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買ってよかったもの
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WEBデザイナーとして活躍される池田拓司さんの色鉛筆画と植物の展示です。 色鉛筆のやわらかいタッチで描かれた京都の名所や風景は、とても軽やかで涼しげな印象を与えます。立体感のある一枚一枚の絵を観ていると、ギャラリーにいながらにして京都めぐりをしているかのよう。 また今回の展示で特徴的となった植物が加わったことで、空間に小さな躍動感が生まれています。すっきりと使った空間に配置された植物たちが、絵画の合間に凛とした佇まいをしており、まるで寺院や神社を訪れた時のような静かな気持ちにさせられます。初日となる本日朝も、ギャラリーのベンチに腰掛けゆったりと時を過ごす方がみられたのもそのせいではないでしょうか。 現在東京にお住まいの出展者による「京都でしかできない」、インターネットとは違う期間限定の展示会。原画や空間を生でご体感ください。 会 期 :2010年8月17日(火)-8月23日(月) 時 間
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話題の『モテキ』三巻を読みすすめているうちに、表面的には似ても似つかない少女漫画作品を思い出し、引っ張り出して再読してしまいました。大島弓子の『バナナブレッドのプディング』です。ストーリーやテーマはもちろん、表面的にも全く異なった二つの作品に共通するものは自己と他者の間に鏡が存在するという関係性です。恋愛とは自己と他人の間に成り立つもの。では、そもそも他人とはなにか。当たり前のことですが、それは自分ではない人の事を指します。「自分でない人」をハッキリと象るためには、自分は何者であるか、が確立されていなければならない。つまり成熟した恋愛関係とはアイデンティティの確立なしには成り立たないのです。『バナナブレッドのプディング』の主人公、衣良は、自身成熟することを拒み、自己投影していた姉が結婚すること、つまり成熟した女性として変質してしまうことに対してひどく傷つき、自身も恋愛の真似事によって精神の
ヴァンパイア・ウィークエンドの新しいアルバムを聴きながらなんとなく歌詞を読んでいると、こんなフレーズが出てきてびっくりしました。"SHE'D NEVER SEEN THE WORD BOMB SHE'D NEVER SEEN THE WORD BOMB BLOWN UP TO 96 POINT FUTURA" 僕の持っているのは輸入盤なので、注釈、解説や正確な歌詞対訳が付いていないためはっきりとしたことはわかりませんが、ここで歌われる"FUTURA"(フーツラ)というのは文脈上、バウハウスで好んで使用されたことでも知られ、今現在も様々な所で目にすることが出来る、定番のフォントのことです。少し前までIKEAがイメージフォントとして広範囲に使用していたといえばイメージが湧くのではないでしょうか。このアルバムや前作のジャケットにも使用されている字間が広くとられたアルバム名やバンド名のフォントもそ
それは、漫画というストーリーテリングのスタイル自体、小説はもちろん映画や他の表現手段に比べ新しいものであったこと、そして風刺漫画を除いた現代漫画の出発点の読者が子ども達であったことに対するコンプレックスに由来しているのではないでしょうか。現代漫画の潮流を気付いた手塚治虫は映画というメディアへの憧れを隠しませんでした。編集者や同業者への私信が登場するというのはそこに「大人」の存在を匂わすことでもあります。要するにそのことで漫画は何を目指したかというと、「物語るメディアとしての次数を高める」ということだったにちがいありません。劇画の誕生や、メタ漫画の発生もそのことと無関係ではないはずです。作者より目下である読者に対して、より高次元のものを提示する見栄、もしくは別の読者に評価されたいという作家性が漫画にもたらしたもののひとつがメタ手法だったのではないでしょうか。バクマンも当然そのようなもののひと
先日のマンガミュージアムでのトークイベント『あなたの知らない少年漫画の世界』では、大先輩の大西さんにおまかせしっぱなしでろくにお話が出来てなかったので、その際に触れたかったけど触れられなかった『バクマン』の話をここで。僕が少年漫画誌を購入しはじめたきっかけは、当時メディアミックスと呼ばれたアニメや玩具と合わせた展開で大ブレイクしていた『キン肉マン』でした。『キン肉マン』読みたさに「ジャンプ」を購入してみれば、『ドラゴンボール』や『魁!男塾』、『聖闘士星矢』などの特大ヒット漫画が次々にスタートし、周りを見渡すと同世代の誰もがジャンプを読んでいるかのような錯覚まで覚えるほどの購読率。丁度「ジャンプ」が独走状態に入り、売り上げ500万部を突破する間近の頃でした。入り口となった『キン肉マン』は終了したもののそんなことは忘れてしまったかのようにして購読を続けていたある日、ゆでたまご待望の新連載がスタ
