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若気のいたり 幸伸丸に乗船してから、1年が過ぎようとしていた。 血の気が多く、若い連中が乗り合うマグロ漁船は楽しかった。 楽しい日々の中で、僕は僕自身を知らないうちに取り戻していた。 航海の操業が終わり、入港した時の話し。 ごく稀にだが、入港地で親友の乗ったマグロ漁船と 同時に入港することがある。 1991年 春 幸伸丸は、宮城県の塩釜港に入港した。 船は岸壁に着岸し、水揚げの準備をしている時 「ケイジ!」と、岸壁から僕を呼ぶ声がした。 岸壁を見ると、久しぶりの顔が3人あった。 幼馴染みで、中学生の時毎晩のようにバカなことをして遊んだ タイジ、シンイチ、マサカズの三人が、ニコニコとした顔で僕を見ていた。 3人共、中学を卒業するとすぐにマグロ船の漁師になった。 僕が高校生の頃、一人一人とは会って遊んだことはあったが 4人が揃うのは、6〜7年振りだった。 「おおー!久しぶりだなぁー!」と僕は3
再出港 船舶火災事故は、僕の家族に深い後遺症を残した。 船の船頭でもあった父親は 事故から生還して以来、心を塞ぎ全く喋らなくなった。 ある日の食事中、母は父に向って言った。 「海を見る度に辛くなるんでしょ?一度、海から離れてみたら?」 父は精神疾患の人が保養する事の出来る、療養所に入所することになった。 この頃の事はあまり覚えていない。 これからどうなるんだろう? 祖父や父が守り、受け継いで来たマグロ漁船とい稼業が 無くなってしまった・・・ それだけ、考えていた。 淡い記憶にあるのは、隣町の市街から離れた山の中腹にある 父の入所している、保養所の真っ白い壁と塞ぎ込み丸くなった 父の背中。 僕は、マグロ船に乗ることが定められた家に生まれ育った。 高校3年の時、就職面接講習も一般教養の授業も受ける必要がなかった。 同級生が面接講習を受けている時、一人校舎の屋上でラジオを聞きながら タバコをふか
帰還 12月24日の夜、帰郷した。 実家に帰り居間に行くと、僕の顔を見た祖母が僕に抱きついてきた。 「お婆に顔を見せておくれ」と、泣きながら僕の顔撫でた。 いろいろ事情があり、詳しくは書けないが “生きて帰ってこれた”と実感できるには、少し時間が必要だった。 翌朝早くに、父と二人で海上保安庁に出頭し調書をとられたり 船員保険組合への事情説明に行った。 僕の故郷は、半島の先端に位置する小さな島だ。 町に行くには、小さなフェリーに乗り渡らなければならない。 海上保安庁の担当官は、同じ海に生きる男として話しを聞いてくれた。 「よくご無事でもどられましたね」と言ってくれた。 しかし、船員保険組合は違った。 容疑者の様な扱いには、本当に驚いた。 “放火した可能性が高いんじゃないのか?” “保険金目的とかじゃないの?” 容赦のない質問が浴びせられる。 その都度父は激怒し反論した。 「どこのバカが太平洋
生還 新栄丸に助け上げられてからのしばらくの間、ほとんど記憶がない。 覚えているのは「生きてるだけで、丸儲け」と思ったこと。 少し意識を失っていたような気もする。 とにかく寒かった。 唇がガタガタ震え身体には全く力が入らない。 体が硬直して、関節を曲げることができない。 喋ることもままならなかった。 新栄丸の船員が僕の身体を毛布で覆ってくれて その上から僕の身体を暖めようと、さすってくれていた。 「ありがとう」と言おうとしたが、口がまわらず 「は ひ は ほ う」と言ったは覚えている。 その「はひはほう」が自分でおかしくて、笑ってしまった時に 「ああ、助かったんだ」と実感した。 「大丈夫か!?しっかりしろ!!」と、新栄丸の船員が声をかけてくれている。 その船員の手の暖かさが、毛布越しに伝わってきた。 震えが少し収まると、急激な喉の渇きを覚えた。 「み・・・ず・・・」と震えながら伝えると、そ
