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年末進行が終わった。来年の用意とか締め切りがはっきりしないものとかちょこちょこやることはあるのだが取りあえず終わった。疲れた。前にも書いたけど、秋ぐらいからずっと年末進行っぽい忙しさで11月くらいには死ぬ死ぬとか思っていたのだが12月になったらキーボードに触るのもイヤになるほど人間として出涸らし状態になったりもして大変だった。しかし終わったのだ。年が明けてからも忙しそうだけど、この数ヶ月よりはマシであると思いたい。 今月はさすがにこのブログも更新できなかったなあ。ケータイ小説の話で速水健朗さんにすこし引用していただいたのでサウスパークにからめて一筆書きたかったのだが時間が取れなかった。でもこれは、この休みの間にやろう。というかできれば今日書きたいが、書けるのか、書けないのか。それから吉田アミさんにも劇場版「空の境界」のことで言及していただいた。パンフのこと。これも書かなきゃ。で、もう一個書
10月ぐらいからずっと年末進行のような多忙さである。個人的にはもうすっかり2007年は「ゆく年」扱いであって送り出す気まんまんだが、暦の上ではまだ12月にもなっていないという。勘弁してほしい。しかし自分としてはすっかり2007年は終わり気分であるから、今年を総括したようなことも考えたりする。今年はいろいろなジャンルで目新しい動きがあって、いい年だったと思う。数年前の年末年始に味わった、あの空転しているような停滞感はないようだ。 個人的にそれを一番感じたのは、やはり音楽においてだった。音楽というジャンルは10年前には他の全ての文化を牽引する新しさがあったが、ゼロ年代に入るころから細分化を重ねて全体に波及するようなダイナミズムを減少させ、先鋭的な音楽のあり方が社会全体を暗示するようなことはなくなったように思う。たしかに、今年もやはりそうではあったのだが、しかし今年はこの数年のミニマルな動きがよ
こないだの座談会で吉田大助さんに会ったときに、新垣結衣について熱く語ってらしたのがずいぶん気にかかっている。僕はもう最近はすっかり「恋空」をいかにして読むかということを考えているのだ。そう思ってるくせに、たった今までどんな話かもよく知らなかった。だからこの姿勢は全く誉められないことだと思う。しかしケータイ小説は、今一番ひどい扱いをしてもいいと思われているフィクションの1つだ。たくさんの人が熱っぽく支持していて、しかし明らかに軽んじていいとされている。それは僕にとってギャルゲーやライトノベルが通過した状況と同じに見えるのだけれど、そういうふうに考えて、それらの作品を読み正して(まさに読み正すのだ)みようじゃないかという人はあまり見かけない。結局だれも、自分の好きな物だけが好きなのだから当然だ。僕はしかし、昔から何が好きというよりも、狭い場所でひどく支持を集めていて、他からは顧みられないものが
先日、ある雑誌の編集者の方に「2008年に新たに注目されるコミック作家は誰だと思いますか?」と問われて、僕が挙げたのは水上悟志と福満しげゆきだった。水上悟志については、「惑星のさみだれ」がどんなに少なく見積もってもアニメ化ぐらいはされるに決まっていると信じているのだが、福満しげゆきについては、ちょうどその質問をされたときに出ていたモーニングの「僕の小規模な生活」に この漫画は、あと3回で終わります。「続けろ」とおっしゃっていただければ続ける覚悟はできております。 と書かれていて、それが大変気になっていたからだった。だからほとんど、注目されてほしい、そうあってほしいという気持ちから彼の名前を挙げたのかもしれない。でも結局そのことはしばらく忘れていて、それで今週モーニングを立ち読みしたら、このマンガは最終回だった。終わることが告知されてから、欄外には読者から寄せられたコメントがたくさん載ってい
週刊少年ジャンプに用があってそれを買い求める。そうしたら巻頭カラーが「魔人探偵脳噛ネウロ」だった。最近考えているのは、ちょうど「謎」のことだ。90年代に入ってフィクション全般がゆっくりと躍動感を失いつつあったときに、最も早い時期にその黄昏が訪れ、そして最も酷たらしく身を蝕まれたはずの小説において、ミステリだけは屋台骨を失わずに物語としてあることができたと思う。今ひもとくべき資料が手元にないので詳しく言えないが、オウム以後に神話や伝奇は読者の興味の求められる場所として退けられたのに対し、トリックという論理性を持ったリドルは読みを持続させる力の源として人々に支持され続けたはずだ。要するに、エンタテインメントとしてひとかどの人気を持続した。それは90年代後半から我々が夢中になった「世界の謎」や「実存の謎」と関係なくあって、ミステリは逆説的な形でそのような謎がなくても物語は存在できると主張していた
