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衆院選
martbm.hatenablog.com
今回の東浩紀先生による「棄権」キャンペーンに対する炎上は、日増しに勢いを増しているわけであるが、ここではもう少し、私なりの整理を行ってみたい。 とりあえず、もっとも批判の矛先が鋭い山崎雅弘先生の発言を見てみよう。 前にも書いたが、この古市憲寿氏は、昨年12月の衆院選の時、あるネット媒体への寄稿文で「選挙なんて行っても行かなくても、ほとんどの国民の生活は何も変わらない」「行きたい人は行けばいい、何も変わらないだろうけど」などと、棄権を促すようなことを書いていた人物。これが「社会学者」なのか。 @mas__yamazaki 2015/08/19 21:39 案の定、三浦瑠麗氏が「積極的棄権」を擁護。そして例によって「私は棄権しないけれど」と、自分の責任逃れの逃げ道はちゃんと確保する。次の選挙で投票率が低下し与党に有利な結果になっても、棄権の言い訳や大義名分を社会に広めた責任を取らない。 @ma
明治の文明開化において、明治革命政権は、明治国家を建設するに際して、西欧において一般化していた「近代国家」の形態を踏襲する選択を行った。つまりは、民主主義であり、国会制度であり、憲法制定といった、もろもろの「意匠」である。 このことは、日本も明治維新が、いわゆる、欧米の「権力均衡レジーム」に対して、日本がそこに「参画」するという形での、世界秩序への参画をもくろむという形での、「世界秩序均衡」の中に、日本の一定の影響力をもった位置を確保しようとする活動の一環だった、と考えられる。 なぜ、この問題が重要であったのか。 そのことは、そもそも、西欧において、一世を風靡して今に至っているこの「近代国家」というもののアイデアを、まずもって、内包していたその「モデル」こそが、ホッブスの社会契約=リバイアサン論であったからなのである。 では、なぜこのホッブスのアイデアが重要であり、どういった形態をもつもの
例えば、17世紀、18世紀において考えられたような「啓蒙」の時代において、想定されたような「理性」による、理想社会の実現が、なぜ現在において、うまくいっていないのか? それは、カントの純粋理性批判が展望したような、理性による、人類の理想社会であり、永遠平和の理想がなぜ、うまくいっていないのかと問うことと言ってもいいのかもしれない(この前、このブログで書いたように、なぜ「低賃金労働者」の政党による政権交代が起きないのか、と問うこともできるであろう)。 もちろん、多くの人は、こういった「理性的」であり「合理的」であるといったようなことが、まったく実現されていない、とまで思っているわけではない。それなりには、実現されている、と思っている。しかし、「それにしては」あまり、その実現度は、かんばしくないのではないか、と言いたいわけである。 そうした場合に、そもそも、私たちは日常的に「理性的」なのか、「
在特会の運動は、どこか、文化大革命における、紅衛兵に似ている。または、小泉元首相が首相のときに、靖国参拝を行ったとき、中国で起きた、反日デモに。または、2・26事件の青年将校たちが天皇に「裏切られた」と語ったことに。 それは、ようするに、時の政権に「黙認」される、(彼らの視点から幻想される)「造反有理」の運動であり、そこに、(彼らの視点から幻想される)「錦の御旗」のように見えるからであろう。しかし、このことは端的に言ってしまえば、「ナチス・ドイツ」の運動に似ているわけである。 このことは、現在の国家公安委員長である山谷えり子が、外国人記者クラブでの会見で、大いに在特会との懇意な関係を臭わせたことにと見られるだけでなく、安倍総理自身が、かなり深く関係しているのではないのか、といったことを思わせる。 在特会の問題は、そのデモにおける韓国人や在日韓国人への「死ね」「殺せ」といった、本来の人権国家
ここのところ、なぜ今さら、歎異抄に興味をもち始またのかと言えば、子安信邦さんの新刊の『歎異抄の近代』を読んだからだが、その内容は私が、この人の本を読んできたものとは、ずいぶんと違う印象を受けた。 そもそも、多くの人は、なぜ「歎異抄」なのかを、ほとんど知っている人がいないのではないか。というのは、歎異抄とは、明治にある仏教内における「近代化」の運動の過程で、 発見 された書物だからだ。明治における、最も哲学者の一人の清沢満之(きよさわまんし)が始めた、仏教雑誌『精神界』に連載を続けた、暁烏敏(あけがらすはや)によって。しかし、問題は、その紹介のされ方だったわけである。 福島は深励の『歎異抄講義』を文献的考証だけの封建的教学として差異化しながら、暁烏らによる『歎異抄』の読みの近代性をいっていくのである。彼がいう近代的な読みとは、『歎異抄』を「親鸞という人間の現存在を通しての信仰表白」と見るよう
