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英文学科の多くの学生は別に原書で文学を読んだりはしない。英語の文学を誰の助けもなしに原語で読むというのはそれほどたやすくはない。物語や詩を読むのは、論文を読むよりも大変なことだと思う。さすがに院生だと読まざるを得ないけれども。 原語で読みやすい英文学とは何か、と考えてみた。英文学の王様であるシェイクスピアだが、これは原語で読むのは辛い。長らくアメリカに住んでいたネイティブの人も、自分はシェイクスピアは読めない、と言っていた。あるいは児童文学的な側面を持つために読みやすい印象のある『ハックルベリー・フィンの冒険』などは実際はスラングが多く、読むのに骨が折れる。TOEICがほぼ満点の知り合いがいるが、彼ですら『ハックルベリー・フィンの冒険』は読むのに骨が折れたと言っていた。『不思議の国のアリス』も独自の単語が用いられており、そう簡単には読めない。 以下、原書で読みやすい英文学を挙げてみる。思い
日本語について (1979年) (角川文庫) 作者: 大野晋出版社/メーカー: 角川書店発売日: 1979/05メディア: 文庫 クリック: 12回この商品を含むブログ (1件) を見る国語学の大家の著作。話は自由自在に飛び、自身の戦前の思い出から、本居宣長論、英語と日本語の比較論、志賀直哉とフランス語国語論、日本語のタミル語起源論など、多岐に渡っている。 元々、著者は文学を好む青年だったが、戦時下で橋本進吉に親炙したことにより国語学の道を進むこととなる。文学を好む人は多いが、語学を好む人は少ない、と述べているが、確かに私の周りでも言語学や英語学を好む人はそれほど多くはなかった。 著者の本居宣長論は、江戸時代の大家に対する敬意がこもっており、彼の若き日の恋愛や社会的立場から学問的業績までを広く論じており興味深かった。18世紀の宣長は、11世紀頃の『源氏物語』を新たに読み変えていった。彼は伊
幾つかあると思う。 A まず日本語訳を読破し、その後で原語で同小説を読み進める。読む途中で、適宜日本語訳を参照にする。可能ならば原文のalternatveな訳も考えてみる。 B その小説をもとにした映画を見た後で、原作の小説を原語で読み進める。大まかなストーリーは頭に入っているので、ある程度は読みやすいはず。ただ、映画と原作で大幅にストーリーが異なる場合はちょっと困るかも。 C SparkNotes(http://www.sparknotes.com/)のような解説サイトを読みながら、原語で小説を読み進める。 D 簡単なあらすじなどを読んだ上で、最初から読み進める。辞書必携。 A→Dと難易度は上がっていくと思う。B、Cは難易度は前後するかも。 個人的にはAが一番、日本語を母語とする人が英語小説を読むのに適した方法だと思う。格好付けずに日本語訳を活用しようよ。訳がない場合には仕方がないけどさ
原書読解ですが、えーと前言撤回で、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んでいます。面白い。ペンギン版で読んでいるのだけど、172ページの中編である。ペンギン版の『チャタレー夫人の恋人』は314ページであり、『ギャツビー』が長編であるという私が持っていた認識は改めなければならないのかもしれない。 ところで、物語のヒロイン、デイジーの魅力のなさはこの中編の一つの特徴である。デイジーはニックの回想の中では魅力的に見える。が、現実のデイジーはトムの凡庸な妻であり、ギャツビーが心を惹かれる理由も明確ではない。作者が意図的にデイジーを魅力的でない女性に造型したのかどうかは定かではない。ただ、デイジーの凡庸さはこの小説にある響きをもたらしている。それは、虚栄の響きである。グレートな存在であるはずのギャツビーは凡庸なる元カノに心を奪われたままでいることで、そのグレートさが虚構のものでしかないと
ダルデンヌ兄弟の最新作『ロルナの祈り』を見てきた友人が言っていた。「全編、音楽らしい音楽はないのだけど、最後の方にベートーヴェンの音楽が鳴る。それがとても効果的だった」 ウルフの『灯台へ』は名作である。個人的には20世紀の英語小説の中でもベスト5に入れるべき作品だと思っている。このワーズワースクラシックにして150ページ強ほどの、それほど長くない小説は3部に分かれている。1部ではラムゼイ家の平凡な日常を綴っており、事件らしい事件は起きない。ただ、ラムゼイ家が灯台に向かう様と、個々の人物(とりわけミセス・ラムゼイ)の意識の流れが描かれる。太りすぎを気にするメタボなミスター・ラムゼイ、娘が行き遅れないかどうか心配するミセス・ラムゼイ、絵を描くことを好むリリー、その兄弟のジェームズ、女性を蔑視するインテリのチャールズ・タンズリー……。個々の登場人物は英雄でもなければ悪役でもなく、レオポルド・ブル
