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少し前に、大学生にもなって偶数+奇数=奇数を証明出来ないことでちょっと世間が騒いでいたことがありました。おそらく、その大学生は入試科目に数学が無い私立文系でしょう。もし理系だったら笑い話ではなくて大事でしょう。私はそのことで余り驚きませんでした。数式を見聞するだけで蕁麻疹を発症する知性の高い人を知っているからです。xを偶数、yを奇数として、スペースと記号の節約のため、2を法とする合同式で書けばx≡0、y≡1となり、これらの両辺を加えればx+y≡1。たったこれだけで証明完了ですが、どうしても数式を使わざる得ません。従って、その大学生が蕁麻疹症状の人かも知れないので、むしろ私は同情を禁じ得ませんでした。そんなことよりも私が現実に体験したもっと仰天したことを書きます。 数式を用いない図形で誰もが知っていることは三角形の内角の合計が180度になることでしょう。ある会合で、その証明はと聞くと、驚くな
最近、Linus氏はまたしてもReal World TechnologiesのModerated DiscussionsフォーラムでC++に対する否定的見解を投稿したことは皆さんも御存知でしょう。主要な投稿は以下の5つです。 http://www.realworldtech.com/forums/index.cfm?action=detail&id=110563&threadid=110549&roomid=2 http://www.realworldtech.com/forums/index.cfm?action=detail&id=110577&threadid=110549&roomid=2 http://www.realworldtech.com/forums/index.cfm?action=detail&id=110618&threadid=110549&roomid=2 ht
親族の数学に多少の興味を持っている高校生からグロタンディーク氏(本来なら博士とお呼びすべきなのでしょうが、皆さんもご存知の通り氏は世間と没交渉ですし、博士と呼ばれるのは最も氏の忌嫌うことだと容易に想像されますので、氏のままにします)のまとまった伝記本が無いのかと聞かれ、ちょっと困ったなあと思いました。本がある無しで弱ったのではなく、グロタンディーク氏の人生を知ってショックを受けるかも知れぬと危惧したからです。勿論私くらいの年齢の大人になれば、天才は天才であって、凡才は凡才に過ぎぬと居直って平気なのですが、高校生くらいの年齢ではまだ自己が何たるか分かっていないので無限大の力を持っているかのように錯覚しがちです。今の日本で家が裕福でないと言っても、グロタンディーク氏ほど劣悪な環境で少年期を過ごすことは先ずないと思います。ですから、大人はどうでもいいですが、青少年はもっと勉強出来るはずなんです。
数学を勉強した人なら多少なりともブルバキを御存知でしょう。でも、ブルバキのどれかの巻を通しで読んだ人は多くないと思います。私も例外を除いて読んだこともなく、読みたいとも思いません。例外というのは、"Algèbre commutative"を持っており、いやいやながら必要箇所のみ見るだけです。仏語の数学論文を読むと、"Algèbre commutative"からの引用もしくは参考文献として挙げていることが多いのです。ですから、一応チェックのために見るだけであって、読むために購入したのではありません。 私から言わせれば、世の中には数学書に限らずいろいろな本がありますが、ブルバキほど読む気にさせない本も珍しいのではないかと思います。ブルバキの全盛時代に、故岡潔博士が"数学の冬の時代"と批判したとか。これには私ごとき下辺な人間でも頷けるものがあります。ちょっと目を通すだけでも、余りの冷たさに涙が出
数学に少しでも関心のある人なら、フェルマーの最終予想が、これを含む一般的な志村予想を証明することによって解決されたことは御存知でしょう。この志村予想は、かって無知と誤解によって谷山-志村予想と呼ばれていました。外国では更に輪をかけて(と言うよりもアンドレ・ヴェイユの威光によって)谷山-志村-ヴェイユ予想と呼ばれていました。ヴェイユがこの予想に何ら関係しないことは、故サージ・ラング博士によって実証されました。それでも、谷山-志村予想もしくは谷山予想と呼ぶ人がまだ散見されます(散見と言いましたが、日本人ではかなり多いです。国民性に依存するのかどうか知りませんが)。私は数論を専攻したことがなく、ずぶの素人ですが、志村博士が書かれた記事や自伝"The Map of My Life"を読み、何故志村予想なのか納得しました。ここで込入った話を書くことは不可能なので、分り易く言えば、故谷山氏は何ら予想の