今でも、本屋に行けば、岩波新書で、この、大江健三郎のノーベル賞基調講演は読めるが、このタイトルが、川端康成の「美しい日本の私」の批判として、語られていることは重要である。 なぜ、彼は川端を否定しなければならなかったのか。なぜ、「美しい」ではなく、「あいまい」でなければならなかったのか。 日本語の作家として、初めてこの場所に立った川端康成は、『美しい日本の私』という講演をしました。それはきわめて美しく、またきわめてあいまいな(ヴェイグ)なものでありました。私はいま vague という言葉を使いましたが、それは日本語でのあいまいなという形容詞にあてたものです。 彼は戦後の文学者として、めずらしく、一貫して、戦中の日本ファシズムと戦ってきた一人だと言えるだろう。 日本の戦中ファシズムの特徴は、「論理」の「厳密さ」の放棄にあったと言えるであろう。なぜ、日本はアメリカに宣戦布告したのか。だれも説明で
高校生までの、子供たちに、一風、変わった、数学を、紹介するとしたら、どういったものがありうるであろうか。 私は、まず、なによりも、声を大きく言いたいことは、「高校までの数学は、嘘、だ」、ということだ。 これは、高校生までの、数学をやってきた人たちにとっては、誰でも、分かっているんじゃないでしょうか。 まず、一般に言われることは、微分、積分、の「嘘」、ですよね(最近の教科書は知りませんが)。 大学に行くと、イプシロン・デルタ法が、まず、最初にでてくる。 余計なお世話でしょうけど、もちろん、ライプニッツ流の、局限操作(無限大、無限小)が、数学基礎論のモデル理論を使った、無限小解析、によって、理論的正当化を与えられる、わけで、そういう意味では、それなりに、理論的正当化は、されうる。 しかし、私が言いたいのは、そういうことではない。 まったく、証明になっていないものを、なんかそれらしく、イッチョマ
もしも「主体」なるものが「ある」というふうに「言った」とき、果して、そこで、何が起きていると言えるであろうか? 子供は、産まれた時点では、「何者でもない」。ジョン・ロックはそれを、タブラ・ラサ(白紙)と言ったわけだが、ということは、私たちは、大人になるという過程を経ることで、「何者かになった」ということになるであろう。これが、 主体 である。主体は、「何者か」を現わす。つまり、私たちが、ある人を「主体」と呼んだ時点で、その発話「自体」が、相手を、なんらかの「主体」として、 既に 扱ってしまっていることを含意しているわけである。 私たちは、人を「何者か」として扱わずにすますことができない。その人が「何者であるか」を「既に了解している」から、私たちは、その人を「主体」として扱うことができているのであるから。だとするなら、問題は、 すでに「どこか」の時点で相手を「主体」として扱ってしまっている
猪瀬都知事が、ニューヨークタイムズのインタビューに答えた内容が、トルコへの差別発言になるとして、問題になっている。 しかし、おかしなことは、むしろ、このことに対するネット上の反応であろう。 猪瀬知事は、最初、Facebook で、「弁明」をした。そこでは、自分の「真意」がねじまげられた、悪いのはニューヨークタイムズの方だ、という、 自分は悪くない という主張であった(しかも、日本語だけ)。ところが、翌日、全面的に謝罪をした。 まず、自分がニューヨークタイムズで話すことによって、世界的な影響を及ぼせると考えて、インタビューに応じた、つまり、ニューヨークタイムズを利用しようとしたはずだと考えるなら、その内容を糾弾されることには、反論の余地はないであろう。むしろ、猪瀬都知事自身が、自分の真意が伝わっていないと言うのなら、 どのように誤解されているのか を各発言に対応させて説明すればいい。ところが
坂本龍一さんが脱原発デモで行った一連の発言の中に「たかが電気」という言葉があったことを切り取って、デマゴーガー産経新聞が「中傷記事」をでっちあげた。 私はこの内容は、十分に「名誉毀損」にあたると思っている。 特に、坂本龍一さんというある世代にとっての、カリスマであり、 ブランド を、こういったゲス新聞の、炎上マーケティングに利用する態度には、怒りすら感じる。 では、坂本龍一さんの、脱原発デモでの発言を分類してみよう。 (脱原発デモに参加している人たちを前にして)[こうして人々が集まっているのは]原発への恐怖が充満している、ということではないか。 (それを受けて私たちがやれることは)電力会社への依存度を減らしてくこと。 (少しずつ、さまざまな原発以外の手段を実践していくことで)原発に頼らない電気を我々市民が選ぶことができるようになる。 そこで、以下の発言になります。 言ってみれば、たかが電気
