サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
アメリカ大統領選
note.com/sac_ring
新型コロナウイルスの影響の中で、わたしも仕事に大きな支障があったので、まずは自分を助けるためにあれこれやっていたのだけど、ちょっと今書いておきたいことがあるので、とりとめないけど書きます。 湧き出る2種類の問題 こういう想定外のできごとがあったときに湧き出てくるのは、直接できごとに影響された問題と、もともと普段からあった問題の2種類あって、混ざっています。 前者は、直接的な健康への影響や、仕事への影響、外出自粛による人と会えないことのストレスなどです。 後者は、コロナ問題にスイッチを押されて出てきた、もともとあった問題がドカンと見えてくるもので、人間関係、仕事、経済的不安、などそれぞれです。コロナ離婚などと言われるのも、コロナはきっかけにすぎず、もともとあった問題を直視せざるを得ない状況になってしまったわかりやすい例だと思います。 わたしも、2011年の震災の時に同じような経験をしました。
わたしにはいくつかのルールがあって、そのうちのひとつに「怒っている人の話は聞かない」というのがある。 怒られるのが嫌いというのがいちばんの理由なんだけど、怒っている人からは「怒ってるなー」としか伝わってこないし、怖いので関わりたくないし、萎縮して話の意図が伝わってこないから、お互いにいいことがないので「怒っている人の話は聞かない」と決めている。 では怒っている人に対してどうするかというと、「伝えたいことがあるなら普通の言い方で話して」と言う。 以前、会社でマネジメントというかほとんど保健室のおばちゃんみたいな役割だったときも、スタッフが駆け込んできて「聞いてくださいひどいんですよ!」と怒りながら仕事や上司の不満を話す場面でも、怒ってる人の話は聞かないことにしているので「言いたいことを紙に書いてもってきて」または「ちょっとまずお散歩いってきて」とクールダウンしてから話してもらっていた。 その
「おれは人に期待していないから」と言いながらめちゃめちゃ期待してるじゃねえか、と思った話。 「人に期待しない」というのは人生を軽やかにする方法としてよく聞く言葉だ。だけど、その使い方や捉え方にもやっと違和感を覚えることもよくある。 「どうせ俺をバカにしているんだろう」「どうせ何を言っても口だけだろう」「どうせ俺が困っても助けないだろう」と、「どうせ」のオンパレード。そして「それが俺にはわかっているから、はじめから期待しないんだ」という。 このように「人に期待しない」というのを「どうせ裏切られるから信じない」という意味で使われることがある。 でも、いやいやいや、それめっちゃ期待してるじゃないですか、と思う。 裏返せばそれらはすべて「認めてほしい」「信じたい」「助けてほしい」「愛してほしい」と叫んでいるようにしか聞こえない。 「愛してほしいけど、愛されなかったときにショックが少ないように期待し
ここ1年ずっと「やりたいこと」があるないとかの話をしているのだけど、この頃は、そもそも「やりたいこと」ってなんだろう?と考えている。 先日、友人に「サクちゃんはやりたいことないって言うけど、やりたいことやってるよね?」と言われた。 わたしが「シングルマザーだけどお金も時間もつくる」ためにはじめたクッキー屋の仕事のことを、「お金も時間もつくる」という「やりたいこと」をしているじゃないか、と。 でも、わたしは「クッキー屋は自分のやりたいことではない」と言う。その理由は「自分の不足を埋めるための手段であって、自分がしたくてしているわけではない」と思っているからだった。 「やりたいこと」とひとことで言ってもその中にはいろんな種類があって、人によってちがうものを指している。 わたしが「やりたいことがない」というとき、ないと思っている「やりたいこと」とは、「とにかくそれをしていたい」「時間を忘れてして
ドラマ「獣になれない私たち」を観ていたら、新垣結衣さん演じる晶の「私たち、誰の人生を生きてきたんだろうね」というセリフがあった。 それは、彼女が会社でも恋人に対してもずっと人の期待に応え続けてきたことを振り返って出た言葉だ。誰かに必要とされて人の役に立つよろこびを裏返すと何もないことに驚き、途方に暮れる彼女の気持ちはすごくよくわかる。 仕事で頼りにされ、役に立ち、感謝されることは大きなやりがいでありよろこびだし、恋人がよろこぶ自分でいることも、無理をしているわけでも嘘をついているわけでもなく、自分もそうありたいと心から願っていたことだろう。 それに、「誰かのため」に動くことができるのはすこしも悪いことではない。むしろそれができる人には役割ができて居場所ができる。 ドラマ内でも、晶がいつも人に頼られてしまうことを嘆くと「それ嫌味?」と言われるシーンがあったように、はたから見ると彼女には居場所
