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アメリカ大統領選
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衝突し沈没する紫雲丸。多くの人が海に投げ出された 1955年5月11日 香川・高松沖 沈没現場には油が浮かび、左下には沈没した紫雲丸のデッキの手すりが見える。右は衝突した「第3宇高丸」 1955年5月11日 香川県・高松沖 衝突沈没した宇高連絡船「紫雲丸」 香川県高松港を午前6時40分に出港した国鉄宇高連絡船「紫雲丸」(1480t)が、高松北西4キロの瀬戸内海で岡山県宇野港発の国鉄貨物船「第3宇高丸」(1282t)と衝突、沈没した。濃霧の中の事故で、紫雲丸には修学旅行生を含む乗客730人がおり、そのうち168人が死亡した。原因は両船の操船ミスで、長崎惣之助国鉄総裁が引責辞職した。 <当時の新聞紙面> コメント お父さんがこの船に乗っていました。 丁度修学旅行に行っていたそうです。 船舶の甲板にいた父は正面衝突した船に飛び移って助かりました。 『船が正面から衝突して、ドーンという音とともに乗
ビキニ環礁の水爆実験で被ばくした第五福竜丸事件にヒントを得た怪獣映画「ゴジラ」が公開された。米国の水爆実験ですみかを追われたゴジラが東京に上陸、放射能火炎で街を火の海にするという恐怖娯楽映画。この第1作は爆発的にヒットして960万人を動員。以後1975年までゴジラシリーズは15作を数えた。98年にはハリウッド版も登場した。「ゴジラ」の成功で怪獣映画が次々と誕生、「モスラ」「ラドン」「アンギラス」などが公開された。 <当時の新聞紙面>
昭和31年発行の東京23区の地図です。 現代との比較や、その場所の当時の写真を見ることができます。 [使い方]
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国語審議会メンバー。安藤正次氏、簗田次郎氏(右) 国語審議会メンバー。金田一京助氏、西尾実氏(右) 国語審議会メンバー。時枝誠記氏、山本有三氏(右) 第12回国語審議会総会で決まった当用漢字表(1850字)と現代かなづかいが政府に答申され、内閣告示として公布された。さらに1948年2月、当用漢字音訓表、当用漢字別表(教育漢字表)が内閣告示され、音訓の整理と併せて義務教育必修漢字の範囲(881字)も定められた。 <当時の新聞紙面>
東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で、「区役所の者」と名乗る男が、集団赤痢が発生したと偽って行員ら16人に青酸カリ溶液を飲ませた。行員12人が死亡、男は現金10数万円を奪って逃走した。捜査は難航したが8月21日、画家の平沢貞通容疑者(57歳)を逮捕。決定的証拠がないまま1955年に死刑判決が確定した。しかし、捜査・裁判に疑問が出され、再審請求や恩赦申し立てが繰り返された。平沢死刑囚は無罪を主張したまま87年、95歳で拘置先で死亡した。 <当時の新聞紙面> コメント この事件は松本清張さん他題材として取り上げられた事件ですが、真相は未だ闇の中、平沢貞通死刑囚(故人)が真犯人か否かは誰も今となっては証明しようもありません。今の発達した科学捜査のもとでは冤罪はほとんど無くなったと言っても過言ではありませんが、当時では「冤罪」は当たり前の様にあったんじゃないかと推測されます。兎に角、冤罪は絶対にあっ
焼け跡にたたずむ母子、幼い弟をおぶるおかっぱ頭の少女。敗戦直後の1945年秋、東京で撮影された写真43枚が62年ぶりに米国から日本に里帰りした。米シカゴ生まれで太平洋戦争中、米空軍写真偵察隊所属だったクリフォード・マッカーシーさん(03年7月、82歳で病死)が写した。戦後、米オハイオ大で32年間、美術教授を勤めたことから同大と学術交流協定を結ぶ中部大学(愛知県春日井市)に贈られた。【高尾具成】 マッカーシーさんは従軍した南太平洋地域のビアク島からの帰途、東京に立ち寄り、帰国船を待つまで約6週間滞在した。43枚のモノクロ写真はその際に撮影された。 単語帳を広げ子供たちに尋ねる米兵、連合国軍総司令部マッカーサー最高司令官が使う高級車の横を牛を引いていく男、混雑する新宿駅……。 軍に借りたスピード・グラフィック・カメラで、米軍施設のあった調布の街角や田畑、東京駅周辺、明治神宮など焼け跡となった戦
東京タワーが23日、開業50周年を迎える。高度経済成長下の1958(昭和33)年、戦災で空き地となっていた東京・芝公園の一角に組み上げられたスマートな鉄塔。半世紀を経て、林立する高層ビルに囲まれたが、高さ333メートルの存在感は失われていない。 近年、昭和30年代ブームの中で郷愁の象徴としても注目された。運営する日本電波塔株式会社(前田伸社長)は「東京のランドマークからアジア、世界のランドマークにしていきたい」。 タワーの足元に立って、冬の青空を見上げれば、都会の喧騒(けんそう)を忘れさせる威容が、そこにある。【真野森作】 コメント 見たことがあります。とても綺麗ですね。 投稿:DIEP 2009年3月18日 (水) 15:48 昭和33年東京で大学入学時に下宿の窓から毎日 高くなるのを4年間眺めた記憶が蘇ります。 投稿:古河拓 2009年10月16日 (金) 19:40 最初の1枚目の写