レピュテーション・マネジメント(評判管理)においては、その第一歩は、顧客の主体性に依存する形で、戦略(ストラテジー)を考えざるをえない、という認識から始まっていた。 つまり、相手を自分が思う通りにはできない、だから、なんらかの「相手の動きに合わせた」こちらの行動戦略を立てるしかない、という あきらめ から始まっていたことが、重要であった。それは、このソーシャル・ネット・メディアにおける 評判 を、そう簡単にコントロールすることはできない、という、ある種、ソーシャル・ネット・メディアにあらわれた有識者たちが、最終的に深く陥らざるをえない認識で、 ここでは、あらゆることが叶う と思わせる、全能感覚を、裏切る様相を示すことになり(欝の感情)、そう簡単に、他者の感情を思うようにはできない、という「あきらめ」から、始まっていると言えるだろう。 しかし、逆に言うと、本当にそうなのか、とは思うわけである
ここのところ、何回かこだわって書いてきたのだが、結局のところ、東さんという人の「一般意志2.0」という本が、なにが言いたいのか、または、どういった文脈でつぶやかれているのかが、今一歩分からなかった、というのが印象であった。 著者の論点のポイントがどこにフォーカスされているのかが分からないので、だったら、読者側が、なんとか(著者がどう読まれ「たい」かなどどうでもいいんで)読者側の視点で整理していくしかないんじゃないか。 この本のポイントは、二つの側面から両面攻撃のように、議論されているわけだが、その二つの視点が、一般的なアカデミズムの思想とどのように、著者が対決しているのか、という所がポイントなのではないだろうか。 著者の今まで考えてきた持論(一種のフラットな人間観と、そこから導かれる、一種のエリート主義)。 それが「未来」の人類社会で「評価」されるという期待。 著者には、なにか昔から思って
videonews.com で毎週、無料でアップされている、原発の審議会が、ある意味、非常におもしろい。というのは、これが「一般意志2.0」の典型だと思うからだ。これほど分かりやすい例は、ないんじゃないかと思うのだ。 ところが、だれも注目しない。 新聞もテレビもとりあげない。 私が正直、うんざりだと思うのは、こういった「具体例」が、実際、日々行われているのに、ツイッターでも、もりあがらない。具体例を、検討する人があらわれないことじゃないだろうか。 そういった審議会は「公開」されている。だとすれば、これと「一般意志2.0」で紹介されている劇場型熟議(と観衆の「つっこみ」)から、比較されている議論が見受けられないのも、なんなのかなと思うわけだ。 そう考えると人々は、本当に「一般意志2.0」を読んだのかなと思わなくもない。ここで提示されているイメージと、今のリアル政治を比較して、どういった「乖離
日本で最も「遅れている」学問はなんだろう。間違いなく「日本史」だろう。 戦後、日本の教育は「自由」になった。つまり、戦前の歴史教育は皇国史観であったわけだが、戦後はその軛から逃れたはずだ。ところが、どうだろう。歴史教育の内容はそれで変わったのだろうか。 ほぼ変わっていない。 そんなことがありうるだろうか? 私に言わせれば、最も「なにもやっていない」のが、人文系ということになる。どうして、そういうことになるのだろうか。言ってみれば、彼らはそういう、かなり「うさんくさい」ものを「暗記」することで、(超難関)大学という 高等教育 を受ける資格を獲得する権利を得てきたので、自分たちの「正当性」の源泉を「毀損」したくなかったのであろう。 いや。もっとこの議論は進められるのではないだろうか。高校の日本史は戦前戦中とほとんど変わっていない。ということは、その「精神」は戦前戦中にあるのだろう。つまり、むし
原発の問題とは、結局のところなんだったのかな、と考えると、三つあって、 原発が、チェルノブイリや福島。いや。それ以上のシビア・アクシデント事故が、けっこう簡単に起き「た」ということ(今回の福島も非常に深刻な事態が続いているが、原因を問うまでもなく、いわば対策らしいものは、ほとんどなんにもやってなかったと言わざるをえないような状況だったわけだし、そもそも「ちょっと間違えば、ちょっとしたことで、あんなもんと比較にならないようなもっと悲惨な事故になっていて全然不思議じゃなかった」ということなんですね。そういう視点で見ないとなんの意味もない)。 そういった事故が起きたときに、どういった事態となるのかを国民は知らなかったし、もちろん教育もされていなった。 そして、そうやって事故が起きる前に、「多くの人たち」が「あまり深く考えることなく」原発推進を軽い気持ちで発言してきていて、さまざまなところでコミッ
