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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (15)

  • 「むごい」の語源 - 我が九条

    ネットで目につくものに「むごい」の語源が「元寇」の「蒙古」から来ている、というのがある。しかし幸田文は「むごしはめぐし」と書いていて、「むごし」の語源が「めぐし」と関わりがあるかのように書いている。気になったので幸田文が当なのか、ネット上で流布されている語源が当なのかを調べてみた。バイト先の図書館に行って辞書を調べると吉田金彦編『語源辞典 形容詞編』(東京堂出版、2000年)が目についた。調べてみると次のように書いてある。 楳垣実によると、ムゴシの語源にはメグシとムザンの二つの語が関係しているという。メグ(愍)シは、「人もなき古りにし郷にある人を愍くや君が恋に死なする」(万葉集・二五六〇)では、気の毒にの意、「父母を見れば尊し子みれば米具斯愛し」(万葉集・八〇〇)ではいとしいの意味を表す。このメグシ→メゴイ→メンコイのように変化した。このうち、メグイ以下の三形は東北地方を中心に東日

    「むごい」の語源 - 我が九条
    aozora21
    aozora21 2008/05/29
    『ネット上に書いてある、というだけで、全く根拠の無い言説が流通していく、という構造がここにもみられる。』
  • はしごを外される歴史認識 - 我が九条

    『沖縄タイムス』の記事(「http://www.okinawatimes.co.jp/day/200709291300_02.html」)から。 渡海紀三朗文部科学相は二十八日、沖縄戦「集団自決(強制集団死)」への日軍の強制を削除した高校歴史教科書の検定問題への対応で、沖縄タイムス社に「今回の検定に至る経緯や趣旨等については十分に精査していきたい」とコメントし、検定過程を詳しく調査する考えを明らかにした。 文科省はこれまで「教科用図書検定調査審議会が決めたことには口出しできない」などとして、検定を問題視しない考えを示していた。 渡海文科相が検定経緯の調査にまで踏み込んだコメントをしたことで、文科省側が検定結果を変更する可能性も出てきた。 紙は渡海文科相の就任後、沖縄戦の専門家がおらず文科省主導で審議が進んだ検定の経緯などについて質問書を提出。文科相が二十八日に文書で回答した。 渡海文科

    はしごを外される歴史認識 - 我が九条
    aozora21
    aozora21 2007/09/30
    検定が政局に左右されるなら、検定はないほうが望ましいと思いました。
  • 夏休みの宿題 - 我が九条

    私は夏休みの宿題踏み倒しの常習犯だった。だから子どもが宿題を踏み倒す手口は熟知している。子どもの宿題踏み倒しを絶対に許さない方法も知っている。要は教師の執念なのだ。宿題をさぼる癖が付いている子どもは目の前でやらせること。これに限る。目を離すとその瞬間やらなくなる。見ている間しかやらないのだ。夏休みが終わると運動会が始まる。運動会の準備が始まれば、宿題どころではなくなる。子どもはここに目をつけている。居残りででも、運動会の練習を休ませてでも宿題をやらせる、という決意で臨めば、宿題の踏み倒しは避けられる。問題はそこまでして宿題を終わらせる意義があるかどうかだろう。 で、生徒に聞いてみた。一部の学校ではそこまでやらせているようだ。へぇ、厳しいな。 塾では宿題をさぼらせるとその生徒のためにならないし、教室全体が「宿題踏み倒せる」という雰囲気になるので、何が何でも宿題を終わらせるのが鉄則。私はほとん

    夏休みの宿題 - 我が九条
    aozora21
    aozora21 2007/09/02
    『夏休みが終わると運動会が始まる。運動会の準備が始まれば、宿題どころではなくなる。子どもはここに目をつけている。』そうだったのか!
  • 心のノート - 我が九条

    河合隼雄氏が亡くなり、氏が携わった『心のノート』が少し話題にもなっているようだ。『心のノート』は文部科学省が著作責任者となっている冊子である。2002年7億8000万円を投じて作られ、全国の小学生・中学生に配布されたようだ。翌2003年には文部科学省から『「心のノート」を生かした道徳教育の展開』という「道徳教育推進指導資料」を発行された。道徳教育のための冊子なのだ。 ブログでもしばしば取り上げてきた石原千秋氏はその中の小学校5・6年用の「権利と義務ってなんだろう?」というページの次の文章を取り上げる。 たとえば、やるべきことをやらずに自分の権利だけを主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。 あるいは、他人の権利は認めないのに、自分の権利を押し通そうとする人がいたら、あなたはなんと言うだろうか。 このとき、あなたが感じたこと、言おうとしたことに「権利と義務」について考えるヒン

