昨日の朝、twitterのTLには「朝まで生テレビ!」の感想ツイートが流れていたが、そのほとんどが具体的なビジョン・政策を掲げる橋下徹氏に対してぶつけられる感情論に辟易するものだった。結果的に橋下氏は少なからず支持率を上げ、一方で反ハシズム派は評価を落としただろう。 私はこう思うという意思を持った「主張」と、それはダメだという「リアクション」では響く程度が違うのは当然で、否定することと代替案を持った議論とは違うということが浮き彫りにされたように思える。私自身、大阪都構想を完全に理解できていないし、それが実現したときに何が起きるのか想像できていないが、どうやらそれ以前の話に終始してしまったようだ。 さて、本題に入ろう。ここで朝生の続きをやりたいわけではなく、橋下氏と反ハシズム派の対立構造を見るにつけ、「ノイジー・マイノリティ」を再定義する必要性を感じたのである。「ノイジー・マイノリティ」とは
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