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「五色幕」「仏旗」「六金色旗」とは何なのか? お寺に五色の幕が掛けられているのを見たことがありますか? これは「五色幕(ごしきまく)」と呼ばれるもので、そこが仏教の寺院であることを示す、言わば「仏教の幕」みたいなものです。 下の画像に映っている幕のことです。 霊泉寺の本堂内の五色幕 五色にはそれぞれお釈迦さまの体の部位が表現されていて、まとめると以下のようになります。 緑……毛髪 黄……身体 赤……血液 白……歯 紫……袈裟 つまり、五色すべて集まると、それはお釈迦さまそのものだということ。まさに仏教の幕というわけですね。 旧五色と新五色 そんな五色幕ですが、じつはこの五色の配色には新旧で違いがみられます。面白いことに昔の五色と新しい五色で色が違うのです。どう違うかというと、緑→青なのと、紫→橙の2つが違う。 上が旧五色で、下が新五色 緑が青なのは色のニュアンスとして親戚くらいには近しいも
仏教における「無縁」の話 「無縁」という単語をくっつけた言葉をたまに見聞きする。良い意味で使われているケースは、まずない。 パッと思いつくところでは、「無縁墓」「無縁社会」「無縁死」。どれも言葉の後ろにひっそりと静まりかえったような淵を感じる言葉で、否が応でも寂しさが漂う。これら「無縁」という言葉の意味を一言で表せば、「つながりが無い」となるだろうか。 墓の管理をする者とのつながりが絶えた「無縁墓」。他者とのつながりが希薄な「無縁社会」。看取られることも引き取られることもない、つながりが消失したなかでの「無縁死」(孤独死)。3つの言葉は、およそそのような意味合いなのではないかと思う。 世間一般で「縁」といえば、それはやはり何らかの「つながり」を意味する文脈の中で使われる言葉となっていることだろう。それが「無」いのであるから、「無縁」を「つながりが無い」を意味する言葉として用いることは当然の
便利の代償 雑草がよく伸びる。 夏近き季節となって、寺の目の前にある放棄地となった田んぼも、ご多分に漏れず雑草が生い茂っている。 雑草なんて名前の草はないのだと、そんな言葉を残した人がいるそうだ。 昭和天皇の言葉とも、いやそうではないのだとも言われているが、雑然と生えている草たちはどうしても雑草と呼ばれてしまう。 雑草というのは草の名ではなく、その在り様を指しているように思える。 だからもし、あの雑草と呼ばれる草のなかのどれか1種類だけで田んぼが埋め尽くされていたら、それを見た人は「綺麗な景色だ」と手の平を返したように讃辞を送るのではないかと、私は密かに思っている。 芝生を見て美しいと感じるのと同じように、要は整然としていれば歓迎されるのだと。 「雑にやるから雑用なんだ。お茶を淹れる行為1つだって、丁寧におこなえば雑用になんてなりようがない」 そんな言葉を残した禅僧がいる。 雑にやるから雑
仏教が説く「幸せ」の意味 幸せというと、人は大抵ハッピーな気持ちを想像する。 嬉しい、楽しい、心地よい。そういった気持ちが「幸せ」なのだと。 しかし仏教ではそれらを幸せとは呼ばなかった。 仏教において「幸せ」という言葉を使用するなら、その言葉が意味するのは「平穏」と表現するに近い心である。 この平穏といった心を、仏教では寂静と呼んでいるが、専門的な言葉を使う必要はない。 要するに平穏である。 心が何に対しても執着を起こさずに平らであること。穏やかであること。 今自分の身に起きていることに対して良し悪しといった価値判断をつけず、ありのままに受容すること。 水鏡のような平穏な心で生きることが、仏教が指し示す幸せというものの具体なのである。 それはなぜなのか。 私たちは誰もが幸せを求めている。 もちろん人によって「幸せ」が意味するところは異なっている。 出世することが幸せだと思う人、結婚すること
