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アメリカ大統領選
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日本がコロナウイルス流行の第一波を、西浦博先生の必殺技「接触八割削減」でいったん抑えたのはご存知でしょう。この対策は感染を抑止する代わり、日本経済に大きなダメージを与えるものでもあります。そのため第一波が一時的におさまると、西浦先生は感染症対策ばかり重視して経済をぼろぼろにしてしまったと批判する、恩知らずな人々が現れました。 こういわれると、西浦先生を敬愛する人々もカチンときますよね。そこで西浦ファンは、しばしばこう反論します。「西浦先生は、感染症の専門家だろ。経済については責任を負えないよ。政府が感染症対策と経済活動をどう両立させるか考えるべきだったんだろ」と。ようするに、政府が西浦先生からコロナ対策にはどのくらいの行動制限が必要かを聞き入れ、逆に経済学者からはその対策がどのくらい経済にダメージあるかを聞き入れて、ちょうどいいバランスをとる、みたいなイメージですね。 しかしこの時点で、じ
いま日本政府が行っている、コロナとの共存を前提とした経済振興策は、かえって不況をもたらしかねません。理由を説明しましょう。 ヨーロッパの中では比較的コロナ被害が軽微だった北欧で、スウェーデンだけがけた外れの犠牲者を出してしまいました。人口当たりで、他の北欧諸国の5倍から10倍からの人が亡くなってしまったのです。スウェーデンはいわゆるロックダウンをせず、人々の自発的な感染対策(つまり、日本でも最近やたら政治家たちが唱えている、自衛!)にまかせていたからです。 Sweden's Failed Experiment しかもスウェーデンは、経済的ダメージを抑えることもできなさそうです。 欧州委員会は、スウェーデン経済は今年5.3%縮小すると予測しました。この数値は他の北欧諸国のうちデンマークとノルウェーより悪く、最下位のフィンランドより多少ましなだけです。 Sweden's Failed Expe
愛知在住の著名な外科医、高須克弥氏が、あいちトリエンナーレ絡みの件で大村愛知県知事をリコールする運動をはじめたそうです。 高須院長 大村愛知県知事のリコール目指す会設立「県民として支持できない」 これに、以前から高須氏とは仲が良く、大村知事とは犬猿の仲だった、河村名古屋市長も賛同の意を表明しました。 河村たかし大村知事リコール 全力応援。どえりゃあ ありがたゃあ。大村知事 リコール。高須先生 有本 竹田 武田 百田super menber (敬称略)ナゴヤ 記者会見 。大村知事 ナゴヤを コロナ時 独断独裁暴力 提訴。ワシ河村たかし ナゴヤ言葉twitter通訳 どえらけにゃあ 誰かわからんけど appreciate — 河村 たかし(本人) (@kawamura758) June 2, 2020 私は、心底がっかりしました。 河村市長はこれまで、コロナウイルスの対策に積極的にとりくんでき
近代医学を「プロパガンダ」扱い 批評家の柄谷行人が毎日新聞のインタビューで行った発言に、ウェブ上で批判が殺到している。 憲法9条の存在意義 ルーツは「徳川の平和」 思想家・柄谷行人 発言内容は、@C4Dbeginnerさんのツイートによくまとめられているので、紹介させていただく。 ようはむちゃくちゃな内容だ。精神分析的主張といい歴史的認識といい、どこから突っ込んでいいかわからない。さすがに擁護する人も少ないようだ。 しかしこの件について、柄谷も老いておかしくなってしまったとか、湾岸戦争以降におかしくなったといった発言が散見されたのは気になった。柄谷は80年代に日本で起こったポストモダン思想ブーム(ニューアカデミズムと呼ばれる)を牽引した人物のひとりだが、この時点ですでに彼の発言にはトンデモな面があった、とぼくは考えているからだ。 その例として、柄谷がニューアカデミズム・ブームの直前、198
