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中山道なかせんどう 中山道は慶長6年(1601)から7年間で他の4街道(東海道、日光街道、奥州街道、甲州街道)とともに整備された街道である。古くは都と東国を結ぶ東山道と称された。 当初、「中仙道」と称されたが、享保元年(1716)「中山道」と書くように改められた。江戸日本橋から、上野、信濃、木曽、美濃、近江を経て京三条大橋まで135里32丁(約534km)69宿あり東海道とともに幹線道路であった。草津宿では東海道と合流。東海道よりは40kmも長い道程である。中山道は木曽路をはじめ、峠道が多く、人馬の往来は困難であった。参勤交代の大名は東海道の154家に対し中山道は34家と少なかった。しかし、往来が少ないうえに、大河もなく、氾濫に伴う渋滞も少なかったことから、二条城番、大阪城番、日光例幣使などは、片道を必ず利用した。又、将軍へ献上する宇治茶の茶壷道中や、将軍に輿入れの皇女和宮、清河八郎を総大
東海道の歴史 東海道は、徳川家康が関ヶ原合戦に勝利した翌年の慶長6年(1601)に、徳川幕府を開くよりも早く、江戸-京都間、江戸-大坂間の人馬と情報の往来幹線として整備され、伝馬制の制度が敷かれた。 要約(序説): 東海道は、徳川家康が関ヶ原合戦に勝利した翌年の慶長6年(1601)に、徳川幕府を開くよりも早く、江戸-京都間、江戸-大坂間の人馬と情報の往来幹線として整備され、伝馬制の制度が敷かれた。 東海道には名画やエピソードも多く、江戸後期の歌川広重に描かれた「東海道五十三次」や、十返舎一九が書いた「東海道中膝栗毛」は、あまりにも有名である。 東海道は、海岸に沿った街道なだけに大きな川が多く、交通の障害となった。木曽川、長良川、揖斐川と、3つの大きな河川が注ぐ伊勢湾地域は、その影響が最も大きかったところで、尾張と伊勢の間には「七里の渡し」という海の道が設定された。また、山越えの難所は箱根八
「あなたの街の旧街道を、歩いてみませんか?」 当サイト「人力(じんりき)」は、旧街道をテーマに歩くことを紹介するサイトです。 歩くことの効能は様々なところで紹介されており、ご存知のことと思いますので、ここでは当サイトのメインテーマとなる「旧街道」や、関連する「宿場」「一里塚」について、簡単に説明したいと思います。 旧街道とは、明治より前、主に江戸時代に幕府や各藩によって整備された道のことをいいます。 主要なものに、歴史の教科書にも出てくる「五街道(ごかいどう)」があります。これは「東海道」「中山道」「甲州街道」「日光街道」「奥州街道」の5つの総称で、いずれも「お江戸日本橋」を基点に西や北へと延びています。 その他にも、参勤交代で使用された道、参詣道として発達した道、物資輸送用の道、庶民の生活道など、幹線道路として発達した五街道を中心に全国各地に存在しています。あなたの街にもきっと旧街道が通
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