幸せとは三つ葉のクローバーのようなもの 世の中には、何十万円、何百万円もするようなワインがありますよね。 しかしそのようなワインを飲んでも、誰もが美味しいと感じるわけではありません。 お酒が飲めない人は、美味しいどころか不味いと感じることでしょう。 高価なワインよりも水のほうが美味しいと感じる人が、この世の中には大勢います。 すると、そのワインに付けられた値段とは一体何なのでしょうか? とんでもなく高額なのだから、それを飲めばさぞかし幸せになれるのかと思いきや、逆に不味いという不幸せを味わうこともある。 この場合の値段は、希少性とか、手間とか、そのようなことが反映された結果であって、値段が美味しいかどうかを決めているわけではありません。 では、値段ではないとしたら、何が美味しいかどうかを決めているのでしょうか。 これはもちろん、自分の舌です。 値段によって決まっているのではなく、何かを口に
悪いことをするべきではない理由 問いを少し修正しよう。 なぜ悪いことを「してはいけないのか」 ではなく、 なぜ悪いことを「するべきではないのか」 に。 悪いことをするべきでない理由は、悪いことをすれば、そのとき人は人生を「悪い人」として生きているから。 悪い人として生きた時間は、悪い時間である。 悪い時間を過ごしているあいだは、悪い人生である。 つまり、悪いことをすれば、人生が悪くなる。虚しいものになる。 決して良くはならない。必ず悪くなる。 自分の生きる意味が悪いものになってしまうのだから、悪いことをするべきではない。 悪いことを「してはいけない」問題 悪いことを「してはいけない」と言う人もいる。 してはいけない。 それは自分に対しての言葉なのか、自分以外の誰かに対しての言葉なのか。 どちらにしても、「してはいけない」は規制の語である。禁止の語である。 したがって「してはいけない」が悪い
永平寺での修行中に一番厄介だと感じた公務 永平寺で修行をする雲水は、日々、公務をこなしている。公務というのは1人ひとりの雲水に割り当てられた仕事・役割のことで、この公務は所属している寮舎のなかで割り当てられる。 寮舎というのは会社でいうところの部署に相当する。たとえば「大庫院(だいくいん)」という寮舎は、修行僧の食事を作る台所。ここに配属された修行僧は、食事を作ることを日々の修行とし、ひたすらに調理や下ごしらえなどをしている。 「総受処(そううけしょ)」は永平寺のインフォメイション的な役割をはたしている寮舎で、パソコンに向かって公務をしていることが多い。参拝者が永平寺に入って最初に目にするのがこの総受処であり、そこにいる僧侶がパソコンにむかって仕事をしているものだから、参拝者のなかには違和感を覚える方が少なくないと思う。 正直言って、私自身、高校生の時に初めて永平寺を訪れてこの様子をみたと
病気に罹れば病院に行く。 行って、医師に診察してもらい、大抵は症状に合わせて薬を処方してもらう。 処方してもらった薬は、たとえば熱が出ていたとすれば、原因菌を殺す抗生物質であったり、または鼻水を出やすくする薬であったり、あまりにも高熱であれば解熱剤などが処方されるのであって、そこで何も関係ない目薬が処方されることは普通ない。 病気と薬はごく当たり前に、このような意味のある相互関係によってマッチングされるわけであるが、これは何も病気と薬だけの話にとどまらない。 悩みとアドバイスの関係にも、そっくりそのまま当てはまる。 そのことを意味する応病与薬という言葉が、仏教にはある。 応病与薬とは 医者は患者の病に応じて処方する薬を変える。 それが応病与薬。 痛みを抑えるために痛み止めを処方するように、症状に合わせて薬は処方される。 ただし仏教でいうところの応病与薬とは、実際の薬剤のことを指しているので