10年前にも「選挙はお祭り」 批評家の東浩紀が、「積極的棄権の声を集める」という署名活動をはじめた。「人々に棄権を薦めるような言動をするなんて、とんでもない!」と批判の声があがるいっぽう、現時点で東のもとには5000人の署名が集まってもいる。 2017年秋の総選挙は民主主義を破壊している。「積極的棄権」の声を集め、民主主義を問い直したい。 東は、自分の意図をこう説明している。今回の選挙は実施するに値しない。そう考えているのは自分だけではないはずだ。よって「積極的棄権」の署名によりその意思表示をすべきである、と。 「今回の選挙、くだらなすぎる」 投票棄権の賛同署名を集める東浩紀さんの真意とは? しかし東の意図が「今回の選挙」を批判することだけにあるなら、たんに安倍首相の衆議院解散への反対署名を集めればよい。なぜ東は「棄権」という言葉にこだわるのか。 じつは東が選挙に否定的な主張をしたのは、今
仲正昌樹教授は、連載ブログでなにを語っているのか――番外:ジャック・デリダ『哲学の余白』 をめぐる捏造 そのⅠ そのⅡ 今回はポストモダンを論じている論者ではなく、ポストモダニストの代表格であるジャック・デリダその人を扱います。「仲正昌樹教授は、連載ブログでなにを語っているのか そのⅠ」の続編にあたる内容なので、未読の方はまずそちらをお読みください。 今回取り上げる仲正先生の記事は「日本的な反ポモ集団は、読解力の低さによって“結束”しているのか?―山川ブラザーズの甘えの構造」です。 http://meigetu.net/?p=5996 魚拓はこちら http://archive.is/KMAtd 仲正先生は、以前ぼくにこんなことをいってくれました。 「ブランクスレート」説というと、何か新しい概念のように聞こえるが、これは高校の倫理などで習う、「タブラ・ラサ(心は白紙)」という考え方のことで
そのⅠはこちら パターン②の例アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著『知の欺瞞』ジェームズ・ロバート・ブラウン著『なぜ科学を語ってすれ違うのか』をめぐる捏造 パターン②の捏造とは、以下のようなものです。 山川「Bという本はとても参考になったよ!」 仲正先生「Bという本には△△という欠陥がある。そんなこともわからずにBをありがたがる山川には、なにもわかっていない」 この△△が捏造、というパターン。 ぼくはツイッターで、なんどかアラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの『知の欺瞞』や、ジェームズ・ロバート・ブラウンの『なぜ科学を語ってすれ違うのか』について言及しました。どちらもポストモダンを批判した本です。すると仲正先生は次のように、これらの本はいい加減な内容のものである、と述べました。 サイエンス・ウォーズ(ソーカル事件)に登場したソーカル、ブリクモン、ブーヴレスや、ポスト・ソーカルの論客として
哲学研究者として著名な仲正昌樹先生が、「月刊極北」のウェブ連載でぼく(山川賢一)を批判しつづけています。 自分の脳内陣取りゲームを現実と思い込み、「お前は追いつめられている! 俺がそう思うんだから間違いない!」、と絶叫するソーカル病患者たちの末期症状 http://meigetu.net/?p=5361 ポストモダンをめぐる大陰謀論 http://meigetu.net/?p=5417 偏狭な「敵/味方」思考で退化が進み、棲息域が狭まる反ポモ人たち http://meigetu.net/?p=5457 「ポストモダン」と「ソーカル事件」に便乗して目立とうとする「山川賢一とその仲間」という寄生虫はどうやって生まれてきたのか?http://meigetu.net/?p=5626 理解できない外国語の文法を恐るべき妄想力で変更する、驚異の反ポモ人間――バカに限界はないのか? http://mei