太平洋戦争当時、国民は連合国とだけ戦っていたわけではなかった。日本をめぐる戦況が悪化するにつれ、食卓の上はどんどん貧しくなる一方。イモ、カボチャばかりの食事、校庭なども畑に変え、雑草を使った料理も紹介された。空腹との戦いに必死だったあの時代を写真で振り返る。 コメント 写真集の多さに、感心しました。が、一覧している時に気になるのが「古き良き昭和の・・・」というバナー。勿論良い時代もあるのでしょうが、戦時下での食のコーナーには、向いていないと思います。私は戦争を知らない世代ですが、両親や、祖父母より、戦争中の話は良く聞かされました。この時代を乗り越えてきた方々で、気を悪くされる方も居るのではないでしょうか? 投稿:渡辺 2008年8月24日 (日) 06:16 祖父母・両親とても感慨深げでした。 祖父母は、話すたびに記憶が曖昧でしたが写真を拝見し鮮明に思い出したようです。今まで1度も聞いたこ
小説家の太宰治氏が未完の「グッド・バイ」を残して愛人と東京・三鷹の玉川上水に入水自殺した。40歳。青森県津軽地方屈指の素封家に生まれ、東大を中退。短編集「晩年」で文壇にデビュー、1947年発表の「斜陽」で流行作家となり、「斜陽族」という流行語を生んだ。4回の自殺未遂を重ねていた。代表作はほかに「富嶽百景」「走れメロス」「津軽」「人間失格」など。命日は「桜桃忌」と名づけられ、俳句の季語にもなっている。 <当時の新聞紙面>
※昭和20年代の地図を追加しました。 昭和20年から39年までの主なニュースを紹介します。 当時の記事や紙面イメージで、時代の風を感じてください。 記事にはコメントを付けることができます。思い出などを投稿してください。 ニュースを年表形式で探せます。関連リンクをクリックすると詳細がご覧頂けます。
「警職法改悪反対国民大会」であいさつする鈴木茂三郎社会党委員長 1958年10月25日 東京・日比谷野外音楽堂で 総評傘下労組の8000人が国会に集団抗議陳情し、ちょうちんデモ 1958年10月24日 東京・国会議事堂付近で 岸信介内閣は、大衆運動への取り締まりを強化するため、警察官の職務権限を拡大する警職法改正案を国会に提出した。社会党の反対によって国会審議は停止。野党・労働団体などの反対運動が激化。警職法改悪反対国民会議が結成され、「デートもできない警職法」というスローガンのもと、全国集会やデモが繰り広げられた。こうした反対運動により、政府は警職法の改正を断念、改正案は廃案となった。 <当時の新聞紙面>
戦争は終わったものの、「ひもじい」という言葉が世の中を覆いつくしていた。配給の食料だけでは足りず、栄養失調死する人も少なくなかった。大蔵省は1946年、5人家族をモデルに「月500円の標準家計簿」を発表したが、当時の毎日新聞は、「標準家計簿で生活すると、実際に摂取できたカロリーは1109カロリー。成人男子の必要カロリーの半分以下」との試算を紹介している。 人々は焼け残った着物や家財を元手に、買い出しとヤミ市に頼る「たけのこ生活」を強いられた。政府の統制を逃れて物資が売買されたヤミ市は値が高く、農家から直接食料を手に入れるための農村行き電車は「買い出し列車」と呼ばれ、混雑を極めた。しかし、買い出しは庶民であっても経済統制違反。当局に見つかれば没収されることもしばしばだった。 コメント 昔を思い出す写真でした。 今の生活から考えると想像もできない状況ですが、 こういった中でチャレンジ精神が生ま
作家の永井荷風さんが胃潰瘍のために、千葉県市川市の自宅で死去した。79歳。所持金も少なく、孤独な老人の死だった。明治末期から耽美享楽の作風に転じ、花柳界などの風俗を描いた。代表作に「つゆのあとさき」「あめりか物語」「ふらんす物語」「すみだ川」、日記「断腸亭日乗」など。 <当時の新聞紙面> コメント 卒業論文は永井荷風と決めた直後の急逝でした。当時は第一次の荷風全集(中央公論社版)が刊行されてから年数が経過していたので、古書店を回りながら全巻集めるのに苦労したものです。耽読しては浅草、向島、深川、葛飾などをよく歩きました。荷風氏が死去されたとき、文芸評論家の中村光夫氏がラジオのインタビューで、「戦後の世相や風俗は荷風さんにとって絶好の題材を提供してくれたはずですが、大作をお書きにならなかったのは残念です」と語っていたのが印象に残っています。私も期待していた一人ですが、戦後の作品は小品(淡白な
参院法務委員会で、労農党の木村禧八郎議員の質問に答えた池田勇人蔵相が「所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような経済の原則に沿ったほうへ持っていきたい」と発言、野党が騒然となった。池田蔵相はほかにも「中小企業の一部倒産やむなし」など、歯に衣着せぬ発言が目立ち、2年後には「中小企業者の自殺もやむを得ない」と語って通産相を解任された。 <当時の新聞紙面>
昭和の写真から、現在の場所を想像してみてください。 当時と大きく変わってしまった場所、まだ雰囲気が残っている場所。今と昔の違いを味わってみてください。
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