以前にも書きましたが、私もCPAN Testersの下辺の最下位に参加しています。いろいろなテストの中身を覗くと、まだ新しいTest::Moreの特色がすべて使われているとは言えないと感じました。 Test::Moreを使うのはCPAN作者のみならず、Perlerなら必須の道具です。ですから、最低常識に位置します。そういう時に、David Golden氏は御自分も失念していたかのようにとぼけて、エッセイという形を取りながらも、こじんまりと綺麗に新しいTest::Moreの特色を"Five Test::More features you might not be using yet"で説明してくれています。 私は以前にも書いたことがありましたが、Perl本体やCPANモジュールのドキュメントやハウツーものは一切訳さないと公言しました。その理由は訳さなければならないほどの英語ではない(せいぜい
私は以前、Jonathan Rockway氏の"何故、私はPerlを続けるのか"を紹介したことがありました。このエッセイの原題は勿論"Why I stick with Perl"です。ところが、最近Jeffrey Kegler氏がよく似た題名で"Why I stuck with Perl"を書いております。題名の違いは、現在形か過去形の違いだけですが、視点は全然違います。前者はモジュールの再利用の視点からCPANを見ており、後者は総合テスト環境(つまり、cpantestersのこと)の視点からCPANを論じています。 他言語の人が分かっていないのは、CPANをただのモジュール格納庫としてしか見ていないことです。cpantestersのことを全然分かっていないのです。テストするのみならず、モジュール作者がテスターにコンタクトすれば、もっと詳細なデータや、それどころかもうパッチすら用意している
久しぶりのPerlネタです。新年早々のPerl関連ブログで面白かったのは、Mooseのオリジナル作者であるStevan Little氏の"The Moose Ecosystem"でした。この私訳を以下に載せておきますが、読んでいただければ分かる通り、MooseもしくはモダンPerl万歳な風潮に対して、これまたPerl界で著名なbrian d foy氏が釘を刺したことに端を発します。 私は正直言って、Stevan氏、brian氏両方は全く問題がなくて、問題なのは混乱している人々だと思います。確かに初期のMooseはドキュメントも乏しく、理解するのは簡単でありませんでしたが、今日Dave Rolsky氏の書いたドキュメントを始め至れり尽くせりなのにもかかわらず、混乱する事自体がおかしいと思うのです。Moose系のどれを選べばいいのか、って? お好きなものをどうぞ。そもそもPerlをやろうと思っ
私は今まで私個人の経歴等をネット上では言及して来ませんでしたが、ほんの少し暴露しますと、数学科卒業です。今でもよく数学や理論物理の本を読むのが好きです。私がこれらの類の本を読むのは、実生活で嫌なことに出会った時に多いのです。昨年後半から体調が優れず、最終的には結構な期間、入院せざるを得なくなり、暇つぶしにと、故Serge Lang博士の"Complex Analysis"を持ち込みました。余談ですが、この本は内容がとてもいいのですが、第3版にもかかわらず、変な処でミスプリント(例えば、留数定理の応用の例で、ローラン展開の級数の符号が逆になっているとか)、著者の勘違いで定理の引用の番号が間違っているとか、定理の証明でもLang博士独特の飛躍が処々見受けられ、初学者がつまずきやすい嫌いがあります。ですから、複素函数論を初めて勉強される人にはお勧めしません。 あれやこれや楽しんでいる時に、"As