仲正昌樹さんが「月刊極北」の連載で、ソーカル事件にたいして意味はないという話を以前からしている。 訳が分かっていないのに、「ポモはダメ!」と言いたがる残念な人達 http://meigetu.net/?p=2781 ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち http://meigetu.net/?p=3065 哲学や文学研究はカンタンだと思っている連中の大言壮語 http://meigetu.net/?p=3142 ○×脳の恐怖 http://meigetu.net/?p=5151 さらに、最近三か月の連載は、すべてソーカル絡みの内容だ。ここではぼくも批判されている。 自分の脳内陣取りゲームを現実と思い込み、「お前は追いつめられている! 俺がそう思うんだから間違いない!」、と絶叫するソーカル病患者たちの末期症状 http://meigetu.net/?p=5361 ポストモダンをめぐる大陰謀
けもフレ8話「ぺぱぷらいぶ」、ぼくは初見のとき「今回はいまいちだな……」と感じた。ペパプのペンギンたちはあまりに人間的すぎるようにみえるし、かばんもたいして活躍しない。けものフレンズ本来の面白さをみうしなってるんじゃないの?なんて考えていたのだ。ところが見直しているうちに完全に感想が変わった。この回はすごい。どうすごいかを説明しよう。 8話の最重要ポイントは、「プリンセスはなぜ、自分が先代・先々代のペンギンアイドルにはいなかったロイヤルペンギンであることを気にかけているのか」だ。ここが理解できないと、プリンセスがどうでもいいことでへそを曲げているようにしかみえない。よってプリンセスの復活劇にもさほど関心をもてなくなってしまう。 プリンセスの苦悩を理解するには、フレンズたちにとってアイドルとはなにか、ということを理解しなければならない。マーゲイはプリンセスの功績をたたえ「アイドルという概念を
雑記を書き始めた理由の一つは、noteに人の批判ばかり書いているのも印象悪いよなあと思ったからなのだけれど、結局また批判を書くことになりそう。いくらなんでもそりゃないでしょ、という発言をみてしまったので。 5月25日、批評家の東浩紀さんが、笠井潔さんと藤田直哉さんの対談集『文化亡国論』について、こんなツイートをした。 この本のなかではぼく(東浩紀)は、3.11までは環境管理型権力万歳で動物化万歳のユートピアを夢見ていたけれど、3.11以後は転向してそうじゃなくなったと書いてあるけれど、それはさすがに悪意ある要約というもので、実際にはそうではないです。むしろ環境管理型権力を批判していたはず。 https://twitter.com/hazuma/status/603036378083917824 環境管理型万歳の社会のなかで、別の可能性をいかに見いだすかというモチーフで、ぼくはデビュー作『郵
はじめに この文章は、シン・ゴジラとはどのような物語だったのか、をテーマとしたものです。ネタバレ全開なので注意してください。 執筆のためイムログさん(ツイッターアカウント:@Imrogfada)と長時間にわたるディスカッションを行い、多大なヒントをいただいた結果、実質的には二人の合作というべき内容になっています。そのほか、ツイッター上で多くの方々からいただいた助言も参考になりました。記憶に頼って書いているのでセリフまちがいなどはあるでしょうが、大筋はこれで正しいはずです。 アメリカはなぜ無人機を提供したか 映画の後半で、カヨコ・アン・パタースンはアメリカを代表して矢口蘭堂に、ヤシオリ作戦のため無人航空兵器を提供する意志があると伝える。ゴジラは米軍機の大型貫通爆弾にダメージを受けて以来、接近する飛行物体を光線で無条件に撃ち落すようになっていた。この習性を利用して、無人機相手に光線を撃ち尽くさ
そもそも知の欺瞞のポモ批判は合わせ技なんだよね。ポモは「A文章が極端に難しい」「B書いてあることにまちがいが多い」。AとBの二つが合わさって最強の威力を発揮する。 まずはAについて。ある本が難しい文章で書かれている理由としては、次のようなものが考えられる。 ①そのようにしかかけない、そもそも難しいことを書いている ②書き方が下手 ③読者を煙に巻いている で、知の欺瞞以前はポモについて、擁護派は①、批判派は③だと思っていることが多かったわけ。 ソーカルらがやったのは、この状況に、B、つまり内容にまちがいが多いという事実をつきつけて、ポモ系の文章には、書いてる本人すら意味を理解できていないような記述がたくさんあることを暴き出すことだ。そのため、文章が難しいのは煙に巻いているだけである、という批判派の主張はがぜん説得力を増したわけ。 なのでポモ擁護派は、意図してか無意識のバイアスかは知らないけど