コンスタンス・ガーネット訳の『カラマーゾフの兄弟』だが、フョードルが死に、ドミートリーが父親殺しの容疑をかけられるところまでようやく読み進めた。ドミートリーと彼を追い詰めるペルホーチンのやり取りは喜劇的でありなかなか面白いところ。 「容疑があるとはいえ、殺人など犯していない俺がまさか父親殺しの犯人にはされないだろう」……とたかをくくり自らの容疑を晴らす気などなく気ままに発言するドミートリーが、次第に不利となる証拠が出てくることで余裕をなくしていく喜劇的な様は見もの。 しかし、さすがに日本語の本が恋しくなってきたので、図書館で以下の本を借りる。 第一次世界大戦とモダニズム―数の衝撃 (SEKAISHISO SEMINAR) 作者: 荒木映子出版社/メーカー: 世界思想社発売日: 2008/06メディア: 単行本 クリック: 1回この商品を含むブログ (2件) を見る英詩の研究者が、イェイツと
夢・アフォリズム・詩 (平凡社ライブラリー) 作者: F.カフカ,吉田仙太郎出版社/メーカー: 平凡社発売日: 1996/06/12メディア: 文庫購入: 6人 クリック: 81回この商品を含むブログ (33件) を見るカフカの夢日記やアフォリズム、散文詩などを収録した新書。特にアフォリズムが興味深く、「お前と世界との決闘に際しては、世界に介添せよ」を始めとして彼の思想家としての特異性を明らかにする言葉が溢れている。主体性の哲学やロマンティシズムの文学に従わず、彼は近代に向き合った。カフカの見た近代は、マックス・ウェーバーの見た近代に近いのかもしれない。それは、キリスト教的な「人間」が同時に行政的な「公民」であるという矛盾を抱えた時代としての近代である。 「どうやって世の中のことをうれしく思えるだろうか、そこへ逃げてゆくとき以外に?」(158) 「彼の疲労困憊は、死闘を終えた古代ローマの闘
00年代を代表する洋楽ロックバンドを20くらい選定しようと思ったのだけど、なかなかうまくいかない。コメントやブックマークでアドヴァイスをいただけると嬉しいです。 狭義のロックに限定。テクノやヒップホップのアーティストは除いた。 Limp Bizkitなど90年代にも活躍したアーティストを除いた。00年代になってからブレイクしたアーティストに限定した。 個人的に気に入っている曲のyoutubeアドレスを付記した。 Arcade Fire http://jp.youtube.com/watch?v=DEKC5pyOKFU&feature=related Arctic Monkeys http://jp.youtube.com/watch?v=30w8DyEJ__0&feature=channel Bloc Party http://jp.youtube.com/watch?v=2R6S5CJW
反哲学史 (講談社学術文庫) 作者: 木田元出版社/メーカー: 講談社発売日: 2000/04/10メディア: 文庫購入: 6人 クリック: 38回この商品を含むブログ (27件) を見るソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、シェリング、ニーチェ、ハイデガー……。 哲学者である彼らがいかに「反哲学」的であったかを叙述し、哲学者たちの既存の哲学を乗り越えようとするベクトルに焦点を当てた木田元らしい哲学史である。 ソクラテスはそれまでのソフィストの知性主義的な哲学をアイロニーによって乗り越えようとした。プラトンもソクラテスの思想をそのまま継承したのではない。ソクラテスとプラトンの間にある断絶に目を向けようとする著者の姿勢は好ましい。アリストファネス(『雲』)もクセノフォンもソクラテスを描いた。プラトンの描いたソクラテスを絶対視してはならず、ソクラテスのプラトン的解釈
再び、良質なエントリを共有したい。 id:sakstyle:20071118:1195368440 「現前性」について。勉強になった。 小説を透明な鏡のようなものとして扱うモダンが崩壊した後に、小説には2つの道が残された。 一つは、メディアの物質性を追求する道。 もう一つは、「歪んだ鏡」として新しいメディアを追求する道だ。 以下、小説に限定する。 一つは小説という物質性に拘る道。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』がこちらに当たる。もう一つは歪んだ鏡として、現前性を表現する道。アメリカのSF作家の作品やライトノベルがこちらに当たる。 ちょっと原エントリの読みが甘いかもしれないが、自分なりに展開してみたい。 現代の小説家が直面する状況は、ある点においてはマニエリスムの作家たちの状況と共通する。ルネサンス的な自然を鏡として写すような絵画がミケランジェロによって頂点へと祭り上げられたとき、マニエ