    心のノート - 我が九条
  • グローバル化は暮らしに何をもたらすか - 我が九条

    今、中国の段ボール肉まんという中々刺激的な事件もあって、の安全ということが、反グローバリズムを主張する人々だけでなく、様々な人々に認識されてきたのはよいことだろう。私が利用している共同購入会の関西よつば連絡会(関西よつ葉連絡会 | 産直の野菜、果物、お肉などをお届けします)の機関誌「ひこばえ通信」はいつも中々おもしろい記事があるのだが、最近ネットでも公開されているのを知った。最新号の記事(「ひこばえ通信」)について見ていきたい。 まず記事の構成。前書きで「世界の市場経済化は世界貿易機関(WTO)と二国間あるいは地域内の自由貿易をめざすFTA(自由貿易協定)あるいはEPA(経済連携協定)の二つの流れによって進んでいる。」という問題提起を行う。そして「モノだけでなく公共サービスも民営化」「生存権さえ脅かす地球規模の市場競争」「弱肉強が顕著な二国間FTA/EPA」「農業生産現場でコムスン以上

    グローバル化は暮らしに何をもたらすか - 我が九条
  • ネットイナゴ - 我が九条

    最近でははてブにおける否定的コメントも「ネットイナゴ」として批判されている(http://www.excite.co.jp/News/society/20070614201922/JCast_8437.html)。しかしコメント欄を炎上させる行為と、はてブにおいて否定的コメントを記すことを同列に「ネットイナゴ」とするのは、問題をあいまいにしてしまう恐れ無しとはしない。「ネット右翼」という概念が無限定に使われた揚げ句にカテゴリーとしての意義を失ったことを想起すればいい。定義を無限定に使うと、行き着く先はその定義の無効化でしかない。従って私には、はてブにおける否定的コメントは別の概念で分析されるべきだと思われる。 一応ネットイナゴに関する定義をはてなキーワードから抜粋しておく。これの出典はekken氏の「http://d.hatena.ne.jp/ekken/20060524/p1」である。

    ネットイナゴ - 我が九条
    aozora21
    aozora21 2007/06/17
    『「池田信夫が「ネットイナゴ」の用語を間違って使っている』それに便乗している匿名の人も出てきていたりね。/実名者への対処は必要だとは思う。強制的な権力が入り込まざるをえなくなるから。
  • コメント欄についての雑感 - 我が九条

    私はコメント欄を開放している。これはもともとこのブログが言論を目的としていないからである。ブログを始めた頃は、塾での仕事の愚痴をぐだぐだ書き散らすのが目的だったのだ。今でもそういう目的はないではない。だから最初の頃からおつきあいのあるブロガーは、基的に言論系ではないし、そことのつながりは今でも大切にしたいと私は思っている(向こうはどう思っているかは知らないが)ので、コメント欄は開放している。 ただ私なりの運営の原則はある。基は「黒木ルール」「匿名」による批判の禁止ルールについての適用である。 具体的には、 ・「匿名」であるか否かの判定は実名や電子メール・アドレスを公開しているか否かで行なわれるのではなく、その人が自分自身の考え方や趣味・嗜好に関してどれだけの情報を公開しているか否かで行なわれる。 ・論争に参加する人は、馬鹿なことを言ってしまったときに恥をかけるだけ十分に詳しく自己紹介を