沖縄に行ったり仕事をしたりと忙しい間に、Quick Japan Vol.74が発売されたのだ。この本は何とPerfumeについての特集号で、僕も文章を書かせていただくことができた。依頼されて、そういう機会はもうないかもしれないと思ったので、すぐに引き受けた。語り尽くせない色々な経緯があって、できあがったのはこういうものである。 【FEATURES.1】 Perfume 「アイドル」の意味を回復する3人 ■2007.9.17 新曲「ポリリズム」発売記念イベントレポート ■本誌独占!Perfume10,000字インタビュー!! アイドルとして、テクノとして、どんな楽しみ方をされてもいい ■私がPerfumeを好きな理由。 ピエール中野(凛として時雨)/大谷ノブ彦(ダイノジ)/ 後藤まりこ(ミドリ)/サエキけんぞう/辛酸なめ子/SPECIAL OTHERS/ 西脇彩華(9nine)/掟ポルシェ(
舞城王太郎の小説「好き好き大好き超愛してる」では、冒頭からストレートな表現で愛について語られる。以下のような具合である。 愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。僕は世界中の全ての人たちが好きだ。 舞城王太郎はここで明らかに読者に対し素朴で力強いアプローチを試そうとしているが、しかし表現の強さによってむしろ読者が見逃してしまいがちになるのは、ここから必ずしも恋愛小説が開始されるわけではなく、これが実に小説についての小説であるということだ。それは二段目以降へ読み進めればすぐに分かることだ。 祈りも願いも希望も、全てこれからについてこういうことが起こってほしいとおもうことであって、つま
Perfumeって一体何なのだろう? 僕が彼女たちに望んでいる場所って何なんだろう? どうやったら僕らは物語と正しく向きあえるだろう? この半月以上、僕がずっと考えていたことはそれだった。考えに考えすぎて、最後にはもう、一番最初に確信めいて捉えていた結論すら、投げ出してしまうかもしれなかったと思う。しかしようやく、「ポリリズム」まで戻って来ることができた。だから今日はまずこの曲について書こうと思う。 ニコニコ動画でのPerfumeをフィーチャーした動画を僕は全面的に支持する。最も圧巻だったのはこの「エレクトロ・ワールド」だ。オリジナル曲を耳コピしてカラオケを作り、ボーカルをVOCALOID2「初音ミク」に歌わせ、映像を「THE iDOLM@STER」に差し替えたこの動画がどれだけ刺激的なものか。ここではアイドルを成立させていた要素の全てが差し替えられ、オリジナルにあったものが何一つない。こ
最近TSUTAYA DISCASのレンタルDVDを借りているという話は何度か書いているが、見るヒマがないので取りあえずXvidにエンコードしてハードディスク内に保存している。だがしかし、動画ファイルになっていても、ヒマがなければ見られないものはやっぱり見られないのである。 仕方がないので風呂で見ることにした。最近はわざと自分で忙しくしているので、時間を有効に使おうという気持ちも大きくなってきている。それで、何でも風呂でやろうとしているのだと思う。昔ならこんなところで、さも時間が惜しいかのように映画を見るなんて、とても嫌だったはずだ。だが今の僕は「だったら見ない方がいい」という判断こそを消極的なものとして退けようとしているのだ。 こうして僕は、Xvidの動画ファイルを携帯動画変換君でMP4にエンコードして、ゲームボーイアドバンスSPに挿したPLAY-YAN microで見ることにしたのだ。風
たまたま津田大介さんに会う機会があって、持ってらした「CONTENT'S FUTURE」をいただいた。内容に興味があったのでありがたくいただいて、さて帰って読んでみたら思っていたような本とはちょっと違った。でも、思っていたものよりずっと面白かった。 この本はどういう本か。クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのアイコンが付加されていたり、表紙に「ポストYouTube時代」などと書いてあったり、またNT2Xのシリーズであることから、僕は何となくこの本はインターネットにおける著作権がらみのことについて書いた本であるかのように想像していた。実際にはそのテーマからはけっこう遠いのである。もちろんそれと切り離して語ることは全く不可能なのだが、しかしそれよりもずっと現実的な問題を扱っている。つまり、これは今という時代に物づくりがいかに可能であるかということを語った本である。だからこれはコンピュータ関連書
