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底本などの元原稿と入力データを比較対照しながら間違いを探していく作業を、「校正」と呼びます。 青空文庫では、ファイル作成時の誤りをできるだけ減らすために、入力者とは別の人に校正してもらってから、作品を公開しています。 入力はすんでいるのに、校正してくれる人がいないために、長期間埋もれている作品が、たくさんあります。校正へのご協力をお願いします。 校正は、底本通りにデータが入力されているか、チェックする作業です。(底本の表記が疑わしいときは、その吟味と対処も行います。)作業にあたって尊重しなければならないのは、「文章」ではなく「文字」。ふつうに本を読むときとは違って「読書の楽しみ」は捨て、「文字面だけを追う」のが基本です。 「作業着手連絡システム」の「校正受付システム」を使って、取り組む作品を選び、申し込みを行ってください。 校正担当作品の総数は、100以下に抑えてください。 校正の際、参照
2016年1月30日、別府大学で行われた「別府を読む× 別府を書く」と題された特別講演の際、円城塔、澤西祐典、福永信の三名が競作した原稿。 完成版が大分合同新聞に掲載された。(円城塔)
カーテンの向こうには窓があったが、夜一色に塗りつぶされて、なにも見えはしないのである。折角(せっかく)奮発してみた窓つき個室も、こうしてみると意味がなかった。硝子(がらす)一枚隔ててしまうと、闇は鏡と変わらなくなる。鏡は闇より厄介だから、結局カーテンで隠してしまった。 出航がおおよそ19時、観光港着がだいたい7時ということだから、あらかじめわかっていたのである。そもそもが寝ている間の航海であり、外の景色を見たいのならば、甲板へ出ればそれですむ。実際、明石の橋と、緑に光る淡路島の観覧車とは外で眺めた。 窓はなくてもよかったが、その場合、カーテンがなければ嫌だ。ただの壁でもカーテンさえ下げてもらえば、その背後には窓があるかも知れなくて、窓がないならなぜカーテンをかけておくのかということになる。だから窓つきの個室をとることにした。 大阪から別府まで、瀬戸内の道を選んだ理由としては、歴史的な興味も
公開中の作品 荒野の呼び声 01 荒野の呼び声(新字新仮名、作品ID:57996) →山本 政喜(翻訳者) 作業中の作品 →作業中 作家別作品一覧:ロンドン ジャック 奇体な破片 (旧字旧仮名、作品ID:60420) →新居 格(翻訳者) 白い牙 01 白い牙(新字新仮名、作品ID:58011) →山本 政喜(翻訳者) 野生の呼声 (旧字旧仮名、作品ID:56158) 関連サイト
努力は一である。併し之を察すれば、おのづからにして二種あるを觀る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は當面の努力で、盡心竭力の時のそれである。人はやゝもすれば努力の無效に終ることを訴へて嗟歎するもある。然れど努力は功の有と無とによつて、之を敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。ただ時あつて努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が惡いからであるか、然らざれば間接の努力が缺けて、直接の努力のみが用ひらるゝ爲である。無理な願望(ぐわんまう)に努力するのは努力の方向の惡いので、無理ならぬ願望に努力して、そして甲斐の無いのは、間接の努力が缺けて居るか
立てきった障子(しょうじ)にはうららかな日の光がさして、嵯峨(さが)たる老木の梅の影が、何間(なんげん)かの明(あかる)みを、右の端から左の端まで画の如く鮮(あざやか)に領している。元浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)家来、当時細川家(ほそかわけ)に御預り中の大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしかつ)は、その障子を後(うしろ)にして、端然と膝を重ねたまま、さっきから書見に余念がない。書物は恐らく、細川家の家臣の一人が借してくれた三国誌の中の一冊であろう。 九人一つ座敷にいる中(うち)で、片岡源五右衛門(かたおかげんごえもん)は、今し方厠(かわや)へ立った。早水藤左衛門(はやみとうざえもん)は、下(しも)の間(ま)へ話しに行って、未(いまだ)にここへ帰らない。あとには、吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)、原惣右衛門(はらそうえもん)、間瀬久太夫(ませきゅうだゆう)、小野寺十内(おのでらじゅ
