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猛暑に注意を
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王貞治(1959−1980)<読売ジャイアンツ> 1940年5月20日、東京生まれ。 2002年5月、日本のプロ野球が初めて海外で試合を行ったが、その際、王貞治(以下敬称略。単に”王”と表記した場合は王貞治を指す))は台湾の生んだ英雄のような扱いであった。王は1961年以降は、中華民国国籍であり、現在の台湾で英雄視されて当然である。しかし、それは表向きの話であって、本当は複雑な人間模様が絡んでいる。 王貞治は現役のプロ野球監督であり、誰もが認めるスポーツ界の人格者でもある。その王自身が、「もうその話は私の胸の中で納得済みなので、蒸し返さないでほしい」と封印している国籍の話を、わざわざ当HPで掘り起こす必要はないように思える。ただ、いくら封印しても、隠し切れない事実の断片が一人歩きしているのも事実である。それが「王さんは国民栄誉賞ももらっているし、もう日本に帰化したんですね」程度の誤解
榎本喜八(1955−1972)<毎日オリオンズ(大毎オリオンズ・東京オリオンズ・ロッテオリオンズ)→西鉄ライオンズ> 1936年12月5日、東京生まれ。 早実高で甲子園の土を3回踏む。しかし、プロから誘いの声はなかった。プロ野球選手になることが夢だった榎本は、仕方なく先輩の荒川博が居た毎日オリオンズのテストを受ける。テストでの打撃を見た別当薫は、その素質を見抜き、入団を認める。榎本が入団した昭和30年当時、別当は外野手を務めながら監督も兼任していた。当時、毎日オリオンズの一塁手には西本幸雄、三宅宅三などがいたが、年齢的に限界がきていた選手ばかりで、高卒の榎本が1年目から打率.298、16ホーマーを放ちレギュラーを獲得する。いきなり山内和弘(昭和37年に一弘と改名)とクリーンアップを組むことにもなり、その年の新人王は文句のない受賞だった。 榎本は奇人変人と言われている。彼は2000本安
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