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2013年3月4日のブックマーク (8件)

  • NIKKEI STYLEは次のステージに

    キャリア、転職、人材育成のヒントを提供してきた「リスキリング」チャンネルは新生「NIKKEIリスキリング」としてスタート。 ビジネスパーソンのためのファッション情報を集めた「Men’s Fashion」チャンネルは「THE NIKKEI MAGAZINE」デジタル版に進化しました。 その他のチャンネルはお休みし、公開コンテンツのほとんどは「日経電子版」ならびに課題解決型サイト「日経BizGate」で引き続きご覧いただけます。

    NIKKEI STYLEは次のステージに
  • 嘘を嘘を塗り固めるデマブロガー teruyastar。

    ひたすらキノコカップの1-1コースでタイムアタックしてると、いつの間にか世界ランキング上位と0コンマ何秒までに縮まってたりして他の難しかったはずのコースもクリアできたりするんですよね。 SF版なら1秒も差はつかないぜ。 スーパーファミコン版のマリオカートなら世界ランキング上位と1秒も差がつかない?それはそれはマリオカートが当にお上手なんですなあ。まさかスーパーマリオカートを出してくるとは。 スーファミ版のマリオカートのタイムアタックは3DS版やwii版とは全く意味合いが違う。 ファミコンやスーパーファミコンのゲームは、入力がデジタルだ。 十字キーは、上下左右、それに斜めの8方向しか存在しない。一方で最近のゲームはアナログスティックで操作する。入力体系は8方向ではない。この違いはタイムアタックにおいて、決定的な違いをもたらす。 たとえば、 sakoという格闘ゲーマーの人は、1/60秒のずれ

  • 長文日記

  • 金の為にゲームを食い物にしでたらめとデマを垂れ流すteruyastarとかいう糞ブログ。 - 真性引き篭もり

    ひたすらキノコカップの1-1コースでタイムアタックしてると、いつの間にか世界ランキング上位と0コンマ何秒までに縮まってたりして他の難しかったはずのコースもクリアできたりするんですよね。 へー。 いつの間にか世界ランキング上位とコンマ何秒ってマリカ凄い上手いんだねー。 ニコニコ生放送というストリームサイトで、ネット対戦で日常的にレートカンスト(9999)に出来る人が、1時間以上も完走出来ずに解説しながら延々とリセットを繰り返し続けていた現場に居合わせた事がある。マリオカートのタイムアタック記録狙いは、普通の人間が普通にプレイしていては達成出来るタイムではない。けれども、問題はそこではない。 このteruyastarという人がマリカの神に愛されたマリカの天才で、世界一マリカの上手い、いや宇宙一銀河一マリカの上手いマリカの化身であったとしても、世界記録からコンマ何秒というタイムは絶対に達成不可能

  • サービス終了のお知らせ - NAVER まとめ

    サービス終了のお知らせ NAVERまとめは2020年9月30日をもちましてサービス終了いたしました。 約11年間、NAVERまとめをご利用・ご愛顧いただき誠にありがとうございました。

  • なぜわれわれは南京にこだわるのか――自己倫理の賭金としての南京―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    「こっそり南京アンケート - 「で、みちアキはどうするの?」」を読んで思ったことなど。 南京大虐殺があった/なかった、みたいな、自己の生活と直接的にかかわりのない*1問題について、真剣に論じる人たちというのは何か、ということをみちアキ氏が問うていたので、自分なりに考えてみると、すなわちそのような問題は、われわれにとって自らの倫理のあり方における賭金としてあるがゆえに真剣に論じられるのだという印象を抱いた。 南京大虐殺があった/なかったを問われるとき、それを「どうでもいい」と回避せず「あった」と主張する人は、そこをフックとする問題意識を抱いている。それは史実性をめぐる正確さやレスポンスビリティ、民族主義やレイシズム、あるいは愛国主義や自由主義史観、「歴史家論争」など多様な分野に広がっていく問いとしてある。そして究極的には「人間とは/自分とはいかなる倫理において生きるべきか」をむき出しにしてし

    なぜわれわれは南京にこだわるのか――自己倫理の賭金としての南京―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • ゼロ年代の想像力雑感――主体性とレイプファンタジーについて―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の提示した問題のフレームは確かに興味深いのだが、同時にさまざまな異論をあげたくなるような強引な部分が存在する。それについて、少しばかりメモしておきたい。 主体性の素朴な扱い 宇野常寛の議論にひとつだけ異を唱えろといわれたなら、迷わず彼の「主体」に対する執着をあげる。これは彼の議論の根幹である動員ゲーム論から、細部であるレイプファンタジー批判にまで応用できる。彼は主体が能動的決定者であるように単純化して取り扱うが、実際のところ、主体というのは「われあり」という根源的な部分と、それが世界と向き合うことで発生する「われかくあり」という倫理=表現的部分とに分かれる。そして人間は後者の主体性を生きている、といえる。 このような主体性は、世界と自己との関係性――すなわちコンテクストの中での暫定的なものでしかないにもかかわらず、再帰的に強化されていくという性質を持つ。これを宇

    ゼロ年代の想像力雑感――主体性とレイプファンタジーについて―― - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • オタクの女の子になりたい願望は性別を超える - 狐の王国

    なにげなくTwitterを見ていたら、タイムラインに以下のような発言が流れてきた。 桃井「男のオタクの人ってかわいい女の子と付き合いたいわけじゃなくて、可愛い女の子に自分がなりたいんですよ」「だから性別っていうのを超越した存在なんですよ、オタクって」 あああ、わかる、わかる、わかる。 http://twitter.com/tamagomago/status/307920044296392705 これはオタクとして非常によくわかる話で、一方同一の感情を持たない人にはさっぱり理解できないであろう。なので以下のような発言も見られた。 その”可愛い女の子”が、男である自分にとって都合のいい”理想化された女の子”であり、そしてその"理想像”が既存のジェンダーを無効化するどころかむしろ強化するようなものである以上、それは"性別を超越"するどころかむしろ固定化することにしかならんだろうに。 http:/

    オタクの女の子になりたい願望は性別を超える - 狐の王国
    lakehill
    lakehill 2013/03/04
    そうなんだ、じゃあ私生徒会行くね