『参同契』を現代語訳するとこうなる ~同と別を結びつけた思慮を説くお経~ 曹洞宗には禅の要諦を説いたとされる重要な経典がいくつか伝わっている。そのうちの1つに『参同契(さんどうかい)』がある。 曹洞宗では、奇数日に朝の読経でこの『参同契』を唱えることが多く、そのため曹洞宗僧侶にとってこの経典は非常に馴染みが深い。 『参同契』は、禅が中国に伝わってから8代目にあたる石頭希遷(せきとう・きせん)禅師によって著された書物である。 西暦8世紀頃の著作であるので、原文はもちろん漢文で構成されており、五言をもって一句となし、句は全部で44句。 計220字からなる比較的短い経典だ。 『参同契』は禅の要諦を説いた奥義書の1つとされているが、確かにこの経典の説くところは奥深い。 「現象」と「真理」という両極にまたがるように存在する、あらゆる「存在」の本質を照らしだそうとする経典なのだが、一読しただけではおそ
戒名に「変な漢字」が使われている本当の意味 墓石に刻まれた故人の名前、戒名。 その戒名を見て、 「あれ? なんでこんな漢字が使われているんだろう?」 と不思議に思ったことはないだろうか。 そもそも戒名は亡くなられた方に授けられる名前ではなく、僧侶となった者に授けられる名前。 つまり戒名を授けられた故人は、立場上は僧侶となっているということ。 葬儀のなかで故人は僧侶になるのである。 葬儀については下の記事をどうぞ。 www.zen-essay.com 戒名は必ず師匠から授けられる。 だから自分で戒名を考えることは、通常ではありえない。 自分で自分に戒名をつけるという話をたまに聞くが、それは死者の名前にはなっても、戒名にはなりえない。 亡くなられた方の師匠にあたるのは、ほとんどの場合において戒名を授けた僧侶。 つまり一般的には、菩提寺の住職が亡き人の師匠となる。 師匠から授けられる名前であるか
「現成公案」巻の概要と現代語訳と原文 『正法眼蔵』の数多の巻のなかでも、この現成公案の巻は最重要の部類に含まれるものと考えて相違ないと考える。 75巻本の首巻となっているのも、もちろん偶然ではないはず。 現成公案とは、ずばり「悟りの実現」を意味する言葉であり、この巻で著述されている内容は、仏法の根幹である「悟り」をテーマとしている。 「現成」は「現成正覚」の略で、より本意に近い訳を当てるとすれば、悟りとは目の前に実現されている、というほどの意味となるだろう。 実現するものを示す「正覚」の部分が省略されているわけだが、そんなことはあえて言わなくてもわかるということなのだと思われる。 もちろん正覚とは「悟り」の意だ。 一方の「公案」は、原意を辿れば中国における官の公文書に行き着く。 なぜいきなり公文書が登場するのかであるが、たとえば、年間にいくらかの米を納めなければならない、というような公文書
『正法眼蔵』とは何か 『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は、日本曹洞宗の開祖である道元禅師が20年以上の歳月を費やして著した一大仏教書である。 その深淵な思想によって、日本仏教史上最高峰に位置する書物と称されることもしばしばだが、「難解さ」という点においても間違いなく抜きん出た実力の書物となっている。 仏教・思想・哲学・作法など、巻ごとのテーマは多岐にわたり、僧侶に限らず万人にとって読み応えのある内容といえるのだが、問題はやはり本当にまあこれがとにかく読み辛い点。 そのために、至上の宝であるにも関わらず、その内容が易しく説かれることもあまりない。 一度でも『正法眼蔵』を読んだことのある方なら誰もが感じているところと思うのだが、この書物はとにかく読み進めるのが大変なのである。 熟語の意味がわからないといった壁にぶつかるのは茶飯事で、「これは本当に日本語か?」と、自らの母国語と同じ言語であると