原発問題が、国策に関連したものであることを認識することは、これを「公害」問題の延長で考えたとき、ある「人間」の定義の問題が再燃する不吉な予感にとらわれる。 たとえば、福島のあの惨状において、今だに、あの場に留まり作業をしている人がいるという事実は、驚きを通り越して、その「不可能性」に思い至らざるをえない。 間違いなく、被爆することが分かっていながらの作業を強いるのであれば、それなりの高額の代償を支払わざるをえないだろう。しかし、そのことが、原発の「コスト」を引き上げ、商品としての価値を損なう。 しかし「公害」とは、もともとそういうものであった。国も企業もその「危険」を国民に知らせなければ、国民は次々と病気を発症し苦しみの中を生きることになる。しかし、たとえそうなったとしても、国や企業がその理由を国民に知らせることがなければ、国民はなぜ自分が苦しんでいるのかを自覚することなく、生涯を終えるこ
原発の議論を眺めていると、どうしても、ある「理性の限界」を超えているのではないか、という印象がぬぐいきれない。 それは、ウルリヒ・ベックのリスク社会論が検討した、問題そのものだっただろう。 自分たちがコントロールできない。そして、チェノブイリから、スリーマイルが起き、今回の副島となった。 そこで、では、それでも「動かし続ける」と決断する、世界の国々は、では、400年や1000年のレベルで、 何回の深刻な事故 を起こすことになるだろうか。もちろん、その間にも、チェノブイリ、スリーマイル、副島、それぞれの地域は少しずつ回復していくのかもしれないが、そういった期間で考えるなら、どう考えても事故がまったく起きないように思われない。 (まあ、それくらいの期間で考えれば、本当にものすごいタイムスパンで一回起きるかどうかの、さらに大きな地震や津波。また、隕石による、地球の大激変、テロ、こういったことも想
(鎌仲ひとみ、という方との共著。) 広瀬隆さんが、テレビで、解説した内容が、YouTube でアップされているが、おそらく、今後は、この内容を基本線に、大マスコミも放送せざるをえないだろう。 彼は、初動において、今行われている、電源を引いて、冷却装置の再稼働を目指すことについて、なによりも優先して目指されるべきであったことを強調している。また、こと、ここに至っては、(素人としてその判断は分からないが)チェルノブイリのように、コンクリートの棺桶をやるべきではないのか、と一言している。 これらのことと一緒に彼が強調していたことで、多くの人たちは、あれ? と思ったのでは、と思うことがある。つまり、 内部被爆 について、である。彼は、外部被爆と内部被爆を、明確に区別する議論をしている。また、これについては、昨日の videonews.com での対談において、琉球大学の、矢ヶ崎克馬教授の電話インタ
日本のインテリには、自由貿易主義者が多い。 多いといいますか、なんというか、原理主義的に、なにがなんでも、自由主義じゃないと、ヒステリーを起こす連中ばかり、と言った方がいいだろうか。 小林よしのり風に言うなら、純粋真っ直ぐ君的に、自由貿易主義に反する臭いをかぐと、受験勉強の悪い癖なのか、どうも、むずむずして、一家言ぶたないと、スカッとしないようである。 しかし、(萱野さん風に言うなら)ナショナリズムは、各国の「当然の権利」なのだから、こういう態度は、「国益」を損ねる場合もあるんじゃないのか、とでも言いたくなる。その場その場で、「国益」を選択することこそが、 功利的な 態度と言うべきで、なにがなんでも、自由貿易って、かえって、相手にとって、組みし易しってことでしょう。 その純粋っぷりの、よって来たる動機ってなんなのだろうと考えると、 ベタで、自由貿易主義を「信仰」にまで高めて、日々、神社でお
