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夏の料理
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@takuomitaguchi: 外野でシニカルに構えて、何かを言ったふりだけする奴ら。本当にどうにかならんもんかなと思う。しかも、ほとんどが匿名。自分をリスクにさらす勇気もない連中が、誰ひとりとして取り組んだことのないことにトライする人たちの試みを、斜に構えて眺めている。 @takuomitaguchi: この国のシニシズムは、本当に病根が深いと思う。
愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。あなたはその彼なり彼女なりがいなくて淋しいのです。己が完璧だと思ったり、そうなりたいと思っているような人たちは愛し方を知りません。(ジャック=アラン・ミレール on loveーー「ラカンの愛の定義」) 乳児はおそらく原初の内的な欲動をなにか周辺的なもとのして経験するだろう。どんな場合でも、その欲動は<他者>の現存を通してのみ姿を消すことができるにすぎない。<他者>の不在は、内部の緊張の継続の原因として見なされるだろう。しかしこの<他者>が傍らにいて言動によって応えても、この応答はけっして十全なものではない。というのは、<他者>は継続的に子供の叫び声を解釈しなければならないし、解釈と緊張のあいだに完全な照合はありえないのだから。この時点で、われわれはアイデンティティの形成の中心的な要素に直面する
人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。 かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。 自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。 (ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳、「現代詩手帖」九、一九七九年) 訳者によれば、この手段は「言語」であるそうだが、ヴァレリーがそう考えていたにせよ、それは言語に限ったことではないと考えてもよさそうである。私は、このアフォリズムを広く解して「私が自分と折り合いをつけられる尺度は私が他者と折り合いをつけられる、その程度である」というふうにした。 こういう眼で人をみているとなかなか面白い。ひとが自分とどれほど折り合いをつけているか
護憲の理由 「押しつけられた憲法は、改めるべし」という議論の流行したことがある。しかし日本国民の立場からみれば、現憲法が占領軍から押しつけられたように、明治憲法も国民が選挙したのではない官僚政府から押しつけられたものである。(略)国民生活に浸透した政治的伝統は、それがあきらかに破滅的な結果(たとえば15年戦争)に到るものでないかぎり、みだりに改変を計るべきものではない。 今日の世界には、このまま放置すれば人類の将来を脅かすだろう大きな問題がいくつかある。たとえば環境破壊・人口爆発・南北格差・民族主義紛争など。どの問題の解決にも国際的協力の必要なことはいうまでもない。と同時に、どの問題も軍事力によっては解決されない。(略) 改憲は議会の発議による。周知のようにワイロ・ウラ金・脱税・利権で国民の政治不信が戦後の頂点に達した今このときは、議会が改憲を発議するのに適当な時期であろうか。当面の急務は
蓮實重彦の伝説の言葉(真偽は確かではない)「私を偉そうと言う人がいますが、偉そうなのではなく、偉いのです」における「偉い」というのは、承認欲求のみみっちい競争をやめて、非意味的切断で勝手なことをやるということです。だから若者には「偉そうなのではなく偉い」態度で行け、と言いたい。(千葉雅也ツイート) 浅田彰)……東浩紀さんなんてとても優秀な人だと思うし、柄谷行人さんと僕で編集していた『批評空間』でデリダ論(『存在論的,郵便的』)を書いてくれたことはありがたいですよ。あれは単行本で一万部くらい出て、15年たった今でも本屋で売れている。それが最大の承認でしょ? ところが、例えばアニメについてツイートしたら、すぐにレスポンスが来る。それが承認だと思っちゃったんじゃないか-そんなの、翌日にはなかったも同然なのに。 そういう即時的レスポンスを求めて、彼は情報社会論とおたく文化論に行った。彼の時代認識に
前回、水村美苗の講演での発言でちょっと気になる箇所を挙げたが、本を読んでいても、こういう疑念はしばしばあるもので、むしろ二流以下の評論家などの文には、枚挙に暇がないといえる。この人の言うことならほぼ間違いないだろうと思われる信頼のおける著者にだってときにはある。 たとえば、かなり入れ込んで敬愛している中井久夫の『日時計の影』所収の二つのエッセイから引用してみよう。 現生人類は第四氷河期を生き延びて、今は第四間氷期にいる(もっとも最近の研究でも氷河期は十二回あったそうだ)。だが氷河期百万年の歴史も宇宙の歴史からみれば一瞬である。実際、今までに存在した現生人類は(推定の根拠は知らないが)百億人、そのうち今生きている人は二〇〇八年で何とその三分の二の六七億人だそうである。人類はバッタの大発生の一回分にすぎないのかもしれない。そして、人類の垂れ流した大量の物を黙々と吸収している最大のものは海洋であ