ボブ・ギル展本日より始まりました。貴重な絶版絵本はほぼ網羅している他、「フレッチャー/フォーブス/ギル」時代のなかなかお目にかかれない私家版までずらりと並ぶ様は壮観です。会場の入り口に掲示している本人によるステートメントが素晴らしいのでこちらで全文ご紹介いたします。彼のデザイン哲学がよく伝わる内容です。グラフィックデザインを見ている人というのは、CGを駆使したハリウッドの最新映画や、目がくらむほどの特殊効果を使った流行のミュージックビデオを見ている人と同じ人たちなのです。どうやってグラフィックデザイナーはこのような魔術と渡り合うことができるのでしょうか。私たちはテクノロジーも予算も時間もありません。もし私たちの作品に注目してほしければ、まったく逆の手段をとらなくてはなりません。つまり、リアリティにうったえなければいけないわけです。現実の世界を注意深く観察して、「見てください。こんな身近にあ
一台しかないターンテーブルをミニ・コンポに繋ぎ、一曲再生するたびに一時停止ボタンを押す。ボヤボヤしているうちに次の曲の頭が入ってしまい慌てて巻き戻してやり直し。曲間はなるべく縮めてスムースに繋がるように工夫する。そうこうするうち、テープの収録時間74分を軽く超えて完成した作品のために手書きのインデックスを作成する。曲名、アーティスト名だけでなく、それに関するちょっとした知識や、自分の思い入れ、どんな事を歌った曲なのかまで書き添える。なんのためにそんな面倒な事をするのかといえば、もちろんあげるため。友達同士ならそんな回りくどいことしなくても、自分の家に招いてコレクションを一緒に聴いて蘊蓄をたれたり、感想を話し合えばいい。でも意中の異性に対して自分がどんな人間であなたのことをどう思っているかを伝えるには念のこもった編集テープしかない、自分もそんな考えを持った人間の一人でした。この本のタイトルの
先日のニュースによると、米司法局が連邦裁判所に対してGoogleブックサービスの和解案を承認すべきではないとの助言をしたそうです。これによって10月の承認審理にどれくらいの影響があるのかはわかりませんが、少なくともGoogleのやり方が独占禁止法などに抵触するという考え方がより浸透しそうです。これまでに新聞や雑誌などでGoogleブックサービス関連の記事をいくつも目にして来て、いつも何かしらの違和感を抱いていたのですが、先日出版されたわかりやすく流れをまとめた『グーグルが本を殺す』*1を読んでみて、この本自体に対して感じた違和感を含め、書店の立場として色々と考えてみました。まず、世界中の本をデータ化し、誰しもが平等に閲覧できるシステムを作り上げるというGoogleの理想自体を否定する理由は見当たりません。国会図書館だって誰しもが情報にアクセスできる国内出版物の巨大なアーカイブを目指している
写真家ホンマタカシによるはじめての写真論が刊行されました。ホンマタカシといえば言うまでもなく世界的な評価を浴びる、日本を代表するコンテンポラリー・フォトグラファーの一人であり、その写真集は常にアートブック市場からも注目され、どの写真集も絶版を待たずしてコレクタブルな扱いを受けているぐらいです。世界的な日本人写真家による写真論といえば、森山大道の『犬の記憶』や中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』、篠山紀信と中平卓馬の『決闘的写真論』などが有名ですが、この本はそれらのどれとも出自が異なるというかまったくもって異色な写真論です。写真という言葉の解釈から始まり、カメラ・オブスキュアの発明より始まる写真史の解説、自身の作品も引き合いに出しながらのワークショップ編までが挿入される、ものすごくスタンダードな写真入門なのに、異色に感じるのは、これまでに以下に写真がアカデミズムの言語体系で語られてきたかということ
真っ白な表紙に「30年間ありがとうございました。」のひと言。本日発売の号を持って雑誌『広告批評』がその歴史に幕を下ろします。売上だとか広告収入だとか内情は知りませんが、要するにこの休刊はインターネット広告に対して、我々のメディアはフォロー出来ませんよ、といった宣言をしているにも等しいことでしょう。批評すべき対象が広告全てであるならば「広告批評というコンセプトの雑誌」そのものはなくなりません。『広告批評』という雑誌がなくなる、のとは別の次元の話で、です。しかしこの休刊には「広告批評というコンセプトの雑誌」そのものがなくなったに近い印象を受けます。つまり、月刊ペースで本屋さんに並ぶ雑誌が批評できていたのはあくまでテレビや新聞などの紙媒体など、生活の中に自ずと侵入してくるマス・メディア上の広告であり、ユーザーの嗜好によって取捨選択されるターゲットが絞り込まれたインターネット広告とは違った、という