最近、私はあまりPerlの話題を取上げていません。理由は簡単でして、国内海外を問わずブログが面白くないからです。押し並べて自己宣伝みたいな内容ばかりだと私のみならず読むのは時間の無駄と思った人は少なくないと思います。 それでも、Perlでは、Tim Bunce氏、David Golden氏、Dave Rolsky氏、Dave Cross氏のブログは必ず読んでいます。前に書いたことがありますが、この4人の方々は端正な英文をお書きになります(ネーティブでない私が言うのも変ですが)。twitterもどきの変な英語ではなく(使っている本人たちはかっこいいと思っているのかも知れませんが)、非ネーティブのための手本みたいな英語だと思います。もう一つ、この4人の方々に共通しているのは、いわゆる尊大ではないということです。いくら偉くても、鼻持ちならぬ尊大さが透けて見える人はいくらでもいます。むしろ、Tim
James Gosling博士が少しは真相を語り始めたことをJavaな人は御存知でしょう。その記事が"Java Creator James Gosling: Why I Quit Oracle"です。 私の読後感は、Oracleの買収劇に多くの人から危ぶむ声があり、そして誰もが予想していたことから大きく外れていないので、目新しいことは無いように思いました。それでも、個人的にはGosling博士に同情しました。これはリストラと言うよりは、企業内いじめと言った方が適切かも知れません。但し、これはあくまで博士の証言が正しいという前提のもとです。 私はOracleを一方的に批判する気持ちはありません。何故なら、同じ傲慢さをSunもやっていたからです。若い人は御存知かどうか知りませんが、他言語へのネガティブキャンペーン(しかも、Gosling博士も片棒を担ぐ論文まで発表しています)を盛んにやり、Ap
先日、Andrei Alexandrescu博士の"The D Programming Language"を読了しました。素直にいい本だと思いました。下辺な私は、超一流の人が書いた著作について偉そうに論評を書くほど自惚れていませんので差し控えますが、個人的には周辺の人が訊いて来た場合に限り、口頭で感想くらいは言うかも知れません。つまりは、論評を書くならば、今の場合、Alexandrescu博士が理解する言葉で(普通は英語でしょう)書き、博士の目にも留められるように全世界に公開しなければ意味がなく、twitterや個人ブログでつぶやいても、所詮井の中の蛙でしかありません。 さて、何故この本を注文したか、理由は以下です。 1.希少本になるかも知れない。 2.D言語が日本において実務で使われる可能性は当分低い。 3.C/C++プログラマにとってはD言語が自然的である。 1について。6月中に"Th
私はPerl 4の時代からPerlに馴染んでいますが、最初がいつだったか憶えていません。いわゆるThe Pink Camel本も手放しました(後悔しています)から、刷数の日付を確認出来ないのです。遅くとも1994年には入手していたように思うのですが、定かではありません。 1990年頃、当時の日本では(海外ではありません)、Cが家電メーカを始め、いろいろな処で市民権を完全に取得していました。C++はやっとARMが刊行されたばかりで、この先どうなるか分からない代物でした。そういう時代でしたので、おそらくPerl 4を知っていることは一種ゲテモノ(もしくは玩具)好きに思われはしまいかと、一切口にしなかったように思います。それ程(嫌味な言い方をすれば)日本は遅れていたのです。刊行早々のTC++PLの第二版を持っているのでさえ、新しい物好きだと先輩に言われたことがあるくらいでしたから、The Pin
Matt S. Trout氏がIron Man Blogging Challengeをしくじったことは、Iron Man Blogging Challengeに参加された皆さん(参加していなくても、ちゃんとしたPerlerなら)は御存知でしょう。いかに一週間に一度と言えども、Perlに関してブログを続けることが難しいか実感された方も多いと思います。Matt氏の場合は、しくじったと言うよりも、氏は時間間隔を勘違いされたのではなかろうかと私個人は思っています。 話は変わりますが、皆さんも何らかのコミュニティで、メーリングリストその他で、特に初心者のトラブルに付き合ったことも多いかと思います。彼等がなかなか解決出来ない最大の要因は、すべての情報を出さず、何故か出し惜しみすることにあると思います。Matt氏もそういうことに出くわしたことがあるようで、Show Us The Whole Codeとい