健常者ということばがよく使われているが、実際にはそういう者を定義することはできない。(精神健康の定義は)精神健康をあやうくするようなことに対する耐性として定義するのがよいのではないだろうか。
社会思想史を研究しているらしい、おそらく若い方なのだろうが、次のような発言に一週間ほど前、行き当たった。 《生活保護にしろ在日にしろ、つまりは「我われの問題」としてはとらえていない、ということだ。自分たちとは関係ない別世界のお話し。リアリティへの眼差し以前の、無関心と無知と無自覚。 でも、それも仕方ないことだとも思う。例えば、就職活動で自分の人生の選択を迫られている時に遠くの土地で起こっている排外デモに気をとめるだろうか。毎日毎日夜遅くまで働かされて家庭のために頑張ってるなかで生活保護をめぐる過剰なバッシングの欺瞞と虚偽に目が向くだろうか。 みんなみんな自分の食べることで精一杯。余裕なんてありゃしない。無関心と無知と無自覚なんて言われたら腹が立つ。だってみんな精一杯生きてるんだから。これは、生命過程の必然性(アレント)のせいではない。後期資本主義という社会制度のせいである。我われの眼差しは
《……分析関係が深まると、セッションで起きていることは、微細に見るならば、ほとんどすべて転移現象として捉えることができます。しかし、転移概念をこのように拡大すると、「転移の外部はない」という常套句とあまり変わらなくなる。むしろ、転移という文脈で理解した方がいいコミュニケーションと、そうではないコミュニケーションがある、といったふうにプラグマティックな観点から考えたほうがいいと思いますね。》(来るべき精神分析のために(2009/05/29 岩波書店)十川幸司発言) (精神分析治療において、<知っていると想定された主体>としての分析家の役割)……患者は治療を受けることになった瞬間、「この分析家は私の秘密を知っている」という絶対的な確信を得る(これが意味しているのはたんに、患者は秘密を隠しているという罪悪感を最初から抱いており、彼の行動には実際に隠された意味がある、ということだ)。分析家は経験主
性的な対象が、簡単に手に入るせいで──価値を高めるような障害がないせいで──どんどん価値を下げている時代である今日において、交接する欲望をどうよみがえらせるか。(ジジェク「仮想化された現実/仮想化しきれない残余」)
以下、あくまで資料(別の見解もあるだろうし、簡略化されすぎている箇所もあるだろう)。 ………… まずは幻想の式$◇a(「心的装置の成立過程における二つの翻訳」補遺より) $◇aは次のように読まれる、《斜線を引かれた主体は究極の対象を目指しながら永遠にこれに到達することができない。》 $◇aが分解される、$ ー -φ ー Φ ー A ー a(-φマイナス・プチ・フィーは、想像的ファルスの欠如であり、Φグラン・フィーは、象徴的ファルス)。 そして次のように読まれる、《斜線を引かれて抹消された主体が、生の欲動に運ばれて、突き進んで行くその先には、まず「想像的ファルスの欠如」があり、次に「象徴的なファルス」があり、そして言葉で構築された世界があり、そしてその先に永遠に到達できない愛がある。》 $ ー -φ ー Φ ー A ー aは、$ー -φー S1 ー S2 ーaと書き換えることもできる。 さら
バリントという、フェレンツィの弟子の、なかなかユニークで実践的でもある精神分析家がいた。彼は『スリルと退行』という本を書いて、発達論的対象関係論からすれば、最初の母子一体の「調和的渾然体」が破れた時に二つの状態が実現すると指摘したことがある。第一は、安全保障感を距離に依存する「フィロバティズム」であり、第二は、安全保障感を膚接に依存する「オクノフィリア」である。ことばが変なのはバリントだから仕方がない。 土居 健郎の「甘え」に即していうなら、「調和的渾然体」が原初的な純粋な「甘え」の状態であり、「フィロバティズム」は「甘えの拒否」、「オクノフィリア」は「甘えの病理的形態」ということになるだあろう。 これが成人において実現すれば、フィロバティズムの場合、対象なき空間とおのが「スキル」に全幅の信頼を置いて飛躍する「スリルの人」となる。対象はスキルを発揮するための道具にしかすぎず、いくらでも取り
語りながら、フーコーは何度か聡明なる猿のような乾いた笑いを笑った。聡明なる猿、という言葉を、あの『偉大なる文法学者の猿』(オクタビオ・パス)の猿に似たものと理解していただきたい。しかし、人間が太刀打ちできない聡明なる猿という印象を、はたして讃辞として使いうるかどうか。かなり慎重にならざるをえないところをあえて使ってしまうのは、やはりそれが感嘆の念以外の何ものでもないからだ。反応の素早さ、不意の沈黙、それも数秒と続いたわけでもないのに息がつまるような沈黙。聡明なる戦略的兵士でありまた考古学者でもある猿は、たえず人間を挑発し、その挑発に照れてみせる。カセットに定着した私自身の妙に湿った声が、何か人間たることの限界をみせつけるようで、つらい。(蓮實重彦「聡明なる猿の挑発」フーコーへのインタヴュー 「海」 初出1977.12号) 表題を「聡明なるガキ」としたが、けっして聡明なる猿のことではない。ポ