坐禅の要諦を説いた『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ) 禅宗とは、坐禅宗の意であるといっても過言ではないほど、その中心には坐禅が据えられている。 なぜ坐禅を重んじるのかといえば、坐禅こそがブッダから伝わる正しい仏法であると考えられているからだ。 そんな禅門において行われる坐禅には、何かを得ようという意味の目的がない。 坐禅をする姿が悟りの姿そのものであるから、坐禅をすること自体が目的なのであって、それよりほかに目的を想定しないのである。 これは逆に言えば、坐禅という行為を目的を得るための手段にしないということでもある。 悟りとは坐禅をする姿そのものであって、坐禅の末に悟りを開くのではないということが、禅においては非常に重要なポイントとなっている。 難解な『普勧坐禅儀』 そういった坐禅の要諦を多くの方々に知ってもらうことが大切なのだと、曹洞宗の開祖である道元禅師は考えていたようだ。 実際、道元禅
坊主頭(スキンヘッド)にするにあたって 坊さんは髪の毛を剃っていて、見事なまでに頭がツルツルしています。見ようによってはスキンヘッドのお手本のようにも思えますが、一体どうやって剃っているのかご存じでしょうか? 言われてみれば知らないなぁ、どうやって髪を剃ってるんだろ?「鬚を剃る要領で髪を剃るにしても、後頭部などは見えないのにどうやって剃るのか?」 「カミソリを使っているのか、それとも電気シェーバーか?」 「技術が必要なのか、床屋に行ったほうがいいのか、自分でも剃れるものなのか?」 そのような「坊さんの髪の剃り方」について疑問に感じている方、あるいは坊主頭(スキンヘッド)にしたいと考えている方々のために、私、実際の坊さんが髪の毛の剃り方について説明させていただきたいと思います。 スキンヘッドが特に珍しくなくなった今、髪の毛を剃ることを前向きに検討するようになった方も少なくないでしょうから、そ
「世知辛い」はもともと仏教用語 なんというか、世知辛い世の中である。 普段の会話で耳にする機会は少ないが、文字やセリフとしてはときどき見聞きする「世知辛い」。 「よちがらい」ではなく、「せちづらい」でもなく、「せちがらい」。 間違えると恥ずかしい。 この世知辛いという言葉を聞くと、なぜか砂ばかりの乾燥しきった砂漠を想起してしまう。 暮らしにくさを感じさせる言葉だから、生きることが苛酷な環境である砂漠を連想してしまうのか自分でもよくわからないが、なぜか不毛の大地をイメージしてしまう。 打算の都会と不毛の砂漠ではだいぶイメージが違うはずなのだが……。自分でもよくわからない。 まあ、イメージは各人それぞれ異なれど、世知辛いと言われればなんとなく生きづらい世の中を指しているのだろうということはわかる。 しかし、この「世知辛い」という言葉がどのような意味なのかと、あらためて問われると返答しにくいので
禅問答とは何か 禅問答という言葉を聞いて、頭に思い浮かぶこと。 それは、 「意味のわからない言葉のやりとり」 ではないだろうか。 応答が噛み合っていなかったり、突拍子もない返事をしたり、非論理的な会話をしたり。 そのような意味不明な会話を指して「禅問答」と呼ぶのが、現代における禅問答という言葉の主たる用例であるように感じられる。 本来の禅問答の意味 しかしそういった意味不明な言葉のやりとりといったような用法はもちろん、禅問答という言葉の本来の意味ではない。 本来の意味は文字どおり「禅の問答」、すなわち、禅僧らが交わしてきた悟りに関する言葉や動作のやりとりである。 けれどもそこで交わされるやりとりがあまりにも非論理的・抽象的なものを含んでおり、文字どおりに読んだだけではまったく理解できないといったことが起きたことから、「意味のわからないやりとり」を指す言葉として禅問答という言葉が使用されるよ
【禅語】不立文字 ~文字で真理は悟れない~ 禅の教義を端的にあらわす禅語として、不立文字(ふりゅうもんじ)という有名な言葉がある。 「文字を立てない」と読むことができるが、字義からすれば「文字で真理を説くことはできない」「文字のなかに真理はない」と読むことができるだろう。 ただ、そう言ってしまうと文字の軽視と受け取られるかもしれないが、全面的に文字を否定しているわけでは決してない。 不立文字とは「言葉にとらわれるな」「経典のなかに悟りの答えがあると思うな」と解釈すべきもので、要するにブッダの坐禅を自らも行うことを求める、実体験を重視せよという言葉である。 そんな不立文字を標榜する禅・曹洞宗の開祖である道元禅師は、『正法眼蔵』という一大書物を文字で書き著している。 『正法眼蔵』は20年以上もの長きにわたる歳月をかけて書き著わされた、曹洞禅の集大成のような書物である。 分類の仕方によって75巻