「ミニコミ」が「リトルプレス」と呼ばれ始めて随分と時間が経ちますが、その定義は未だはっきりしないままです。当店でも何度か「ミニコミ」や「タウン誌」をテーマにした新聞記事のご取材等をお受けしたことがあるのですが、その度に問題になるのが「ミニコミ」「同人誌」「リトルプレス」の使い分けです。新聞記事となると細かいニュアンスの違いも、きっちりと使い分けを要されるようで、いつも説明に困ってしまいます。要するに重なる面積の大きい3つの円形のようなイメージでしょうか。少部数雑誌を指す「ミニコミ」の場合、伝えたい内容に比重が大きく、拙いながらも個人が発信するメディア、「同人誌」はミニコミとほぼ同様ながら同人によって協力発行されているもの、そして日本語英語である「リトルプレス」は、DTP普及以降、規模は小さいながらもメジャーに近い体裁のものが個人もしくは小さな集団レベルで発行出来るようになったあとのミニコミ
昨日発売の号をもってエルマガジンが休刊します。最終号には色々なところで取り上げて頂き、出しゃばりみたいで恥ずかしいのですが、これまで様々な形でお世話になった雑誌へのせめてもの恩返しのつもりで原稿も取材も引き受けさせていただきました。左京区特集など当店を大きく取り上げていただいていた号など、オンラインサイトでもご紹介したり、バックナンバーになっても常備、追加注文していたのでわかるのですが、早い段階での完売号も多く、雑誌自体の売れ行きが低迷していたというわけではなさそうです。それでは、何故休刊なのかと考えるとやはり広告収入の減少が最大要因なのではないでしょうか。音楽やカルチャーなどに特化した誌面に出稿してくれる企業は、業界の不振やネット媒体での広告展開の影響もあり少なくなる一方だったのでしょう。いわゆる「ぴあ」のような、ライブ、劇場などのスケジュール、データベースをメインとしたものや、「ウォー
3年前、旅行で高知に遊びに行った時の話。一度是非見てみたかった「沢田マンション」に、アポなしでお邪魔してみました。「沢マン」の愛称でも親しまれるその集合住宅は、今や観光名所にもなりつつあるのではないかというようなユニークかつ大胆な外観で有名な、ある意味絶景スポットなのです。 地下1階、地上6階建てのこのマンションはもともと(建築家ではない)オーナーの沢田さんご夫婦が、2人で完全に手づくりで建設してしまったという嘘みたいな建物です。S造の頑丈なつくり、コンクリートを流しならして固めて、壁紙を張り、畳を敷いて・・というような工務店的作業を素人の奥様と二人でやってしまったというのだから驚きです。そして増改築を繰り返しながら、いま現在も建設途中なのだそう。高知に日本のサグラダ・ファミリアあり、といったところです。 当時私は建築設計事務所に勤務していましたが、同僚の設計担当の先輩方は口を揃えて「あの
最終日前日に滑り込みで、滋賀県立近代美術館にて開催されたブルーノ・ムナーリ展を観てきました。以前、当店内ギャラリー・アンフェールでも"Edizioni per Bambini"シリーズを中心とした小規模なムナーリ展は開催しており、他でもムナーリの展示は観たことがあったのですが、さすがに今回のような大規模でその全体像を展望出来るのは今回が初めて。『夜の闇に』や『霧の中のサーカス』などの定番絵本もきちんと各国版、出版年違いで並べてあったり、福田繁雄の私家版が関連づけできちんと展示してあったり、ムナーリが装幀を手掛けただけのペーパーバックなどもかなりの範囲でフォローしていて、個人的にはブック・コンシャスなキュレーションに反応。展示出口直前で上映されていたムナーリのオフィスを尋ねるドキュメンタリー・ビデオの中に、カラフルな和紙を使った折り紙の鶴を発見しました。ムナーリは柳宗理より折り紙をプレゼント