他の人のブログを読んでいると、よく優れたエントリと出会う。私のアンテナを通じて、あるいはduke377さんのブックマーク(http://b.hatena.ne.jp/duke377/)やwtnbtさんのブックマークを通じて、優良のエントリを発見する。 優れたエントリを少しは共有してみたいと思う。今回は2つのエントリを選び、感想を書いてみた。 id:littlelielittle:20071011 柴田元幸編『文学の都市』に所収されている論文についてのエントリ。興味深く拝読した。 ここでパトリック・カヴァナーというシェイマス・ヒーニーに影響を与えたアイルランドの詩人のことが言及されている。 教区的である、ということはカヴァナーによると「古典を自らの地域のものとして語ることである」という。なぜわざわざカヴァナーは教区的(parochial)という言葉を使用したのか。上記のエントリからは少し外れ
昨日、ドストエフスキーの信仰の特徴として 1教義を重んじず、体験を重んじる信仰が肯定されている。 2日常的な生活における幸福が肯定されている。 3信仰と知性・理性が切り離されている。 があると書いた。1と3に関しては、ドスト氏と同じく東方正教会圏の映画監督タルコフスキーについても言えることではないかと思う。具体的には、後期の3つの作品『ストーカー』『ノスタルジア』『サクリファイス』においてこのタイプの信仰の形が表現されている。 ストーカー [DVD] 出版社/メーカー: アイ・ヴィ・シー発売日: 2002/12/16メディア: DVD購入: 2人 クリック: 94回この商品を含むブログ (75件) を見る『ストーカー』においては、主人公と作家と科学者の3人がゾーンへと入り込む。作家は文学の知識があり、科学者は科学の知識がある。それに対して密猟者(ストーカー)と揶揄される主人公には特殊な知識
ギリシャ正教 (講談社学術文庫) 作者: 高橋保行出版社/メーカー: 講談社発売日: 1980/07/08メディア: 文庫 クリック: 20回この商品を含むブログ (11件) を見るギリシャ正教会の歴史、儀礼、思想について書かれたもの。著者は正教会の聖職者であり、ギリシャ正教の教えを伝道する立場にある。そのためか、「ギリシャ正教は優れており、カトリック・プロテスタントは劣っている」という歴史観・思想観が散見される。しかし、思想・宗教の優劣などというものはそう簡単には決められないものであり、その辺りは少し差し引いて読まなければならないだろう。 著者はギリシャ正教の説明をするためにドストエフスキーを何度か引用している。ドストエフスキーの生きた19世紀ロシアにおいては、伝統的な正教とローマ・カトリック・プロテスタントが混淆した状態にあった。これは18世紀ピョートル大帝がカトリック・プロテスタント
http://anond.hatelabo.jp/20070304023650 匿名ダイアリーのエントリ(通称「増田」)。なかなか良いこと言うなあと思った。エントリの書き手も芥川も。 空も水も木もただそこにあるだけで何ら意味はない。しかし、人間は空や水や木に物語性を見出すことができる。あの空は自分たちのためにある、あの水は自分たちのためにある、と。旧約聖書を読むと、預言者たちの物語性への強い意志を感じる。例えばイザヤ書(id:ryoto:20080101#p1)。自分の身の回りに起こる出来事を神の意志によって起こったものだとして意味づけ物語(story)としてしまう。 しかし、一方で、そのような物語性を解いていくような思想もある。大乗仏教の仏教者たちはそのような物語性をできるだけ解くように思考する。例えば道元の「畢竟如何」。「結局これが何だというのだ」という問いである。そしてこの問いは「結
あるいは、大正であろうと明治であろうと、いつの時代の表現も、いきつくところ「引用と再構築」なのであって、それは昔から変わっておらず、近代においてしばらくのあいだだけ、個性やオリジナルというものがあたかも存在するかのような錯覚があった、というだけのことなのかも知れない。 id:zoot32:20080106#p1 「空中キャンプ」さんのエントリ「谷崎潤一郎 ─ 引用と再構築」より。 詩人が詩を書くこと。音楽家が音楽を作曲すること。あるいは画家が絵を描くこと。これらの芸術的行為を何というか。ヨーロッパでは大きくわけて3つの芸術観があったと思う。 1模倣 2準創造 3創造 1は古代ギリシア・ローマ的な芸術観であり、芸術をつくるということは何かを模倣するという考えである。この模倣というのは、単に古典や先行する作品の模倣という意味だけではなく、現実世界の模倣(ミメーシス)も含んでいる。プラトンが絵画