暗闇の叫び 暗闇の中に光った何かは、一瞬キラリと光ったが すぐに見えなくなった。 光が見えた瞬間、何人かは「あ!!船か!?」と、声を上げたが 見えなくなった途端に「星か何かが光ったのか・・・」と、落胆した。 光るものが無い太平洋上で、想像もつかない程の閃光を放ちながら 落ちてくる流れ星を、何度か見たことがある。 燃えながら遠ざかる船を見つめ、海を漂っているだけだった。 1時間程経った頃だろうか。 船員は皆、徐々に平静を取り戻しいるように見えた。 普段通りの船上で交わされるような会話を、誰からともなく話し始めた。 「おい、今度帰ったら何する?」 「俺、帰ったら子供を遊園地に連れていく約束してるんだ」 「新しく買った車が届いてるから、ドライブするんだ」 「帰ったら正月だな、正月の休みが一番いいな。静かでゆっくりできてよ」 「正月か!お年玉に金かかるなぁ〜」 その話しを聞きながら、皆の気持ちを感
祖父 1989年8月の終わり、漁を終え故郷の港に帰港した。 故郷の港に接岸する時に、陸に向かって投げる縄を「一番綱」と呼んでいた。 一番綱を陸で受け取るのは、必ず祖父だった。 そして、その一番綱を岸壁で待つ祖父に向かって投げるのが僕の役目だった。 しかし、その時は違った。 岸壁に立っているのは祖父ではなく、親戚の伯父だった。 船は接岸を終え、各船員は子供へのおみあげや自分が使っていた布団等の 荷物を陸揚げしていた。 それを迎えに来ている家族が受けとり、リヤカーに積み込む。 荷物の陸揚げを終えた船員は、家族と共に帰宅の途につく。 当時、僕は冷凍長と共に機関長補佐も兼務していたため 全船員が荷揚げを終え下船した後に、全機関を停止し 全ての弁が閉まっているのを確認してから、下船し帰宅する。 機関長が「慶次、あとは任せたぞ」と僕に言い、船から陸に上がった。 僕は「はい」と言って、全ての船員が下船す
初の外地滞在 フィリピン人船員のレンドンとエディーと僕の三人は 他の日本人船員が日本へ帰国している間、グァム島でマグロ船の留守番をすることになった。 入港中といえども機関長補佐(見習い)の僕は、機関長から指示された 仕事を、機関長が船にもどるまでに完了させなければならないという ミッションを帯びていた。 そこでレンドンとエディーと話しい、入港中といえども 毎日起床時間と作業内容を決め、仕事をすることにした。 朝食は僕が作り、6時に起床ベルで二人を起こす。 二人の朝食が終わり次第、僕が二人に作業内容の説明と指示をして 僕は機関室に入り自分に与えられた、作業をこなす。 正午を終業時間にした。 終業を迎えると三人で、コマーシャルポートのゲートの外の駐車場に来ている キッチンカーでランチを買って食べ、その後シャワーを浴びて自由時間。 自由時間と言っても、フィリピン人船員にとってはどこかに遊びに行く
ライバル 高校を卒業しマグロ漁船に乗ってから1年半が過ぎた19歳の11月頃 自分でも気が使いないうちに、誰からも指示をされなくなっていた。 逆に、船員に指示を出し、指示を仰がれるようになっていた。 僕のその成長には、4歳年上の兄の存在が常にあった。 子供のころから兄は病弱で、背骨のゆがみからくる体調の異常に加え 小児ぜんそくがひどく、学校に行けない日も多かった。 まだ医療が発達していないことと、環境が信号も無く車も走っていない 小さな島だったこともあり、情報が限りなく少なかったのだろう。 兄の病が僕に移るかもしれないと、僕は祖父母の家に預けられて育った。 兄は、マグロ漁船を生業としてきた家系に生まれた長男だったが 幼少の頃、病弱が故に漁師になることは無理だと言われていた。 しかし、親族は反対したが兄はマグロ船に乗った。 蛙の子は蛙。 僕が初めてマグロ船に乗った頃には、すでにバリバリの一人前