最近、人には未来を見ながらすすむ人と、過去を見ながらすすむ人がいるのではないかと思っている。 未来を見ながらすすむ人は、自分の将来やこれから起こることを楽しみにしたり、目標をきめたり、ああなりたいと憧れをもったりして、それを原動力に前に進むことができる。 過去を見ながらすすむ人は、自分の今までしてきたことを積み上げて、そこから材料をあつめてこれからすることを決めて前に進むことができる。 「夢組と叶え組」の話でいうと、未来を見ながらすすむ人は夢をもてる「夢組」で、過去を見ながらすすむ人は夢はもてないけど、できることを武器に人の夢を叶えられる「叶え組」だとも言える。 「未来型」の友人は、自分の人生のシナリオを自分で書いているように「これからこうなるといいな」という希望に向けて努力する。もうそうなることが決まっていることかのように進み、実際に「こうする」と決めたことを確実にやりこなしていく。 一
やりたいことがある人とない人を「夢組」と「叶え組」として、やりたいことがないのは悪いことではなくて、役割がちがうだけだからチームで組み合わせるととてもいいよ、というようなことを書いた。 わたし自身が「叶え組」で、やりたいことがなくても得意なことやできることがたくさんある。だからやりたいことがなくても大丈夫。それは今でもほんとにそう思うんだけど、どうしてこうなったんだろう、ちがいはどこにあるんだろうと考え続けていた。 いちばん身近にいる「夢組」は、娘のあーちんだ。 あーちんは来月で16歳になる高校1年生なんだけど、彼女は好きなことややりたいことがハッキリと見えていて、それに夢中になる力ももっている。 彼女が「夢組」になった過程を16年間近くで見てきたので、すこしふりかえってみる。 ****************** わたしは23歳のときに子供を産んだのだけど、周りに子育て仲間がいなかったし
ここ数年「素直」について考えている。 なぜかというと、自分が素直じゃないまま大人になってしまったからだ。 「素直」というのは幼少期に愛されて育った者に備わるもので、意識的に「できる」ものではなく、同様に「素直じゃなさ」も環境によってできあがってしまった「替えようのない変わることができないこと」だと思っていた。 大人になるにつれわかったのは、「素直じゃないこと」でいいことはひとつもないということだった。それはちょっといやだなーと思い、「本当に変わることはできないのかな?」と考えるようになった。環境によって備わったネイティブな素直さは手に入らなくても、考え方であとから素直になることはできないか?と。 ****************** 会社員だったとき、10年以上毎年、何十人もの採用の面接をしていた。 採用のときに大事にしていたのは「素直さ」だった(自分のことは思い切り棚に上げている)。 経
なんかわからないけど気が合う、またはどうにもこうにも気が合わない、という人に会ったときにいつも思うことがある。 多くを語らなくてもなぜだか言いたいことがわかる人に「同じ星の人」、どれだけ会話をしてもお互いに何を言ってるかわからない人には「別の星の人」だ、と思う。 ほとんどの人は別の星からきているので、ときどき同じ星出身の人に会えるととてもうれしい。共通言語を思い出したように言葉がたくさん出てくる。通じるのってこんなにうれしいことなんだなーと、遠いいつかの故郷を思う。 ただ、別の星といってもそれは無数にあって、気が合う/合わないの二分ではなくて、その星と星の距離によって通じる度合いがちがうような感覚でいる。 いつもそう思っていたことが、さっき読んだ『ちひろさん』の中で同じように例えているのを読んで、うれしくなってこれを書いている。 私たちは皆 人間という箱に入った宇宙人なんだ 「同じ人間だか
『月刊 自己肯定感』というマガジンをつくっているので、いつもなんとなく自己肯定感について考えている。 このマガジンをはじめた理由のひとつに、一緒に書いているDr.ゆうすけくんに「サクちゃんは、もともと育った環境もよくないし、自己肯定感が低い要素が山もりなのに、どうやって今みたいな考え方ができるようになったの?」と聞かれて、「それ、後天的に自己肯定感は育つっていう希望の光だからな!」と言ってくれたので、「そっかそっか、希望の光なら届けなければ!」と思ったというのがある。 だから、自己肯定感について考えるときは、おのずと自分のことについて考えることになる。 自己肯定というと、単純に自分を好きになれる力のことだとも言われている。子供の頃に、親や大人に褒められたり認められたりしたかどうかで差が出るともよく聞く。 でも、そういう「どうしてそうなったか」を知ったところで、「なるべくしてなったのだな」と
