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ドラクエ3
martbm.hatenablog.com
最近は、けっこう、チャレンジング、な、読書をしてきたものだ。 つい最近も、本居宣長、にチャレンジングに、アタックしたものだ(なんにもしてないけど)。 以前も書いたが、いずれにしろ、国学は、宣長、篤胤、以降、大国隆正のような、ほとんど儒教と差がなくなっていく方向に向かう。それは、実際に、日本の歴史は、そうやって儒教的な徳目を受容してきたのだから、当然のことなのであろう。そして、この部分の国学こそが、まさに、「皇国史観」を構成する一部として、機能していくわけである。 しかし、「宣長 - 篤胤」ラインの、そうじゃない系譜、(私が最近こだわっている)彼らが、「やまとごころ」「もののあはれ」として、見出したような、そういった部分の国学を、その後、継承していったような、そんな人たちはいないのだろうか? 掲題の著者は、それこそ、さまざまな意味で「問題の多い」とされる、以下の、三人の日本の言論人、柳田國男
ここのところの、天地人、には、のけぞってしまった。秀吉、朝鮮に、いつ行ったの? こうやって、歴史は、隠蔽されるんですね。 著者の啓蒙書は、今までも、紹介してきた。今回は、NHK が「坂の上の雲」のドラマ化を公言している関係から、司馬遼太郎を、総括しておく必要を感じられたのであろう。 今回の本は、言わば、彼の今までの、啓蒙書の総括と言っていい内容であるが、この分野に通じていない人にも近づきやすいことをより考慮された内容になっている(引用の口語化など、いろいろ配慮が感じられる)。 結局、こうやって、私もこだわってきたのだが、中塚さんの、本当に言いたいこととは、なんなのか、なんですね。 それは、結局、明治維新からの日本の歴史の総括になるわけです。 そのとき、今でも、最も、日本の世論の中で、大きな影響を与えていると思われる論客が、司馬遼太郎、であったと。であるなら、彼との対決こそ、目の前にある壁だ
サドというのは、いわば「つまづきの石」である。それは、どういうことか。今まで、サドについて、多くの言説がつむぎだされてきた。多くのポストモダン哲学者が、実に、熱く、サドについて語ってきた。 日本においては、澁澤龍彦の翻訳が有名だが、現状、それくらいしかない情況はおもしろい。彼には江戸遊廓のような、耽美的趣味があり、自分の趣味に合うようにみえる部分をひろってきて、どうこう言っているにすぎない(実際、抄訳ばかりだ)。逆に言えば、それだけキワモノだということだ。 サドは、挑発する。しかし、彼の挑発は、本丸への直接攻撃だ。同時代のさまざまな哲学者(ホッブス、ルソーや、ドルバック、など百科全書派)の言説を、そのまま、パクりながら、換骨奪胎し、揶揄する。その手際に、みな、イカれる。 たとえば、サドは、ルソーの言う平等の「起源」を疑う。 「自分のしてほしくないことを人にするな」。 彼は、まさに、その逆を
高橋哲哉さんとの対談。 こういう、ちょっと、ホンモノの人と対談してもらうと、萱野さんの議論が、どういう位置にあるかが分かる。 萱野さんは、以前から、ナショナリズムに対する、世間の低い評価に不満があるという。 今のグローバル経済の中では、資本は、安い労働力を求めて、海外の辺境に進出する。その動きを止めることはできない。 もし、この動きにあらがって、「日本人」の労働賃金の水準を維持していくには、どうすればいいのか。萱野さんの答えは、「ナショナリズム」、となる。 ナショナリズムによる以外に、「日本」労働者を、他の外国人労働者に優先して、扱うことはできない。 ただ、そこから先は程度問題で、格差問題を解決するためにはナショナリズムが一定有効になるのですが、だからといってナショナリズムなら何でも肯定されるべきだとは思いません。 それに対して、高橋さんは、自分は、ナショナリズムの全否定をしているわけでは