仏教用語としての分別、無分別 「分別(ふんべつ)のある大人になりなさい」 と、普通人は言う。 分別のない人間ではいけない。 ちゃんと善悪をわきまえて、しっかりと自分の頭で考えて判断して生きるべきだと。 今どきの成人式でも言われているのかは知らないが、市長の挨拶にこの手の話がよく登場すると聞いたことがある。 成人、つまり大人になるということは、分別のある人間になるということなのだと。 それはそれで当然のことである。 しかしながら、「もう分別のある大人なんだから、そんなことをしていてはいけない」というような言い回しは、順序が逆。 大人になったから分別があるのではなく、分別のある言動を指して大人と呼ぶのである。 ゆえに、年を重ねても大人ではない人は当然いる。 生きていれば体は勝手に大きくなるが、精神は自然には育たない。 食べ物は食べなければ生きていけないが、精神は育てなくても生きていくことができ
退屈な人に読んでほしい、仏教用語「退屈」の話 あー退屈だ。退屈すぎて、逆に何もする気になれん。 と、暇を持て余している方がいらっしゃれば、まずはちょっとした退屈しのぎに「退屈」という言葉の本来の意味についてご承知願いたい。 それというのも、退屈という言葉は、じつは仏教から生まれた仏教用語なのである。 通常、退屈という言葉は、 することがなくて暇 つまらない、飽き飽きする、嫌気がさす といった意味で使用されている。 「遊び相手が見つからなくて退屈だ」とか「つまらない話で退屈した」とかいった用例である。 しかし、そもそもなぜ「退く」「屈する」という2つの漢字を組み合わせた「退屈」という熟語で、暇な様子が表現されるのか、少々不思議に思われはしないだろうか。 退くも、屈するも、退屈とは少し違う意味の漢字に思えるし、どちらも「挫折」に近いニュアンスの言葉のような気がする。 退屈というのは「暇」「飽き
大パリニッバーナ経の現代語訳 ~ブッダ最後の旅の言行録~ ブッダの最期を記した経典がある。 『マハー・パリニッバーナ・スッタンタ』。 日本では『大パリニッバーナ経』と呼ばれたり、『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)と呼ばれたり、略して『涅槃経』と呼ばれたりすることもある。 一応ここでは『大パリニッバーナ経』と表記して話をすすめたい。 この経典が非常に興味深いのは、80歳で最後の旅に出たブッダの言行録ともいえる、小説のようなストーリー性をそなえた内容になっている点と、仏教の開祖であるブッダの死についての記述である点。 この経典を読んでいると、 「こんなに物語になっているお経ってあるの!?」 と、まず驚く。 それくらい、日本人が抱くお経のイメージとはまったく違う。 そしてその後にブッダの死の情景を想像し、なんとも言えない悲しい気持ちが起こる。 と同時に、ブッダの遺言でもある『大パリニッバーナ
【大鑑慧能】六祖と称される禅の大成者の生涯 「禅の創始者は誰か」という問いは、簡単そうにみえて答えるのが相当に難しい。 たとえば禅を中国に伝えたのは達磨大師といわれており、この達磨大師こそ禅の創始者であると考える人もいるが、そもそも達磨大師は歴史上の人物として本当に実在したのかがすでにあやしい。「達磨」とは個人を指すのではなく、禅を中国へ伝えた僧侶の集団を指すのではないかという専門家もおり、残されている文献上の記述も伝説に近いのではないかとの指摘を受けている。 禅を仏教と区別しなければ、禅の創始者は仏教と同じくブッダであると言えないこともないだろう。通常、仏教と禅は異なるものだと考えられているが、たとえば禅の系統の一派である曹洞宗の開祖道元禅師は、自らが中国で学んだの教えを「正伝の仏法」(ブッダの説いた正しい仏教)とよび、禅を学んだとは言っていない。それどころか禅宗や曹洞宗といった言葉を使
