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ドラクエ3
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2018年03月16日19:23 by rekishireal 第7回 神社数の減少は、大正期から始まっていた カテゴリ神社の経済学 ◆明治時代、神社は20万社あった 現在、日本には、宗教法人あるいは宗教団体として登記されている神社がおよそ8万存在する。 では、明治時代には神社はいくつ存在したのであろうか。 明治14年(1881)には、日本全国に18万7357社が鎮座していた。これは、官国幣社、諸社(府県郷村社)に、無格社も加えた数字である(井上順孝『神道入門』)。 その後は、明治23年19万3242社、明治33年19万6358社と微増を続ける。 ところが、明治43年には13万7134社と急減し、10年後の大正9年(1920)には11万5506社とさらに減少、太平洋戦争中の昭和17年(1942)は10万9781社となっている。 ちなみに、この間、神職の人数はおおむね1万5000人前後で推
2018年01月10日18:30 by rekishireal <新連載>大河ドラマ『西郷どん』批評始まります! カテゴリ編集部からのお知らせ いつも歴史REAL Webをご覧いただきありがとうございます。 当ブログの大人気コンテンツ「大河ドラマ批評」ですが、 今年も新シリーズ放送開始にあわせ、 大河ドラマ『西郷どん』批評 連載がスタートいたします!! 更新頻度は週1回。書いてくださるのは、「花燃ゆ」の批評でもご執筆いただいた一坂太郎先生です! (先生の詳しいご経歴については次エントリにて) 連載開始に際して、一坂先生からコメントを頂戴しておりますので、 以下をご覧下さい。 大河ドラマ『西郷どん』批評を始めるにあたって 一坂太郎 もう、三年前になる。この歴史REALWEB上でNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の批評を書き始め、一年間連載した。その記事は現在でも見られるだろうから、ドラマについて重ね
2018年03月22日16:22 by rekishireal 第11回 斉彬暗殺 カテゴリ大河ドラマ『西郷どん』批評 バカ殿の慶喜 今回は、薩摩藩主島津斉彬の5男虎寿丸が5歳で他界したから、安政元年(1854)ころの話か。同年閏7月には、斉彬が健康を害している。悲しんだ庭方役の西郷吉之助は、斉彬の襲封に反対していたお由羅の呪いであると信じ、暗殺を企てたという。 この年、斉彬は洋式騎兵隊を創設したり、洋式大型軍艦や蒸気船の建造に着手したりと、軍備強化に忙しいはずだが、そういう部分はドラマでは描かれない。そのかわり、時期的に見て早すぎる気もする、将軍家の御家騒動がかなり盛り上がっている。 斉彬や越前藩主松平慶永などは、次期将軍に一橋慶喜を推す。 「一橋様にしか、難局は乗り切れない」などと絶賛しているが、なにがそこまで有能なのか、よくわからない。このドラマで描かれる慶喜は、品川の妓楼に入り浸
2016年04月28日10:39 by rekishireal 第13回 葛城氏とヤマト政権 カテゴリ「神話」からたどる古代史 葛城襲津彦とその権勢 前回は、ヤマト政権の発祥の地である狭義のヤマトと、奈良盆地で対照的な位置関係にある葛城(かつらぎ)地方について、その地域が武内宿禰(たけしうちのすくね)によってヤマト政権の支配地に組み込まれていった経緯について推測してみた。 そこでは、当初、葛城地域は武内宿禰の弟のウマシウチの統治下にあったが、武内宿禰は弟を倒して葛城地域をも手中におさめたのではないかと推測し、4世紀前半の巨大建物が発見されている奈良県御所市の秋津(あきつ)遺跡をウマシウチに関係するものとみなして、葛城地域が武内宿禰の支配下にはいった実年代を4世紀の末ごろと考えた。その後、この地の支配権を継承したのが武内宿禰の子どもである葛城襲津彦(そつひこ)、いわゆる葛城氏の祖となる人物で