船員不足 僕の乗っていたマグロ船は、船員を4人失った。 一人は亡くなり、三人は船を去った。 事故を起こしてしまった船は、忌み嫌われる。 それが死亡事故ともなれば、尚更のこと。 “板子一枚、地獄の底” 抗うことのできない大自然が相手、すがることも頼る場所もない大海原が職場。 何かことが起これば、残された者は祈るしか方法が無い。 前時代的と言われようと、愛する者が危機に瀕している時、神にすがり祈るしかないのだ。 残った船員は4名。 59t型のマグロはえ縄漁船には、最低でもベテラン船員8人が必要だ。 7人で出漁する船も稀にあるが、船員1人に掛る負担は相当なものだ。 人の死に直面し、あらためて命の儚さと尊さを知った。 しかし、悲しんでばかりしてはいられないことも事実だった。 漁に出ない漁師は、無職と同じ。 それに前を向かなければ、人は生きて行くことはできない。 しかし、一向に船員が集まらない。 そ
失意の海 上原さんという、先輩がいた。年齢は当時38歳。 今の僕より、若い事になる。 色黒で、身長が高く、ガッシリした体系の優しい海の男だった。 結婚はしていなかった。 僕が初めてマグロ船に乗った時から、一年以上苦楽を共にしてきた仲間だ。 上原さんは凄く優しい人だった、寡黙で声を荒げることも、怒ることも無かった。 それどころか 「あれだけ怒られ殴られたら、誰でも弱音吐くのに。お前は一切弱音を吐かない、大したもんだ」 「初めてマグロ船に乗ったとは思えないな!型ができてて、即戦力だ。」と 僕の初航海の時、ただ一人、僕の事を褒めてくれた。 しかし、上原さんには一つ欠点があった。 大酒飲みなのだ。 酒を飲んで酔っ払ったからと言って、暴れたりすることはない。 酔いに揺られているのが、好きな様に見えた。 とにかく酒が大好きで、コーヒーでも飲むかのように上写真のウィスキーを飲んでいた。 漁師に大酒飲みは
新人現る! 次の航海に出る当日の正午頃。 帰郷した日から数えて約1週間振りに、実家に帰った。 僕の顔を見た母親は一言「あら、見慣れない人がいる」と言った。 故郷に帰っても、帰って来た当日から実家に帰ることは無かった。 兄は、大して気にならないのだが。 船頭である父親と、顔を合せて同じ食卓につくのが、どうもギコチナイ。 親子でありながら、家の中でも船頭と船員なのだ。 一緒にいるのが、どうも・・・・。 船頭と船員の関係は、その後数十年続いた。 5年程前、生まれて初めて父親と二人っきりで食事をした。 父が、貨物船の船長として東京に来た時だ。 「飯食べるだろ?まったく!家に寄り付きもしないで遊び呆けて」 と、母親は小言を言っていた。 居間に行くと、船頭と初めて見る男の人が座って食事をしていた。 船頭が 「この航海から、うちの船に乗る吉田まさる君だ」とその男の人を、僕に紹介した。 「この人、俺より年
クリスマスタイムインブルー ミッドウェー沖から宮城県塩竃市に入港し、そのまま出港。 金華山沖で、「海の黒いダイヤ」を追う日々が続いた。 12月24日、クリスマスイブの日の荒れた海は、20年以上経った今でも 鮮明に記憶に残っている。 日本近海を操業するときの投縄と揚げ縄の開始時間は、南方海域と違う。 夜の訪れが早いため、マグロの釣れる時間帯も違うのだ。 投縄開始時間5時、終了時間9時半 揚げ縄開始時間12時30分、終了時間10時30分頃。 12月初旬〜3月初旬まで、日本近海の漁は続く。 冬型の西高東低の気圧配置が、バッチリ日本列島を覆う冬本番の時期と重なる。 そのため、海が凪の日は1日も無いと言っていい。 操業の揚げ縄中、ブリッジの上に設置された拡声器からは常に音楽が流れていた。 その頃には、まだ乗船1年生ながら、飯炊き兼冷凍長としてキッチリと仕事をこなしていたこともあり 先輩達にも徐々にも