フロイトは、そのユダヤ人としての出自のせいで教授に昇進するのが難しかった。『夢判断』にはこんなエピソードが書かれている。 十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしてこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」 彼の夢のひとつ、《(わたしの夢)……なぜ私が日中思想の、ほかならぬこの代用物を選ばなければならなかったのか。これに対しては、ただ一個の説明があるのみであ
相手の気持ちを考えることは、じつはたいへん過酷なことです。いじめられる者は、相手の気持ちを考えるのならいじめる者の「楽しさ」も考えねばならない。暴走族に睡眠を妨害される者は相手の気持ちを考えるのなら、暴走族の「愉快さ」も考えねばならない。(『私の嫌いな10の言葉』)
何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、 多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞いがちであります。 たしかに、そうすることで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解し たかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥りがちなのです。 だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態だといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」にな るためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされてはいな
ラカンには「騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent」というセミネールがある(XXI-Les non-dupeserrent 1973-1974)。 もちろん、《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである》(中井久夫『治療文化論』p81)であるだろうから、人の語ったことに騙されないために、あれやこれやと模索する、という態度は、精神科医だけでなく、思索にかかわるひとなら、当然持ち合わせなければならない。 だが、それは基本として、《Les non-dupes errent》には、別に次のような含みがあるようだ。 《Les non-dupes errent 「騙されない人々は彷徨う」。この文章を耳で聞くと「父の名」Les Noms-du-Père と同じ音になります。つまり「
《悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる。》(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」) 私はもちろんハイデガーがナチだったと知っています。誰もが知っていることです。問題はそこではないのですよ。問題は、果たして彼が、ナチスのイデオロギーに与することなしに20 世紀で最も偉大な哲学者になり得たかどうかということなのです。(デリダ)ハンス・ウルリッヒ・グンブレヒト『なぜ精神科学を改革しなければならないのか』(田中純) 《一時期のめりこんだ政治活動と、童話の創作活動がどういう関係にあったのか。政治活動を否定したことによって、そこからあの童話の世界が生まれたのではなく、このふたつはじつはほとんど同時現象なんですね。あの奇跡のような傑作群と、危険なユートピア思想への傾倒は、深くつながってい
ーー吉田健一をめぐる愉快な対談録の抜き書きにめぐりあったのだが、「格調高い」彼の文が、それで損なわれるわけではない。対談録はのちの引用として、まずは至高の酒飲みのありようのひとつが書かれる名文を挙げよう。 一体に人間はどういうことを求めて一人で飲むのだろうか。そうして一人でいるのに飲むことさえも必要ではなさそうにも思えるが、それでも飲んでいれば適当に血の廻りがよくなって頭も煩さくない程度に働き出し、酒なしでは記憶に戻って来なかったことや思い当らなかったことと付き合って時間が過ごせる。併しそれよりも何となし酒の海に浮かんでいるような感じがするのが冬の炉端で火に見入っているのと同じでいつまでもそうしていたい気持を起こさせる。この頃になって漸く解ったことはそれが逃避でも暇潰しでもなくてそれこそ自分が確かにいて生きていることの証拠でもあり、それを自分に知らせる方法でもあるということで、酒とか火とか