ダイアローグ〈5〉1990‐1994 作者: 柄谷行人出版社/メーカー: 第三文明社発売日: 1998/07メディア: 単行本 クリック: 2回この商品を含むブログ (1件) を見るこれを読んだ。メモ程度に。 「路地の消失と流亡」(中上健次) 中上は若い頃、クラシックの作曲家に憧れていたという。彼はジャズやロックのイメージもあるが(アイラーとかボブ・マーリーとか)、当初クラシックを聴いてからジャズやロックに流れていったらしい。別の対談で川村二郎が中上の小説はクラシックといっても完全に構築された曲ではなく、ブルックナーの8番のような延々と続く曲を想起させると発言。タイトに構成されつつも延々と続いていく感のある秋幸サーガは、確かにブルックナーっぽいかもしれないな。その後の小説はともかく。 「死について」(日野啓三) 日野が『エクソシスト』に出てくるような絶対悪としての悪霊は理解できないと発言。
id:Geheimagent:20080107:p1 ここで少しGeheimagentさんとduke377さんからアドルノに関する話を伺った。 http://kulturindustrie.blogspot.com/2006/01/heidegger-adorno.html アドルノのハイデガー批判に関する、ハンナ・アーレント(ハイデガーの弟子)の手紙。カール・ヤスパースに送ったものらしい。 そしてよりグロテスクなこととして、Wiesengrund(半分はユダヤ人で、私が知る限り最も嫌悪感を起こさせる人の一人である)はナチスと同列に並ぼうとしていたということが立証されたのです。何年もの間、彼とホルクハイマーは、反ユダヤ主義に関して彼らに反対するものを糾弾し、自分たちの意見に従うように脅してきました。 アーレントは相当、アドルノ・ホルクハイマーの理論を嫌悪していたらしい。確かアドルノが戦前、
後期のハイデガーは特に難解であることで知られるが、著者は後期の思想に対しても短いながらも的確な解釈を行っている。 この捧げるということの意味は、思考のうちで存在が言葉になって現れるということにほかならない。存在こそ言葉の住居である。 (202) 人間のとってすべてのものが「言葉」のうちに現れる。言葉は存在の住まいであり、ゆえに私たちは言葉を通ってこそ存在者に到達することができる。森に行くときは「森」という言葉を通って森へと行くし、泉に行くときは「泉」という言葉を通って泉へと行く。仮に「森」「泉」という言葉を思い浮かべなかったとしても、視点は「森」「泉」という文節によって「森」や「泉」の存在を見出す。 人間は存在の住処である言葉を通ってこそ、初めて存在へと行き着くことができるのである。言葉が分節を行うことで、「私」は個々の存在に触れるのである。言葉は人間のコミュニケーションの手段でもなければ
ハイデガーの思想 (岩波新書) 作者: 木田元出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1993/02/22メディア: 新書購入: 6人 クリック: 50回この商品を含むブログ (36件) を見る 二千五百年に及ぶ西洋の文化形成の原理を批判的に乗り越え、<生きた自然>の概念を復権することによって文化の新たな方向を切り拓こうとするその意図を、「血と大地」に根ざした精神的共同体の建設というナチズムの文化理念に重ね合わせて考えようとした、あるいはナチズムを領導しておのれの文化理念に近づけうると夢想した、その心理は理解できるように思うのである。 (197) 第7章「ハイデガーとナチズム」より引用。 ハイデガーにとってのギリシア哲学がどのようなものか、簡潔に説明がなされていて勉強になった。ニーチェもハイデガーも(ラヴジョイも)、プラトン・アリストテレス以降の西洋の形而上学を総体的に捉え、その形而上学の本