以前、知人より故Edsger W. Dijkstra博士の"The Humble Programmer"をリクエストされたことがありました。申し訳なかったのですが、以下の理由により断りました。 1.翻訳本が出ていること。 2.英文であっても高校生でも読める。だから、読むべきである。 3.有名なものは自分のポリシーに合致しない。 1.については、約20年以上前、翻訳本「ACMチューリング賞講演集」として出版されています。しかし、もう今となれば入手不可能でしょう。私も見た憶えがありません。ですから、本当に読みたければ、大図書館で探せばいいはずです。 2.については、時代背景及び専門用語を前提条件にすれば、高校生でも(ひょっとして中学生でも)30分もあれば読めるはずです。ただ、Dijkstra博士に限らず、ヨーロッパ圏の人の英文は一文節が長くなる傾向があり、読んでいてくどい印象を受けます。それを
正直に言って、私の周辺には"右辺値参照の簡単入門"は難解過ぎました。C++を知っているはずと私が思っていた人でも、基礎固めをしっかりしなかったのか、グラグラしてました。そのような生半可では太刀打ち出来ないでしょう。もう一つの要因として、Bjarne Stroustrup博士の専門的著述は、トリビアルなことはストイックなまでに殆ど無口です。その反面トリビアルでないことには饒舌です。プロなら一を聞いて十を知れ、というところでしょうか。 いずれにせよ、もう少しやさしいものを紹介すべきでした。「入門の入門」ということで、Thomas Becker博士の"C++ Rvalue References Explained"を紹介します。この記事はトリビアルなことでも懇切丁寧に説明しています。もし、これでも歯が立たないのであれば、C++98又はC++03の基礎をしっかりやり直すことをお勧めします。その基礎
前回の続きのパート2、"Who ordered rvalue references? Part 2"の私訳です。今回で「誰が右辺値参照を決めたのか?」の「誰」(と言うよりも「何」がですが)がはっきりし、右辺値参照が概念レベルの思い付きでないことが明らかになります。ここらへんの経緯はおそらく余り知られてはいないのではないでしようか。私も時間があれば、D&Eやその他原資料にあたり調べてみたいと思っており、その結果を報告出来るやも知れません。 追記:5月19日 パート3も載せようと思ったのですが、余りにもマイナーな話題だし、もっと本質的なことが判明しましたので、パート2で打切りにします。 誰が右辺値参照を決めたのか? パート2 2008年10月26日 Bartosz Milewski 直近の投稿で、私は参照と左辺値/右辺値の関係を論じた。次のようなバインディングルールを使って要約されるだろう。
C++0xが09年までに正式制定が出来ず、先送りになったことは皆さんも御存知だと思います。どういう裏事情があったのか、部外者である私は知りませんし、関心もありません。いいものを作り上げるためにじっくりとやってもいいと思います。 ただ一つだけ言いたいことは、moveコンストラクタだけはもっと早い時期に切り離して、出来れば部分的改訂のC++03に盛り込んで欲しかったという気持ちがあります。少しでも大きなオブジェクトを扱うアプリケーションをC++で書いた経験のある人ならお分かりでしょうが、コピーの高い代償には本当に悩まされて来たものです。極端なことを言えば、効率性(実行速度及びメモリ使用率)重視でなければ、あんな難しいC++言語を使うのは阿呆らしいです。ですから、コピーコンストラクタを出来得る限り走らせないよう、工夫しながら書くのは非常なストレスを感じます。しかも、殆どの場合、コピーコンストラク
10年以上前、Bjarne Stroustrup博士の偽インタビュー記事(又はパロディとも言う)がネット上で出回ったことがありました。C++の人ならよく御存知だと思います。幸いにもこことかここに、その和訳があります。その当時、これを本当のインタビューだと信じる(もしくは信じたい?)人が少なからずいて、鬼の首を取ったかのように自身のサイト(まだブログが流布する前なので)上で論評し、勝利宣言(?)か何かのように勝ち誇ったことがありました。どこの国かを言及すると、また私の愛国精神云々する単純細胞な人がいらっしゃいますので、あえて言いません。残念ながら、それらのサイトは当り前ですが削除、改訂されて、もう見ることは出来ません。 私が最初に原文を読んだ時、(今だから言うのではありません)偽だと思いました。日頃から博士の原文(書き言葉であろうが話し言葉であろうが)を読み慣れている人ならば、内容の吟味をす
