「ボーイズ」ということについて、ウェブログに書こうと考えてきたのだけれども、この言葉のニュアンスをうまく説明することができなくて断念してきた。今日は、時間もあるので、挑戦してみようと思う。 「ボーイズ」という言葉は、成熟せず、もろさを抱えた男子たちとその性格、行動を指している。「ボーイズ」は、自己愛が強く、感情を強く共有することで集団を作り、自分の母親以外の成熟した女性を敵視し、場合によっては、はた迷惑な存在となる。「ボーイズ」の集団は、ホモソーシャルという概念に近い。ホモソーシャルという言葉は、「ボーイズ」間の連帯感や集団という側面に重
年末になり、いろいろなニュース番組で、今年のニュースのランキングをやっている。スポーツ関連のニュースでは、荒川静香の金メダル、WBCの優勝、松坂大輔のボストンへの移籍、ディープインパクトの引退、新庄の活躍などが挙げられることが多い。しかし、スポーツニュースの中心となるべきは、サッカーのワールドカップだったはずだが、すっかりなかったかのような扱いである。 確かに、ワールドカップでの日本チームは、惨敗したという結果以上に、覇気が感じられ、心に伝わるものがなかった。中田英寿と他のチームのメンバー、海外組と国内組、攻撃陣と守備陣、レギュラーと控えの選手の間で対立があったという報道があった。たしかにある程度はチーム内で不仲はあったのだろうけれど、サッカー選手にとって最大の目標となる大会に、プロのなかから選ばれたメンバーでチームを作っている以上、試合になれば不仲を超えて全力を出すものだろうと思っていた
先日、テレビで「ラスト・サムライ」を見た。 トム・クルーズが演じる主人公のネイサン・オールグレンは、南北戦争の英雄だが、その後、ネイティブ・アメリカンとの戦争を通じて彼らの勇敢さを尊敬するようになったが、それにもかかわらず彼らを虐殺したことに罪悪感を持ち続けている。アメリカにやってきた明治政府の参議である大村は、オールグレンを軍事顧問として雇う。大村は、大久保利通と大村益次郎を混ぜたような人物で、日本の近代化を進める独裁的な権力者である。 オールグレンは来日し、農民を主体とし、近代的な銃器で武装された新政府軍を訓練する。訓練が不十分だった新政府軍を率い、渡辺謙が演じる勝元の軍勢と戦うことになる。勝元は、西郷隆盛と楠木正成を混ぜたような人物である。勝元の軍勢は、サムライスピリットに従い、銃を使わず、鎧に身を固め、刀と弓矢で戦う。訓練が不十分だった新政府軍は勝元の軍勢に蹴散らされ、オールグレン
安倍晋三「美しい国へ」(文春新書 ISBN:4166605240)を読んでみた。安倍晋三の思想は、彼の育った環境、出自に由来していると感じた。 この本を読みながら、後藤田正晴の回想録(御厨貴「情と理 -カミソリ後藤田回顧録- 上」(講談社+α文庫 ISBN:406281028X))のことを思い出していた。安倍晋三の思想と後藤田正晴の思想は、特に、戦前の指導者と戦後の平和主義への考え方について、対極に位置していることが印象的だった。 戦争中、下級士官だった後藤田正晴は、戦争の指導者層についてきわめて辛辣に語っている。後藤田正晴は平和主義へ確固とした信念を示しているが、それは、彼の戦争中の体験、当時の指導者層への不信から導きだした教訓に基づいているように思う。 一方、安倍晋三は、戦前から戦後にかけて指導者であった岸信介を祖父に持ち、その岸信介の姿が安倍晋三の政治家としての原点となっている。だか
マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫 ISBN:4003420934)を読み、いちばん印象に残っているのは、金銭欲、拝金主義というのは歴史的、地理的に普遍的だけれども、近代資本主義を支えている精神、エートスは特殊なものだ、という指摘である。この本の主題は、その特殊な「資本主義の精神」の起源が、「プロテスタンティズムの倫理」にあることを論証することだけれども、私にとっては、その前提となる「資本主義の精神」の特性についての記述の方が興味深い。 いくつか、関連する部分を引用してみようと思う。 ……職業義務(Berufsspflicht)という独自な思想がある。……労働力や物的財産(「資本」としての)を用いた単なる利潤の追求の営みに過ぎないにもかかわらず、各人は自分の「職業」活動の内容を義務と意識すべきだと考え、また事実意識している、そういう義務の観念がある