9月上旬は飛ぶように過ぎた。全く僕には一瞬にすら思われた。でもようやく久々に忙しく走り回らなくてもいい一日があって、昼に起きて白いご飯と味噌汁と塩辛で食事にしたら何だかとても気分が落ち着いた。それで僕はついに映画を見に行くことにしたのだ。 どうせ三軒茶屋かどこかで見られるとばっかり思っていた。誰もが注目している、いっとう大事な映画なのだから、どんな映画館でも今はこれをかけているに決まっているんだと勝手に思いこんでウェブで確認したが、実際そんなことはなかった。それで結局は渋谷に出向いてバイクを駐車できなくて、新宿まで行った。 正直な話、僕は「新世紀エヴァンゲリオン」という作品について文章にしたことがほとんどないのだ。 僕が初めてこの作品を見たのはテレビの本放送で、そのとき見たのは「第弐拾弐話 せめて、人間らしく」だった。スーパーファミコンのゲームを遊び終えた僕はテレビを付けっぱなしにしたまま
別に映画が公開されるからというわけではないが、最初に少しだけ「新世紀エヴァンゲリオン」の話が必要だ。95年に放送されたあの作品は様々な問題提起を行ったが、当時僕が一番高く評価したのは物語が成立困難になってしまったということをはっきりと示したことである。あの作品はあらゆる物語としてのお約束を意識しつつ演出されながら、しかし主人公がロボットに乗る積極性すら獲得できない。作品にエンドマークがうたれても、作中人物は何らかの結論を視聴者に提供しない。むしろ結論を提供することができないという結論が提供される。 すべてはリアリズムの問題なのだと思う。90年代には(もとを正せば60年代から意識されていたことだが)フィクションが本質的に現実ではあり得ないということが広く一般に意識されすぎた。要するにどんなヒーローも現実としては不自然である。絵空事であって、現実の問題解決の役にたちはしない。分かりやすい結論な
この話は変だと思う。松永さんは意図的にかなにか分からないけど、「萌え」ということをつまりは高いレベルの「感情移入」であり「同一視」のようなものなのだ、と説明してしまっている。いくつかの話の展開を重ねることで(グインサーガから銀英伝に至る流れで)話をずいぶんと単純化させてしまっている。「物語派(グループ派)→キャラ萌え(押しメン)→属性萌えと並べると、順にマニア度・ヲタク度が高くなるような気がする」なんて言っちゃうのは、本当に言い過ぎだ。このモデルは誰かにとって面白いのかもしれないけれど、ずいぶんと話をジャンプさせすぎだろう。面白いモデルというのは、いつも正しいわけじゃないし、時として上手いことを言えてすらいない。「こういうふうに言ったら面白い」というだけのことが、今のインターネットではいつの間にか「上手いことを言っている」ようになってしまうのが助長されるみたいで、僕は好きじゃないな。 話は
何となくフィッシュマンズの「感謝(驚)」という曲について考えていたら、この歌詞は非常に論理的で読み解きやすい内容ではないかと思ったので、最初の行から丹念に読んでみた。 以下のような歌である。引用のやり方としてはフレーズに分けながら考察を示していった方がいいのかもしれないが、ここではこの歌詞が首尾一貫した構成を持っているという主張がしたいので先に歌詞の全体を掲げる。 楽しかった時が終わって 気づいてみたらさみしい人だった 寄り添う肩も頼りにならないで 裏切ったような気分だった なぐさめもなく やさしさもなく そっと過ぎてく季節を はしゃがないで見守ってた あの人に驚きと感謝込めて歌うだけだった そう全部 正しくもない ウソつきじゃないよ そう全部 指切りしない 近道しないよ そう全部 夏休みが終わったみたいな顔した僕を ただただ君は見てた 人影もなく あこがれもなく そっと過ぎてく季節を は
ここ十日ほど体調を大きく崩して、久々に熱を出した。毎年楽しみにしている代々木公園のタイフェスティバルにも行けなかったし、仕事もずいぶん遅れてしまった。昨日ようやく体調が戻ってきて締め切りに遅れながらコラムを1つ書き上げられたので、今日はここを更新できるし、ほかの仕事をすることだってできるはずだ。 体調を崩した理由はいろいろあるが、一番大きな理由は本を読むのに熱中しすぎたことだと思う。どうやら僕は小説を読むことができるようになってきたので、信じられなくて毎日ハイペースで読んでしまったのだ。 実際のところ、僕は10年以上の間、まともに小説を読むことができなくなっていたのだが、今回たまたま筒井康隆の「愛のひだりがわ」を読んで、もう一度小説を読み始めることができた。この本はなぜだか家にあった。買った覚えがない。うちには買った覚えがない本がずいぶんあって、そういう本は誰かから借りているのを忘れている