松本人志が文春で連続で報道されたとき、彼が語った内容は現在のところ、彼が訴えた訴状だけだ。 このことが何を意味しているのかを考えてみることは興味深い。 というのは、文春の 一連の 報道は別に、松本にとどまらない。いろいろな 芸能界 の人の性加害がとりあげられている。私が不思議なのは、松本はずっと、芸能界のトップとして活躍してきたのにもかかわらず、こういった 芸能界 の今の状況に対して、まったく、発言をしたいという意欲が感じられないことだ。 近年の欧米で活発になったMeToo運動の延長で、日本において、ジャニーズの喜多川元社長が死んだ後、さまざまな告発があいついだ。しかしこれは、未成年の男の子を喜多川が行う「性加害」であって、その犯罪性は明確だった。しかし、ネット上では、 枕営業 の問題がずっと言われ続けてきたわけで、なぜ、男の子の側ばかりが取り上げられて、女の子の問題が焦点化しないのかが言
だれでも考えることは、個人に問題があるのであれば、その問題を、 上位機関 が面倒をみればいいのではないか、ということである。下が困っているのであれば、上がそのアラートをキャッチして、手当すればいい。 しかし、これは、逆についても言える。 働き:国家 --> 個人 働き:個人 --> 国家 国家が困っているなら、どうすればいいのだろうか? 個人が「下から」そのアラートをキャッチして、手当てをする。 いずれにしろ、この、相互関係を、もっとディープにしていく方向は、一つの方向性だろう。 例えば、国家財政が回らない。じゃあ、どうするか。個人に使うお金を減らせばいい。どうやって。今まで使っていたのは、それが必要だったから、であろう。その必要性が消えているわけでないのに、どうやれば減らせるというのか。 たとえば、医療費である。なぜ、医療費が発生するのか。患者が病気になるからである。だったら、人を病気に
それにしても思うのは、なぜ、民主主義国は、 秘密投票 を採用しているのだろうか。なぜ、このことの理由を明確に示す人がいないのだろうか。 二〇〇二年五月のフランス大統領選挙第二回投票の直前、論争が起こった。第一回投票で社会党のジョスパン候補をはじめとした左翼候補が敗退し、第二回投票はシラク大統領と極右政党国民戦線のルペン党首との間で行われることとなった。左翼は、極右の台頭を阻止するためにシラク大統領に投票する以外の選択肢がなくなった。彼らは、その「不本意」を表明するために、投票の際に、洗濯ばさみで鼻をつまんだり、ゴム手袋をして投票するという運動を企てた。 内務省は、「この種の行動 initiatve は、投票作業を妨害しない限り、それを禁止するものはなにもない」としていた。しかし、憲法院は、次のような見解を表明した。 「一定の選挙人が、大統領選挙第二回投票の際に、これ見よがしに、さらには人を
きだみのる、といって、すぐに誰だ分かる人というのはどれだけいるのか。 といっても、私もほとんど知らないが(今回は、あくまで、その一側面の紹介であることを、ご了承を)。 掲題の本は、その、きだみのる、の伝記と言っていい。この方の経歴については、この本の最後に年譜があるのでそれを見てもらえばいいが、ずいぶんと、波瀾万丈な生き方をしている。 明治生まれの彼が、慶応大の学生の頃、アテネ・フランセの創始者の、コットの下で仕事をするようになり、40歳で、フランス留学し、マルセル・モースの下で学び、パリ大学中退後の、モロッコ旅行をまとめたものとして、昭和19年に『モロッコ紀行』という本を出す。 この本の前半は、戦後絶版とされた、その『モロッコ紀行』という本を巡るものとなる。著者はこの、モロッコを旅行して、「いい植民地主義とはなにか」を考察する。モロッコは、ごぞんじのように、スペインの南の、北アフリカに位
カール・シュミットの、思想を紹介する、入門書としては、シュミットそのものの、多様な研究関心に対応して、それぞれに議論を行っているということでは、申し分ないのではないだろうか(往々にして、ナチ・コミットに議論が極論してしまう傾向がある中で)。 (半年以上前に、半分くらい、前半を読んでいて、ここのところ、残りを最後まで読んだところ。) カール・シュミットについては、政治に関心のある人たちにとっては、既知の存在であるだろうが、その重要さをどれだけ分かっているのかは、非常に問題に思える。一番単純には、丸山眞男が、戦中から、シュミットの大きな影響の中で考えていたことなどはあるのだろうが、むしろ、戦後を含めたその影響力を射程にした議論は日本では少ないようだ。 日本とドイツは、第二次大戦における「敗戦国」として、非常に大きな関係があるとともに、それぞれのその、敗戦に至る過程において、その「独立」性が興味
