2億3500万円。日本で初めて計上された原子炉築造予算の金額です。 ウラン235 1954年3月3日、中曽根康弘衆院議員(後の首相)らが中心となり、当時の保守3党(自由党、改進党、日本自由党)が突如、54年度政府予算案の修正案を衆院予算委員会に上程。翌4日には衆院通過を強行しました。 ビキニ水爆実験で第五福竜丸が「死の灰」を浴びた直後で、被ばくの事実が暴露される約2週間前でした。 2億3500万円という数字にどういう根拠があったのか。中曽根氏は、著書で「(核燃料となる)ウラン235の二三五ですよ(笑い)」(『天地有情 五十年の戦後政治を語る』1996年)と述べています。 当時、日本では原子力の研究体制さえなかった時代。日本初の原子力予算が何の根拠もなかったことを示しています。 こうした暴挙に、マスメディアや学界からは「札束で学者の頬をひっぱたくものだ」という批判が噴出しました。 なぜ中曽根