以前、Dave Cross氏の"何故、企業はPerlを嫌うのか"を紹介したことがありました。氏の最近のエッセイはその後日譚で、"Crufty Old Perl"と題されています。要は、ある会社の幹部達による見え見えのPerl廃絶のためのソーシャルエンジニアリングが左程には効果が無かったのはよかったが、現場の開発者の内に他言語のフレームワークを提唱することが多くなっていることを憂いていらっしゃいます。 私個人の意見ですが、本当の意味で優れた開発者というのは2割あればいい方で、残りの8割は凡人もしくは駄目な開発者です。勿論、何を母集団の単位とするか議論はまちまちだし、証明出来るわけでもありません。しかし、例えば地球上の全人類を母集団とすれば、人類に本当に貢献出来る人々が2割もいれば、世界はもっと平和になったでしょうから、開発者の場合でも2割よりはもっともっと少ないのが現状でしょう。 凡人(勿論
私が以前に書いた"「構造化プログラミングに関する覚え書き」へと導いたもの"の前置きで、Linus氏がC++をぼろくそに貶したことに対する日本人の反応を辛辣に書きました。そのことで私の真意を誤解している人が少なからずいらっしゃいます。要は私が言いたかったのはLinus氏に反論するなら反論するで、世界に向けて英語で書き、Linus氏が目にするようにせよと言いたかったのです。それをせずに日本国内でぶつぶつ言っても、それは所詮国内向けポーズでしかなく、自己愛に満ちているとしか言い様がないのです。私の愛国精神云々とかは全く関係ございませんし、恥ずかしいものは国を問わず恥ずかしいのです。勿論英語の壁があるでしょうし、もっと重要なのはLinus氏並の実績でしょう。英語も駄目で実績も無いなら言うな、です。 それに引き換え、海外に目を転ずると、堂々と反論している人が(英語ネーティブでなくても)何人もいます。
此處、Bjarne Stroustrup博士に関する話題を取上げています。それは私個人が博士の大ファンであることも関係しますが、それ以上に私達の世代(年齢がばれるのではっきりとは書きませんが)にとって始めてのOO言語と言えばC++が最初なのです。今から考えればそれ以前にもOO言語と呼ばれる言語はあることはあるのですが、実用に耐えうるOO言語としてはC++が始めてではないかと私は思います。 そのStroustrup博士が新年早々発表したエッセイが"What Should We Teach New Software Developers? Why?"です。このエッセイに述べられている博士の危機感は、最新著"Programming: Principles and Practice Using C++"の第1章"Computers, People, and Programming"の中でも述べてい
Bjarne Stroustrup博士の最新著書"Programming: Principles and Practice Using C++"の最終章第27章は"The C Programming Language"なのですが、Dennis M. Ritchie博士の言葉"C is a strongly typed, weakly checked, programming language"を冒頭で引用しております。C言語の生みの親が、正にそのものズバリなことを言っているのが可笑しいのではなく、これがどこからの引用なのか私には分かりませんでした。と言うのはずっと昔にもRitchie博士がこの言葉を言っているのを見た憶えがあって、あれこれ探してみたのですが原典を見つけられませんでした。Stroustrup博士が直接Ritchie博士から聞いた言葉なのか、又はK&Rの初版本で書かれていた言葉