(この論考はいわゆる投げ銭システムになっていますので、無料で最後まで読むことができますし、それでかまいません。気前のいい方は100円払ってくださるとうれしいです) アンチ・エビデンス論 立命館大学准教授、千葉雅也は、最近「アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」と題する論考を発表しました(以下、これを「アンチ・エビデンス論」と呼ぶことにします)。 http://10plus1.jp/monthly/2015/04/index03.php 千葉はドゥルーズ論「動きすぎてはいけない」などの単著を持つ、期待の若手哲学研究者。今回の論考も、発表直後はネットで賞賛の声に包まれました。ところが、その後数日して、批判の声も高まり始めます。とくに反感を呼んだのは、その文体でした。 分身から分身へと移ろう不安のマゾヒズムを再起動させること。すなわち、あらゆることがあらゆるところに確実
宇野常寛の批評は、内容がどうこう以前にそもそも文章として読むに耐えない。しかしそういうと、「読めないのはお前の読解力が乏しいからだ」と批判されたりするのが、日本のゼロ年代論壇というやつだ。。バカを言っちゃいけない。日本中を探しても、ぼく以上に宇野の文章をきちんと解読できる人間は多分一人もいないぞ。宇野自身だって、自分のいっていることをぼくほど理解できているかは怪しい。ためしに、ちょっと分析してみよう。 宇野は、『リトル・ピープルの時代(以下リトピー)』の序盤で、蓮實重彦や浅田彰を批判している。今回は、この部分を扱うことにしたい。宇野はまず、蓮實らの思想を、次のように要約した。 引用部①――宇野による蓮實・浅田の要約 この「物語批判」的な想像力には、当時日本社会に出現し始めていた消費社会のイメージが重ね合わされていた。「都市」の洗練された空間では貨幣の、情報の、そして記号の「交通」が自動発生
大塚VS東 大塚英志と東浩紀の対談集『リアルのゆくえ』には、〇一年から〇八年にかけて行われた四本の対談が収められている。まずは〇一年の、大塚の発言からみてみたい。 ……まあおたく産業でおたくが気持ちよく引っかけられてることに水差すのは無粋かもしれないけれど、それが別の水準、たとえばやっぱり国家には権力システムはあるわけでしょう。それは自分が認知する、しないというレベルでは済まないと思うんだけど、そこに対する問題設定が見えてこないんだよね。(『リアルのゆくえ』、p25) 東によれば、「動物化」したオタクは、作品に「萌え要素」の「データベース」を求めているだけであり、作家の意図だとか、企業のマーケティング戦略などには無関心である。そして東は、こうしたふるまいがアニメやゲームの消費にとどまらず、ポストモダンの人々の生活態度すべてに及ぶことを匂わせてもいた。 すると、もし東のいうとおりなら、ポスト
(一応価格が表示されていますが、本稿は無料で最後まで読むことができます。お支払いは、気が向いた方のみで結構です) 批評家、東浩紀は、現代社会論的な観点から、アニメやノベルゲーム、ライトノベルといった、いわゆるオタク系のサブカルチャーをしばしば論じています。この方面での代表作は、『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会(以下動ポモ)』になるでしょう。 しかし東のオタク文化論にたいする、人々の評価は安定しません。東の提示した概念(データベース消費、動物化など)にもとづいて自論を展開する論者は、すでに何人も現れています。いっぽうで、彼の主張を強く批判する論者もあとを絶ちません。なぜでしょうか。理由の一つは、一見平易な文章で書かれているにもかかわらず、『動ポモ』には難解な面があり、論者により解釈が一致しないことにあります。 肯定するにせよ批判するにせよ、『動ポモ』に満足な評価を下すためには
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