なんか、隔世の感がありますね。長年、この方の著作を読み続け、影響を受けてきた自分としては、一読者として、ただただ楽しめた。いつか、こういったものが読めないかとは多くの方が思っていたのではと思うけど、こうやってそれが実現されてみると、昔の頃のことから、いろいろ思い出されてきて、なんとも言えない気持ちになる。人生の中で、そんなふうに思えることって、そうそう、ないんじゃないだろうか。 この本は、今まで、著者がいろいろ書かれていた論文と、一点で違っている。 二〇〇一年にいたるまで、私は根本的に文芸批評家であり、マルクスやカントをテクストとして読んでいたのである。いいかえれば、自分の意見ではあっても、それをテクストから引き出しうる意味としてのみ提示したのだ。だが、このようなテクストの読解には限界がる。私の意見が彼らに反することが少なくなかったし、また、彼らが考えていない領域や問題が多かった。したがっ
1994年に亡くなったアメリカの歴史学者。彼の遺作ということらしい。 この本のタイトルは、英語の原題の直訳そのままなのだが、ようするに、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』をもじったものになっている。 オルテガの時代のスペインをどのように考えたらいいのか、難しいですけど、彼の基本的な姿勢は、ポピュリズム批判であり、貴族主義=エリート主義、ということになるのだろう。 大衆的人間は自分が完全であると思う。選ばれた人間が自分を完全だた感ずるためには、とりわけ虚栄心が強くなければならない。自分の完全さを信ずることは、かれの体質には向かないし、かれの本来の性格からは出てこない。そうではなくて、その信念は虚栄心から来るのであって、かれ自身にとっても、それは虚構の、幻想的な、疑わしい性質をもっている。 そこで、虚栄心の強い人は他人を必要とし、他人のなかに、自分について自分でもちたい観念の確証を求めるの
ヘーゲルと言えば、18、19世紀、つまり、江戸時代の、ドイツの哲学者、である(高校の倫理の教科書にでてくる)。ちょうど、フランス革命やナポレオンと同時代の人になる。 こんな昔の人がなんだと言うんだ、というのが正直なところであるが、早い話、いろいろなところで、あいもかわらず、この人の議論が、ついて回っている、というのが、現在も変わっていない、ということのようだ。最近であっても、難しい議論になると、なんやかんやで、ヘーゲルとのなにがしかが、批評されていたりする。 たとえば、フェミニズムと言って、ちょっと難しめの議論を眺めてみよう、として、(この前名前だけは紹介した)ジュディス・バトラーを見てみると、そもそも、彼女のバックグラウンドは、ヘーゲル哲学研究者だったりする。 もちろん、理由はある。それは、共産主義、社会主義の教祖みたいな存在である、マルクスが、ある意味、ヘーゲル哲学の拡張のような形で、
最近は、東アジア共同体、でかまびすしい。日中韓、に、北朝鮮(、モンゴルも?)、そして、東南アジア、各国になるのであろうか。 おもしろいのは、このアイデアの、日本側の提唱者が、とにもかくにも、「経済的要求」から、来ていることだ。日本の、ここ何年かの、低成長は、今のままでは、これからもずっと続くであろう。だとするなら、この日本の「成長」とは、なにを意味していることになるのだろうか。 もちろん、今の、アジアの急成長と、グレーなまでに「区別がなくなる」ことであろう。日本人は、まさに、「アジア人」ででもあるかのように、当然のように、このアジアの発展の現場に立ち会い、貢献を惜しみなく与える。そのことにより、信頼を勝ち得て、「アジアの一員」としての地位をまっとうする。 想像してみようではないか。東アジアが、もし、一つの国だとしたら。日本人が、どうして、日本「国内」だけに、その働き場を求めることなどあろう
どうも、世界中で、おかしなことになっている。 さかんに、また、「悪魔の搭」、原子力発電所の建設ラッシュ、が始まっている。 なぜこんなことになっているのか。 そもそも、地球温暖化のキャンペーンが、原子力発電関係者によって始められたことは、よく知られたことである(今では、このこを強調する人は少ないようだ)。逆に、原発は、CO2をださない、だから、「クリーン」なんだと。 どうも、おかしなことになってしまった。「悪魔」は「天使」、なんだとさ。 なぜ、原発を作りたがる勢力が途絶えることがないのか。 これが、最高に「うまい」のだ。これほど、金のかかるものはない。まさに、これこそ、「錬金術」そのものなのだ。 一番の問題は、もちろん、原発稼働中の、事故、による、チェルノブイリ化、であるが、こちらは、振動を瞬時に発見して、稼働を止める技術は、これ以上ないくらいに、発展しやがった。しかし、二番、いや、ある意味
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