色即是空の意味を知ったなら、次は空即是色の視点を持とう 理解には智解と体解がある 般若心経と色即是空 色とは何か 空とは何か 「何もない」の意味 あらゆるものは「状態」としてある 色即是空の意味 空の別名「仮和合」 空は虚無か 空即是色という逆の視点 色即是空と空即是色の関係 「明るい無常観」と空即是色 色即是空の意味を知ったなら、次は空即是色の視点を持とう 般若心経のなかに「色即是空(しきそくぜくう)」という言葉がでてくる。 掛軸や色紙などに揮毫される言葉として用いられたり、禅語として紹介されたりすることもあって、比較的世によく知られた言葉となっている。 たとえ意味は知らずとも、「色即是空」という言葉自体は耳にしたことがあるという方も少なくないのではないだろうか。 般若心経と色即是空 ただ、色即是空という言葉の説くところや、「空(くう)」といった概念は難解であるという先入観が強いようで、
作:仏像彫刻師 真野明日人「釈迦誕生仏像」 出典:仏像彫刻 MANOWORKS http://www.manoworks.com 天上天下唯我独尊の意味とは? 仏教を説いた創始者であるブッダには多くの伝承が残っている。 そうした伝承から生まれた仏教用語が社会一般の言葉として定着し、現代においてもごく普通に使われているというケースも存在する。 たとえば「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」という言葉もそのうちの1つ。 これは、もともとはブッダの出生にまつわる伝承から生まれた仏教用語なのである。 じつはブッダには、生まれた直後に自らの足で7歩歩いたという驚きの伝承が残っている。 四つん這いでのハイハイではない。足で大地を踏みしめて歩いたらしい。 サバンナなどに生きる野生動物なら出産直後に歩くことも可能だろうが、いくらなんでも生まれたばかりの人間の赤ん坊には無理だろう。 まあ、
六曜の意味と機械的な割振りの事実を知っても、まだ六曜を気にする? カレンダーなどに記載されている六曜(ろくよう)で物事の良し悪しを決める習慣は、科学的思考や合理的判断が常識化している現代社会においても根強く存在している。 たとえば、 友引の日に葬儀をすると、弔問に訪れた友を一緒にあの世へ連れて行ってしまうようで縁起が悪いから、友引の日に葬儀はしない、とか。 仏滅は仏が亡くなるくらい大凶の日だから予定は組まない、とか。 大安は万事に吉の雰囲気が漂っているから、結婚式は大安にしよう、とか。 「吉凶なんていう非科学的な迷信をもとに行動するなんて……」 と思う一方で、 「そういえば子どもの名前を考えるときに字画を考慮したんだったっけ」 という方も少なくないのではないか。 六曜の意味と機械的な割振りの事実を知っても、まだ六曜を気にする? 六曜と合理性と人間 そもそも六曜って何? 六曜(先勝・友引・先
⇧ テレホン法話のお知らせハガキ(曹洞宗岐阜県宗務所作成)。 コピーを読んで気になった方は、ぜひ一度実際のテレホン法話(0120-112-652)を聴いてみてください。 【テレホン法話】フリーダイヤルで聴けるお坊さんの話 お坊さんの話、ちょっと聴いてみたいなぁ。 そんなことを急に思い立つ方がどれほどいらっしゃるかはわからないが、そのような要望に応えるためにサービスを提供している仏教宗派・機関・寺院は意外なほど多くある。 正式な名称はそれぞれだが、おおむね「テレホン法話」と総称される専用の電話回線を引いて、その番号に電話をかけるとあらかじめ録音しておいた法話が流れるという仕組みだ。 更新頻度もけっこう頻繁で、1週間更新や月3回更新としているところが多い。 法話が流れる時間はどこもだいたい3分前後。 じつは今月上旬(11月1日~10日)に限り、私が暮らしている岐阜県の曹洞宗のテレホン法話で、私