今日はわたしの中でとても大きな達成の日だった。 3年前の4月に娘のあーちんが中学に入学し、毎日の昼食にお弁当が必要になった。わたしは料理は好きだし苦痛ではないのだけど、お弁当を作るのがとても苦手なので、ほんとうにほんとーうに憂鬱だった。 毎日…まじで…お弁当一個のために…ちょっとずつのおかずを数種類…日替わりで…つらい…。早起き…つらい…。と、お弁当作りに対してネガティブな感想しかなかった。 お弁当持参とはいえ、仕出し弁当を申し込み制で購入することもできるし、コンビニなどで買って持ってきても構わない。それでも、小学校のころは給食のおかげで「お昼に給食で栄養摂ってるし」と晩ごはんや土日の食事の手を抜けたのに対して、育ち盛りの中学生の食生活を毎日3食まかされるというのはかなりプレッシャーだった。 そこで、泣く泣くお弁当つくりから逃げるのをあきらめ、「できるかぎりつくる」と覚悟を決め、自分に続け
自分が「ガマンの鎧を着た人」だと気がついたのは30歳だった。 もちろん生きていれば誰もがガマンをした経験はあるし、「わたしは誰よりもガマンをしてきたのよ!」と不幸自慢をしたいわけではない。むしろ他人から見たら「さんざん好き勝手にやってきたじゃないか」と言われるくらいだと思う。 自分では選べないような家庭環境や経済状況でガマンすることは少なからずあったし、生まれ持った見た目や体質で他人を羨ましいと思うこともあった。比較的早いうちに子供を産んだことで20代にガマンしたことは1000個じゃ足りないと思う。でも、問題なのはそのガマンの数ではない。 振り返るとわたしはいつも「自分の環境や状況を受け入れてガマンする」のではなく、どういうわけか「自分はガマンしないといけない」という考えが前提にあった。だから、自分がなんか嫌だなと思うことも、誰かに傷つけられることも、向いていない仕事も、「しかたがない」と
わたしはあまり勉強がすきではなかった。と、最近までそう思い込んでいた。 小学生や中学生のとき、勉強は「答えを出すもの」だった。答えを出すために知識を得て、暗記して、必要な時に使えるように勉強していると思っていた。もともとある情報や方法を、自分の中に入れることだと思っていた。 基本的なベース作りの段階ではただ入れることも必要だけれど、大人になって知ったのは、勉強は、自分が知りたい、わかりたい、できるようになりたい、ということを引き出すのがスタートで、自分の中に知識を入れる→必要な時に使う という順番ではないってこと。(早く言ってよ案件) 子どもの頃から、わたしの「わかりたい、知りたい」という気持ちはとても大きかったけれど、それがいいことだと思える経験がなかった。「なんで?どうして?とうるさい、しつこい」「子どもらしくない」と言われてきたので、たとえば図書館で心理学や哲学のコーナーにいるときに
先日、友人の小倉ヒラクくんと話していたとき、彼が目をキラキラさせながら、ものすごくうれしそうに「サクちゃんって、ほんとに口が悪いね!」と言った。「おまえもな!」と思いつつ、「そうなんだよねえ」と返した。 わたしは、口が悪いのだ。 一般的に口が悪いというと、「誰かや何かのことを悪く言う」「汚い言葉を多用する」というイメージがある。わたしは汚い言葉はできるだけ使わないようにしているし(他にぴったりの言葉がないと止むを得ず使うこともある)それで悪い印象を人に植え付けたいわけではない。できればよい印象のほうがいい。 ただ、ひとによい印象を与えたいという気持ちよりも、大事にしていることがある。 「ひとに悪い印象を与えたくない」「よい印象を与えたい」というように「相手にどう思われるかを気にする」ということは、相手の感情をコントロールできると思っているのと同じことで、じつは傲慢なことなのではないかと思っ
これもまた会社員時代の話なのだけど、わたしは前回のnoteに書いたように、お節介で解決魔なのと、在籍期間が長く年下のスタッフばかりだったので、社内で保健室のおば…おねえさん(20代だったし!)のような役割になることが多かった。 「なにかあったらこの人に言えばいい」と頼ってくれることは、うれしくもあり、気がつくとどんどん仕事が増えるという問題もあり、「解決してあげたいけどこれキリがないな!」という感じだった。 キリがないので、その対策として、相談に来たスタッフが「聞いてくださいよ」と話しはじめ、なんとなくなんの話なのかわかった頃に、わたしはいつもいったん話を止めて「それは、グチですか?」と質問をした。案の定キョトンとされるので、続けてこう説明する。 「それがグチなら聞き流すけど、もし解決したいなら、言い方を変えて話してみてほしい。○○がイヤだ、○○ができない ではなくて、△△がしたい、できる