韓国が、漢字廃止、ハングル専用の、学校教育政策をとったのは、1968年からだそうだ。 ハングルとは、日本語でいえば、かな文字となるのだろうが、おおざっぱに言えば、表音文字。ハングルも、単純な音声言語と考えるには複雑である。しかし、その複雑さはしょせん、その音声文字としての、レベル。 私は、江戸時代に大変普及した、「かな文字論語」などの、すべて、ひらがなで書かれた、中国古典の本を思い出した。単純に、こういう教育政策をばかにすることはできない部分はあると思う。日本語の出版物でも、最近は、なんでもルビだらけなわけですし。少なくとも、識字率の向上には、役立った面はないのだろうか。 もともと、ハングルだけでの記述が、官公庁向けの文書すべてに強要され、教育機関で、漢字を使わなくなったのは、韓国ナショナリストの政策だというんですね。純粋朝鮮的なものを追求していった結果というわけでしょう。 だから、言文一
伊藤仁斎の全貌を知ることは、現状、素人には難しいですね。一応、この本には「論語古義」と、「童子問 上」の現代語訳があり、入門にはいい。全集もないみたいですし、なんとかしてくれないでしょうかね。 程子はいう、「『論語』を読みおわってまったく平然としている者がいる。読みおわって『論語』の中の一、二句を会得して喜ぶ者がいる。読みおわって『論語』がすきになる者がいる。読みおわって『論語』がすきになる者がいる。読みおわるやいなや狂喜して手が舞い足がおどるのも気づかぬほどの者もいる」と。程子はまたいう、「学問する者は『論語』『孟子』を基本としなければならぬ。『論語』『孟子』の勉強ができあがると六経は勉強しないでも自然にわかってしまう。(中略)」と。(伊藤仁斎「論語古義 総論」) 忠というのは、己れのすべてをつくすという意味で、その意味は理解しやすい。ただ、恕という字の意味ははっきりしないものだ。字書に
最近、出版された本で、 徂徠学講義―『弁名』を読む 作者: 子安宣邦出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2008/07/29メディア: 単行本 クリック: 1回この商品を含むブログ (3件) を見る を、読んだ。この本では、徂徠の『弁名』について、解釈した本で、この本を読んで、やっと、荻生徂徠というのが、どういう感触で、さわらなければならない存在なのかに気づいたところがある。 徂徠というのは、江戸中期の、吉宗の時代の人ですね。 徂徠が若い頃に、京都の仁斎は亡くなっていて、伊藤東涯と同世代になるんですかね。 仁斎が、孟子を介すことで、倫理の強調をした。徂徠の言ったことは、「それだけが、儒教じゃないだろう」、ですね。 彼は、「先王の道」を強調した。それは、確かに、孔子の関心の一部だっただろうが、しかし、徂徠の言うことを延長すると、まるで、儒教において、孔子は不要、のように読めるわけです。 し
本居宣長。彼について、どれだけ、考察されてきただろうか。 ちょっと、最近、「玉くしげ」「玉くしげ別巻」「直毘霊」を現代語訳で読んだんですが 玉くしげ - 美しい国のための提言(現代語訳 本居宣長選集 第1巻) 作者: 本居宣長,山口志義夫出版社/メーカー: 多摩通信社発売日: 2007/09/26メディア: 新書 クリック: 6回この商品を含むブログ (3件) を見る 、それだけでも、いろいろ思うところがありましたね。 子安さんの著作の中で、本居宣長に関するものは、けっこうある。また、ほとんどの書籍に、少しは宣長に言及しているんじゃないでしょうか(一応、総論的、入門的なものということで、掲題にしてみました)。 賀茂真淵は万葉集の研究から、漢心批判を行うようになるわけですが、宣長はそれを継承する。その流れから、宣長の古事記研究、漢心批判となるわけですが、そのスタイルは、かなりのところで、荻生
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