『マイ国家』星新一『家族八景』筒井康隆『飢餓同盟』安部公房『みずうみ』川端康成『三四郎』夏目漱石『グッドバイ』太宰治『どくとるマンボウ青春記』北杜夫『百鬼園随筆集1,2』内田百けん『納屋を焼く』村上春樹『美しい星』三島由紀夫『放浪記』林芙美子『芝生の復讐 』リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』リチャード・ブローティガン 『赤毛のアン―赤毛のアン・シリーズ1―』モンゴメリ『アンの青春―赤毛のアン・シリーズ2―』モンゴメリ『ロリータ』ウラジミール・ナボコフ『小鳥たち』アナイス・ニン『地下街の人びと』ジャック・ケルアック『フラニーとゾーイー』 J・D・サリンジャー『かわいい女・犬を連れた奥さん』チェーホフ『アシモフの雑学コレクション』アイザック・アシモフ『ザ・フィフティーズ―1950年代アメリカの光と影―第1部』デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ―1950年代アメリカの光
ブローティガンの小説には何故かよく墓場が登場します。同じくコーヒーを飲むシーンも何度も描かれるのですが、この短編集の中には「墓のような一杯のコーヒー」という表現が登場するので驚きました。訳者、藤本和子さんのあとがきによれば、それはブローティガンの口癖であったようで、例えばあまりにもまずい酒等の飲み物を口にした際に、「墓場を飲んでいるようなものだ」と表現したのを直接耳にしたことがあるそうです。ブローティガンの比喩やレトリックは、他の文学者や詩人のそれと少し違うように感じることがあります。例えば前述のエピソードで言えば、「墓場を飲んでいるように悲惨な味がした」という表現であれば考えられるかもしれません。「そのコーヒーは墓を飲んでいるように味気なかった」なんていうのもあるでしょう。それらは全て、飲んでいる主体自身がコーヒーやその他の飲み物を墓、もしくは墓場のように感じ、例えているのです。しかしブ
ブルーノ・ムナーリがダネーゼ社に遺した偉大な知育玩具の一部がこの度めでたく復刻されました。当時、"EDIZIONI PER BAMBINI"シリーズとして発売された、"+ e -"(『つけたりとったり』)、と"ABC con fantasia"(『ABCであそぼう』)の2タイトルです。2001年にダネーゼがメーカーとして活動を再開し、コライーニ出版が貴重な絵本の数々を復刻しだしたのと同時にブルーノ・ムナーリの日本での再評価、若い世代への認知度は飛躍的に高まりました。そのきっかけがムナーリのデザイナーとしての側面であったためでしょうか、彼の数多い作品の中でも絵本や知育玩具は比較的当店でもよく売れた記憶があります。ところがムナーリの玩具はモノとして非常に魅力的に設計されているのですが、実用にはちょっとどうか、そんな気がしていたのも事実です。そこらの玩具に比べて多少高額であるとかそういった即物的
ライブ嫌いの自分が唯一知人の話を嫉妬しながら聞いたツアーの模様がようやくDVD化。すぐさま購入し、正座して観ました。現在はすでにこの次の段階である"ULTIMATE SENSUOUS SYNCHRONIZED SHOW"がスタートしていますが、ようやく前のツアーに追いついたという感じ。演奏と映像が完全にシンクロしている様を体感した多くの人は、「映像が演奏に同期している」と感じるはずでしょう。しかし、実はドラマーがクリック音を聴きながらそれに合わせてリズムを叩いているというタネがあり、「演奏を映像に同期させている」というのが本当。そこで、ああそう、で済ませることは簡単ですが、自分は、そのあまりにもプリミティブな発想の転換にこそ、現代美術が本来持っていたはずのダイナミックなエッセンスを感じてしまうのです。つい先日も書いたように、共通言語が通じない人にはまったく届かない現代美術というフィールドの
話題書ということで芸大生と思わしき若いお客さんに何度か尋ねられたこともあり、どんなものかと読んでみました。長年「アーティスト」として活動を続けてきた著者がそれを廃業し、業界やアート言語の外から「アーティスト」や、「一般」の人間が持つアートに対するパブリック・イメージについて論じた内容。そもそもこういった内容の著作が新鮮さや驚きと共に受け入れられること自体、すでに現代アートやファインアートなるものがいかに外からは無視された閉じられたジャンルであるかということを意味しています。外側の人々が閉じられた業界に興味を失うに連れ「アート」や「アーティスト」という言葉の意味はどんどん本来の意味から乖離していき、内容空疎なプラスチック・ワードへと変質して言ったのです。鶴ちゃんやフミヤートはそんなぼんやりしたパブリック・イメージとしてのアートを煎じ詰めたステレオタイプの代表ともいえるでしょう。そんな存在を、
