サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
ドラクエ3
musai.blog.ocn.ne.jp
ここで重要なことは、このような現実の作られ方を私たちは直感ではまったく感じ取ることができない、ということです。複数のいろいろな現実が現れることがある、ということも直感では感じられない。それらの現実がときには矛盾することも、私たちの直感は感じ取れない(拙稿19章「私はここにいる」)。むしろ私たちの直感では、現実はただ一つしかない。そして完結している、と感じられる。 私たちにとって現実は、はっきりとここにそれがある、としか感じられません。逆に言えば、そうでなければ困ったことになってしまう。現実が唯一でなければ、私たちは確信を持って身体を動かすことができませんからね。 拝読ブログ:夢の中でも横柄な元ダンナ 拝読ブログ:子供の嘘は現実と空想の区別がつかないだけ
私たち人間が、欲望あるいは意思、と言っているものは何なのか、その実体を示唆するよい実験例があります。 「目の前に置かれた二個のリンゴの一つを選んでください」と言われたあなたは、一個を手に取る。「なぜ、それを選んだのですか?」、「こっちのほうが、色がきれいだから」とあなたは答えます。実は、右手に近いほうを選んだだけだ、ということは実験を繰り返すことで分かっているのです(この実験例は一九九六年 ピーター・カルーサーズ『心の理論の理論(シミュレーションと自己知識)既出』)。それなのに、あなたは尤もらしい理由を言って、本当に自分がそう思っている、と思っている。錯覚によって自分が自分にだまされている。けれども、いったん、言葉でそれを自分の欲望だと言ってしまうと、もう、ぜひそうしたくなる。それが、あなたの欲望、意思というものなのです。 【より鮮明な実験例が、分離脳患者の認知実験で挙げられています。左右
人間というものはハンドバッグのようなものです。外面と内面がある。外面は見えるが、内面は見えない。外面はだれにでも見えるが、内面は本人しか見ることはできない。もしかしたら外面は美しいが内面はみられたものではない、かもしれない。ふつうは外面だけしか見えないから、内面がどうなっているのか、外面を見ながら推し量るしかない。私たちは、自分を含めた人間というものを、こう思っています。 人間は、外面の内側に外からは見えない内面を持っている、という理論。それと気づかないで私たちが毎日使っているこの理論は、人間の行動を予測し、計画を考える上で役に立ちます。また、この理論を自分自身に適用することもできる。これはとても役立つ。社会に生きるためには、不可欠の能力です。つまり、自分も自分以外の人間も、同じように外面の裏に内面を持っている、と思えば、他人の行動も自分の行動もよく予測できる。顔は笑っているけれども、心は
擬人化(と拙稿が呼ぶ、私たちの脳神経系の)プロセスは、観察対象の動きを仲間の動きに共鳴する運動形成回路の活動として捉え、(そこで擬人化された)対象の動きに共鳴して自分の運動形成機構が自動的になぞる仮想運動を引き起こし、さらにその仮想運動に連動して引き起こされる自分の感情発生プロセスからフィードバックされる体性感覚を観察対象の内的意図として認知し、(擬人化された)それが何をしようとしているかを読み取ることで、物事の次の変化を予測する。 たとえば、P君が山道を歩いているとします。夏なのでセミが鳴いている。すぐ近くで聞こえるので、よく見るとそばの幹にミンミンゼミが止まって懸命に鳴いている。立ち止まってじっと見る。逃げないのかな、と思う。セミは急に鳴きやみました。P君は自分がセミの仲間になったように、歌をやめて敵の気配に耳を澄ましている気持ちになる。息を止め、足の筋肉を緊張させます。P君がセミなら
だれもが分かるような気がするものは、だれもがはっきり分かる。はっきり分かるものは存在する。したがって、だれもが分かるような気がするものは存在する。だれもが分かるような気がするものについての言葉は、だれにでも通じる。そういう言葉で表されるものは存在する、ような気がする。そういう場合、言葉は通じる。 そういう言葉の錯覚によって、人間どうしが仲良くなれる。そして仲間どうしの連携が強化され、その一族は生存競争に勝ち抜いていく。つまり、仲間との運動共鳴を利用してそういう錯覚を作るDNA配列(ゲノム)が繁殖して、私たち現生人類になった。そういうわけで、私たち人間は、仲間の皆が分かるような気がするものは、はっきり分かるように身体ができている。仲間の皆が分かるらしい、という錯覚にしか根拠がない、ほとんど実体のない言葉を使っても、すぐ心が通じ合うような気になれる。気持ちが通じ合えば、その言葉は、はっきり分か
さて、人間の言語システムは、(僭越ながら拙稿の仮説を述べれば)もともと原始生活の中で、物質現象の認知を仲間と共有する道具として、発生した。自然の中で人間は、視覚や聴覚を使って、仲間や自分の人体、そして害獣や食物や道具など物質の運動や変化を認知し、擬人化し、予測し、それに対応して身体運動を起こす。その身体運動を仲間と運動共鳴させて集団として群れ運動を起こす。その集団的運動共鳴を音節列記号に結びつけて言語化し、その身体運動‐感覚受容シミュレーションを仲間と共有することで、客観的な世界を共有する。 仲間と共有したその共通の世界認識の中に生きることで、人間は、互いに協力し合ってきた。このころ(たぶん、数十万年前)の人類の言語は、目の前の物質を見ながらそれについて指差すことで通じるような言葉だけだったでしょう。大家族の中での原始生活には、それでも、相当役に立つ。 拝読ブログ:パースの思想―記号論と認
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『musai.blog.ocn.ne.jp』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く