前職の洋菓子店を経営する会社では、お菓子を製造・販売すること以外のあらゆる仕事をしていたのだけど、スタッフの出入りが多く、毎年新卒の入社以外にも常にスタッフの採用面接をしていた。洋菓子業界は夏と冬の仕事量の差が激しく(クリスマス、バレンタイン、ホワイトデーなど需要が冬に集中している)、固定の人材だけでなく期間ごとに採用することも多かった。特にバレンタインデー期間に向けては、毎年300人は面接していた。 とにかく数をこなしていたら、面接をしたときの応対と、採用後の仕事ぶりや継続期間などの傾向がなんとなくわかってきた。優等生の返答をする人が仕事もできるわけではなかったり、若干不安が残るような人が成長しながら長く働いてくれることもある。 わたしが面接で必ずしていた質問がある。 それは、「小学生や中学生のとき、あなたのクラスでの役割や立ち位置はどんな感じでしたか?」というものだった。 この質問の意
成人の日か、と自分の成人式の日のことを思い出してみようとしたのだけど、その日になにがあって誰と会ったのか、不思議なほど覚えていないので驚いた。ただ、その頃いつも抱えていた「なんかちがう」という感覚だけは覚えている。 20歳当時はまだ学生(専門学校の2年生)で、その年の4月に某パティスリーに就職が決まっている時期だった。すでにそのお店でアルバイトもしていた。就職したら朝から晩まで長時間働いて月給14万円、休みは月に4日、こわい大人のこわい社会、少ないお金と少ない睡眠時間、つらい仕事とつらい人間関係が待っていると、ただただ怯えていた。 さらに、その前の年に父が脳梗塞で倒れて入院していたので、この先の自分には、乗り越えるべき壁と、ガマンする茨の道が待っているのだとガチガチに身構えていた。楽しむことはすっかり諦めていたように思う。 自分は人とちがってつよくならないといけない。自分は人とちがって楽し
わたしは「やりたいこと」が特にない(叶え組)ので、何かをはじめるときの動機は「これがしたい」ではなく「わからないからわかりたい」ということが多い。そして、あとから「ああ、こういうことか!」と自分のしてきたことがわかる。というのがいつものパターンだ。 「編集」について勉強してきたことも、はじめはいったい何がしたいのか自分でもわかっていなかったのだけど、振り返ってわかったことを少し書いておこうと思う。 「編集」を、cakesの加藤さんは「影響力を最大化すること」だと言い、コルクの佐渡島さんは「集める、削る、並べかえる、補足する」の繰り返しだと言う。 9年前、30歳のときに「会社を辞める」ということだけ決めて、「では何をするか?」と、2年間みっちり考えた。(くわしくは過去に書いてるのでよかったらどうぞ) 自分が何ができるのか、何を優先していきたいのか、何をしたくないのか、何が足りないのか、とにか
SNSに並ぶ「今年の目標」を見て思ったこと。 わたしは日付で区切るのが苦手なので、新年に抱負や目標をたてることはなかったのだけど、ここ数年はあえて「なにをするか」を決めて1年間行動していた。 行き先の設定としての「目標」をたてることが昔からできないので、「習慣づける行動を決める」というやり方をしている。たとえば「3kg痩せる」ではなく「通勤時に2駅歩く」というように、動機が「痩せたい」だとしたら、ゴール設定ではなく習慣にすることだけを決める。 わたしは常々「習慣だけが味方」だと思っている。 習慣について、思い出すことがある。 クッキー屋をはじめてしばらくは、わたしもクッキーを作る作業をしていたのだけど、アイシングでデコレーションをするなどの細かい作業を長時間やっていた結果、頚椎ヘルニアになってしまった。痛くて仕事にならないので、リハビリとしてジムで筋トレをはじめた。代謝を上げるためと、肩甲
クリスマスが過ぎて急に年末モードになり、ぼんやりと2017年がどんな1年だったかなーと思い返してみた。 今年は、年始から半年間「コルクラボ」に参加して、コミュニティについて勉強をした。 それまでは持っていなかった視野でいろんなものを見て、普段は読まない分野の本を読んで、分析したり議論したり考察したりした。そこに行かないと会えなかったであろうたくさんの人たちと出会うこともできたし、なにより仕事でも遊びでもないその時間はとても楽しいものだった。 そこで勉強をして身についたことはたくさんあったけど、いちばんおもしろかったのは、自分の意思で選びとっていないテーマについて考えたり、他人の視点を借りて世の中を見たりしたことだった。 「世の中をどう見るか」というとき、ある人は世界を変えたいと思っていたり、ある人は業界を見据えていたり、ある人は明日の献立だったりする。 「自分をどう見るか」というとき、ある