多羅葉の葉をハガキの代わりに投函する際の注意点 葉書が考え出されるきっかけとなった多羅葉(たらよう)の葉っぱ。 この葉は、葉の裏側に傷を付けると黒く跡が残るため、その性質を利用して文字を残しておくことができる。 つまり先の尖ったもので文字を刻むことで、紙のように使用することが可能という不思議な葉っぱだ。 この多羅葉の性質にヒントを得て現在の「葉書」を考案したのが、「郵便の父」と称される前島密である。「葉に書く」と書いてハガキなのはそのため。 このあたりの話は、下の前回記事に詳しくまとめてある。 www.zen-essay.com 今回は、この多羅葉の葉っぱを用いて、実際に葉書として使用する際の注意事項などをご紹介したい。 多羅葉を探す まず、そもそも多羅葉がどこに植えられているかを突き止め、その葉を手に入れないことには手紙が書けない。 これこそ最初にして最大の難関と言える。私も探すのに相当
【多羅葉】葉書のもとになった、文字が書ける不思議な葉っぱ 通信技術の発達で、人と連絡を取る際に葉書(はがき)を用いることは随分と少なくなった。 知人とのやりとりはケータイなどのデジタル機器が主体となり、62円もかけてしかも届くまでに時間のかかる葉書を選ぶことはほとんどない。(年賀はがきは52円) 機会があるとすれば年賀状や、結婚式などの出欠確認のためにというような改まった内容を記す場合か、もしくは絵手紙のように、あえて葉書を使用するといったものくらいではないだろうか。 次第にその活躍の場が縮小している葉書であるが、この葉書というものが考え出された背景にはちょっと面白い経緯がある。 そこで今回は知られざる葉書の出生の秘密と、葉書と仏教との意外な関係についてご紹介したい。 葉書はどうやって生まれたのか 葉書を考案したのは、郵便制度の生みの親である前島密(まえじま・ひそか)である。明治期のことだ
人前で何かを話し終えて、少し時間が経った頃に、ああ、あの事を話し損ねた、あの事を忘れていた、と悔しく思い返すことがある。そんな時は往々にして、損ね忘れていた話を織り交ぜて一から話をなぞってしまう。慰めるように、誰にともなく、独り言のように、小さく声に出して。1時間も、2時間も、引きずる時には時を超えて日にも跨がって思い返すこともある。 以前、中学生になる息子が、試験の前に勉強をせずに試験後に試験範囲の勉強をしたことがあった。提出しないといけないからと。そんな馬鹿な話があるか。同じ時間と努力を必要とするのに、わざわざ試験後に試験範囲の勉強をする馬鹿があるかと思った。実際、それは馬鹿なやり方だからちゃんと試験前に勉強して提出するようにしよう、と息子に伝えた。 ふと、冷静になって思った。話をする準備を怠った自分は、話をした後にもう一度話をなぞっている。試験後に試験範囲の勉強をする息子と、何が違う
十牛図に秘められた悟りの諸相 (後篇) 前篇に引き続き、十牛図を読み解いていきたい。 後篇は第六よりはじまるので、前篇を読んでいない方は先に十牛図の前篇のほうをどうぞ。 下の記事が前篇になります。 十牛図の前篇を読む それでは十牛図の後篇を読み進めていきましょう。 第六 騎牛帰家(きぎゅうきか) 牛に乗って家に帰る。 自己を探し当てて、旅から戻る。 序 干戈已に罷み、得失還た空ず。 樵子の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。 身を牛上に横たえ、目は雲霄を視る。 呼喚すれども回らず、撈籠すれども住まらず。 訳 自分を探すための自分との戦いは終わった。今になってはじめて、そもそも牛を得ることも失うこともない道理を知った。 きこりの歌を口ずさみ、笛でわらべ歌を吹き奏でる。 牛の背中にのんびりと横たわり、視界に広がる大空を眺めた。 誰に呼びかけられても振り向くことはなく、引き留められても止まることはない
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