一 寛宝(かんぽう)三年の四月十一日、まだ東京を江戸と申しました頃、湯島天神(ゆしまてんじん)の社(やしろ)にて聖徳太子(しょうとくたいし)の御祭礼(ごさいれい)を致しまして、その時大層参詣(さんけい)の人が出て群集雑沓(ぐんじゅざっとう)を極(きわ)めました。こゝに本郷三丁目に藤村屋新兵衞(ふじむらやしんべえ)という刀屋(かたなや)がございまして、その店先には良い代物(しろもの)が列(なら)べてある所を、通りかゝりました一人のお侍は、年の頃二十一二とも覚(おぼ)しく、色あくまでも白く、眉毛秀(ひい)で、目元きりゝっとして少し癇癪持(かんしゃくもち)と見え、鬢(びん)の毛をぐうっと吊り上げて結わせ、立派なお羽織に結構なお袴(はかま)を着け、雪駄(せった)を穿(は)いて前に立ち、背後(うしろ)に浅葱(あさぎ)の法被(はっぴ)に梵天帯(ぼんてんおび)を締め、真鍮巻(しんちゅうまき)の木刀を差し
東洋を知るには儒教を知らなければならない。儒教を知るには孔子を知らなければならない。そして孔子を知るには「論語」を知らなければならない。「論語」は実に孔子を、従って儒教を、また従って東洋を知るための最も貴重な鍵の一つなのである。 ☆ 「論語」は、孔子の言行を主とし、それに門人たちの言葉をも加えて編纂したものであるが、すべて断片的で、各篇各章の間に、何等はっきりした脈絡や系統がなく、今日から見ると極めて雑然たる集録に過ぎない。しかし、それだけに、編纂者の主観によってゆがめられた点は比較的少いであろう。 孔子の言葉を記したものとして、「論語」のほかに、しばしば「易(えき)」の「十翼」があげられる。しかし、それには、古来学者の間に多くの疑問があり、それを孔子の書であると断定する根拠は薄弱である。従って、今日では、「論語」は不十分ながらも、孔子の言行をうかがうことの出来る、唯一の確実な書とされてい
この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫)
昭和二十二年六月の終りであった。私は歌川一馬の呼びだしをうけて日本橋のツボ平という小料理屋で落ちあった。ツボ平の主人、坪田平吉は以前歌川家の料理人で、その内儀テルヨさんは女中をしていた。一馬の親父の歌川多門という人は、まことに我ままな好色漢で、妾(めかけ)はある、芸者遊びもするくせに、女中にも手をつける。テルヨさんは渋皮のむけた可愛いい顔立だからむろん例外ではなく、その代りツボ平と結婚させてくれた時には小料理屋の資金も与えてくれたのである。一馬の東京の邸宅は戦災でやられたから、彼は上京のたびツボ平へ泊る。 「実はね、だしぬけに突飛なお願いだが、僕のうちで一夏暮してもらいたいのだ」 一馬の家は汽車を降りて、山路を六里ほどバスにのり、バスを降りてからも一里近く歩かなければならないという不便きわまる山中なのである。そんなところだから、私たち数名の文士仲間は、戦争中彼の家へ疎開していた。ひとつには
東大在学中に同人雑誌「新思潮」に発表した「鼻」を漱石が激賞し、文壇で活躍するようになる。王朝もの、近世初期のキリシタン文学、江戸時代の人物・事件、明治の文明開化期など、さまざまな時代の歴史的文献に題材をとり、スタイルや文体を使い分けたたくさんの短編小説を書いた。体力の衰えと「ぼんやりした不安」から自殺。その死は大正時代文学の終焉と重なっている。 「芥川龍之介」
四、真に文化上の処置として行われるならば、起訴のほかに、実際上の方法はいくらでもあります。「断乎処断する」というような意気ごみの、最初の実例とされることに抗議します。なぜなら、起訴は、実際上もうおくれた時機であって、こんどのやりかたは、「石中先生」「裸者と死者」で達せられなかった「法の威力」をしめそうとする目的に立っていることがあまり明白のように思われます。 五、権力は、さまざまの形で、威力を発揮しようとして来たことは、一昨年春ごろやかましかった猥雑なエログロ雑誌取締の時のプロセスにもあきらかでした。日本出版協会は、「出版綱領実践委員会」というものをもって、出版の質の向上を計るということでした。その時、出版綱領実践委員会は、法律を変更し、新しい法律をこしらえることを要求してでもエログロ雑誌の出版はとりしまるようにと、はげまされたようでした。新しいとりしまりの法律といえば、ワイセツ罪はもう存
大(おお)きな国(くに)と、それよりはすこし小(ちい)さな国(くに)とが隣(とな)り合(あ)っていました。当座(とうざ)、その二つの国(くに)の間(あいだ)には、なにごとも起(お)こらず平和(へいわ)でありました。 ここは都(みやこ)から遠(とお)い、国境(こっきょう)であります。そこには両方(りょうほう)の国(くに)から、ただ一人(ひとり)ずつの兵隊(へいたい)が派遣(はけん)されて、国境(こっきょう)を定(さだ)めた石碑(せきひ)を守(まも)っていました。大(おお)きな国(くに)の兵士(へいし)は老人(ろうじん)でありました。そうして、小(ちい)さな国(くに)の兵士(へいし)は青年(せいねん)でありました。 二人(ふたり)は、石碑(せきひ)の建(た)っている右(みぎ)と左(ひだり)に番(ばん)をしていました。いたってさびしい山(やま)でありました。そして、まれにしかその辺(へん)を旅(