全ては引っ越しの時に誰もが直面するシンプルな疑問から始まります。「これは今後の生活に必要なものだろうか、この本をもう一度読み返す事はあるのだろうか」。それはある種哲学的な思索にまで発展してゆき、自分自身と自分が所有しているものの関係をもう一度見つめ直すまでに至ります。本書に羅列されている約2600点のモノのオーナーはチューリッヒ出身、ロンドンのセント・マーチンを卒業した女の子、ガブリエラ。彼女は自身の持ち物を全て撮影し、1ページ30点ずつ掲載この本にまとめました。果たして2600点という所有物の数が多いのか少ないのかはわかりません。人によってはレコードや書籍などのコレクションだけで数千点に上るという方も少なくはないでしょう。唯一ついえることは、この世に存在する無限ともいえる生産品の中から数千点を選択する、そのパターンはさらに無限ともいえるほど考えられるわけであり、これらの"My Thing
ここ数年ですっかり恒例となった『このマンガを読め!』の2008年度版が店頭に並びました。自分もアンケートに回答し、投票するというかたちで参加させていただいたのですが原稿を書く際にとんでもない間違いをしでかしてしまいました。今年のベスト漫画を5点選出し、それについて総数400文字でコメントすべきところを、各400文字、計2000字で書き上げてしまったのです。あわてて400文字にまとめたのですが、2000字の原稿が無駄になるのがつらいので、ここに掲載させていただきます。すっかりマンガを読まなくなってしまったので、ベスト5というよりも唯一楽しみにして連載を読んでいた、もしくは単行本を発売と同時に購入した5本ということになります。今年はこの本を参考に、もう少しリアルタイムで漫画も追いかけてみようかなという気になりました。 1.『盆堀さん』いましろたかし実はそれほど熱心ないましろ読者ではなかったのだ
最後にフランクフルトのブックメッセに足を運んだのはおそらく2004年の秋のことだったと思います。それから三年間、取引先の皆さんから、中国人が増えただの、ますますホテルがとりにくいだの話は聞いていたものの、出版という文化そのものの変化に連れ会場の一部ではざわざわと異変が起こっていたことは耳にはしませんでしたが、実情を想像するに難くはありません。googleが6年間で1500万冊の書籍をデータ化し、オンライン上で誰もが閲覧できるようにすると発表したのが、僕が最後にフランクフルトを訪れた直後、2004年の11月だったからです。この本の著者はつい数ヶ月前までフランス国立図書館の館長だった人間です。彼が指摘するgoogleプリントの脅威と問題点は明快です。アメリカ資本であるgoogleの書籍選択による必然的なアングロサクソン文化優先。当然英語のものが主体となり、必然的に英語で記された書物が文化的スタ
いよいよ明後日は「セイカミュージックセミナー」です。聴講者の中心であろう大学生を想定して、データで音楽を聴くこととソフトとして音楽を所有することの違いを、主にオールドメディア世代の視点から話せればと考えております。資料やレコードをいろいろと引っ張り出しながら何について言及すべきか思案した結果、一時間半の講義で自分が触れるべきことは戦後、モダンジャズ以降のジャケット・デザインからスタートするということに。勿論ブルー・ノートにおけるリード・マイルスの仕事、デヴィッド・ストーン・マーチンに憧れたプレポップ・ウォーホルが手がけたジャケット・デザイン、そしてビートルズとストーンズ、ヒプノシスは相方の松本さんに任せるとして、ピーター・サヴィルにソニック・ユース。あとはライブラリー・ミュージックなど。かなり大雑把ながら自分なりに時系列で好きなジャケットを並べていくとやはり、音楽ソフトはポップ・アートとの
〈恵文社一乗寺店スタッフ日記〉は下記アドレスへ移転いたしました。今後はこちらで更新いたしますので、ブックマークの変更等よろしくお願いいたします。 http://keibunsha2.hatenablog.com/ (池田)
そういえば半年程前からVICE MAGAZINEが送られてくるようになりました。フリーのものなので発行日がいつかははっきりと把握しておりませんが、毎号確実に2〜3日、週末に届いた号なんかは即日なくなってしまうことも少なくありません。前号なんかはテリー・リチャードソンの作品がしっかり掲載された写真特集で、時には保存に値する内容のものもあります。特徴としては、ストリート・ファッションや、カルチャーを扱いながらもポリティカルな傾向が色濃く、フリーだからか歯に衣着せない表現を多用しているところ。ディスク・レビューのキャプションなんか、批判はおろか、まともな批評ですら目にすることの少ない他の音楽メディアとは比べ物にならない面白さなのですが、かなり個人的なバイアスの下に書き殴られている印象があるのはよくも悪くもタダだから?金払ってでも読みたくなるような溜飲の下がる悪口、っていうのも最近ではあまり見かけ
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