「逆転裁判4」は、東浩紀の「ゲーム的リアリズムの誕生」を読んでいたころにプレイしたので、あの本の理論で物語を読もうとする癖がついていたようだったが、それはそれでずいぶん面白く感じた。特に最後のシナリオである。詳細に解説されていたプレイヤーの視点やテキストメッセージの語り手が曖昧にされる手法がふんだんに使われていて、あの本の読者には面白がれる部分が多そうだと思った。うまくすれば、以下に書く内容にその影響を現すことができるかもしれない。 さて、本作はおおむね、日本でも2年以内に開始されるはずの「裁判員制度」について考えた内容だと言える。それを説明するために、まず前作までの主人公である成歩堂という男が「逆転裁判」シリーズでやっていたことについて語られる。ここが本作の面白いところだと思うが、このゲームは明らかに非現実的な虚構の裁判ゲームについてメタ的な言及を試みながら、現実に導入される裁判制度につ
東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」は、とても親切な本であり、まずはそれに感心した。 前作となる「動物化するポストモダン」に限らず、これまで東浩紀の著作のやり方は、主張を固めるための検証作業がともすれば大雑把であるし、また、さほどに関連性が深いとは言えない事例を強引に繋ぎ合わせて一つの流れを意識させようとするものがあった。僕はこのやり方を批判するものではない。むしろ、あざやかに全体の論旨を生み出していくダイナミックさに感銘を受ける。 しかしもちろん、このような書き方は批評の言語としては今の日本で例の少ないものだから、読者は彼のやり方に違和感を感じるかもしれない。だが彼がなぜこれを選んでいるかということは、現在に至るまでの東浩紀の批評活動のルーツがすべて収められた「郵便的不安たち#」を読めば明確に分かるはずだ。ここでは簡単に触れるまでにしたいが、要するに彼の動機にはポ
福本伸行のマンガで重要なのは、もっともらしいハッタリだけである。それが魅力なのであるから、もちろん批判には値しない。彼は博打を題材にしたマンガを数多く描いているが、しかしそもそも彼のマンガとはどんなものであれ作り自体が博打そのもののようなハッタリに満ちている。それは「無頼伝涯」であろうと「最強伝説黒沢」であろうと変わりはない。作者は常に読者に対し凄みを効かせたハッタリを延々と語り、そのもっともらしさによって読者は以後のドラマに常ならざる緊迫感とスリルを味わうことができるようになっている。 つまりカイジやアカギが負けの代償として人体を破壊されうるというルール自体は読者にとってまだ恐怖の対象ではない。その拷問がどれだけ恐ろしいものなのかをしつこく、本当にクドクドと解説する語り口こそが彼のマンガなのである。連載が長期化した最近では次第にこのハッタリがマンガの内容そのものにすり替わってしまい、「純
「ユリイカ」の最新号で巻末のコラムを書かせていただきました。特集は「米澤穂信 ポスト・セカイ系のささやかな冒険」で、それは以下のような内容です。 特集*米澤穂信 ポスト・セカイ系のささやかな冒険 【受け継がれる魂】 ミステリという方舟の向かう先 「第四の波」を待ちながら / 米澤穂信+笠井潔 【書き下ろし短篇】 失礼、お見苦しいところを / 米澤穂信 【米澤穂信の〈世界=地図〉】 距離と祈り、あるいは世界の多重化に関する覚え書き / 斎藤環 零度のミステリと等身大の世界 We cannot escape. / 佐藤俊樹 砂漠通信 / 巽昌章 【米澤穂信という〈事件〉】 彼らは考えるだけではない / 松浦正人 米澤穂信のできるまで / 桂島浩輔 互恵関係と依存関係 〈小市民〉シリーズについて / 古谷利裕 エモーショナル・レスキューの憂鬱 「仕事」をめぐる冒険として 『犬はどこだ』 を読む