多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎(ごうださぶろう)は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやって見ても、一向この世が面白くないのでした。 学校を出てから――その学校とても一年に何日と勘定の出来る程しか出席しなかったのですが――彼に出来相(そう)な職業は、片端(かたっぱし)からやって見たのです、けれど、これこそ一生を捧げるに足ると思う様なものには、まだ一つも出(でっ)くわさないのです。恐らく、彼を満足させる職業などは、この世に存在しないのかも知れません。長くて一年、短いのは一月位で、彼は職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を探すでもなく、文字通り何もしないで、面白くもない其日(そのひ)其日を送っているのでした。 遊びの方もその通りでした。かるた、球突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棊(しょうぎ)、さては各種の賭博(とばく)に
○ 今日、普請道楽の人が純日本風の家屋を建てて住まおうとすると、電気や瓦斯(ガス)や水道等の取附け方に苦心を払い、何とかしてそれらの施設が日本座敷と調和するように工夫を凝らす風があるのは、自分で家を建てた経験のない者でも、待合料理屋旅館等の座敷へ這入ってみれば常に気が付くことであろう。独りよがりの茶人などが科学文明の恩沢を度外視して、辺鄙な田舎にでも草庵を営むなら格別、いやしくも相当の家族を擁して都会に住居する以上、いくら日本風にするからと云って、近代生活に必要な煖房や照明や衛生の設備を斥ける訳には行かない。で、凝り性の人は電話一つ取り附けるにも頭を悩まして、梯子段の裏とか、廊下の隅とか、出来るだけ目障りにならない場所に持って行く。その他庭の電線は地下線にし、部屋のスイッチは押入れや地袋の中に隠し、コードは屏風(びょうぶ)の蔭を這わす等、いろ/\考えた揚句、中には神経質に作為をし過ぎて、却
道理の前でひとりの門番が立っている。 その門番の方へ、へき地からひとりの男がやってきて、道理の中へ入りたいと言う。 しかし門番は言う。 今は入っていいと言えない、と。 よく考えたのち、その男は尋ねる。 つまり、あとになれば入ってもかまわないのか、と。 「かもしれん。」 門番が言う。 「だが今はだめだ。」 道理への門はいつも開け放たれていて、そのわきに門番が直立している。 そこで男は身をかがめて、中をのぞいて門の向こうを見ようとした。 そのことに気づいた門番が笑って、こう言った。 「そんなに気になるのなら、やってみるか。おれは入ってはいかんと言っただけだからな。いいか、おれは強い。だが、おれはいちばん格下の門番にすぎない。部屋を進むごとに、次々と門番が現れるだろう。そいつらは、前のものよりもっと強いぞ。三番目の門番でさえ、おれはそいつを直視することもままならん。」 これほどの難関を、へき地の
○○造船株式会社会計係のTは今日はどうしたものか、いつになく早くから事務所へやって来ました。そして、会計部の事務室へ入ると、外(がい)とうと帽子をかたえの壁にかけながら、如何(いか)にも落ちつかぬ様…
「こいさん、頼むわ。―――」 鏡の中で、廊下からうしろへ這入(はい)って来た妙子(たえこ)を見ると、自分で襟(えり)を塗りかけていた刷毛(はけ)を渡して、其方(そちら)は見ずに、眼の前に映っている長襦袢(ながじゅばん)姿の、抜き衣紋(えもん)の顔を他人の顔のように見据(みす)えながら、 「雪子ちゃん下で何してる」 と、幸子(さちこ)はきいた。 「悦ちゃんのピアノ見たげてるらしい」 ―――なるほど、階下で練習曲の音がしているのは、雪子が先に身支度をしてしまったところで悦子に掴(つか)まって、稽古(けいこ)を見てやっているのであろう。悦子は母が外出する時でも雪子さえ家にいてくれれば大人しく留守番をする児であるのに、今日は母と雪子と妙子と、三人が揃(そろ)って出かけると云うので少し機嫌(きげん)が悪いのであるが、二時に始まる演奏会が済みさえしたら雪子だけ一と足先に、夕飯までには帰って来て上げると