2015年12月30日19:58 by rekishireal 第9回 出雲と『古事記』『日本書紀』 カテゴリ「神話」からたどる古代史 なぜ扱いが異なるのか 前回では出雲の神が垂仁(すいにん)天皇の皇子、ホムツワケ皇子に祟ったことから、その祟りの再発を防ぐため、ヤマト政権は広壮な出雲大社を造営し、国譲りやスサノヲの誕生にかんする神話を構成したことを論じた。 このホムツワケ皇子の物語は『古事記』にみえるが、『日本書紀』にはみえない。『古事記』と『日本書紀』の相違点はいくつかあるが、これもその一つである。また、大国主(おおくにぬし)命を主人公とする出雲の神話も同様である。つまり、『古事記』と『日本書紀』では出雲に対する扱いが異なっているのである。これはいったいどういうことであろうか。今回はこのことについて考えてみたい。 まず結論からいえば、私はこの問題は『古事記』と『日本書紀』の成立時期の違い
2015年08月05日14:42 by rekishireal 第5回 八咫烏の正体 カテゴリ「神話」からたどる古代史 神武の同行者たちのその後 前回まで神武東征を一般化して、弥生時代の九州から近畿地方への移住の一例として考えたが、ほかにもそのような事例は残されているのだろうか。 まず、神武伝説に沿って考えると、神武と同行した者たちの動向が気になる。神武一行にその出発段階から同行していたのは、『日本書紀』によれば、大来目部(おおくめべ)を率いていた大伴(おおとも)氏の遠祖という道臣(みちのおみ)があげられる。いっぽう『古事記』では、大伴氏の遠祖の道臣命と久米(くめ)氏の祖の大久米命が従ったとあり、同書には、神武が地元豪族の娘に求婚しようとした場面にも大久米命が出てきて、目元に入れ墨、つまりタトゥーをしていたという。『魏志』倭人伝にもみえる黥面(げいめん)という習俗である。 来目(久米)は神
2015年07月13日15:11 by rekishireal 第4回 神武東征(2)――史的考察の対象として カテゴリ「神話」からたどる古代史 弥生時代における集団移住の一例という視点 前回では、記紀がつたえる神武天皇の東征は、けっして特別なことではなく、九州の勢力が日本列島の東部に移動したという弥生時代にしばしば起こったできごとのひとつにすぎないことを指摘し、あわせて天孫降臨神話も、大王家に固有の特異な伝承ではないことを述べた。このように、私のスタンスは記紀が伝える大王家を中心とした伝承を特別なものとみるのではなく、一般化、相対化することで新しい古代史像が描けるのではないかという点にある。 したがって、神武東征は、大王家の起源を伝える伝説であるとともに、弥生時代における、やや後発の九州勢力の畿内侵入という史実を伝えているともいえ、そこからアメノヒボコを祖とする但馬(たじま)の豪族を除い
2015年06月01日12:58 by rekishireal 第3回 神武東征――伝説形成論から古代史のなかへ カテゴリ「神話」からたどる古代史 「箸墓以前」――初期ヤマト政権の動向 前回は、従来その実在が否定されている闕史(けっし)八代の天皇をとりあげて、文献上からかならずしも、実在を否定するべきではなく、そこから初期のヤマト政権のあり方を推測することができることを述べた。そこからは、奈良盆地の南東部に拠点を置く、局地的な勢力が周囲の同じような勢力と婚姻関係で結ばれている有様や、それがやがて力を増して、河内や紀伊、丹後の勢力と連携していくこともうかがえた。 このような文献上からの推測は、ヤマト政権の王宮と推定される奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡のあり方とも符合する。纏向遺跡は庄内式と布留(ふる)式というふたつの土器形式で表される時代にまたがって営まれているが、箸墓(はしはか)古墳は
2014年06月24日12:24 by rekishireal 第25回 「栄華の極み」をみる カテゴリ大河ドラマ『軍師官兵衛』批評 【1】はじめに 期待していたサッカー・ワールドカップでは、ここまで日本は1敗1引き分け。コロンビア戦では勝利が必須条件で、可能な限り点数を取らなくていけない(失点はしないように)。「軍師官兵衛」と同様にみんなで応援しよう。 ところで、今回は途中まで松寿丸が子役であったが、終わりのほうで元服して長政と名乗り、長政役の松坂桃李が登場した。おいらも20数年前は松坂桃李にそっくりだったのに・・・、などと原宿あたりで言ったりしたら、女子高生にボコボコにされるであろう・・・。きっと。 今回はタイトルのとおり、荒木村重(役・田中哲司)を破り、三木城を落城させたことも相俟って、栄耀栄華を満喫する官兵衛たちの姿が描かれていた。おまけに織田信長(役・江口洋介)が世界征服を口にす
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