先日、『セブンルール』という番組に出演させていただいた。 おかげさまで、たくさんのクッキーの注文をいただいたり(現在オンラインショップを一時休止しています。ごめんなさい)、あたたかい感想をいただいたり、久しぶりの友人から連絡をもらったりして、とてもうれしい経験になった。 そんな中、クッキー屋をはじめる前に働いていた会社の社長からLINEが届いた。 その会社では、21歳から出産の時期をのぞいた12年間、社員として働いたのだけど、番組内でわたしは「今のわたしの生活を見て”うらやましい”と言われることがあるけど、”わたしの20代とかわってやろうか”って思いますよ」「絶対戻りたくない」という発言をしていたので、気を悪くしたかな?と、ちょっとヒヤリとした。 社長は「サクラ(私)の番組を観るために家に帰ったんだよ」「いい番組に仕上がってたね」と褒めてくれたあとでこう言った。 「でも、サクラの20代もよ
昨日書いた note『世界は「夢組」と「叶え組」でできている』を読んだ友人から、「わたしは夢組かな?叶え組かな?」という質問や報告がたくさんあった。読んで考えたことを共有してくれてとてもうれしい。そうしてやりとりをしている中で出てきたことを、ちょっと補足で書いておこうと思う。 昨日も書いたように、わたしは「やりたいことがない人」つまり「叶え組」で、湧き出る「やりたいこと」は若い頃からずっとなかった。「夢組」の「やりたいことがある人」は「これがしたい」という動機があるのに対して、「叶え組」のわたしはどうやって仕事を選べばいいのかわからなかった。 今になって思うのは、仕事はなんでもよくて、毎日やってもイヤじゃないこと、なんとなく得意なことを選んでやるしかない。ガマンしてイヤなことをする必要はまったくないけど、「これは本当にやりたいことか?」と「やりたいことじゃないから」と手を抜かず、目の前の仕
ここのところ、脳内プチテーマとして「やりたいことがある人」と「やりたいことがない人」について考えていた。 ちなみにわたし自身は「やりたいことがない人」で、今のメイン仕事のクッキー屋さんも、決して「やりたかったこと」や「夢」ではない。シングルマザーが子供と生活するのに「お金と時間がない」というのがイヤで、「ひとの半分の時間でひとの2倍稼ぐ」という目的のために、自分のできることから消去法で削り出した手段で、どちらかというと「この方法しかないから仕方ないな…」と、しょうがなく始めたことだ。(はじめたらちゃんとやっていて、しぶしぶやっているわけではないという言い訳も念のため) わたしの場合、叶えたい条件に向かって考え尽くしてやることを決めたので、ある意味「(叶えるために)やりたいこと」ではある。だけど、わたしの考える「やりたいことがある人」というのは、もっと湧き出る「これがやりたい!」というものが
今年に入ってから半年間、わたしは勉強をしている。 コルクの佐渡島さんが主催している「コルクラボ」というコミュニティ運営について学ぶ場に参加していた。 編集者の佐渡島さんがコミュニティについて学ぶのは、クリエイターから作品を引き出す従来の「編集」に加えて、今後、編集者は作品を届ける先のことまで編集しないといけないという仮説のもとだった。そして、その届け先を編集、デザインすることを「コミュニティをつくる」としてすでに実践している。 わたしはこのラボで、コンテンツ論や編集について、コミュニティ運営についてたくさんの情報を頭に入れ、佐渡島さんやラボのメンバーとたくさんの会話を重ねた結果、ひとつだけ確実にわかったことがある。 佐渡島さんは、編集という作業を「集める、削る、並べ替える、補足する」だと教えてくれた。 文章だけではなく、チームやお店、はたまた自分自身を編集するのにもこれは当てはまるけれど、