この日本譯は、最初、第三章を除いて、週刊『平民新聞』第五十三號(明治三十七年十一月十三日發行)に載せられたところ、忽ち秩序壞亂として起訴され、裁判の結果、關係者はそれぞれ罰金に處せられた。しかしその裁判の判決文には、『古の文書はいかにその記載事項が不穩の文字なりとするも、……單に歴史上の事實とし、または學術研究の資料として新聞雜誌に掲載するは、……社會の秩序を壞亂するといふ能はざるのみならず、むしろ正當なる行爲といふべし』とあつた。そこで私は次にその譯文に多少の修正を加へ、および第三章を譯し添へて、今度は『單に歴史上の事實』として、また『學術研究の資料』として、『社會主義研究』第一號(明治三十九年三月十五日發行)に載せた。(その時には、前の共譯者幸徳はアメリカに行つてゐたので、第三章は私ひとりで譯した。) しかるに、その『社會主義研究』も程へて後(大逆事件當時)發賣を禁止され、その後今日に
現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限
おけさ丸。総噸(トン)数、四百八十八噸。旅客定員、一等、二十名。二等、七十七名。三等、三百二名。賃銀、一等、三円五十銭。二等、二円五十銭。三等、一円五十銭。粁程(キロてい)、六十三粁。新潟出帆、午後二時。佐渡夷(さどえびす)着、午後四時四十五分の予定。速力、十五節(ノット)。何しに佐渡へなど行く気になったのだろう。十一月十七日。ほそい雨が降っている。私は紺絣(こんがすり)の着物、それに袴(はかま)をつけ、貼柾(はりまさ)の安下駄(やすげた)をはいて船尾の甲板(かんぱん)に立っていた。マントも着ていない。帽子も、かぶっていない。船は走っている。信濃(しなの)川を下っているのだ。するする滑り、泳いでいる。川の岸に並び立っている倉庫は、つぎつぎに私を見送り、やがて遠のく。黒く濡れた防波堤が現われる。その尖端に、白い燈台が立っている。もはや、河口である。これから、すぐ日本海に出るのだ。ゆらりと一揺
私は二ヶ月前からゴルフをはじめた。しかしゴルフ道具一式は何年も前から持っていた。ゴルフ靴もボールも何ダースも買いこんで持っていたが、二ヶ月前までゴルフをやらなかったのである。 なぜやらなかったかというとむろん然るべき理由はある。そしてそれは一つの訓戒を守ったためであるけれども、訓戒を守ることは大切だということを、その結果として近ごろ痛感しているのである。 私は子供の時から胃弱で、それが唯一の持病である。そのため適度の運動が必要で、終戦後キャッチボールをやった。手軽にできる運動はそれだけだからだ。 ところが私の年齢ではキャッチボールは無理だ。十ぐらい投げただけで肩の痛さが堪えがたくなり、運動の役にたたない。 そのとき、さる人がゴルフをすすめて、胃弱にこれぐらい適当なスポーツはないから是非これにしなさい、道具を格安でゆずろうという。その人は大金満家でゴルフ狂であったから、最高級のゴルフセットを
子貢(しこう)曰く、貧にして詔(へつら)うことなく、富みて驕(おご)ることなくんば如何と。子曰く、可なり、未だ貧にして楽み、富みて礼を好む者に若(し)かざるなりと。子貢曰く、詩に云う、切(せつ)するが如く、磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く、磨(ま)するが如しとは、其れ斯(こ)れを之れ謂うかと。子曰く、賜(し)や、始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。諸(こ)れに往(おう)を告げて、来(らい)を知る者なりと。 子貢は、その日、大きく胸を張って、腹の底まで朝の大気を吸いこみながら、ゆったりと、大股に歩いていた。彼は、このごろ、いい役目にありついて、日ましに金廻りのよくなって行く自分のことを考えて、身も心もおのずと伸びやかになるのであった。 (1先生は、顔回の米櫃の空なのを、いつも讃められる。そして、天命をまたないで人為的に富を積むのを、あまり快く思っていられないらしい。しかし、腕のある人
かなりのストレスを感じながら、これを書いている。今夜にはもう、生きていないだろう。金も、頼みの綱のクスリも尽きた。これ以上、苦しみには耐えられない。この屋根裏の窓から、下のうす汚い通りに、身を投げる…
この話が私の夢か私の一時的狂気の幻(まぼろし)でなかったならば、あの押絵(おしえ)と旅をしていた男こそ狂人であったに相違(そうい)ない。だが、夢が時として、どこかこの世界と喰違(くいちが)った別の世界を、チラリと覗(のぞ)かせてくれる様(よう)に、又(また)狂人が、我々の全(まった)く感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那(いっせつな)、この世の視野の外にある、別の世界の一隅(いちぐう)を、ふと隙見(すきみ)したのであったかも知れない。 いつとも知れぬ、ある暖かい薄曇った日のことである。その時、私は態々(わざわざ)魚津へ蜃気楼(しんきろう)を見に出掛けた帰り途(みち)であった。私がこの話をすると、時々、お前は魚津なんかへ行ったことはないじゃないかと、親しい友達に突っ込まれることがある。そう云(い)われて見ると、私は何時(いつ)の何
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