去年の夏、京都で伊藤若冲に興味を持って以来(id:yagian:20051225:1135520988)、若冲や琳派の画集を眺めるようになった。 ちょうど、静嘉堂文庫美術館(http://www.seikado.or.jp/menu.htm)で「国宝関屋・澪標図屏風と琳派の美」展を、根津美術館(http://www.nezu-muse.or.jp/)で改修のための休館前の「燕子花図と藤花図」展をやっており、美術館のはしごをしてきた。 今までは、教養として根津美術館に行こうと思いつつも、実際には腰が重くて、行ったことがなかった。しかし、自ら興味を持つようになってからは、この絵のほんものを見ることができる機会を逃すわけにはいかないと、勇んで美術館に足をはこんだ。 いちばん印象に残ったのは、根津美術館に展示されていた尾形光琳の「燕子花図」(http://www.nezu-muse.or.jp/t
皇室典範の改正をめぐる議論を見ていると、男子男系による皇位の継承を守るべきと主張している人たちも、天皇家の伝統について、さほど深い考察があるようには見えない。 天皇が天皇であるのは、天皇家の伝統が大きな意味を持っていることは間違いない。天皇家が特別の伝統を持っているからこそ、天皇は特別な存在となっている。しかし、一方で、現実の天皇、天皇家のあり方は、時代によって大きく変化しており、決して伝統を墨守しているわけではない。それぞれの時代で天皇が天皇でありつづけたのは、伝統と変化のバランスを保つことができたからである。男子男系による皇位の継承を守るべきか否かは、現在、そして、これからの天皇、天皇家のあり方の全体を考え、守り続けるべき必須の伝統なのか、変化させてもよいことがらなのかを判断する必要がある。そういった視点からの議論はあまり目にしない。 天皇と皇太子の対立を見ていると、天皇家の伝統と変化
藤原正彦「国家の品格」(新潮新書 ISBN:4106101416)についての感想は、昨日の日記(http://d.hatena.ne.jp/yagian/20060202/1138887151)で完結させたつもりだったが、まだ語り残していることがあるような気がしている。 この前、本屋のレジに並んでいたら、「国家の品格」を二冊持っている初老のサラリーマンがいた。おそらく、いい本だから読め、と部下に渡すのだろう。「国家の品格」を渡された人はどう思うのか解らないけれど、すくなくとも、その初老のサラリーマンは、この本を読んでずいぶん感激したのだろう。 正直にいって、「国家の品格」に感動するような人が国家の品格を高めることはないだろうなと思うし、ずいぶん薄っぺらい安手な感動なんだろうなとも思う。昨日の日記に書いたとおり、この本に感動する人は、あまり日本の伝統文化になじみのない人たちなのだろう、とも思
さて、2023年の抱負を書いていこう。 2022年の振り返りへのリンクを貼っておく。 yagian.hatenablog.com 総論:職業と生活のシフトチェンジ 2022年の振り返りにも書いたが、職業では去年新組織を立ち上げ、今年以降はサービスの拡大、組織の整備と安定稼働を実現するというミッションがある。おそらく、このミッションが完結する頃には定年目前となり、シニアとしての職業生活への切り替えに直面しているだろう。 また、年齢とともに体調が変化し、これまでのルーティーンでは体調が維持できなくなった。年齢にあった新しいルーティーンを作り上げなければならない。 世界も日本も社会経済が厳しい時代に入ってきている。これから5年、10年しっかり自分の足で立ち続けられるような基盤を作るために、職業と生活のシフトチェンジをすることが今年の目標だ。 生活:体調の回復と新しいルーティーンの確立 第1四半期
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