いつも揉めごとが絶えないWikipediaですが、ある項目を削除するか否かでまたもめています。それに対して、「表現の自由」を訴えている人がいるのですが、本当にWikipediaと「表現の自由」は関係あるのでしょうか。そもそも、Wikipediaは個人の思想信条を表現する媒体では無いし、ましてや、公共の言論機関でもない。それに対して「表現の自由」だとか「知る権利」なんかを持ち出して議論を張る人は、一体何を考えているのでしょうか。大抵、そういう人に限って、大した編集をしたこともなく、一方的に攻撃的な発言をするだけなんですが。 こんな感じで今のWikipedia日本語版の体制に不満があるひとは、是非ともsysopに就任して、こうした苦労を分かちあってほしいと思います。sysopの人向けに、公開されている窓口があって、この受け付け窓口に入ると、上記リンク先からたどれるクレームなどを毎日受け取ること
ARTIFACT@ハテナ系 - 素人が難題を勘と運で乗り越えるのではなくて、プロが知恵をしぼって解決するアニメをもっと見たい ARTIFACT ―人工事実― | アニメにおいてプロではなく学生が現場に出るのはなぜか 職業もののアニメが少ない理由を、アニメ産業の形態・表現の形式から考察する。まずマンガと比較対照すれば、問題の輪郭が明確になるだろう。職業もののマンガは、少なくともアニメよりは割合が多いのではないか。「マンガでわかる○○」といった、専門分野をマンガで解説した本も多い。しかも最近では原作付きの職業マンガからTVドラマ化するものも珍しくない。だがなぜアニメはそうならないのか。 アニメとマンガの表現媒体の違いとして、アニメは時間の枠が厳然と存在する。雑誌や単行本のページ数を増やすことはある程度できるが、あるチャンネルの一日の放送枠は24時間より増えることは絶対にない*1。30分・1クー
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/a82e0465c89ec49f7b01a51a9273e375 うーん… 前提となる認識がズレ過ぎてて、ちょっとお話にならない気がする。 まず、ブクマコメントでも突っ込まれてたけど、「左翼の最後の砦」が「歴史認識と地球環境」なわけないよね。日本の左翼を対象としてるのか、それとも世界的な傾向の話をしているのかは分からないけど、「左翼の最後の砦」は「弱者の存在」であり「格差の問題」であって、「歴史認識」や「地球環境」なんて話は使い古されたロジックのひとつに過ぎない。戦線は既に移動しています。 それにさ、『「日本は遅れている」「欧米では**だ」というのが、戦後の左翼(および近代主義者)のマントラだった。』とあるけれど、では池田氏の語る「市場万能論」は「欧米(というかアメリカ)追随」でなくて何なの?出所もそれを肯定するロジック
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