まあ、本当のことをいうと、柄谷さんと僕とで大江の時代を終わらせちゃったわけですね。大江の時代というのは、いわば一つの物語で、作家はそんな物語から自由になるべきだ、またそれから自由になったとき本当の仕事ができるのだという意識から、僕も意識的に大江を殺そうとしたわけです。大江の時代というものをね。 僕は、同時代の批評家の義務は、時代を先導しつつある作家を殺すことにあると思う。つまりその物語を解体するということですね。三島由紀夫は、大江健三郎が大江の時代を持ったという意味では三島の時代を遂に持てなかった人です。それは、批評家がたえず三島を抑圧していたからなんだと思う。僕の考えでは、中村光夫と寺田透とが、三島の時代の到来を流産させ続けていたという構図ができあがります。三島由紀夫も、この二人には頭があがらなかった。こうした批評家の機能というものはもっと重視されてよい。文壇が緊張感を欠いて面白くなくな
『「知」的放蕩論序説』の蓮實重彦「リシャール殺し」のところを読んだけれど、思っていた以上に文脈は複雑かもしれない。蓮實的視点には、ブランショとデリダVSリシャールとフーコー、という構図があるようだ。 pic.twitter.com/iVgatrzjQr (承前)蓮實重彦が言いたいことはわからないでもないけれど、類稀なる知性を持つ氏は基本的に否定と反動の人じゃないかと思う。誰かを馬鹿として蔑むことでしか自分の聡明さを表現できないから。殺人事件なるものを捏造してデリダ派を殺人者に仕立て上げることでリシャールを擁護する姿勢もその表れ。 別人物)――蓮實といえばアラン・レネdisでデビューしたという、最初からdis芸の人ですよ @芸の腕はあるんでしょうね。反動と否定のスタイルはドゥルーズがニーチェと共にルサンチマンと呼んだものだけれど。 何も蓮實重彦の人格を云々しようというのでもなければ、彼のDi
ラカンの「『盗まれた手紙』のセミネール」を締めくくる「手紙はつねにその宛先に届く」という言葉に対しては、「手紙[文字]は必ずしもつねに宛 先に届くわけではない。そしてそれが手紙[文字]の構造に属している以上、それが真に宛先に届くことは決してなく、届くときも、〈届かないこともありう る〉というその性質が、それを一個の内的な漂流で悩ませている」というジャック・デリダの批判がある。その批判は〈盗まれた手紙〉というファルス的 シニフィアン、〈現実的なもの〉という象徴秩序の〈穴〉をふさぐシニフィアンを、ラカンが分割不可能なものと見なしている点に向けられている。対象aはさ まざまな現われ方をするにせよ、手紙が分割不能であるならば、それが立ち現われる場である〈現実的なもの〉自体は一つと見なされてしまうことになろう。東浩紀が 述べるように、「郵便制度全体を見渡し、そのシステムの必然的な不完全性から、〈配達
以下、岩井克人『グローバル経済危機と二つの資本主義論』www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/.../0906_8897.pdfよりの抜粋である(もともと米国のサブプライム・ローン問題を端緒として始まった金融パニックをめぐって書かれたものだが、ここでは純粋に経済学理論の簡略な復習として)。 市場の「見えざる手」の働きに全幅の信頼をよせ、資本主義をどんどん純粋にしていき、世界全体を市場によって覆い尽くせば、効率性も安定性も実現される「理想状態」に近づくという主張である。したがって、諸悪の根源は、すべて市場の円滑な働きを阻害する「不純物」であるということになる。 労働市場にはヒトの移動を妨げるさまざまな慣習や規範があり、資本市場にはカネの移動を妨げる多くの規制や法律がある。これらの不純物さえ取り除けば、資本主義は効率的にも安定的にもなるというわけであ
……では、こうした断絶や起源消去によってデュシャンは何をしたのだろうか。まず、具体的制作としての『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』を 考えることにしよう。それ以前の制作そしてそれ以後の制作はそれぞれ固有の問題とあり方があって、それらはそれらで系譜として論じるべきでなく、固有に論 じなければならないのだが、今日のところはそれらはこの『彼女の独身者たちによって裸にされた花 嫁、さえも』の部分的な生成とその異質的ヴァリエーションであると、つまり『彼女 の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』とは密接に関係がありながら、それら固有の隔たりをつねに確認できると言うに留めておきたい。実は、こうし たヴァリエーションこそ固有の意味生成とそれらの生成の「遅れ」を保証するのである。さも なければ、既成の文脈や解読表によってすべて回収されてしまうからだ。 さて、『彼女の独身者たちによって裸
まだ旅行中だけれど、サヨクだかヘサヨの連中にニゲタ! とかなんたらコメントをチョウダイしており、とてもウレシいぜ。 ところで、このブログには、ワケありでもう書かない。 ワケありというのは、PCでログアウトしてしまい、前にも書いたが、パスワードを失念しており、再度ログインできない。いまはiPadから。 逃げたのではない証拠にほかのブログつくるから、そっちにコメントくれるかい? ヘサヨくんたちよ。 まあそうアワテンナよ、気分が変わってまえのように毎日サヨク嘲弄や文学趣味満喫文のたぐいはもう書かないかもしれないが。
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