    コメント欄についての雑感 - 我が九条
  • 「だまされていた私」という自分語り - 我が九条

    さらにコメント欄に「や」氏が興味深いことを述べていた。 その講義に興味がなく、そして単位が欲しいと思っている学生の、レポートに対する戦略を考えると、 ・全くこれといって感じたことはないが、単位のことを考えるとその講義、テキストから自分は何かを学び取ったと教授にアピールしたい ↓ ・つまりテキストを読む前と後、ビフォーアフターの差についてなにかしら表現したい ↓ ・しかしほんとうに興味がないのでアフターを高いところに持っていけない ↓ ・となるとビフォーをかなり低い位置に設定して強めにアピール ↓ ・「目からうろこでした!」 ‥というのが自分を振り返るとわりと普通なんですが。 確かに我が身に引きつければ、そう思うのも道理ではある。永一氏の昨日のコメント「件のレポートは学生の「自分語り」ですらないのではないかと疑っております。取り繕ったところで「今どきの学生に騙されないでよ」という茶化し」とい

    「だまされていた私」という自分語り - 我が九条
    aozora21
    aozora21 2007/05/30
    『「だまされていたけど真実に目覚めた私」という自分語りに、現在の言論状況が孕む問題点が現れていると思った』
  • 扇動されやすい人3 - 我が九条

    レポートを題材に扇動されやすい人、ということで、少し考えてみたのだが、当初私は私にも共通する問題として考えていたのだが、若干のご意見「汝なにをか求むる - 枕流亭ブログ」や「扇動されやすい人、について考えてみる。: 不倒城」を見て、その指摘は的を射ていると思い、考え方を少し修正した。レポートの技術論として「だまされていたけど、真実に目覚めた私」と言う自分語りをレポートの技術として使う、というのは、少なくとも私にはないし、私が受けた論文指導にもない。むしろ「自分も今だまされているかも知れない」という形での自分語りが望ましい形通りのレポートであって、自分を「先覚者」として位置づけるのは、むしろ小論文ではまずい、というのが定説である。率直な無知の表白は多いにあるべきである。少なくとも「今は事実に目覚め」という、肥大化した自己評価をさらけることは、端的に言ってまずい、という指導はされた。もう一つ、

    扇動されやすい人3 - 我が九条
    aozora21
    aozora21 2007/05/28
    『「扇動されやすい人」にならないため(の)「自分が扇動されているのではないか」という視点(を)根本から否定する「今までだまされていたが、真実に目覚めた私」という自分語りは確実に知性を劣化させる。』
  • 「博士(ヒロシ)です」 - 我が九条

    「博士」(ヒロシではない)を名乗るだけでオーソライズできるわけはないのだが、実際博士(はくし、またははかせ)なぞ、掃いて捨てるほど私の周りにはいる。はっきり言って「博士」あるいは同等の人しか知り合いにはいない、といって過言ではない。 ちなみに博士と同等、というのは、比較的昔に博士課程を出た人。私もそうだが、私が博士課程を出た頃には文学博士というのは碩学泰斗が持つものであり、私の指導教官も博士学位を取得していなかった。そもそも博士課程を出る時に博士論文を出す窓口もなかったし、審査する体制もなかった。規定だけは整備されたばかりであったが。結局博士課程3回生を終わる時に大学から退学願が送付されてきて、それを送り返すと「博士課程後期課程単位取得退学」ということになった。こういうのを私の指導教官は「権博士」(ごんのはかせ)と読んでいた。今は博士課程を出る時に博士学位を取得することになっている。 我が

    「博士(ヒロシ)です」 - 我が九条
    aozora21
    aozora21 2007/04/29
    先日ある共著を読んでいたら執筆者である助教授や教授の学歴に「満期退学」とか「退学」とあって、不思議だったが謎が解けた。
  • 特異な事件 - 我が九条

    ルーシー・ブラックマンさん殺害事件、一応証拠不十分ということになったが、イギリスではまたも日人による性犯罪の問題がクローズアップされるだろう。リンゼイ・アン・ホーカーさんの事件が未解決なので、なおさらだ。 もしこの二つの事件を以て日人男性はみんな性犯罪をする、という悪意ある宣伝を行うとすれば、私はそういう人々に対し侮蔑と憐憫の情しか湧かない。もちろん同様の行為を日人が外国人に対して行っていたとしたら、その日人に激しい憤りを感ぜざるを得ない。なぜならそういう輩は日人をして軽侮と憐憫の対象に貶めているからである。