私がLinus氏のC++嫌いをこのところ取り上げているので、周辺には私がC++を嫌っているかのように思われてしまいました。しかし、何を隠そう、私はBjarne Stroustrup博士の大ファンであり、本当のプロフェッショナルなプログラマはLisp系とC/C++をやっている(只単にやっているのみならず、セキュアで立派なプログラムを書けることを意味します)人達であると思っているくらいです。それ以外の言語は所詮オマケ的存在で、それぞれ用途に適した言語を使えばいいと思います。そのオマケ内でも私がPerlを好んでいるのは自由度が高く、汎用的であるからです。 ところで、Stroustrup博士の最新著"Programming: Principles and Practice Using C++"を読み終えたのですが、この本のみならず博士の英文は非常に読み易いです。どこかのブログでラテン語を使い過ぎな
Linus氏のgoto有用論やC++否定論を始めて聞いた時、私は正直、氏なら言っても可笑しくないと思いました。それは、氏がC言語をアセンブリ言語の代用として使っていることもありますが、gotoがどうのこうの、OO指向言語がどうのこうの、そんなみみっちい議論よりも前に、Linus氏のOS設計思想から万事すべてが端を発しているからです。Tanenbaum氏との論争、すなわちマイクロカーネル対モノリシックカーネル論争におけるLinus氏の考え方が氏のすべてなんです。その内容については、氏の半生記"Just for Fun"の"Minix vs. Linux"の節(原書p98から記述あり)や、他の書籍にも載っているし、論争の舞台であったニューズグループのアーカイブズもオンライン上にありますから、詳細を知りたければそれらを見ていただくとして、ここでは繰り返しません。 しかしながら、私の周辺の人達とよ
新年早々のMatt S. Trout氏のエッセイ"Love your idiots"は言葉はキツイですが、コミュニティでの在り方を考えさせる味わい深いものです。どのコミュニティでも最低一人はこういう役割の人がいないとうまくいかないと私は思います。何故なら、そのコミュニティが全員超天才だったら、早々とコミュニティは崩壊してしまうことは明らかだと思います。以下、その私訳を載せておきます。 汝の馬鹿を愛せよ 2010年1月3日 Matt S. Trout プロジェクトマイルストーンと思考モデル そう、私は最近オープンソースプロジェクトのマイルストーンについてずっと考えている。コードベースのマイルストーンではないが…プロジェクトの利用とコミュニティから見たマイルストーンだ。普通は貴方が造れると言うよりも、出くわすものである。 しかし、今日私が話したいものは、苦くて甘い瞬間だが、貴方のプロジェクトを
明けましておめでとうございます。 さて、私の周辺では、先日に書いた"Gotoは有用である"について、折角のMatt S. Trout氏の本文よりも、何故か不幸にも私の書いた訳注の方が話題になっています。 Linus氏はgoto有用論の他にも、C++をボロクソに貶したり、本当に愉快な人だと私は思います。ただ、C++を貶された時の反応として、海外は置いとくとして、日本の一部の人が余りにも井の中の蛙的な反応をしたように記憶しています。代表的な例は「Linusはオブジェクト指向が分からないからだ」というのがあります。私は思わず笑いました。Linus氏ほどの頭脳で分からないことが、極東の日本の貴方がたは分かっていると言わんばかりじゃないですか。一部にせよ、だから日本は駄目だと思いました。つまり、自己を客観視せず、実質的実力は無いのに一流家気取りなんですね。もっとはっきり言えば何様のつもりなんだと。ど
あのMatt S. Trout氏の書くエッセイがこのところ全く禁止語一つ無く、愛読者である私から見れば嬉しいやら、若干の寂しさも(本当に勝手だなぁ)感じます。多分、クリスマスシーズンだったから、自粛されていたのではなかろうかと推察します。 ところで、年季の入ったPerlerでも意外に知らないものに、goto &subがあります。これはAUTOLOADで使われるし、確か弾さんも自身のブログで解説されていたようにも記憶していますが、知っていて損はございません。と言うか、Perlerと自称するならば、それくらい知っとけと言いたいくらいです。 Matt氏の最近のエッセイはそのgotoを親切にも”Goto considered useful”で解説しております。その私訳を以下に載せておきます。 Gotoは有用である 2009年12月26日 Matt S. Trout 違うよ、そのgotoでなくて、別
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