魔の海域 季節は10月 本マグロ(クロマグロ)が黒潮の海流と共に、金華山沖にやってくる時期だ。 金華山とは、宮城県石巻市、牡鹿半島の先端の太平洋上に浮かぶ島のことである。 島全体が黄金山神社の神域となっており、地場の信仰の対象として有名な土地だ。 僕の乗った船は、和歌山県那智勝浦町を出港し、一路金華山沖を目指した。 近海操業になるため、出港した翌日にすぐに操業のスタンバイをする。 いつ縄をはえても良い、準備をしておくのだ。 目指すは「海の黒いダイヤ」と呼ばれる本マグロのいる海だ。 南方海域に比べ、10月の三陸沖は少し肌寒い。 気候も全く違う、まず湿気が違う。肌にまとわりつくような、空気の重さも感じない。 陸から直線距離にして20〜40マイル程しか離れていないため、風にのって土の香りがする。 そして、波の形と威力だ。 南方海域の波の形を表現すると、波の幅が狭く尖っている。 低気圧の中に入り、
幻想の海 お盆休みが明けて、出港して数分後 船頭がブリッジに来るようにと、大河さんが僕に告げた。 「なんだろう?」と思いブリッジに向かった。 ブリッジに入ると、兄である冷凍長と船頭がいた。 兄の左手には、まだ包帯が巻かれてあった。 前の航海の時の怪我が原因だ。 精密検査の結果、障害は出ないであろうが、リハビリは必要らしい。 左手が思うように動かないようだ。 船頭が「慶次、お前この航海冷凍長しろ。飯炊きを兄貴と交代だ」と言われた。 へっ!?僕、まだ乗船半年ですけど…。 マグロ船は、乗船3年で一人前と言われ、3年目に冷凍長になるケースが多い。 早い人でも2年からが普通だろう。 「俺、できないよ!」と言いそうになったが、言うのを辞めた。 船頭と冷凍長が話し合った結果、僕なら出来ると判断したのだ。 断る理由も、ビビる必要もない! 「わかった」と答えた。 兄は、飯炊きを経験しているので、それについて
船には病院がないんです! まだ乗船は歴短いが、とても指導熱心な諸先輩方のおかげで ある程度の仕事は、こなせるほどに成長していたと思う。 2航海目は初航海に比べて、あまり殴られ蹴られ 怒鳴られることも無かった。 3航海目は2航海目よりも、褒められることが多くなったし 頼まれることが多くなった。 その頃には父親の事を「船頭」と呼ぶことにも、兄のことを「冷凍長」と呼ぶことにも 何の違和感も感じなくなっていた。 操業も20回を超え、そろそろ満船に近づいていたある日。 夜食を済ませ、揚げ終わりまであと2時間程度という時。 その日は、潮流が悪く、幹縄と枝縄が団子状態になって 巻き上がってくる事が数回あった。 そのため揚げ縄の時間も、通常より押していた。 サイドローラーにいる兄である「冷凍長」が軽快なリズムで 幹縄と枝縄が繋がったスナップを、パシッ!パシッ!と外していた。 僕はその後ろで、枝縄をブランリ
マグロは満タン 船は日本に針路を向け走っていた。 全ての魚倉には、キハダマグロ、メバチマグロや カジキマグロが入っている。 太平洋南方海域の魚場で、日本で本マグロと呼ばれる クロマグロは獲れない。 極々稀に、南クロマグロが獲れることはあるが 僕が乗船した10年間で1度だけだった。 マグロ積載総トン数約30〜35t。 操業が終わった翌日は、当直以外は全休。 全船員は、泥のように眠る。 何度も言うようだが・・・・ しつこいのは承知だが・・・ 僕はマグロ漁船一年生の、飯炊きボウズだ。 他の船員が寝ていようとも、食事を作らなければならない。 だが、他の一般船員が24時間のうち、2時間の当直を二回 行うのに対して、僕は18〜20時の定時当直の一度だけ。 一日18時間以上の肉体労働が続く操業中は、寝台に入り 歌を聞きながら寝ようと、ウォークマンの再生ボタンを押すと3〜5秒で眠りに落ちる日々だった。 決