どうにも忙しいのが終わらない。このままゴールデンウィーク進行に突入して忙殺されてはかなわないので、週末はゆっくり休む予定。 忙しいので東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生」すら読み進まない。平易な本なのだがとにかく読書時間が細切れになってしまいイライラする。本は一気に読みたい性分なのだ。なにせ集中力も記憶力も足りていないので、中断してしまうと前に何が書いてあったのかサッパリ思い出せなくなる。仕方がないので昨日風呂に持って入り、ようやく一章を読み終えた。ここまでで、もう十分にすべての理屈は提示されていると思う。だからこのブログに何かを書き付けてもいいのだが、せっかく鋭いことが書いてある本なので最後まで付き合ってからにしたい。 しかし、そう考えるのが間違いなのだ。そこに僕の身勝手がある。おかげで、「作品について語ること」はいつまでたっても思い通りにならない。僕が求めているのはスピードと量なのだ。作
鈴木亜美の最近の活動については人と意見が分かれて、僕は聴く前にかなり否定的だった。 僕はヒットチャートとは一線を画するようなミュージシャンがアイドルをプロデュースした仕事を、そんなに嫌いじゃない。むしろ好ましい。しかし、この企画はよくないと思った。最初にこの企画を知ったのは雑誌広告である。そこにあった鈴木亜美の写真には人形然とした演出が施されており、それを見たからこそ、僕はげっとなった。その広告はアイドルというものを批評的に表現しているわけだった。この批評性が、よくある陳腐なものだからいけないということではない。そうではなくて、ならばこの操られる人形というポジションにいるのは間違いなくアイドルでなくてはいけないだろう、ということだ。ここに今の鈴木亜美は来ないだろう。僕はそう考えたのである。まず今の鈴木亜美をアイドルの立場にあてがうのは勘違いも甚だしい。2007年において鈴木亜美が何かを象徴
加護亜依は事務所から追放された。おかしなもので、会社は彼女を一度たりとも守ってはあげなかった。矢口真理や村上愛のときに感じたことは、今はっきりと疑問だと言うことができる。つまり、一体彼らはなぜ、自分たちの商品を守ろうとせずペナルティを課すことばかりを考えているのだろうか。僕にはわからない。 本来、彼らにとって彼女たちは売り物である。それは分かっていると思いたい。しかし呆れたもので、彼らは彼女たちの断罪人としてしか働こうとしていない。タレントを管理することができない自分たちを棚に上げるために、タレント自身に全責任を負わせているのだ。それは間違っている。アイドルとは虚像であり実際のところ人間なので、その枠からはみ出した行動を取ろうともするのが当たり前である。それが華やかな舞台の上に漏れ聞こえないようにするのが会社の役割である。アイドルとして恥ずべき様をとった者を首にするのが仕事ではないのである
僕が最初にプレイしたPlatineDispositifのゲーム「ジャバウォックの花嫁」が無料でプレイできるようになった。 僕は同人ゲームの面白さは、商業タイトルでは不可能なアイデアのあるゲームを、短い開発期間で、しかし商業タイトルに劣らないクオリティでリリースできることにあると思う。80年代にパソコンが一般普及した頃から個人作による、しばしば無料のゲームはずっと存在していた。その黎明期には個人とソフトハウスの間に技術的な差はさほどなかったが、ソフトハウスが個人を引き離すのにさほどの時間がかからなかったのは言うまでもない。やがて個人作のゲームは、どんなに優れたアイデアを持つものであっても、あくまで個人のできる範囲上での、という断り書きが必要なものになってしまった。ごく単純な例を出せば、個人がファミコンのゲームを作ることはできなかったし、できることはファミリーベーシック上においてだった。一部の
当初、僕は東浩紀という人を誤解していた。彼の仕事において対象への熟知がない故に、細部にわたっての正確さがないことを批判的に断じたことがあったと思う。しかし研究家とか学者とも違う、彼はダイナミックな絵を描く、今どきまっとうな意味で批評家だったのだ。僕は後にそう考えるに至らなかった自分を恥じた。 その考えがはっきりとまとまったのは、ロフトプラスワンで2003年に行われた「夜のファウスト祭」を見たときだと思う。東浩紀はものすごい情熱をもって、ライトノベルのシーン全体が全く未成熟であること、関係者とファンが一体となって信じている盛り上がっているという意識なんて内輪のレベルにすぎないことなどを語った。それは浮かれた状況に冷や水を浴びせて悦にいるような子供じみたものではなく、またコミュニケーションの一助として議論をふっかける学者や論壇にありがちな醜悪な態度でもなかった。素晴らしい愛情があった。彼は本当