    特異な事件 - 我が九条
  • 昭和という時代 - 我が九条

    昭和と一言で言っても昭和20年を境にして大きく変質する。すなわち大日帝国憲法時代と日国憲法時代である。そして昭和単独で見るならば、20年間であった大日帝国憲法下の昭和よりも、40年以上を数えた日国憲法下の時代の方が長い。一口に「昭和」と言っても、実際には大日帝国憲法下の「昭和」なのか、それとも日国憲法下の「昭和」なのかをはっきりさせる必要がある。 現在「昭和レトロ」などと言われている時代は概ね昭和30年代から昭和40年代であろう。少なくとも鉄道模型の世界で流行している「昭和」の鉄道は30年代乃至40年代が主流である。これはモータリゼーションが進む少し前であり、鉄道の最盛期であったことと関係があるだろう。しかしもう一つ、昭和30年代乃至40年代がもたらす郷愁とは何なのか、少し考察してみたい。 鍋倉紀子氏が興味深い考察を行なっている。宝塚ファミリーランドとディズニーランドの比較考察

    昭和という時代 - 我が九条
  • 12年目 - 我が九条

    私の勤務先は西宮市にある。私がそこに行き始めたのは1996年の2月、震災の一年後である。一応交通機関は旧に復していたが、震災直後は大変だったようだ。私がその塾で働き始めた時にはまだ震災のツメ跡があちらこちらに残っていた。がれきの山がまだ片づけられずに残り、あるいは空き地が方々にあった。空き地は徐々に駐車場になり、そしてそこにビルが建ち、昨年暮れから最後の空き地に賃貸マンションが建つようで、私の通勤路(といっても徒歩3分)の震災がようやく終わりを告げることになる。 私の通勤路は比較的早くに震災からの復興をなしとげた地域であるにも関わらず、そして私は3分程度の徒歩時間しかないにも関わらず、震災のツメ跡を11年間見続けてきたことになる。当時の塾生で亡くなった生徒はいなかったものの、OBでかつ塾生の姉が亡くなったそうだ。自宅が倒壊し、姉が亡くなった直後に受験を控えていたその生徒は塾で最後の追い込み

    12年目 - 我が九条
  • 塾禁止 - 我が九条

    教育再生会議の野依良治座長が塾禁止を持ち出している。公教育が放課後も縛ろうというのだ。まさに私生活まで政府が介入する。塾の現状が決して褒めたものではないのも百も承知だが、同時にバッシングの言説で表象されるほどひどい塾ばかりでもない。しかし教育再生会議における議論を見ていると、塾を悪者にして教育における政府の位置づけを大きくしようというように思える。 現在なぜ中学受験が流行しているのか。理由の一つは高校教育をしなくてもいい、ということにつきる。公教育にすべての人格を捧げる必要のある高校受験を回避しているのである。高校受験には内申書があり、内申書は中学教師の、つまり公教育の胸先三寸で決められる。愛国心も当然評価対象になるだろう。それが嫌な人は公教育から離れて私学に行く。そのルートを断ち切り、全ての人間を国家の主導する教育に従わせること、それが野依座長の目指すところなのだろう。

    塾禁止 - 我が九条
    aozora21
    aozora21 2007/01/08
    ゆとり教育を推進させていた頃は公教育で達しえない学力を塾で補うのが当然みたいな口ぶりだったのに…
  • いじめに関する議論 - 我が九条

    いじめに関する議論を見ていると、多くは「不良が普通の子をいじめる」と考えているようだ。その最たるものが「いじめに対して毅然とした対応」として「出席停止」などの「処分」でもって望もうとする動きである。またそれに反対する側も同じような立場に立って議論している。いじめた側も弱者なのだ、とか。素行不良な者が素行善良な者を捕まえて暴力行為を働いたり、金銭をせびったりするのは、犯罪である。「いじめは犯罪である」という物言いは、それを反映したものであろうが、そのような「犯罪行為」と、今問題になっている「いじめ」の問題はかなり対応が異なるのだ。 『いじめの社会理論』の著者内藤朝雄氏は「いじめ」*1を二つに分ける。殴る蹴るといった暴力によるいじめと無視やあざわらいなどのコミュニケーション系のいじめである。そしてそれぞれの対処法は異なる。暴力系のいじめについては被害者が司法に訴えるのが有効、コミュニケーション

    いじめに関する議論 - 我が九条
    aozora21
    aozora21 2006/12/14
    主にコミュニケーション系のいじめの対処について塾講師の経験を踏まえた意見。
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