10歳のころから「ひとり暮らしがしたい」と思っていた。はやく自分でお金を稼いで、自分ひとりの空間で生活をしたいと願っていた。 東京出身なので「18歳で東京に出る」という目標もたてられず、高校生になって進路を決めるときは、ひとり暮らしができる方法として「早く仕事に就けること」だけで、専門学校に決めた。(北海道の大学に行く案もあったが、より早い自立を選んだ)内容は正直なんでもよかった。 しかし、19歳のとき、あと1年半で自立できるというときに父が倒れ、その後4年間の入院生活を送ることになった。しかもその際に、父が生命保険や医療保険を解約していたことが発覚し、お金と介護の時間が必要になったので、当然わたしのひとり暮らし計画はなくなってしまった。 10年もの間、ずっとひとり暮らしをしたかったのは、父から離れるためだった。近くにいるからうまくいかないけれど、距離さえとれば大丈夫だと思っていた。その父
シングルマザーがクッキー屋を営んでいるという現在の状況になって、過去をふりかえると、よくここまでやってきたなと自分を褒めたい気にもなるのだけれど、こうなろうとしてなったわけではないし、こどものときに「大きくなったらシングルマザーになってクッキー屋さんをやりたい」と思ったことは、もちろんない。自分でもときどき「わたしはいったいなにをやっているんだろう」と、思うことがある。 「目標」をたてる人と、たてない(たてられない)人がいる。目標を立てる人は、遠くても近くても「あっちの方に行きたい」と見据えて進むと、毎日の選択をするのに、どっちの方が目標に近づくか で選ぶことができると言う。目標を立てない人は、その時その時にいいと思うことを選び続けていると、結果的に行きたい方に進むことができると言う。 わたしは完全に後者で、目標に向けてがんばって進んだことが一度もない。嗅覚だけで、いいにおいのする方に進ん
平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』を読んだ。本の感想や紹介は苦手なので、読んだときの心の動きを、アホみたいにそのままお見せしよう。 「個人」を、さらに分けて「分人」という単位で自分というものを見て、人間関係を考える。ふむ。 一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。コミュニケーションは他者との共同作業である。会話の内容や口調、気分など、すべては相互作用の中で決定されてゆく。 つまり、人によって態度がちがうのはあたりまえで、「どれが本当の自分だろうか?」と悩む必要はないよ、どれもこれも全部「自分」だよ、という。 え、揺るがない自分、芯のある自分、じゃなくてもいいの?と読み進める。 誰とどうつきあっているかで性格、個性にも変化があるはずだ。個性とは、決して生まれつきの、生涯不変のものではない。 他人や環境によって個性は変化するから、「本
あっという間に3月になりました。 もうすぐホワイトデーですね。 男性のみなさま、なにをお返ししたらいいかお困りではないでしょうか。 毎年この時期になると、クッキー屋で 尚且つ くいしんぼうのわたしのところには「なに買えばいいの!!」というヘルプのメールが何通か届きます。 おせっかいなわたしは、予算を聞いてはていねいに返答していましたが、今年はめんどくさいので個人的な好みで選んだ一覧をつくってみました。(オンラインショップで買えるものから選びました) ということで、 クッキー屋が選ぶ ホワイトデーにぴったりのギフトを紹介します。 まずはスタンダードに洋菓子でお返しの4点から。 ①メゾンロミユニ 3/12まで限定のホワイトデーギフトもあるようです。 クッキーもジャムもとてもおいしいし、なによりパッケージが超かわいくてフォトジェニック。インスタ映え100点。どんな女子もよろこぶことまちがいなしで
中学生というのはとてもいそがしく、うちのあーちん(中2)も例に漏れずいそがしい。年に6回も定期テストがあるし(ということは2ヶ月に1度はテスト)その間に体育祭やら文化祭やら修学旅行やらの学校行事があり、部活も合宿も大会もあるし、ほんとうにいそがしい。 彼女の学校は毎週土曜日も学校があるので、休みは日曜日のみ。その中で週に1回更新する連載をもち、小3から一度も原稿を落としたことがない(しかも小6までは週2で更新)。すごい。 そんなあーちんは最近、友達とも遊びたいし、あたらしく興味をもってやってみたいことがあっても、なんだか時間がないな ということに気がついてきたようだ。 今だ!と、そのタイミングを逃さず「時間とお金をどこにつかうか」を一緒に考えた。 たとえば部活に時間をつかいすぎて他のやりたいことが何もできないのなら、もし部活をやめた場合どうなるかというと、部活につかっていた部費や合宿費で、
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『桜林 直子(サクちゃん)|note』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く