操業は20回を超えた。 操業20回のうち、休日は2日。 ただし飯炊きの僕は、休みの日でも9人分の食事を作らなければならない。 操業21回目 マグロを備蓄する魚倉は、船首甲板の4t魚倉が1倉空いている。 それと船尾の2t魚倉が3層空いていた。 揚げ縄が始まった瞬間「商売!」という声が掛かった!! 約40キロのキハダマグロ、生きたまま上がって来た。 長さは約150センチ程度 生きて上がって来たマグロは、絶対に暴れさせてはならない。 固い甲板デッキで暴れると、身まで痛めてしまい マグロの鮮魚を左右するのだ。 生きて上がって来たマグロは、上がった瞬間に目を押さえ視界を奪う。 そうすると暴れない。 マグロの頭の中央には白くなった部分があり、そこに「突き殺し」という マグロの息の根を止めるための漁具を、その部分に対して約25度の角度で差し込むと マグロは痙攣の後に、絶命する。 しかし、このマグロ絞める
ここで、初航海で乗船した船の主要メンバーを紹介しておこう。 説明しておくが、僕がマグロ船に乗った10年間で、10年ずっと 同じ船に乗り合わせた人は、一人もはいない。 マグロ漁船の人の入れ替わりは激しいのである。 船頭 船長(ふなおさ)で、船内では神的な存在であり、全権を持つ。 全船員の精神的支柱でもあり、船頭が船員に“なめられる”船等 僕が知る限り存在せず、もし“なめられる”ようなことがあれば その船の指揮系統は崩壊し、マグロ漁船として成り立たない。 大型のマグロ漁船は【船長】【漁労長】【航海士】等がいるが、僕の乗った船は59トン型の鉄鋼船だった。 そのクラスの船では、船頭が上記3役を兼務する。 僕の父親である。 機関長 機関部の長であり、地位的に言えば船のナンバー2である。 非常に寡黙な人で、無駄口はほとんど叩かないが、酒を飲んだ時だけ饒舌になる。 機関の専門的な知識のほかに、冷凍機とい
一言に「航海」と言っても、航海の中にも、過程がある。 まずは、そのことを説明しておく必要があるので、最初に説明をします。 航海の中には「南下中又は沖出し中」「操業中」「帰港中」「水揚げ」とあり 各内容は下記の通り 1、南下中又は沖出し中 「南下中」又は「沖出し中」とは、出港して漁場に向かっているという意味で 「南下中」というのは、日本から南方海域(小笠原諸島以南)の漁場に向かって航行ことを指し 「沖出し中」日本から東側(三陸沖からロシア国境海域付近「当時はソ連」)に向かって航行していることを指す。 この間に、あらゆる漁具や準備や機械の整備を行う。 2、操業中 漁場に到着し、マグロを獲るための操業を行っているという意味。 3、帰港中 漁を終え、マグロを水揚げするための港に向け、帰港をしていることを意味する。 4、水揚げ どこかの港で、マグロを水揚げする。 マグロ漁船は、所属する漁協への毎日朝
僕は、現在都内であるIT系の会社に所属している。そんな僕には、よく珍しいと言われる経歴がある。 マグロ漁船に乗っていたという経歴だ。 18歳で高校を卒業し、すぐに実家が運営するマグロはえ縄漁船に乗った。28歳までの10年間。 その事をブログに書こうと思う。これはノンフィクションである。 卒業、そして初出港 1987年、初春3月。僕はある事情で、同級生よりも12日程遅れて高校を卒業した。 同級生より遅れた理由は、触れないで頂きたい。 覚えているのは、校長室に担任の先生と副担任先生2名、それと生徒指導教員と教頭、校長先生の合計5人と生徒は僕一人。 校長先生が卒業証書を読み上げ、渡された以外に記憶は無い。素っ気ないひとりぼっちの卒業式だった。 卒業をして、寮に向かい最後の荷物を持って実家に帰った。 祝初出港 その2日後、出港した。 初の船出を祝い、同級生をはじめ、沢山の人が見送りに来てくれた。航
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