現代史を学ぶ (岩波新書 新赤版 (394)) 作者: 溪内謙出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1995/06/20メディア: 新書購入: 2人 クリック: 6回この商品を含むブログ (26件) を見る読んだ。著者はロシア現代史の研究者で、ハーバード大学留学中にE・H・カーに師事している。著者はカーとその師にあたるコリングウッドの20世紀オックスフォード・ケンブリッジ的な歴史観を継承しており、その歴史観に対してはほとんど異を唱えることなく肯定している。そのためにカーの『歴史とは何か』(id:ryoto:20070525)と本書は重複する部分がある。『歴史とは何か』を未読の人であれば、本書は「最良のカー入門」としての役割を果たすことにもなるだろう。 さて、本書のテーマは現代史である。著者は現代史を研究することの難しさについて、現代史は昔の歴史に比べてifがあるかのように思えてしまう、とい
>この拙い日記を読んでくれる方々へ 今年一年お世話になりました。コメントやブックマークでいただいた言葉の数々を参考にさせていただいています。来年もよろしくお願いします。 魔法ファンタジーの世界 (岩波新書) 作者: 脇明子出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2006/05/19メディア: 新書 クリック: 8回この商品を含むブログ (27件) を見る脇明子『魔法ファンタジーの世界』を読んだ。ファンタジー文学の研究者がトールキン、ルイス、ル=グウィンや、アーサー王伝説、北欧神話といった広義のファンタジー作品について論じた新書である。 この本の結尾で、著者は中沢新一の「カイエ・ソバージュ」に言及し、以下のように述べる。 それはともかくとして、中沢は、かつて私たちの祖先が語り伝えてきた神話は、「宇宙の中で拘束を受けながら生きている人間の条件」について哲学するものだった、と述べる。 その拘束とは
http://en.wikipedia.org/wiki/Star-crossed "star-crossed"というのは「星回りの悪い」という意味の形容詞。『ロミオとジュリエット』のプロローグで使用されていることで有名だが、他の使用例については知らなかった。面白い項目だと思う。 http://jp.youtube.com/watch?v=JFhkhRZhDas Take Thatの"Patience"2006年の曲。アイドル・グループ(?)とは思えないほどクオリティの高い名曲。 http://www.youtube.com/watch?v=6Calt6ZYS8o Flowの"Colors"コードギアスのテーマ曲。Flowというと「贈る言葉」のイメージしかなかったけど、この曲はとても良いなあと思う。 今年、初読した本の中で特に印象に残ったものを20冊列挙します。これは決して個々の本の価値を
そして、一つの中心からのみ小説家は形式を達成しうるのであって、その形式の目ざすところは小説の経済にある。 (中略) ジェイムズの比喩はアルベルティの遠近法理論に由来している。その淵源はルネッサンスにあり、もともと画家の比喩である。一定の固定した視点から、一つの測定可能な距離をおいて眺めたとき、絵画は一貫して観察された世界となり、一切の関係は可能なものとなる。 (128-129) アルベルティ、ニュートンこそが19世紀リアリズムの固定した視点を創造したということになるのだろうか。 一世代前に、ホワイトヘッドは、ルネッサンス以来、科学はその大前提を正当化しとうなどとは頓着せず、自由に先行する体系理論からそれが必要とする合理性を借用してきたのであった、と述べたことがある。科学における非合理的要素についてはアーサー・ケストラーがかつて強調したところだが、彼は、科学者とは一種の夢遊病者のようなもので
id:ryoto:20071221#p3 「19世紀リアリズムと『小説神髄』」の続きとなる。 今現在、日本語で純文学の小説を書くとなると、大きくわけて2つの方向が考えられる。一つは、坪内逍遥が『小説神髄』の中で提示したような近代リアリズム小説の形式を保持したまま、あるいは改良しながら、新たな小説を書くという方向。もう一つは、日本が100年間の間守ってきた近代リアリズム小説の形式を破棄し、海外文学の形式を取り入れることでポスト近代の小説の形式を開拓することである。高橋源一郎に『日本文学盛衰史』という小説があるが、衰退してしまった近代日本的な小説に対して、どう向かっていくか、が現代の作家たちには問われているのだろう。 A保持・改善する方向 1作家史上主義 アイドル性のある作家が小説を書く。具体例としては、綿矢りさ、金谷ひとみなど。アイドル性のある作家によって書かれる小説というものは、近代自然主