ブログがずいぶん整備された結果、ウェブではどこを見ても同じ話題しか手に入らないことが多くなってしまった。それなりの間、RSSやブログをまじめに使ってみたのだが、やはり情報に偏りが作られにくいようだ。この新しい流通手法のおかげで情報がこんなに流れやすくなったというのは僕だって素晴らしいことだと思う。しかしマスコミが流す大本営発表や個人が書き留めた些細な話題が技術の上で平等に流通していながら、同時にその技術そのものが「みんな」にとっての重要度に合わせて話題の価値を決定付けることを許してしまっている。しかしこの技術に平等さがあるから多様性を実現しうるというのは誤解で、平等さは衆目の集まりやすい記事に誰もが注目しやすいという平凡な状況しかもたらしていないように思う。個々のユーザーが能動的に情報を集めていると錯覚させながら実態としてプッシュ型に近づいてしまうというのは退屈どころか欠陥を含んだシステム
AKB48にはほぼ興味がなかった。しかし秋元康の仕事を僕はかなり評価しているため、AKB48についても「スカート、ひらり」などはいいと思っていた。デビュー当時のAKB48は「アキバ系」のブームの流れから導き出されていた。これは過度に清楚さと処女性を強調しつつ少女に対する性的な幻想を味付けとして使うという80年代アイドルのパロディ的存在でありつつ、現在のオタク文化が持っている保守的な女性観との一致を正しく指摘したものだと思っていた。だが、最近このグループのリリースを意識して見ていなかったうちに、どうも様子が変わってしまったようである。PVを見ればより明らかだが、「制服が邪魔をする」は推定少女の焼き直しと言っていい。 「女性としての性を求められるが故にハードな現実を生きる制服少女」という90年代的なキャラクター性は、パロディとして現在について批評的な視線を投げかけるものではない。つまり僕は「渋
「ファン・サーヴィス」を前にして、Perfumeの「Twinkle Snow Powdery Snow」をようやく聴いた。ネット配信のみの楽曲とのことだったが、どうやらアルバムにも収録されるらしい。時期的に考えると最初からそう決まっていたのではないかと思う。 しかし残念ながらこの曲にはあまり評価したい部分がない。曲は全く悪くない。「リニアモーターガール」「コンピューターシティ」「エレクトロワールド」の流れにある。違和感のない楽曲であり、前三作を覆すアプローチがされているわけでもない。 あーちゃんによると、Perfumeは「春から女子大生テクノユニットになる」そうだ。彼女たちはもう、いつの間にか、「アイドル」ではないのである。だからこの曲がアイドル性からずっと遠く感じられても、何ら間違いではないということである。先日のライブはカップルなどがずいぶん多かったと聞く。オタ芸を見てびっくりしていた
「七里の鼻の小皺」さんからリンクしていただいていた。本当に心強いことだ。ご指摘は全く妥当で、僕はこのブログに、量と、それを成り立たせるためのスピードを求めている。その理由は、こう書けば少なくとも彼に伝わるのではないかと思うが、このブログを始めるときに、連中をブッ殺すにはまず大量の弾が必要だと思ったからだ。一人でやるのは不可能ではないはずだと思ったが、実際に一定以上の水準を保ってそれを成すのが簡単ではないのは無論だ。僕のこのやり方はもっともっと過剰でなければならないはずなのだ。だからこそ、「大量の弾が必要だ」と思った僕が「世界の片隅でこっそり核兵器を造っている」と書く彼に言及されることは、ある種の共犯を得ているようで心強い。だからここには、ひょっとすると失礼なことかもしれないが、「むろん七里の鼻の小皺もまた全く素晴らしい」と書き留めておきたい。彼はこの状況をはっきりと自覚して、なすべき事をな
環ROY「BREAK BOY」 環ROYの新しいアルバム「BREAK BOY」は実直で律儀なアルバムだ。環ROYはここで、彼のような才能に溢れたアーティストであれば全く無視してもいい事柄について綿密に語っている。 おそらく、彼がヒップホップという狭いフィールドを飛び出して、外部に立つ覚悟を持っていることは、誰もが認るところだろう。だから彼は、トラックにおいてもリリックにおいても、その筋のリスナーやミュージシャンが認める「いわゆるヒップホップ」の音楽性から離れて、縦横無尽にラップすることができる。ところが、このアルバムには、一聴すると「いわゆるヒップホップ」のように聞こえる歌詞があるだろう。しかしそのように聞こえてしまう余地こそが、このアルバムが立ち向かった困難さを示している。 環ROYはこのアルバムの中で、何度も繰り返して、音楽に、ヒップホップに、両義的な評価を与えていく。「J-RAP」の
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