白い壁に赤いライトを当てると、赤く見える。白い壁に青いライトを当てると、青く見える。しかし、赤かったり青かったりするのはライトの色であり、白い壁そのものは決して赤くも青くもない。ただ白いだけである。 生そのものを楽観的に見たり悲観的に見たりする人がいる。しかし、生そのものには楽観性も悲観性も存在しない。生そのものは白い壁のようなもので、ただそれに当たるライトの色が映るだけである。 だから私は楽観主義に与さないし、かつては悲観主義者であったけれども今はそれほど悲観主義にも魅力は感じない。 文学とテクノロジー (1972年) (研究社叢書) 作者: 野島秀勝,W・サイファー出版社/メーカー: 研究社出版発売日: 1972メディア: ? クリック: 5回この商品を含むブログ (2件) を見るマーシャル・マクルーハンはグーテンベルク以降の出版文化が視覚優位の状況をつくり出し聴覚を抑圧してきたことを
ジョルダーノ・ブルーノとスピノザはおそらくこの「存在の連鎖」という形而上学的神学の矛盾に気がついていたものの、その矛盾を露にしようとはしなかった。スピノザは「時間内世界の必然的な充満」と「必然的な不変化性」の双方を証明しようとしたが、結局論理的には証明できなかったという(非論理的な論法を使うしかなかった)。それというのも、必然的な不変化性は本来的に時間内世界の充満を必要としないからである。例えば、三角形の3つの角の和が180度であるという公理は、時間内世界において真なるものではない。時間内世界の真であるものは普遍的な真理ではなく(普遍的な真理は時間という概念を必要とはしない)、それゆえに不変化性のある公理は時間内世界の真とはなり得ない。著者はスピノザは「存在の連鎖」の矛盾に気がついていたのだろうと考察しているが、おそらくその通りなのだろう。 大雑把に言うと、この「存在の連鎖」は17世紀末あ
http://www.msu.edu/~sullivan/BeckettPoem1.html 1 ただ単に絶望すればいいのではないか 言葉が流血していく 機会に絶望すれば 不妊になるよりかは流産した方がましではないのか 時間はあなたの行ってしまった後では本当に重苦しい 時間は常に重い爪を引きずり始めるであろう。早すぎるくらいに その爪は盲目にも欠乏(欲望)のベッドを引っかき 骨と、古い愛と、かつてはあなたのような眼によって満たされた眼窩 を引き上げる 全て、常に、早すぎる方が決してしないよりも良いのだろうか。 黒い欠乏(欲望)が彼らの顔に飛び散り 再び言おう、9日間経っても愛されたものは浮かび上がらないだろう たとえ9ヶ月を経ても たとえ9つの生を経ても 2 再び言おう あなたが教えてくれなければ、ぼくは学ばないだろう 再び言うが、これが最後だ(一つの終わりだ) 本当に最後の時間 物乞いを
文庫 新版 指輪物語 全9巻セット 作者: J.R.R.トールキン,瀬田貞二,田中明子出版社/メーカー: 評論社発売日: 1997/02/01メディア: 文庫 クリック: 24回この商品を含むブログ (69件) を見るアレゴリー(寓意)と17世紀の仮面劇は、「善」「悪」「罪」といった宗教的な諸概念を一人の人間の中に宿らせる手法という点で共通性がある。例えば、最も著名な近代アレゴリー文学であるバニヤンの『天路歴程』においては、主人公はクリスチャンという名前であり、これは(清教徒における)キリスト教徒のあるべき姿の寓意となっている。『天路歴程』では「虚栄」や「貪欲」といった罪が人間の形をして登場する。「虚栄」を体現した人間、「貪欲」を体現した人間を描く物語は、確かに内面的な深さを重視する近代文学者から見れば薄っぺらいものであったかもしれないが(坪内逍遥もアレゴリーをあまり評価していなかったよう
1999年頃、日本のロック雑誌でNoel GallagherがUKロックの名曲10曲というものを挙げていたのを覚えている。確か、以下のような10曲だと思ったのだけど、明確には思い出せない。確実に覚えているものには○をつけた。 The Beatles "Tomorrow Never Knows" ○ http://www.youtube.com/watch?v=y1u489DqbMQ The Rolling Stones "Gimme Shelter" △ http://www.youtube.com/watch?v=Mqg1WVVmgx0 The Who "My Generation" ○ http://www.youtube.com/watch?v=i0XknwXqLDo David Bowie "Rebel Rebel" △ http://www.youtube.com/watch?v
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